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【あ】
井手智正【いでともまさ(15??~16??)】
宗義調家臣。通称彌六左衛門。別名橘智正。1602年、宗義智の意向を受け李氏朝鮮と国交回復を図るため、日本に捕らわれていた捕虜を李氏朝鮮に返還した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
扇鹿之助【おうぎしかのすけ(15??~15??)】
宗義調家臣。1592年、「平壌城の戦い」で宗義智に従い物見役を務め、李氏朝鮮勢の伏兵を発見して撃退する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大石智久【おおいしともひさ(15??~15??)】
宗義調家臣。通称荒河介。1592年、「平壌城の戦い」で宗義智に従い李氏朝鮮勢に包囲された平壌城から退却路を見出した。1594年、虎を捕縛する功を上げた。佐護郡代職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小田盛長【おだもりなが(15??~15??)】
宗晴康家臣。1527年、「大山館の戦い」で宗晴康に従い宗盛親勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【か】
木村智清【きむらともきよ(15??~1592)】
宗義智家臣。1592年、「大同江渡河の戦い」で宗義智に従い李氏朝鮮勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
倉野茂通【くらのしげみち(15??~15??)】
宗義智家臣。通称藤右衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【さ】
佐須国親【さすくにちか(15??~15??)】
宗晴康家臣。対馬国守護代職。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
佐須盛廉【さすもりかど(15??~15??)】
佐須国親の弟。官途は兵部少輔。1527年、兄の佐須国親が病没したため、対馬国守護代職を務めた。1528年、「宗盛治の乱」で宗将盛に従い宗盛治勢と戦い戦功を挙げた。1560年、守護代職を弟の佐須盛円に譲った。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
佐須盛円【さすもりのぶ(15??~15??)】
佐須盛廉の弟。1560年、兄の佐須盛廉から対馬国守護代職を引き継いだ。約二十年間、政権の中心を担い、島外諸領主や博多商人との交渉に頻繁に関わった。1580年、守護代職を継嗣の佐須景満に譲った。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
佐須景満【さすかげみつ(15??~1590)】
佐須盛円の男。1590年、柳川調信と不和になり、讒言によって宗義智の疑惑を招き、登城して弁明しようとしたが登城を許されず、古川智次らに謀殺された。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
杉村広幸【すぎむらひろゆき(15??~15??)】
佐須盛円の次男。古川智次、平田成幸とともに三家老職を務めた。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
杉村調長【すぎむらしげなが(15??~15??)】
杉村広幸の男。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
杉村智清【すぎむらともきよ(15??~1592)】
杉村調長の男。通称宇吉郎。室は宗義智の娘。1592年、「大同江の戦い」で左相尹斗壽都、元帥金命元、巡察使李元翼勢と戦い戦功を挙げた。沙灘から上陸して高彦伯大将に夜襲を画策したが、浮碧樓から綾羅の渡ったが明国勢に夜襲を受け討死した。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
宗義盛【そうよしもり(1476~1520)】
下県郡厳原城主。宗材盛の男。別名宗盛順。1507年、父の宗材盛が病没したため、宗家の家督を相続した。1510年、「三浦の乱」で李氏朝鮮の金錫哲、黄衡勢と戦い敗退した。1512年、「壬申約条」で李氏朝鮮と和議を結んだ。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗盛家【そうもりいえ(14??~15??)】
宗材盛の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗盛長【そうもりなが(1502~1526)】
宗盛家の男(宗義盛の養子)。別名宗盛永。1521年、叔父の宗義盛が病没したため、宗家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗能満【そうひでみつ(15??~15??)】
宗盛長の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗将盛【そうまさもり(1509~1573)】
宗盛弘の男。官途は刑部少輔。別名宗盛賢。1526年、叔父の宗盛長が病没したため、宗家の家督を相続した。1528年、「宗盛治の乱」で宗盛治勢と戦い池の館から落延びた。1539年、「金石城の戦い」で叔父の宗晴康勢と戦い敗退したため、豊館にて隠棲した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗晴康【そうはるやす(1475~1563)】
宗盛俊の男(宗将盛の養子)。官途は讃岐守。別名宗貞尚。1528年、「宗盛治の乱」で還俗して宗盛治に従い宗将盛勢と戦い戦功を挙げた。1539年、「金石城の戦い」で宗将盛勢と戦い戦功を挙げた。宗家の家督を相続した。1552年、対馬国の検地(8,250石)を実施した。家督を宗義調に譲り、隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗義調【そうよししげ(1532~1588)】
宗晴康の男。官途は形部少輔。通称彦七。室は立石宗佐の娘。1553年、父の宗晴康が隠居したため、宗家の家督を相続した。1555年、「佐賀浦の戦い」で倭船が李氏朝鮮船に乱暴を働いたため、これを捕縛して李氏朝鮮に引渡した。1557年、「船越浦の戦い」で山本康範、津奈調親勢と戦い戦功を挙げた。1564年、李氏朝鮮に歳遣船30隻の派遣を依頼した。1567年、継嗣の宗茂尚に家督を譲り、後見役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗茂尚【そうしげひさ(1547~1569)】
宗将盛の男。1566年、宗義調の意向を受け宗家の家督を相続した。1569年、病弱を理由に弟の宗義純に譲り、隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗義純【そうよしずみ(15??~1580)】
宗将盛の次男。1569年、兄の宗茂尚の意向を受け宗家の家督を相続した。1571年、「壱岐浦海の戦い」で波多政の意向を受け日高喜、松浦鎮信勢と戦い敗退した。1580年、病気を理由に弟の宗義智に家督を譲った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗調国【そうしげくに(15??~15??)】
宗将盛の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宗義智【そうよしとし(1568~1615)】
宗将盛の四男。官途は対馬守。通称彦三郎。洗礼名は「ダリオ」。室は小西行長の娘(妙姫)。1580年、次兄の宗義純が隠居したため、宗家の家督を相続した。1587年、「九州征伐」で長兄の宗義調とともに羽柴秀吉のもとに赴き所領安堵を受けた。1589年、朝鮮通信使とともに上洛した。1592年、「文禄の役」で小西行長に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1599年、松平元康の意向を受け李氏朝鮮との国交回復を図るが、不調に終った。1600年、斎村政広、藤原惺窩の尽力により李氏朝鮮の捕虜を返還、明勢も李氏朝鮮から撤退した。1604年、松雲大師惟政、孫文彧が対馬国に来島し、宗義智はこれと講和の内容について談合した。1605年、松雲惟政とともに松平元康、松平秀忠に謁見した。1606年、李氏朝鮮は講和条件を提示して和議が結ばれた。1609年、「慶長条約(己酉約定)」を締結した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
宗義成【そうよしなり(1604~1656)】
宗義智の男。官途は対馬守。通称彦七郎。室は日野資勝の娘(福姫)。1615年、父の宗義智が病没したため、宗家の家督を相続した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康に従い京都丹波口を守備した。1617年、朝鮮通信使を江戸城まで警固した。1627年、清国の侵攻を受けた李氏朝鮮から支援要請を受けた。1634年、「国書改竄事件(柳川騒動)」で松平家光の親裁を受け柳川調興が津軽弘前に、規伯玄方は南部盛岡に配流に処された。1636年、李氏朝鮮に通信使の派遣を懇望した。1650年、佐須に銀山を開山した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
宗智順【そうともしげ(15??~16??)】
宗義純の次男。1592年、「李氏平壌城の戦い」で宗義智に従い明勢と戦い戦功を挙げた。1634年、「国書改竄事件(柳川騒動)」で江戸城に召還され取り調べを受けた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【た】
津奈調親【つなしげちか(15??~1557)】
宗盛弘の次男。通称弥八郎。1557年、「船越浦の戦い」では、山本康範とともに海賊衆を率いて宗義調に謀反を起こした。仁位盛家勢と戦い壱岐国に落延びたが宗義調に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【な】
中原安忠【なかはらやすただ(15??~15??)】
宗義調家臣。通称久内。1592年、「文禄の役」で明国の劉克良と金元命勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
仁位盛家【にいもりいえ(15??~15??)】
宗義調家臣。官途は豊前守。1557年、「船越浦の戦い」で宗義調の意向を受け山本康範、津奈調親勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
仁位智信【にいとものぶ(15??~16??)】
宗義調家臣。1592年、「文禄の役」で宗義智の四備の内一隊(仁位党)を率い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1615年、宗義成の家老職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【は】
古川智次【ふるかわともつぐ(15??~15??)】
宗義調家臣。1590年、宗義智の意向を受け柳川調信と不仲になった佐須景満を殿中で謀殺した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
平田成幸【ひらたなりゆき(15??~15??)】
宗義調家臣。官途は将監。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【ま】
松尾智保【まつおともやす(15??~1634)】
宗義調家臣。通称七左衛門。1634年、「国書改竄事件(柳川騒動)」で島川内匠とともに斬罪に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【や】
山本康範【やまもとやすのり(15??~1557)】
宗義調家臣。官途は将盛。通称右馬。1557年、「船越浦の戦い」で弟の津奈調親とともに海賊衆を率い宗義調の家臣仁位盛家勢と戦い壱岐国に落延びた。宗義調に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
柳川調信【やながわしげのぶ(1539~1605)】
津奈調親家臣(津奈調親の養子)。官途は下野守。室は津奈調親の娘。1557年、「船越浦の戦い」で養父の津奈調親が山本康範とともに宗義調勢と戦い討死したため、宗義調に仕えた。1591年、副使として李氏朝鮮に赴き外交交渉で功を上げた。李氏朝鮮の「嘉善大夫」を務めた。1592年、「文禄の役」で宗義智に従い半島南部の洞倭館代職を務めた。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
柳川智永【やながわとしなが(15??~1614)】
柳川調信の男。官途は豊前守。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に従い松平元康勢と戦い敗退したため、島津義弘とともに伊勢口を突破して帰国した。宗義智の弁明で事なきを得た。1608年、副使として朝鮮に派遣した。1609年、「慶長条約(己酉約定)」に尽力し、柳川智永に対して年一隻の貿易船派遣が許された。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
柳川調興【やながわしげおき(1603~1684)】
柳川智永の男。官途は豊前守。家老職。対朝鮮外交上の手腕や松平家光とのつながりを基盤に宗義成と対立した。1636年、宗家の国書偽造を幕府に直訴したが、松平家光の裁定を受け敗訴となり陸奥国津軽に流罪とされた。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
柳川智信【やなぎとものぶ(16??~16??)】
宗智順の男(柳川調信の養子)。別名柳川景直。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
柚谷康広【ゆずややすひろ(15??~15??)】
宗義調家臣。1564年、宗義調の意向を受け李氏朝鮮と交渉し、貿易制限の一部緩和に尽力した。1587年、日朝間交渉にあったが、羽柴秀吉の意思が通るはずも無く、交渉は決裂した。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
柚谷智広【ゆずやとしひろ(15??~1600)】
柚谷康広の男。1598年、景轍玄蘇とともに宗義智の意向を受け李氏朝鮮に赴き日朝交渉に尽力した。李氏朝鮮で捕縛された。1600年、幽閉のまま病没した。参考文献:「元内蔵助屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
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【資料Ⅰ】
対馬国(2郡/20,000石)
上県郡:佐護城、仁位湊
下県郡:厳原(府中)城
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【資料Ⅱ】
宗家三家老【そうけさんかろう】
杉村広幸、古川智次、平田成幸。
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【資料Ⅲ】
対馬国【つしまのくに)】
対馬国は、日本の九州の北方、玄界灘にある日本六番目の大きさの島。対馬国の大半を占める主島の対馬島のほか、100以上の属島が存在する。一般的にはこの対馬島と属島をまとめて対馬と称される。地理的に朝鮮半島に近いため、古くから大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的、経済的交流の窓口の役割を果たした。全体的に山がちで険しいが、下島の方が標高が高い。下島中央部には最高峰の矢立山があり、舞石ノ壇山、龍良山などの矢立山系が内山盆地を囲む。その北東に有明山があり、浅茅湾南岸に白嶽がある。上島の最高峰は北部にある御嶽である。島内の分水界は東に偏っていて、主要六河川のうち佐護川、仁田川、三根川、佐須川、瀬川の五河川まで西向きに流れる。東へ流れる最大のものは舟志川である。各河川の下流部には谷底平野があるものの、耕作に適した平地は少なく、陸上交通も概して不便である。
朝鮮木綿【ちょうせんもめん】
朝鮮製の木綿。朝鮮の木綿生産は、高麗国の恭愍王が中国に送られた使者が木綿の種子を持ち帰ったことに始まる。李氏朝鮮王朝が成立する同世紀末期には「綿紬」とともに「綿布」が「布貨」として用いられるまでに木綿が普及し始めていた。
唐木綿【からもめん】
中国製の木綿布。中国での本格的普及は元代からであり、さらに1365年の明の太祖洪武帝による木綿栽培奨励を契機として木綿栽培、織布が発展期を迎える 。日本でも木綿が本格的に生産されるが、国産の小倉木綿などを「田舎木綿」として唐木綿と区別しており、唐木綿が上質の木綿布として珍重されていた。
嶋木綿【しまもめん】
東南亜細亜製の木綿布。左の地域からもたらされたことから「嶋渡り」の木綿、「嶋木綿」と呼ばれたとみられる。染め糸による鮮やかなストライプが織り込まれており、上質で珍重された。
虎皮、豹皮【とらかわ、ひょうかわ】
朝鮮半島や中国東北部で狩られたとみられる虎や豹の皮。日本では行縢などに用いられている。 朝鮮国王から琉球国王への進上物として何度か虎皮や豹皮が贈られていることが史料上にみえるが、琉球国王は南海産の象牙や胡椒、蘇木などを贈っているにも関わらず虎皮や豹皮は含まれていないことから、東南アジア産ではなく、朝鮮産の品物であるとみられる。
高麗鷹【こうらいたか】
朝鮮半島から日本に輸入された鷹狩り用の鷹。中世の武士たちにとって鷹狩りは一種のステータスであり、鷹は威信品でもあったと思われる。その中でも朝鮮半島から舶来した鷹は特に珍重された。
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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。
印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。
あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。
名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。
豊臣秀吉は羽柴秀吉、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、由良成繁は横瀬成繁に統一しました。
城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。
参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『九州戦国合戦記』by海鳥社、『大宰府戦国史』by海鳥社、『筑前戦国史』by葦書房、『筑後戦国史』by葦書房、『九州戦国史』by葦書房。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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