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戦国北尾張国人名事典

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葉栗浅井高政【あざいたかまさ(15??~15??)】

葉栗郡苅安賀城主。通称新八郎。1559年、「岩倉城の戦い」で、岩倉城が落城すると山内一豊を頼り落延びた。

葉栗浅井長時【あざいながとき(1569~1584)】

浅井高政の男。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、葉栗浅井家の家督を相続した。織田信雄に仕えた。羽柴秀吉の計略により、羽柴秀吉に内通したと疑われ、織田信雄と不和となった。織田信雄から和議のため、同じく織田信雄と不和になった岡田重孝、津川義冬とともに長島城に呼び出され、岡田重孝、津川義冬らとともに誘殺された。

葉栗浅井玄蕃【あざいげんば(15??~15??)】

浅井高政家臣。毛受城主。

浅井兵部【あざいひょうぶ(15??~1600)】

前田利家家臣。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣しが討死した。

浅野久蔵【あさのきゅうぞう(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。1555年、「安食の戦い」で柴田勝家勢を迎撃するが討死した。

飯尾定宗【いいのおさだむね(15??~1560)】

中島郡奥田城主。織田敏宗の男。官途は近江守。室は細川晴元の娘。奥田城主飯尾家の養子となった。1556年、「守山城の戦い」では、織田信長勢に属して、嫡男飯尾尚清とともにに参陣した。1560年、「桶狭間の戦い」では、飯尾尚清、織田秀敏らとともに今川義元勢の備えで鷲津砦を守備した。朝比奈泰朝勢の猛攻をうけ討死した。

飯尾尚清【いいおひさきよ(1528~1591)】

飯尾定宗の男。通称茂助。官途は隠岐守。室は織田信秀の娘。赤母衣衆のひとり。1556年、「守山城の戦い」では、父飯尾定宗とともに参陣した。1560年、「桶狭間の戦い」では、飯尾定宗、織田秀敏らとともに鷲津砦を守備した。朝比奈泰朝勢の猛攻を受けて父飯尾定宗が討死したが
飯尾尚清は敗走した。以後は織田信長の馬廻衆として仕えた。「石山本願寺城の戦い」「三木城の戦い」では、検視役を務めた。1574年、「第二次長島城の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」で嫡男飯尾敏成が討死した。その後は、織田信雄に仕えた。

生駒家宗【いこまいえむね(15??~1556)】

犬山織田信清家臣。丹羽郡小折城主。生駒豊政の男。通称蔵人。生駒家は灰、油の商いと馬借で冨を築き、小折城と称される家屋敷を構えた。その後、出戻りの娘(吉乃)が織田信長の側室に迎えられたことにより、織田信長と縁戚関係を結び織田信長へ仕えた。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に仕えた。

生駒家長【いこまいえなが(15??~1607)】

生駒家宗の男。通称八右衛門。妹の吉乃が織田信長に見初められ側室に迎えられ、縁戚関係を結んだため、父生駒家宗ともに織田信長に仕えた。1560年、「桶狭間の戦い」などで戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」に参陣した。1582年、「本能寺の変」後は、織田信雄に仕えた。織田信雄追放後は浪人した後に羽柴秀吉に仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣した。のちに松平忠吉に仕え1,954石を領した。

生駒利豊【いこまとしとよ(1575~1670)】

生駒家長の四男。官途は因幡守。室は津田藤右衛門の娘。継室は遠山友政の娘。羽柴秀次に小姓として仕えた。1589年、「小田原の役」に参陣した。1595年、「羽柴秀次事件」で、羽柴秀次が自刃後は、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、福島正則勢に属して戦った。1603年、松平忠吉に仕えた。

生駒親重【いこまちかしげ(15??~1570)】

土田政久の男(生駒豊政の養子)。官途は出羽守。通称甚助。はじめ織田信康に仕え、後に織田信長に仕えた。

生駒親正【いこまちかまさ(1526~1603)】

生駒親重の男。官途は雅楽頭。1566年、織田信長に仕えた。その後、羽柴秀吉の寄騎衆に任じられ各地を転戦した。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕え、「山崎の戦い」、「賤ヶ岳の戦い」、「小田原の役」、「文禄の役」などに参陣して戦功を挙げた。1595年、讃岐国171,800石を領した。十河存保の嫡男十河千松丸を預かっていたが、その遺領20,000石を横領するため甥大塚采女に命じて謀殺した。中村一氏、堀尾吉晴らとともに羽柴秀吉の中老職に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、嫡男生駒一正は松平元康勢に属し、生駒親正は石田三成勢に属して「丹後田辺城の戦い」に陣代を派遣した。生駒親正は剃髪し、高野山に入った。役後、生駒家の所領は安堵された。

生駒一正【いこまかずまさ(1555~1610)】

生駒親正の男。官途は讃岐守。室は堀秀重の娘。生駒親正の男。室は堀秀重の娘。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に属して各地を転戦した。1600年、「関ヶ原の役」では、父生駒親正の陣代として参陣して戦功を挙げた。生駒親正は石田三成勢に参陣したが、生駒一正の戦功により罪を問われなかった。1601年、父生駒親正の隠居により生駒家の家督を相続した。

生駒正俊【いこままさとし(1586~1621)】

生駒一正の男。官途は讃岐守。室は藤堂高虎の養女。1610年、父生駒一正の病没により生駒家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属して参陣した。

生駒正信【いこままさのぶ(15??~1615)】

生駒一正の次男。通称甚助。1600年、「関ヶ原の役」では、祖父生駒親正とともに石田三成勢に属した。兄生駒一正より東讃岐を分知され、枝連衆筆頭として高録を領した。羽柴秀頼に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で、大坂城が落城すると、讃岐国に落延びたが、阿波と讃岐の国境近くの銀杏の下で自刃した。

生駒吉乃【いこまきつの(1528~1566)】

織田信長の側室。生駒家宗の娘。馬借を家業としていた生駒家宗の娘。1556年、夫土田弥平次が討死し実家に戻っていたところを織田信長に見初められ側室となった。織田信忠、織田信雄、織田徳姫を生んだ産後の肥立ちが悪く病没した。織田信長から香華料として660石が贈られた。その後、石高は減るものの羽柴秀吉、松平元康らも朱印状し、重要人物視した。柏原織田家を招待し、200回忌、300回忌法要が営まれた。織田信長の正室(濃姫)には子がないため、その養子となった生駒吉乃の子織田信忠が嫡男とされた。

稲葉左近【いなばさこん(15??~15??)】

前田利家家臣。使番衆。1600年、「小松城の戦い」に参陣した。前田利常の命により 稲葉左近が責任者となり辰巳用水を作事した。小松の街人板屋兵四郎が請け負った この用水工事は一年で仕上がった。

稲田修理亮【いなだしりのじょう(15??~15??)】

岩倉織田信賢家臣。織田信賢は、稲田修理亮と謀り嫡男織田信安を美濃国に追放して岩倉城主となった。

稲田貞祐【いなださだすけ(15??~1533)】

稲田修理亮の男。通称大炊助。室は前野彦四郎の娘。稲田貞祐は、岩倉城主織田信安に仕えていた。稲田家はその北部尾張守護代織田家の家老を代々勤めていた。織田信長と稲田貞祐は内通しているという讒言を城主の織田信安が信じたため、自刃を命じられた。嫡男稲田景元も自刃した。

稲田景元【いなだかげもと(15??~15??)】

稲田貞祐の男。1533年、父稲田貞祐が織田信長への内通を疑われ自刃すると、稲田景元も後を追って自刃した。

稲田景継【いなだかげつぐ(15??~1558)】

稲田貞祐の次男。1558年、伊勢国での戦いで討死した。

稲田植元【いなだたねもと(1545~1628)】

稲田貞祐の三男。通称左馬亮。室は織田信賢の娘。父稲田貞祐が自刃すると、三男稲田植元は蜂須賀正勝に預けられ養育された。その後、稲田植元は蜂須賀正勝に属して各地を転戦、数々の戦功を挙げた。蜂須賀正勝が播磨国龍野城53,000石を領した際、羽柴秀吉は稲田植元に河内国20,000石を与えようとしたが稲田植元は蜂須賀正勝に従う旨を言上してそれを辞退した。1585年、蜂須賀家政が阿波国180,000石を領すると、蜂須賀正勝は、稲田植元を後見役に任じ10,000石を領した。

稲田示稙【いなだもとたね(15??~15??)】

稲田稙元の男。官途は修理亮。淡路国脇城を領し脇城下街を独自に発展させた。阿波国内の諸将の中には未だ生駒家に属さず、山間部で野武士化していた。「祖谷山騒動」や「大栗山一揆」には脇城から制圧に参陣した。 経済面では、織田信長以来の楽市楽座を行い、地子銭も諸役も免除し、商人の自由な出入りを許可し、生国も問わなかった。そのため、四国内はもとより、中国地方からも商人達がやって来るようになり、脇街は栄えた。その中でも藍商が特に栄え、現在でもこの地方の藍染めは有名になった。1615年、「大坂夏の陣」に参陣して感状を賜った。稲田示稙、林能勝、山田宗澄、樋口正長、森村重、森氏純、岩田政長の七名は「大坂冬の陣」の戦功から松平元康から感状を賜った。

乾丹波守【いぬいたんごのかみ(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

井上勘左衛門【いのうえかんざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。1600年、「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽長重勢と交戦した。

今枝直恒【いまえだなおつね(15??~15??)】

前田利家家臣。1600年、「大聖寺城の戦い」では、城を出て御幸塚に布陣した。木場潟への進軍で五番手を務めた。

岩田伝左衛門【いわたでんざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。足軽大将。1600年、「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽長重勢と交戦した。

宇野宗右衛門【うのそうざえもん(15??~15??)】

佐々成政家臣。刀利城主。1586年、前田利家に仕えた。

海老半兵衛【えびはんべい(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

遠藤千代【えんどうちよ(1557~1619)】

山内一豊の室。美濃国八幡城主遠藤盛数の娘。母は東常慶の娘、兄遠藤慶隆。見性院の幼時は戦に明け暮れる日々で母とともにあちらこちらの家を転々とした。嫁入りの持参金で山内一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、織田信長の馬揃えの際に織田信長の目につき加増された話やまな板代わりに枡を裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えた。1600年、石田三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」も有名。山内一豊との間には娘(与祢)が1人生まれたが「天正大地震」により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれなかった。なお育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われた。山内一豊は弟康豊の子忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。1605年、夫山内一豊が病没すると見性院は、山内康豊に忠義を後見させて土佐を引き払って、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住んでそこで余生を過ごした。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」では仲間由紀恵が演じた。

遠藤とも【えんどうとも(15??~15??)】

千代(見性院)の母。戦で一家の住む集落が夜盗に襲われ、その際千代を庇って命を落した。※「功名が辻」by司馬遼太郎。

大井直泰【おおいなおやす(15??~15??)】

前田安勝家臣。通称久兵衛。小丸山城守将。1582年、三輪吉宗とともに能登国統治して1,250石を領した。

岡島一吉【おかじまかずよし(1559~1619)】

前田利家家臣。官途は備中守。通称帯刀左衛門。1575年、100石を領した。1585年、大峪城築城した。「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1598年、呉服山城を守備した。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣した。役後加増され11,750石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で先陣を務めた。1615年、「大坂夏の陣」では高岡城を守備した。

岡田長右衛門【おかだちょうざえもん(15??~1619)】

前田利家家臣。1575年、前田利家の右筆、御算用奉行となり70石を領した。前田利家の家臣新川儀太夫と争い隻眼となった。後に4,000石を領した。

奥村永福【おくむらながとみ(1541~1624)】

前田利春家臣。官位は伊予守。通称助右衛門。別名奥村家福。室は加藤安。1569年、前田利家が前田家の家督を相続した際、荒子城代を務めていた奥村永福は、前田利久の命が無い限り城は明け渡さないと抵抗した。改めて前田利久の明け渡しの命により、前田家を辞し浪人した。1573年、前田利家が越前国府中城30,000石を領すると帰参した。その後は前田利家に属して各地を転戦して戦功を挙げた。前田利家が加賀国を領した際、末森城主となった。1584年、佐々成政勢に15,000余りの攻撃を受け末森城に籠城した。「末森城の戦い」では、二の丸まで落ちたものの、奥村永福は寡兵で前田利家勢の到着まで耐えぬき、佐々成政勢を撃退した。奥村永福の室である安の方は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を見舞った。その後も、村井長頼とともに前田利家に仕えた。「九州の役」「小田原の役」にも参陣した。

奥村栄明【おくむらはるあき(1568~1620)】

奥村永福の男。官位は河内守。通称孫十郎。室は山崎長徳の娘(亀姫)。継室は高畠定吉の娘。父奥村永福が佐々成政への押さえとして末森城を任されると弟奥村易英とともに同城の守備についた。1584年、「末森城の戦い」では奥村永福とともに城を守った。1589年、「小田原の役」に参陣した。1599年、奥村永福の隠居により奥村家の家督を相続して10,650石を領した。1600年、「浅井畷の戦い」で戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣し戦功を挙げ3,000石の加増を受けた。1615年、弟奥村栄頼が、前田利常と対立して前田常利を退身した際には、奥村永福の制止で同調しなかった。

奥村易英【おくむらやすひで(1571~1644)】

奥村永福の次男。官途は因幡守。通称主殿。室は横山長隆の娘。1584年、「末森城の戦い」では父奥村永福や兄奥村栄明と共に城を守った。前田利常に仕え1,000石を領した。1589年、「八王子城の戦い」で戦功を挙げた。1600年、「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げ2,000石を加増された。1614年、「大坂冬の陣」では、前田利常に従い参陣し戦功を挙げ4,500石を加増された。1615年、「大坂夏の陣」では父奥村永福とともに金沢城の留守居を務めた。父奥村永福の没後その遺領3,300石を相続した。

奥村栄頼【おくむらはるより(15??~15??)】

奥村永富の三男。奥村栄頼は政敵の横山長知との対立により、奥村栄明、奥村易英や本多政重とともに家臣が一斉に出奔する計画を実行しようとしたところ、「家臣団の出奔を理由に前田家を取り潰されては困る」と隠居していた奥村永福が説得にあたり、奥村栄頼が出奔するに留まった。

清洲織田達勝【おだたつかつ(15??~15??)】

春日井郡清洲城主。斯波義達家臣。織田寛定の男。尾張下四郡の守護代。官途は大和守。1513年、兄織田達定が尾張守護職の斯波義達と争い謀殺された後、清洲織田家の家督を相続した。1530年、尾張国守護職斯波義統の代理として兵を率いて上洛したが、軍事目的ではなかったのでそのまま帰還した。1532年、織田信秀と争い、織田達勝は同じ三奉行家の織田藤左衛門とともに織田信秀と戦ったが敗れ和議を結んだ。

清洲織田信友【おだのぶとも(15??~1555)】

織田達広の男(織田達勝の養子)。官途は大和守。通称彦五郎。斯波義統を傀儡の守護として擁立したが、家中の主導権は坂井大膳や河尻重俊が握っていた。織田信秀と度々争ったが後に和議を結んだ。織田信秀の病没後は織田信行の家督相続を支持し、織田信長と対立した。鳴海城主山口教継の謀反を起こすと、兵を挙げ織田信長と敵対した。1552年、「萱津の戦い」では、織田信長勢に大敗して坂井甚介らを失った。織田信長の謀殺を企てたが露見して失敗した。1554年、織田信友は家臣の坂井大膳と図り、斯波義銀が家臣とともに清州城から出かけた隙に尾張国守護職の斯波義統を謀殺した。斯波義銀を擁した織田信長の反撃を受け、「安食の戦い」で大敗して河尻左馬丞、織田三位らを失った。1555年、坂井大膳の進言により織田信光の調略をするも、織田信光の謀略にかかり坂井大膳は駿河国に落延びた。織田信友は織田信光に謀殺された。

清洲織田三位【おださんい(15??~1554)】

清洲織田信友家臣。清洲家四家老のひとり。清洲三奉行のひとり織田信秀は、主家の織田信友を凌ぐ勢力を伸ばした。1551年、織田信長が家督を相続すると、織田信友の家臣坂井大膳、坂井甚助、河尻左馬丞、織田三位らは織田信長に敵対した。1552年、「萱津の戦い」で大敗して、坂井甚介が討死した。1554年、「安食の戦い」で斯波義銀の家臣由宇喜一に討取られた。

岩倉織田信安【おだのぶやす(1518~1591)】

丹羽郡岩倉城主。織田敏信の男。尾張上四郡の守護代。官途は伊勢守。通称三郎。室は織田信秀の妹(秋悦院)。中島郡を除く尾張上四郡(丹羽郡、春日井郡、海西郡と山田郡の大半)に勢力を支配下に置いた。父織田敏信の病没後、岩倉織田家の家督を相続したが、幼少のため、犬山織田信康の補佐を受けた。1551年、織田信秀が病没すると、犬山城主織田信清と所領問題で争い、織田信長とも疎遠となった。1553年、家臣の稲田大炊助が織田信長と内応している疑い、稲田大炊助を謀殺した。1555年、清州織田信友が守護斯波家への謀反で織田信長に討たれた。1556年、「美濃長良川の戦い」で長井規秀が嫡男斎藤義龍に討たれると、織田信安は斎藤義龍と結び織田信長と敵対した。「稲生の戦い」では末森城主織田信行勢に属して、織田信長と戦った。嫡男織田信賢を廃し次男織田信家を後継にしようとしたため、織田信賢から追放された。1558年、「浮野の戦い」で織田信賢が敗れたため、織田信安も岩倉城に復帰する機会を失った。その後、斎藤義龍に仕え、斎藤義龍の病没後もその嫡男斎藤龍興にも仕え織田信長に抵抗した。

岩倉織田信賢【おだのぶかた(15??~15??)】

織田信安の男。官途は伊勢守。通称は左兵衛。父織田信安が次男織田信家を寵愛し岩倉織田家の家督を継がせようとしたため、織田信安と織田信家を岩倉城から追放して岩倉城主となった。末森城主織田信行、美濃の斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった織田信長と戦った。1558年、「浮野の戦い」では、織田信長勢に大敗した。1559年、「岩倉城の戦い」でも、数ヶ月の籠城戦ののちに織田信長に降伏した。

岩倉織田信家【おだのぶいえ(15??~1582)】

織田信安の次男。別名津田信家。父織田信安が兄織田信賢を廃嫡し、織田信家に家督を継がせようとしたため、織田信賢によって織田信安とともに追放処分となった。1558年、「浮野の戦い」で兄織田信賢が織田信長に敗れると、織田信長勢に属して織田信忠付きの家臣となった。1582年、「信濃高遠城の戦い」で討死した。

岩倉織田七郎左衛門【おだしちろうざえもん(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。1558年、織田信長勢は浮野表を攻撃するが、城兵は守りを固め城外には撃って出なかった。山内盛豊と織田七郎左衛門は兵を率いて城外ると、織田信長は撤退した。

岩倉織田源左衛門【おだげんざえもん(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。1558年、「浮野合戦」で、織田信長勢に大敗を喫した。1559年、織田信長勢の攻撃を受け、織田源左衛門、山内盛豊、織田七郎左衛門らは岩倉城を織田信長に明け渡し城から退去した。

犬山織田信康【おだのぶやす(15??~1544)】

丹羽郡犬山城主。織田信定の次男。通称与次郎。1533年、兄織田信秀が織田達勝と和議を結ぶと、織田信秀の代理として清洲城に出向いた。1537年、犬山城主となり、岩倉織田信安の後見役を務めた。1542年、「第一次小豆坂の戦い」で戦功を挙げ、政戦両面で活躍した。1544年、「加納口の戦い」で長井規秀勢と戦い討死した。

犬山織田信清【おだのぶきよ(15??~15??)】

織田信康の男。官途は下野守。別名津田十郎左衛門。室は織田信秀の娘(犬山殿)。1547年、父織田信康の討死により犬山織田家の家督を相続した。1548年、楽田城主織田寛貞と結び織田信秀と抗争した。織田信長の領地を押領して疎遠となったが、織田信長より妹を貰い受け、弟織田広良とともに織田信長に仕えた。1558年、織田信長勢に属して織田信安と戦った。1561年、「軽海の戦い」で弟織田広良が討死した。1562年、斎藤義龍と結び織田信長から離反した。1564年、竹中重治の稲葉山城占領の混乱に乗じた織田信長勢により黒田城、小口城を奪取された。和田新介、中島豊後守の離反により犬山城も陥落、織田信清は甲斐国へ落延びた。中島豊後守、和田新介は織田信長に仕えた。

犬山織田広良【おだひろよし(15??~1562)】

織田信康の次男。官途は勘解由左衛門。通称源三郎。別名は織田信益。尾張上四郡の守護代への対抗のため兄織田信清とともに織田信長に属した。「浮野の戦い」、「岩倉城の戦い」でも織田信長を支援した。1562年、織田信長が美濃国に侵攻すると、前線である美濃十九条城主織田広良は、斎藤義龍勢の攻撃を受けた。「十四条の戦い」では、先陣として活躍するが、斎藤義龍の家臣野々村正成に討取られた。

犬山織田信益【おだのぶます(15??~1533)】

織田信清の男。官途は左衛門佐尉。通称源十郎。別名津田信益。父織田信清は生涯を通して織田信長に反抗したが、織田信益は織田信長に罪を許された。1581年、連枝衆として馬揃に加った。1582年、「本能寺の変」では、蒲生賢秀らとともに安土城留守役を務めた。のち羽柴秀吉に仕えた。

守山織田信光【おだのぶみつ(1516~1556)】

春日井郡守山城主。織田信定の三男。通称孫三郎。別名津田信光。室は松平信定の娘。小豆坂七本槍のひとり。1542年、「第一次小豆坂の戦い」に参陣し戦功を挙げた。織田信秀に対抗した松平清康に内応して、松平清康を居城の守山城に呼び寄せた。松平清康と反目していた松平信定の娘を室にしていたことから、松平清康の家臣からは疑惑を持たれもした。織田信秀の病没後は、家督を継いだ甥織田信長を支持した。「萱津の戦い」「村木砦の戦い」などで戦功を挙げた。1555年、織田信長と敵対する織田信友の家臣坂井大膳の誘いに応じるふりをし清洲城に入城。織田信友を謀殺して清洲城を奪った。坂井大膳は駿河国に落延びた。1556年、織田信光は織田信長に清洲城を渡すと、自身は那古屋城に入ったがまもなく謀殺された。

守山織田信成【おだのぶなり(15??~1574)】

織田信光の男。室は織田信秀の七女(小幡殿)。1555年、父織田信光が謀殺された後、織田信長勢に属して小幡城主となった。1571年、「第一次長島城の戦い」「槙島城の戦い」「浅井、朝倉家討伐」に参陣した。1574年、「第二次長島城の戦い」で一揆勢の反撃を受け討死した。

守山織田信昌【おだのぶまさ(15??~1574)】

織田信光の次男(織田信実の養子)。通称四郎三郎。織田信包勢に属した。1574年、「第二次長島城の戦い」で討死した。

小田井織田常寛【おだつねとお(15??~15??)】

春日井郡小田井城主。織田久長の次男。官途は丹波守。通称弾正左衛門。清洲三奉行のひとり織田藤左衛門家。兄織田敏定が尾張守護所清洲城の支城として小田井城を築き城主となり、後に本拠を清洲城に移したため、その城主となった。

小田井織田寛故【おだとおもと(15??~1550)】

織田常寛の男。官途は兵部大輔。通称藤左衛門尉。父織田常寛の後を継ぎ小田井城主となった。嫡男の織田寛維に後を譲るが、織田寛維の死後、再び城主になる。後に次男織田信張に譲った。

小田井織田寛維【おだとおふさ(15??~1542)】

織田寛故の男。通称藤左衛門尉。父織田寛故の後を継ぎ小田井城主となった。1542年、「大垣城の戦い」で討死した。小田井織田家の家督は一時的に父織田寛故が相続して、後に弟織田信張が継いだ。

小田井織田信張【おだのぶはる(1527~1594)】

織田寛故の次男。官途は左兵衛佐。別名織田寛廉。室は織田信康の娘。1556年、織田信長が盆踊りの祭を主催した際には、織田信張の家来衆が地蔵に扮した。「小谷城の戦い」「比叡山の焼討ち」などに参陣した。1577年、「雑賀攻め」など、紀伊方面を転戦した。紀伊国佐野砦を任されていたが、その後岸和田城へ移り和泉半国を領した。1582年、「本能寺の変」後、紀伊国人たちが蜂起、蜂屋頼隆と鎮圧に努めた。その後小田井城に戻り、織田信雄に仕えた。

小田井織田信直【おだのぶなお(1546~1574)】

織田信張の男。通称左衛門。室は織田信秀の娘(小田井殿)。小田井殿は織田信長の妹であり、池田恒興の異父妹。父織田信張ととも紀伊方面を転戦した。1574年、「長島一向一揆攻め」に参陣したが一揆勢の捨て身の攻撃にあい討死した。

小田井織田信氏【おだのぶうじ(15??~1584)】

織田信直の男。通称角蔵。1574年、父織田信直の討死により、小田井織田家の家督を相続した。美濃国飯場城主遠山友賢が病没した際、子がいなかったため、織田信氏は命を下し遠山友勝に後を継がせた。1581年、「京都馬揃え」では連枝衆として参陣した。1582年、「本能寺の変」後、織田信雄に属した。1584年、祖父織田信張よりも先に病没した。

小田井織田忠辰【おだただたつ(15??~1613)】

織田信直の次男。官位は兵部大輔。別名津田忠辰。室は村上頼勝の娘。織田信忠、織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」の後、羽柴秀吉によって小田井城を追われた。のちに罪を許され、羽柴秀吉、羽柴秀頼に仕えた。

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【か】

梶原源左衛門【かじわらげんざえもん(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。申丸砦の足軽大将。

加藤朝重【かとうともしげ(15??~15??)】

前田利家家臣。1600年、前田利長によって大聖寺城二の丸に配備された。

金岩与次之助【かねいわよじのすけ(15??~15??)】

前田安勝家臣。荒子七人衆のひとり。越前国府中で200石を領した。

神尾甚右衛門【かみおじえもん(15??~15??)】

佐々成政家臣。神尾之直の養父。後に前田利家に仕え2,000石を領した。

神尾之直【かみおゆきなお(1565~1643)】

堀田安休の男(神尾甚右衛門の養子)。通称五郎八。前田利長に仕えて9,000石を領した。1586年、佐々成政との戦いに参陣した。1600年、「大聖寺城の戦い」では、城を出て三堂山城に布陣した。前田利長の隠居に従い、高岡城に移った。同じ家老職の横山長知と不和になり、家中は両者の対立のため二分するほどだった。前田利長はこれを解消するため、遺戒として両家に婚姻を命じた。

神谷守孝【かみやもりたか(15??~1623)】

前田利家家臣。官途は信濃守。室は中川光重の娘。1591年、前田利家の近侍として1,200石を領した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に在城した。前田利家没後、高野山に墳墓を造営した。1615年、「大坂夏の陣」に参陣した。

河尻重俊【かわじりしげとし(15??~1554)】

清洲織田信友家臣。官途は左馬丞。通称与一。清洲家四家老のひとり。1547年、美濃国出征中の織田信秀の虚をついて挙兵した。1552年「松葉城の戦い」に参陣した。1554年、「安食の戦い」で討死した。川尻家の惣領職は織田信長の命で川尻秀隆が相続した。

木崎長左衛門【きざきながざえもん(15??~15??)】

山崎長門守家臣。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣した。敵将山口修弘を討取った。

木村三蔵【きむらさんぞう(15??~15??)】

前田安勝家臣。荒子七人衆のひとり。前田利家の小姓として仕え、越前国府中で180石を領した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で前田利家が戦線を離脱した際、殿となって討死した。嫡子が無く、一代で絶家した。

木村景行【きむらかげゆき(15??~1599)】

前田利家家臣。通称三郎兵衛。8,000石を領した。

黒部源助【くろべげんすけ(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

小塚藤右衛門【こづかとうえもん(15??~1583)】

前田安勝家臣。荒子七人衆のひとり。1573年、朝倉攻めの「刀根山の戦い」戦功を挙げた。能登国で3,700石を領した。1583年、羽柴勢との「賤ヶ岳の戦い」で前田利家が戦線を離脱した際、殿軍となって討死した。

小塚秀正【こづかひでまさ(15??~1618)】

前田安勝家臣。官途は淡路守。通称八右衛門。「加賀国討伐」「能登国討伐」「九州征伐」「小田原の役」に参陣した。1600年、「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げた。1602年、太田長知が謀殺されると大聖寺城主。前田利長の隠居に従い高岡城へ移った。1614年、「大坂冬の陣」では、金沢城代を務めた。

小塚権太夫【こづかごんだいふ(15??~1603)】

前田利家家臣。1602年、太田長知が謀殺されると御幸塚城守将となった。

五藤為浄【ごとう ためきよ(1553~1583)】

尾張国葉栗郡黒田館主。五藤浄基の男。通称は吉兵衛。父五藤浄基が山内盛豊に仕えた。1573年、「刀禰坂の戦い」などで戦功を挙げた。1583年、「る伊勢亀山城の戦い」で山内一豊の城内一番乗りを助けるが討死した。五藤家の家督は前野泰道の男、五藤浄清が継ぐ事になった。弟五藤為重は山内家の家老となり、山内一豊が土佐入国をした際には、安芸土居を与えられて周辺を支配した。

五藤為重【ごとうためしげ(1558~1629)】

五藤浄基の次男。通称吉蔵。兄五藤為浄とともに山内一豊に仕え各地を転戦した。1583年、「伊勢国亀山城の戦い」で五藤為浄が討死した。五藤家の家督は前野泰道の男牛右衛門浄清が相続、自身は家老職を務めた。1585年、「天正大地震」には、近江国長浜城にいた山内一豊室を救い出した。1589年、「伊豆国山中城の戦い」に参陣して、頸級二つを挙げる戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、山内一豊が土佐国に転封になると安芸郡安芸城代として1,100石を領した。1615年、「一国一城令」により安芸城が廃城になっても代官として安芸に陣屋を置いた。

五藤浄清【ごとう きよよし(15??~15??)】

前野泰道の男(五藤為浄の養子)。通称牛右衛門。

近藤長広【こんどうながひろ(15??~1611)】

前田利家家臣。官途は大和守。通称善右衛門。1575年、200石を領した。末森城救援に参陣した。横山長秀没後、御幸塚城守将となった。1606年、大聖寺城代に任じられ11,000石を領した。

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【さ】

雑賀修理【さいがしゅり(15??~1555)】

清洲織田信友家臣。傭兵衆のひとり。1555年、「安食の戦い」で清洲城下で柴田勝家勢と戦い討死した。

坂井大膳【さかいだいぜん(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。尾張国小守護代。清洲家四家老のひとり。坂井甚介、河尻重俊、織田三位らとともに清洲織田大和守家の実権を握っていた。1544年、「加納口の戦い」で織田信秀が出陣するとその隙を突いて、坂井大膳らが織田信秀の古渡城を攻撃した。その後、坂井大膳は織田信秀と和議を結んだ。1552年、坂井大膳は松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次を人質に取って、織田信秀の跡を継いだ織田信長に反旗を翻した。それに対して織田信長は叔父織田信光の支援も得て清洲城を奪取した。1552年、「萱津の戦い」で坂井大膳らは織田信長勢によって撃破され、坂井甚介は討死に。松葉城、深田城は奪回された。1554年、坂井大膳は河尻重俊、織田三位らと謀って、傀儡であった守護職斯波義統と枝連衆を自刃させた。斯波義統の遺児斯波義銀の要請を受けた織田信長の反撃を受けて大敗し、河尻重俊、織田三位らは討死した。1555年、坂井大膳は再起を期して織田信光を調略に取りかかるが、逆に織田信光の謀略にかかって織田信友は自刃させられ清洲城も奪われた。坂井大膳は今川義元のもとに落延びた。

坂井甚介【さかいじんすけ(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。坂井大膳の弟。清洲家四家老のひとり。1547年、美濃国出征中の織田信秀の虚をついて挙兵した。1552年、松葉城攻略。織田信光の家臣赤瀬清六に切り負け退却した。柴田勝家、中条家忠に討たれた。

坂井彦左衛門【さかいひこざえもん(15??~1552?)】

坂井大膳家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

坂井秀忠【さかいひでただ(15??~1529)】

春日井郡品野城主。尾張国と三河国の境目では織田信秀と松平清康の争いが激化しており国境の小豪族である坂井秀忠は織田信秀か三河の松平清康、どちらにつくか選択を迫られた。1529年、織田信秀についた坂井秀忠は、松平清康の攻撃を受け、坂井秀忠は自刃、品野城は落城した。

酒小藤太【さかこへいた(15??~15??)】

中島豊後守家臣。1562年、於久地城の守将であった酒小藤太と寺沢藤左衛門は、織田信長勢の岩室長門守、市橋伝衛門、伊藤夫太夫らによって長槍で叩き伏せられた。

佐脇良之【さわきよしゆき(15??~1572)】

前田利春の五男(佐脇興世の養子)。通称藤八郎。室は浅井長政の娘。織田信長に小姓として仕えた。1558年、「浮野の戦い」に参陣した。兄前田利家とともに赤母衣衆となった。1560年、「桶狭間の戦い」では、急遽出陣した織田信長に岩室重休、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎とともに真っ先に従った。その後、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎とともに織田信長の勘気をこうむったため、勘当されれ、ともに松平元康のもとに身を寄せた。1572年「三方ヶ原の戦い」に参陣し、長谷川ら三人とともに討死した。嫡男佐脇久好は、佐脇良之の室が前田利次の乳母になった関係から前田利次に仕えた。

斯波義統【しばよしむね(1513~1554)】

斯波義達の男。尾張国、遠江国守護職。官途は左兵衛佐。足利家枝連衆で室町幕府三管領筆頭の斯波家の嫡流。父斯波義達は、守護国のひとつであった遠江国を隣国の今川家に奪われていたため、守護代の織田達定が反対するのも意に介さず、逆に反対派の守護代織田達定を合戦で討つなど遠江国奪還になみなみならぬ意欲を見せ、遠江国に出兵を繰り返していた。1515年、今川氏親に大敗し捕虜になる屈辱を受けると、わずか三歳の斯波義統に守護職を譲り、失意のうちに病没した。斯波義達に合戦で敗れて鳴りを潜めていた織田家はこれを機会に勢力を拡げ、斯波家はこうして織田家の傀儡に成り下がった。応仁の乱以降、守護代である織田家一族が上四郡を支配する「伊勢守家」(岩倉織田家)と下四郡を支配する「大和守家」(清洲織田家)の二派に分裂していたが、さらに庶流の台頭もあり一族内で抗争をくりかえしていた。下四郡の守護代であった織田信友は、上四郡の守護代である織田信安や庶家を抑えるため、尾張国守護職の斯波義統を傀儡として擁した。1554年、斯波義統は織田信友が織田信長の暗殺計画を企てたとき、斯波義統は織田信長にその計画を密告して助けを求めた。織田信友は、斯波義統嫡男の斯波義銀が手勢を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、小守護代坂井大膳とともに守護所に攻め入り、斯波義統を謀殺した。

斯波義銀【しばよしかね(1540~1600)】

斯波義統の男。官途は左兵衛佐。別名津川義近。1554年、父斯波義統は、斯波義銀が手勢を率いて川狩りに出かけている隙を衝かれて、織田信友と坂井大膳によって謀殺された。斯波義銀は織田信長に支援を求め、織田信友を討たせた。これにより織田信長は勢力を拡大した。斯波義銀は斯波家の権勢を取り戻そうと吉良義昭と結んで織田信長の追放を画策するが失敗、斯波義銀は尾張国を追放された。のちに信長と和解し、名を津川義近と改めた。娘の一人を織田信長の弟織田信包の男に嫁がせ、織田家との縁を深め、織田政権下でも織田家親族中の貴種として遇された。1582年「本能寺の変」の後は、織田信雄の麾下に属した。「小牧、長久手の戦い」では松ヶ島城に籠城したが、羽柴秀吉勢に降伏した。羽柴秀吉のもとでは足利義昭や山名豊国とともに御伽衆となり、東北に分家が点在する斯波庶家の外交を担当した。

関長重【せきながしげ(15??~15??)】

葉栗郡一宮城主。通称十郎左衛門。真清田神社の神主。

関長安【せきながやす(15??~1584)】

関長重の男。織田信長に仕えた。1582年、「武田家討伐」では、恵林寺焼討ちの奉行であった。1585年、「本能寺の変」後、関長安は尾張の国主となった織田信雄に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」では義兄森長可に従って、羽柴方に組みし、森長可共々討死を遂げた。

篠崎清了【しのざきせいりょう(15??~15??)】

前田利秀家臣。通称織部。1586年、城生城代に任じられた。1592年、前田利秀が没すると篠崎清了は代わりにこの地の奉行となった。嫡男の篠崎清政、孫の篠崎清長も同地の奉行職と務めた。

篠原一孝【しのはらかずたか(1561~1616)】

前田利家家臣。篠原長重の養子。官途は肥前守。通称勘六。室は佐脇良之の娘。前田利家に仕え「北陸平定戦」「末森城の戦い」「小田原の役」「大坂の役」などに侍大将として参陣した。大坂で死去した前田利家の棺を加賀に帰すなどよく付き従った。石垣普請の名人でもあり、金沢城の河北門などの普請を行なった。人持組頭となり、横山長知、奥村栄明と共に執政として国政を司り15,650石を領した。嫡男篠原主膳は早世。次男篠原出羽が家督と10,250石を領した。三男篠原重一は1,000石で分家し、兄出羽の死後2000石を加増された。四男篠原虎之助は1,000石で分家するも早世した。

祖父江勘左衛門【そふえかんざえもん(15??~15??)】

尾張国津島神社の神職を務めていた家系の出身。祖父江家は「応仁の乱」以降土着した織田家、山内家に仕えた。1559年、祖父江村に隠退していたが、山内一豊が流浪の身になると、それを出迎えて、五藤浄基と共に家老となった。羽柴秀次家臣であった筧源右衛門の未亡人を室に迎え、その子祖父江一秀に祖父江家の家督を譲った。

祖父江一秀【そふえかつひで(15??~15??)】

筧源右衛門の男(祖父江勘左衛門の養子)。通称新太郎。浅井家旧臣で羽柴秀次の家臣だった父筧源右衛門が没すると、母の再婚先である祖父江家の家督を相続した。山内一豊が土佐藩主となると1000石を知行、幡多郡中村に居る。1614年、「大坂冬の陣」では大坂には従わずに土佐にとどまり、呼応して中村を攻めようとした、長宗我部遺臣の反乱を奇計を持って鎮圧し、首領奥宮伝兵衛を捕え渡川河原にこれを磔とした。

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【た】

高橋九郎兵衛【たかはしくろうびょうへ(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。申丸砦の足軽大将。

高畠定吉【たかばたけさだよし(1536~1603)】

高畠吉光の男。官途は石見守。通称孫十郎。室は前田利家の妹(津世姫)。荒子七人衆のひとり。前田利家に仕え戦功を重ねた。前田利家の妹津世姫を夫人に迎えた。七尾城、加賀劔城、越中宮崎城などの守将を務め、前田利家股肱の臣として戦功を挙げた。前田利家の病没後は嫡男前田利長に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」の際、金沢城の留守を任された。1602年、致仕し、剃髪して京都に隠棲した。

高畠定良【たかばたけさだよし(1537~1601)】

高畠吉光の次男。通称平右衛門。1584年、木舟城5,000石を領した。1589年、「八王子城の戦い」に参陣した。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣した。

高畠茂助【たかはたもすけ(15??~15??)】

前田利家家臣。前田利家能登入国後、宇野十兵衛とともに二穴城を守った。

竹田宮内【たけだくない(15??~15??)】

前田利家家臣。佐々成正が肥後に移されると、越中升形山城を守備した。

田中二郎左衛門【たなかにろうざえもん(15??~15??)】

中島豊後守家臣。黒田城守備隊の足軽大将。

津川義冬【つがわよしふゆ(1545~1584)】

斯波義統の三男。官途は玄蕃允。室は北畠具教の娘。織田信長に仕えたが、器量を見込まれて次男織田信雄の家老に任じられた。1582年、「本能寺の変」後、松ヶ島城主を預けられ、南方の奉行に任じられた。織田信雄が羽柴秀吉と対立するようになると、秀吉は津川義冬、岡田重孝、浅井長時ら信雄の有力家臣が羽柴秀吉に寝返ったという流言を流し、この情報を信じた織田信雄によって三人共謀殺された。羽柴秀吉は津川義冬らの謀殺を契機に「小牧、長久手の戦い」が勃発した。

津田武永【つだたけなが(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。官位は遠江守。通称は与十郎。別名織田寛近。父は木ノ下城主織田広近。兄に尾張上四郡守護代の織田寛広。1475年、父織田広近の隠居により、家督を相続して小口城主となった。1487年、「六角高頼征伐(長享、延徳の乱)」に参陣した。1495年、兄織田寛広と織田広遠らとともに石丸利光を攻撃した。後に川村北城を築き居城とするが男児がおらず、川村北城を娘婿の岡田時常に譲った。1544年、織田信秀の要請で援軍を送った。

津田重久【つだしげひさ(1549~1634)】

津田高重の男。官途は遠江守。通称与三郎。足利義昭に仕えたのち明智光秀に仕えた。1582年「本能寺の変」で先鋒を務めた。明智光秀が敗死した後は高野山逃れたが赦されて羽柴秀吉、羽柴秀次に仕えた。1596年、羽柴秀次の自刃後、に前田利長に召し出され6,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」の前哨戦たる「大聖寺城の戦い」で武功を挙げて、役後に大聖寺城代を務めた。

津田刑部【つだぎょうぶ(15??~15??)】

前田利家家臣。1614年、「大坂冬の陣」では、富山城留守居役を務めた。 

土田作右衛門【つちださくざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。

堤伊予守【つつみいよのかみ(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

寺沢藤左衛門【てらさわとうざえもん(15??~15??)】

中島豊後守家臣。1562年、於久地城の守将であった寺沢藤左衛門と酒小藤太は、織田信長方の岩室長門守、市橋伝衛門、伊藤夫太夫らによって長槍で叩き伏せられた。

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【な】

中川清六【なかがわせいろく(15??~15??)】

前田利家家臣。1586年、山崎庄兵衛とともに越中国増山城の守備についた。

中島左衛門【ながしまさせもん(15??~15??)】

犬山織田信清家臣。小口(於久地)城主。

中島豊後守【なかじまぶんごのかみ(15??~1574)】

中島左衛門の男。1562年、「小口城の戦い」織田信清謀反のきっかけともなった於久地城主中島左衛門は、犬山城主織田信清が謀反をした際、織田信長はこの人物を惜しみ、中島左衛門と昵懇の間柄にある丹羽長秀を仲介役に立てて調略を謀ろうとしました。 しかし中島左衛門は、病と称して面会しなかった。その後、蜂須賀正と昵懇の間柄にあった犬山の家老和田新介を味方に付け、丹羽長秀とともに再び中島左衛門の説得に当たらせた。以後和田新介とともに織田信長に仕えた。1569年、「大河内城の戦い」「長島一向一揆攻め」に参陣した。1574年、和田新介とともに織田信忠に従い「長島城の戦い」に参陣するが、和田新介とともに討死した。

中島小七郎【なかじまこしちろう(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。申丸砦の足軽大将。

中島主水尉【なかじまもんどのじょう(15??~15??)】

犬山織田信清家臣。堀秀重の娘婿。1557年、織田信清とともに織田信長勢に属して参陣した。岩倉衆と「浮野の戦い」で戦功を挙げた。犬山城落城後は織田信長に仕え黒幌衆のひとりなった。

長田権右衛門【ながたごんざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。小塚藤十郎と同じく足軽大将。

名古屋弥五郎【なごやよごろう(15??~1542)】

斯波家臣。1542年、「第一次小豆坂の戦い」に参陣し討死した。

野村与市右衛門【のむらよいちざえもん(15??~1552)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

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【は】

原田又右衛門【はらだまたざえもん(15??~15??)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。

橋爪縫殿助【はしづめぬいどのすけ(15??~15??)】

前田利家家臣。

林勝久【はやしかつひさ(1581~1651)】

林一吉の男。通称右近。父林一吉が山内一豊に仕え度々戦功があり、山内家の土佐国転封後は、土佐国窪川で5,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して、羽柴秀頼勢の偵察を行い山内忠義に報告をした。

東野幸政【ひがしのゆきまさ(15??~1640)】

山内一豊家臣。官途は将監。通称伊織。父東野行信は長浜で山内一豊に仕えた。「小田原の役」「関ヶ原の役」で戦功で挙げた。東野幸政も山内一豊に仕え1,400石を領した。江戸城や丹波篠山城の普請に関わった。1614年、「大坂冬の陣」には中備えの大将として戦功を挙げた。

深尾重良【ふかおしげよし(1557~1632)】

山内一豊家臣。官途は和泉守。通称次郎兵衛。深尾重良の祖父深尾重列が足利家に仕え戦功により、美濃国太郎丸城を領した。深尾重良はその跡を継いで太郎丸城主となり、土岐家に属して長井規秀と戦った。1577年、織田信忠に属し松永久秀の籠もる信貴山城を攻め戦功を挙げた。1582年「甲州征伐」でも織田信忠に属し信濃高遠城を攻めたが、重傷を負った。1582年、「本能寺の変」で織田信忠が自刃すると、美濃の諸将と共に岐阜城主神戸信孝に抵抗し、太郎丸城を攻めてきた神戸信孝勢を撃退してた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では神戸信孝が自刃すると、加賀大聖寺城主溝口秀勝を頼った。1585年、山内一豊に仕えた。1589年、「小田原城の役」では、山内一豊に属して「山中城の戦い」で戦功を挙げた。山内一豊が遠江国掛川城に転封されると3,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後に山内一豊が土佐国に転封されると、山内康豊に従って先発隊に属し土佐国の状況を報告した。1603年、高岡郡佐川城10,000石を領して筆頭家老となった。慶長年間の江戸城修築、丹波篠山城築城、名古屋城築城に関わり、幕府から賞された。「大坂の陣」では山内家全軍の指揮官を務めた。安芸広島城主福島正則が改易される際に兵を率いて広島に行き有事に備えた。広島からの帰国後、主君の忠義に隠居を申し出たが許可されなかったため、和泉堺に退去した。

古沢七郎左衛門【ふるさわしちろうざえもん(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。1555年、「安食の戦い」で清洲城下で柴田勝家勢と戦い討死した。

堀尾泰政【ほりおやすまさ(15??~15??)】

岩倉織田信安家臣。丹羽郡御供所館主。家老職を務めた。堀尾家は丹羽郡御供所の豪族で高階家を称した。

堀尾泰晴【ほりおやすはる(1517~1599)】

堀尾泰政の男。通称忠助。堀尾泰晴は織田信長の主筋清洲織田家(織田大和守家)の嫡流である尾張半国守護代岩倉織田家(織田大和守家)当主織田信安に仕え、山内盛豊らとともに重臣の地位にあった。1559年、「岩倉城の戦い」で主家が滅亡した後の浪人した。嫡男堀尾吉晴が羽柴秀吉に仕えた後に引き取られた。

堀尾吉晴【ほりおよしはる(1544~1611)】

堀尾泰晴の男。官途は帯刀。通称小太郎。室は津田家の娘(大方殿)。1559年、「岩倉城の戦い」で一番頸を取る戦功を挙げた。のちに羽柴秀吉に仕え各地を転戦した。1567年、「稲葉山城の戦い」では、稲葉山城に通じる裏道の先導役を務めた。1573年、羽柴秀吉が近江国長浜城主に任じられると、100石を領した。その後も戦功を重ね、播磨国姫路内で1,500石、後に丹波国黒江内て3,500石に加増された。1583年、若狭国高浜城17,000石を領した。1585年、田中吉政、中村一氏、山内一豊、一柳直末らとともに羽柴秀次の附家老に任命され、近江国佐和山城40,000石を領した。1589年、「山中城の戦い」では、羽柴秀次に属して参陣したが、嫡男堀尾金助が討死した。役後、遠江国浜松城120,000石を領した。

中村一氏、生駒親正とともに中老職に任命された。1598年、羽柴秀吉の病没後は松平元康勢に属した。1599年、堀尾家の家督を次男堀尾忠氏に譲って隠居した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属した。三河刈谷城主水野忠重、美濃国加賀野井城主加賀井重望らと三河国池鯉鮒において宴会中、加賀井重望が水野忠重を謀殺、堀尾吉晴も槍傷を負ったが、加賀井重望を討取った。本戦には参加できなかったが、代わって出陣した堀尾忠氏が戦功を挙げ出雲国富田城240,000石を領した。1604年、堀尾忠氏が病没すると、堀尾家の家督は孫の堀尾忠晴が継ぐが、幼年のためその後見役を務めた。

堀尾忠氏【ほりおただうじ(1578~1604)】

堀尾吉晴の次男。官途は出雲守。室は前田基勝の娘。1590年、長兄堀尾金助が「小田原の役」で討死したため、堀尾吉晴の世子となった。1599年、父堀尾吉晴の隠居に伴い、遠江国浜松城120,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康方の東軍に組して山内一豊と城提供の策を謀議し、また戦前に加賀井重望による殺傷事件に遭遇して負傷した父堀尾吉晴に代わって東軍側として関ヶ原前哨戦に戦功を挙げた。本戦にも参陣したが、長宗我部盛親の出撃を牽制したのみで戦功を挙げていない。役後、前哨戦における武功を松平元康から賞されて、出雲国富田城240,000石に加増転封された。

堀尾忠晴【ほりおただはる(1599~1633)】

堀尾忠氏の男。官途は山城守。室は奥平家昌の娘(松平秀忠の養女)。1604年、父堀尾忠氏が病没したため、堀尾家の家督を相続した。祖父堀尾吉晴が堀尾忠晴に代わって執政を行なった。筆頭家老の堀尾河内守による家督横領の陰謀が発覚し、堀尾河内守と堀尾掃は自刃を申し付けられた。1615年、「大坂の陣」では戦功を挙げたほか、軍令違反を咎めた松平家の軍奉行を器量で圧倒して黙らせている。1619年、福島正則が幕命によって信州川中島城に減転封された際には、広島城の城受け取りを務めた。1633年、病没するが嗣子が無く、従兄弟の堀尾宗十郎を末期養子に立ててたが認められず堀尾宗家は断絶した。

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【ま】

前田利春【まえだとしはる(15??~1560)】

尾張国海東郡荒子城主。前田利隆の男。官途は縫殿助。別名前田利昌。室は竹野氏の娘(長齢院)。尾張国で林秀貞の寄騎衆として、織田家に仕え4,000石を領した。1560年、「桶狭間の戦い」後に病没した。

前田利久【まえだとしひさ(15??~1587)】

前田利春の男。室は滝川益氏の娘。1560年、父前田利春が病没したため前田家の家督を相続した。嫡子がいなかったため弟前田安勝の娘を養女とし、その養女の婿に自身の室の甥前田利益を迎えた。1569年、織田信長の命により前田家の家督を弟前田利家に譲った。前田利家との仲が不和になったため、前田家から退去した。1581年、織田信長の元で能登国一国を領する大名となった前田利家を頼り仕え前田利久、前田利益親子は7,000石を領した。

前田利益【まえだとします(1533~1612)】

滝川益氏の男(前田利久の養子)。別名前田慶次。室は前田安勝の娘。前田利久が室の実家である滝川家から娘の婿として前田利益を引き取り養子にした。1567年、前田利久は織田信長から隠居を命じられ、弟の前田利家が荒子城4,000石を領した。このため前田利益は養父前田利久とともに荒子城から退去した。1581年、織田信長のもとで能登国を領する諸侯となった前田利家に仕え、前田利久、前田利益は7,000石を領した。1584年、「末森城の戦い」では、奥村永福の救援に向い戦功を挙げた。その際に、前田利家より阿尾城代に任じられた。阿尾城は神保氏張勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。1589年、「小田原の役」では、前田利家とともに参陣した。1590年、前田利家のもとを退去したが、嫡男前田正虎と妻子一同は随行しなかった。その後は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴、昌叱父子や九条稙通、古田織部ら多数の文人と交流した。その後、長尾景勝と直江兼続の知遇を得た。1600年、「関ヶ原の役」では、長尾景勝勢に属して、組外衆筆頭として1,000石を領した。「長谷堂城の戦い」の撤退戦で戦功を挙げた。長尾景勝が米沢城300,000石に減封された後も、長尾景勝に仕えた。

前田正虎【まえだまさとら(15??~15??)】

前田利益の男。

前田安勝【まえだやすかつ(15??~1594)】

前田利春の三男。父前田利春の死後、織田信長の命で兄前田利久が隠居、弟前田利家が家督を継ぐが、前田安勝が前田利家に仕えるのは前田利家が越前府中に城を構えてからであった。前田利家が能登国を領すると七尾城代に任じられ13,500石を領した。1582年「棚木城の反乱」「石動山の戦い」で戦功を挙げた。1584年、「末森城の戦い」では、数々の戦功を挙げた。前田利家が九州へ出陣の際には、物資の補給を担当した。

前田秀継【まえだひでつぐ(15??~1585)】

前田利春の六男。1576年、越前国府中で1,000石を領した。1583年、加賀国津幡城の守将に任ぜられ7,000石を領した。この時期より徐々に前田利家と隣国の越中国を治める佐々成政との関係が緊張し始め、両者は相争って加賀、越中国境周辺に数十箇所の城砦を設置、あるいは改修を施すのだが、その防衛線は国境を越えて加賀領内に入り込んでおり「末森城の戦い」以後には津幡城の至近にまで迫る事態へと推移していく。以降没するまでの数年間、前田秀継は常に対佐々家との戦いに従事した。1584年、能登国末森城を攻撃した佐々成政勢との戦いに参陣した。救援に向かう利家の軍勢を津幡城に迎え入れて軍議にも加わっている。嫡男前田利秀と共に越中国境にある倶利伽羅峠の防衛拠点である龍ヶ峰城を攻略、佐々平左衛門を敗走させる戦功を挙げた。1585年、越中攻略の重要拠点として築城された今石動城へと入城。佐々勢500余りが今石動城へと攻め寄せると前田秀継は寡兵ながら前田利秀とともに今石動城を死守した。援軍が到着するまで持ち堪えて神保氏張、佐々平左衛門らを敗走させる戦功を挙げた。羽柴秀吉の「越中討伐」で佐々成政が降伏して越中平定されると前田利家は新たに越中三郡を与えられ、前田秀継は越中国木舟城主に任ぜられ40,000石を領した。1585年、「天正大地震」により木舟城が全壊。前田秀継は室や多数の部下とともに死亡した。

前田利秀【まえだとしひで(1568~1594)】

前田秀継の次男。通称又次郎。1582年、「石動山城の戦い」に参陣した。なおこの戦いにおいて麾下の山田勘右衛門が山頂への一番乗りを果たした。1584年、能登国末森城を攻めた佐々成政軍を前田利家軍が破った「末森城の戦い」で第二陣の侍大将として加わった。父前田秀継と共に加賀国龍ヶ峰城を攻め、守将佐々平左衛門を撤退させた。1585年、前田利家が越中国蓮沼城を攻めた時に第四陣として加わった。1585年「天正大地震」によって木舟城が倒壊し、父前田秀継が圧死により前田家の家督を相続した。1586年、木舟城並びに城下の被害は甚大で復旧は困難であると判断して行政機能を今石動城に移し、町割りを行い近隣から寺院を集めるなど城下の整備に努めた。1589年、「小田原の役」に参陣し諸城の攻略にあった。1592年、「文禄の役」に参陣するがまもなく病没した。

前田利家【まえだとしいえ(1537~1599)】

前田利春の四男。官途は左近衛権少将。通称又左衞門。室は篠原一計の娘(松姫)。はじめ小姓として織田信長に仕え、赤母衣衆として織田信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」と称された。その後、柴田勝家勢に属して北陸転戦して戦功を挙げ能登国240,000石を領した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、はじめ柴田勝家に属するが、後に羽柴秀吉に属した。羽柴秀吉に属して加賀国、能登国、越中国の三ヶ国を領した。1598年、羽柴秀吉より五大老に列せられ、羽柴秀頼の傳役を任じられた。1598年、羽柴秀吉の死後、武断派、文治派が争うと仲裁役として働き、松平元康を牽制することに尽力するが、まもなく病没した。

前田利長【まえだとしなが(1562~1614)】

前田利家の男。官途は肥前守。通称孫四郎。室は織田信長の娘(永姫)。1581年、父前田利家の旧領を与えられ、織田信長の娘永姫を室に迎えた。1582年、「本能寺の変」は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田で聞き、永姫を前田の尾張国荒子城へ逃がし織田信雄勢に加わった。織田信長没後は前田利家と共に柴田勝家に寄騎した。「賤ヶ岳の戦い」に参陣して戦後は父前田利家とともに越前国府中城へ撤退した。1585年、羽柴秀吉により佐々成政が支配していた越中国が制圧されると、射水郡、砺波郡、婦負郡320,000石を領した。「九州の役」「小田原の役」などに参陣し各地を転戦して戦功を挙げた。1598年、前田利家より前田家の家督と金沢領260,000石を相続した。1599年、松平元康による「加賀国征伐」に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった前田利長は細川藤孝、宇喜多秀家を通じて羽柴秀頼に救援を求めた。横山長知を弁明に三度派遣し、実母の芳春院を人質として江戸城の松平元康に差し出し交戦を回避した。1600年、松平元康出陣中に石田三成らが毛利輝元を擁立して挙兵すると、前田利長は弟前田利政の軍務放棄といった問題に悩まされながらも北陸で大聖寺城や小松城など石田三成勢に属した諸城を落とした。さらに「浅井畷の戦い」では丹羽長重軍と激戦に及び、勝利した。「関ヶ原の役」後には、弟前田利政の能登七尾城225,000石と西加賀国の小松領120,000石と大聖寺領63,000石が加領され、加賀国、越中国、能登国の三ヶ国合わせて約1,200,000石を領した。嫡男がなかったので、異母弟の前田利常(利家の四男)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した。

前田利政【まえだとしまさ(1578~1633)】

前田利家の次男。官途は能登守。通称孫四郎。室は蒲生氏郷の娘。1593年、能登国七尾城の城主となった。1599年、父前田利家より能登国216,000石を分与された。1600年、石田三成らが毛利輝元を擁立して松平元康に対して挙兵すると、兄前田利長とともに松平元康勢に属し北陸の西軍方大聖寺城主山口宗永を攻落した。金沢城へ引き返したあと前田利長が再出陣した際、前田利政は能登国に留まった。「関ヶ原の戦い」には参陣しなかった。役後、前田利政は能登国の所領を没収され、京都の嵯峨に隠棲した。1614年、「大坂冬の陣」では、両陣営から誘いを受けたが中立を維持した。役後、松平元康は10,000石の諸侯に取り立てる打診をしたが、前田利政は「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、松平元康への忠節を尽くす行動ではない。」と辞退した。

前田利常【まえだとしつね(1594~1658)】

前田利家の四男。官途は筑前守。室は松平秀忠の娘(珠姫)。側室は家臣鈴木権佐の娘(古和姫)。幼少の時は前田長種のもとで育てられた。1600年、「浅井畷の戦い」後、小松城主丹羽長重と和議が結ばれた際、人質として丹羽長重のもとに送られた。跡継ぎのいなかった兄前田利長の養子となり、松平秀忠の娘(珠姫)を室に迎えた。1605年、前田利長の隠居により、前田家の家督を相続した。「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣して、真田信繁勢と戦った。1631年、謀反の嫌疑をかけられるも、嫡男前田光高とともに江戸に下り懸命に弁明した。

前田種定【まえだたねさだ(15??~1599)】

下之一色城主。

前田長種【まえだながたね(1550~1631)】

前田種定の男。官途は対馬守。通称は甚七郎。室は前田利家長女(幸姫)。加賀八家のひとり。織田信長の家臣で「本能寺の変」後「小牧、長久手の戦い」で羽柴秀吉につき尾張国蟹江城を守備した。松平元康、織田信雄勢に敗れ父前田種定は討死した。兄前田定利も自刃した。本拠の下之一色城にいた前田長種は降伏し、前田利家を頼り家臣となり七尾城を守備した。その後、越中国守山城代となり前田利常を養育した。1605年、加賀国小松城代となり20,000石を領した。

前田直知【まえだなおとも(1586~1630)】

前田長種の男。官途は美作守。室は前田利長の養女(祖心尼)。継室は前田利長の養女(長連龍の娘)竹姫。前田利長に仕え5,000石を領した。後に父前田長種の禄を合わせて10,000石を領した。小松城代を務めた。「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」に参陣した。病のため、隠居して家督を嫡男直正に譲り、京都で療養した。

前野宗康【まえのむねやす(1489~1560)】

岩倉織田信安家臣。葉栗郡松倉城主。通称小次郎。室は小坂家の娘。1559年、岩倉城が織田信長に降る前に織田信長勢に属して所領を安堵された。

前野長康【まえのながやす(15??~1595)】

前野宗康の次男。官途は但馬守。別名坪内光景。羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。1582年、織田信長の黄死後、羽柴秀吉が政権を把握する過程で、蜂須賀正勝とともに羽柴秀吉を支えた。1584年「小牧、長久手の戦い」「四国征伐」に参陣して戦功を挙げた。但馬国出石城53,000石を領した。羽柴秀吉が政権下では聚楽第造営の奉行を務め、後陽成天皇行幸の際には饗応役を務めた。1590年「小田原の役」「文禄の役」にも参陣して戦功を挙げ110,000石に領した。羽柴秀次の附家老となった。1595年、「羽柴秀次事件」で謀反の疑いをかけられた羽柴秀次を弁護したため、連座として罪に問われて自刃を命じられた。

前野景定【まえのかげさだ(15??~1595)】

前野長康の男。官途は出雲守。別名坪内景定。室は細川忠興の娘(御長姫)。父前野長康とともに羽柴秀次の附家老となった。1595年、l「羽柴秀次事件」で羽柴秀次を弁護したため、羽柴秀吉から謀反の疑いをかけられ前野長康とともに捕縛され、中村一氏に預けられた。前野長康とともにそこで羽柴秀吉の命で自刃した。前野景定の内室(御長姫)にも捕縛命令が出されたが、細川忠興の長女であったため、松井康之などが奔走しにより、前野景定から離縁後出家させて捕縛を免れた。

牧長義【まきながよし(15??~1570)】

津川義長の男(岡田常時の養子)。官途は下野守。室は織田信定の娘(長栄寺殿)。父は斯波庶家の津川家で、岡田時常の婿となるも母方の姓である牧家を称した。織田信秀に仕え、牧長義は織田信秀の娘(信徳院)を嫡男牧長清の室に迎えた。岳父岡田時常に川村城を譲られ居城した。1548年、愛知郡に小林城を築き4,000石を領した。織田信秀の病没後は牧長清とともに織田信長にも仕えた。

牧長清【まきながきよ(15??~15??)】

牧長義の男。1570年、牧長清の病没後、牧家の家督を相続した。

牧虎蔵【まきとらくら(15??~15??)】

牧長義家臣。

水越縫殿助【みずこしぬいどのすけ(15??~15??)】

前田利家家臣。足軽大将。1600年、「小松城の戦い」に参陣した。八代橋付近で丹羽勢と交戦した。

村井長頼【むらいながより(1543~1605)】

前田利久家臣。官途は豊後守。通称又兵衛。前田利家が織田信長のもとを辞した際にも従い、常に戦場でも前田利家とともにあった。「越前手筒山の戦い」「摂津天満の戦い」「金ヶ森城の戦い」「長篠の戦い」等に参陣して250石を領した。「石動山城の戦い」では先陣を努めた。1584年、佐々成政勢が前田利家領に攻め込むと、朝日山城を築き守備についた。1585年、神保氏張が阿尾城を攻めるとこれを撃退した。この戦功により11,245石を領した。「末森城の戦い」でも戦功を挙げた。前田利家の病没後に隠居するが「加賀征伐」を行おうとした松平元康に、前田利長が実母の芳春院を人質に差し出した時は芳春院に従って江戸に下り、その地で没した。

村井長次【むらいながつぐ(1568~1613)】

前田利久家臣。室は前田利家の娘(七女)。1611年、細川忠隆と離縁した前田千世を正室として村井家に迎え入れた。村井家は16,500石余を領した。

村井長明【むらいながあき(1582~1644)】

村井長頼の次男。通称勘十郎。1594年、前田利家の小姓となる。1600年、「大聖寺城の戦い」で戦傷を負ったが役後450石を領した。1602年、前田家の禄を離れるが再び仕官した。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げ300石を領した。

毛利秀頼【もうりひでより(15??~1593)】

斯波義統の次男(毛利敦元の養子)。官途は河内守。父斯波義統が謀殺されると、毛利敦元に引き取られ養育された。その後、織田信長に仕えた。1560年、「桶狭間の戦い」で戦功を挙げ、赤母衣衆に抜擢された。1569年「伊勢大河内城の戦い」「石山本願寺との戦い」で戦功を挙げた。尾張、美濃衆を率いて軍団を編成した織田信忠の配下になり「武田家討伐」に参陣した。武田家の滅亡後、織田信長から伊那郡高遠城主に任じられた。1582年、「本能寺の変」で、織田信長が討死すると所領を捨て尾張国に帰還した。以後は羽柴秀吉に仕えた。「小牧、長久手の戦い」「九州征伐」「小田原の役」などに参陣して戦功を挙げたため、伊那郡飯田城70,000石を領した。1592年「文禄の役」では肥前名護屋に在陣するも、渡海はしなかった。

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【や】

山内盛豊【やまうち もりとよ(1510~1559)】

岩倉織田信安家臣。葉栗郡黒田城主。山内久豊の男。官途は但馬守。通称猪之助。室は法秀尼(梶原氏の娘)。黒田城代。父山内久豊は尾張羽栗郡黒田の郷侍で、尾張上四郡守護代岩倉織田信安により、尾張黒田城代を命じられた。1559年、織田信長の攻撃を受け岩倉城が落城した際討死した。

山内十郎【やなのうちじゅうろう(15??~1557)】

山内盛豊の男。1557年、黒田城を襲撃した盗賊と戦い討死した。

山内一豊【やまのうちかずとよ(1545~1605)】

山内盛豊の三男。官途は対馬守。1557年、兄山内十郎が盗賊に黒田城を襲撃された際に討死した。1559年、岩倉城が落城した際、父山内盛豊が討死した。山内一豊は苅安賀城主浅井政貞、松倉城主前野長康、牧村城主牧村政倫、勢多城主山岡景隆らに仕えた。1568年、織田信長に仕え、羽柴秀吉の寄騎衆となった。1573年、「刀禰坂の戦い」では重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討取る戦功を挙げた。羽柴秀吉の直臣となり近江国浅井郡内で400石を領した。1577年、播磨国内2000石を領した。1583年、「伊勢国亀山城の戦い」で一番槍の戦功を挙げた。1585年、田中吉政、堀尾吉晴、中村一氏、一柳直末らとともに羽柴秀次の附家老となり、近江国長浜城20,000石を領した。1585年、「天正の大地震」でひとり娘の与祢姫を失った。1589年、「山中城の戦い」で戦功を挙げ、遠江国掛川城51,000石を領した。掛川城では城の修築と城下街の整備、大井川の堤防の建設や流路の変更を駿府城主中村一氏とともに行った。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、掛川城を松平元康に提供した。本戦では、大きな戦功を挙げることはなかったが土佐国240,000石を領した。

山内康豊【やまうちやすとよ(15??~15??)】

山内盛豊の四男。1572年、織田信長の嫡男織田信忠に仕えた。1582年、「本能寺の変」では、織田信忠が自刃後に山内康豊は落延びた。その後は溝口秀勝に仕えたものの、後に山内一豊に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」の後、山内一豊が土佐藩主となると、山内康豊は土佐国中村城20,000石に封ぜられた。1605年、山内一豊が死去すると、その養嗣子となっていた康豊の長男山内忠義が土佐藩第二代藩主に就任する。しかし若年だった山内忠義のため、山内康豊が二年間ほど後見人を務めた。1625年、山内康豊の家督は次男の山内政豊が継いだ。

山内忠義【やまうちただよし(1592~1656)】

山内康豊の男。伯父の山内一豊の養嗣子。1592年、山内康豊の男として遠江国掛川城に産まれた。1603年、叔父山内一豊の養嗣子となり、松平元康、松平秀忠に拝謁し、松平姓を下賜され、山内家の家督相続したが、年少のため、実父康豊の補佐を受けた。1610年、居城の河内山城の名を高知城と改めた。1614年、「大坂冬の陣」に参戦した。この時、預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走するという珍事が起きている。1615年、「大坂夏の陣で」は、暴風雨のために渡海できず、参戦はしていない。1612年、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。1631年、野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。

山内於美【やまのうちおみ(15??~15??)】

山内康豊の室。別名「妙玖院」。山内康豊の妾として山内忠義を生みながら、生母として扱われることはなかった。

和田定利【わださだとし(15??~1574)】

犬山織田信清家臣。葉栗郡黒田城主。通称新介。1558年、中島豊後守とともに織田信長に内通した。織田信清に従い織田信長勢として、北尾張守護代織田信安との「浮野の合戦」に参陣した。1569年、伊勢「北畠家征伐」に参陣した。1571年、織田信忠勢として「伊勢長島一向一揆攻撃」に参陣した。1574年「長島城の戦い」で討死した。

和田定教【わださだのり(15??~15??)】

和田定利の弟。通称八郎。1574年、兄和田定利の討死により、和田家の家督を相続した。

山口勘兵衛【やまぐちかんべい(15??~15??)】

清洲織田信友家臣。1552年、「萱津の戦い」に討死した。

横山長隆【よこやまながたか(1539~1583)】

前田利長家臣。横山時隆の男。加賀八家のひとり。室は杉弥左衛門の娘。父横山時隆は美濃国多芸郡の豪族衆。多芸郡直江郷の杉弥左衛門の婿養子となり、清水城主稲葉良通に仕えるも、同僚と争い、相手を殺害して越前国に落延びた。大野城主金森長近に仕えた。1582年、前田利長に仕えて旗奉行に任じられた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣して殿を務めて討死した。

横山長知【よこやまながちか(1568~1646)】

横山長隆の次男。通称大膳。室は前田長種の妹。丹波円通寺で修練に励み、父横山長隆とともに前田利長に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で父横山長隆が討死すると、横山家の家督を相続して200石を領した。1584年、「末森城の戦い」で戦功を挙げた。1599年、前田家に謀反の噂が流れた時、五大老筆頭の松平元康と謁見し事細かに申し開きし危機を救っている。1600年、「大聖寺城の戦い」で戦功を挙げた。1602年、太田長知を前田利長の命で謀殺した。しかしその後、、前田利長と折り合いが悪くなり致仕し京都の山科に移り住んだがまもなく帰参した。1615年、「大坂夏の陣」では、前田利長勢の先陣を務めた。役後、戦功により30,000石を領した。

横山長秀【よこやまながひで(15??~1605)】

前田利家家臣。官途は因幡守。1602年、御幸塚城守将に任じられた。

吉田孫兵衛【よしだまごべい(15??~15??)】

前田利家家臣。尾張荒子城主時代から仕えた荒子七人衆のひとり。

四井主馬【よついしゅめ(15??~15??)】

前田利家臣。はじめ武田晴信に仕えていたが、後に前田利家に仕え、加賀忍者を率いた。1600年、「大聖寺城の戦い」に参陣して城中に火を放った。

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【資料Ⅰ】

北尾張国(5郡/240,000石)

丹羽郡:岩倉城、犬山城、楽田城、小折城。
羽栗郡:黒田城、松倉城。
中島郡:刈安賀城、奥田城。
西春日井郡:清洲城、小田井城。
東春日井郡:品野城、守山城。

※北尾張国という国は存在しません。個人的趣味として尾張国を北尾張国と南尾張国に分割しました。

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【資料Ⅱ】

尾張国守護代家【おわりしゅごだいけ】

清洲織田達勝、岩倉織田信安。※清洲織田家(大和守家)と岩倉織田家(伊勢守家)の二家。清洲織田家が尾張の下四郡を治め、岩倉織田家が尾張の上四郡を治めた。

清洲三奉行【きよすさんぶぎょう】

織田常寛(藤左衛門家)、織田広信(因幡守家)、織田信秀(弾正忠家)。※尾張国守護代清洲織田家(大和守家)に仕える奉行三家。

清洲家四家老【きよすよんかろう】

河尻重俊、坂井大膳、坂井甚介、織田三位。※尾張国守護代清洲織田家(大和守家)に仕える家臣。

荒子七人衆【あらこななにんしゅう】

村井長頼、高畠定吉、小塚藤右衛門、金岩与次之助、原田又右衛門、木村三蔵、吉田孫兵衛。

鏡栗毛【かがみくりげ】

山内一豊の愛馬。織田信長の馬揃えの際、山内一豊の室千代(見性院)は貯えていた持参金を夫に渡し、名馬鏡栗毛を購入させた。馬を買った経緯は、ある商人が東国一の馬を売ろうと連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く、仕方なく帰ろうとしたところを山内一豊が買った。それを聞いた織田信長が「高い馬だから、織田信長の家の者でなければ買えないだろうと持って来た馬を、浪人の身でありながら良く買ってくれた。織田信長の家も恥をかかなくてすんだ」と喜んだ。

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【資料Ⅲ】

尾張国【おわりのくに】

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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

※斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康で名前を統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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