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戦国北越後国人名辞典

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【あ】

赤橋玄蕃頭【あかはしげんばのかみ(15??~15??)】

新発田重家家臣。北蒲原郡赤橋館主。別名榎本玄蕃頭。1582年、「新発田重家の乱」では、新発田重家に従って長尾景勝勢と戦った。

鮎川藤長【あゆかわふじなが(15??~15??)】

岩船郡大葉沢城主。本庄時長家臣。官途は摂津守。

鮎川清長【あゆかわきよなが(15??~1571)】

鮎川藤長の男。官途は信濃守。1530年、「上条定憲の乱」では、他の揚北衆とともに上条定憲勢に属して長尾為景勢と戦った。1539年、下渡島城を巡って本庄房長と争った。小川長資や色部勝長とともに本庄城を攻撃して、本庄房長を羽前国に追落した。1561年、「第四次川中島の戦い」では、本庄繁長、色部勝長らとともに、武田晴信勢と戦った。1568年、「本庄繁長の乱」では、長尾景虎勢に属した。本庄繁長は長尾景虎と和議を結んだが、本庄繁長の所領の一部が鮎川清長に与えられた。1571年、本庄房長の法要十三回忌の席場で本庄繁長に謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎川盛長【あゆかわもりなが(15??~15??)】

鮎川清長の男。通称孫次郎。1568年、「本庄房長の乱」では、長尾景虎勢に属して本庄房長と戦った。1582年、「御館の乱」では、本庄繁長が長尾景勝勢に属したため、長尾三郎景虎勢に属したが敗北した。1581年、「新発田重家の乱」では、長尾景勝にも新発田重家にの属さず中立を維持した。長尾景勝が会津若松城1,200,000石に転封になるとそれに従った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

鮎川長憲【あゆかわながのり(15??~15??)】

鮎川清長家臣。1541年、鮎川清長と本庄房長との争いに関する起請文に連書した。

荒川長実【あらかわながざね(15??~1561)】

色部勝家臣。岩船郡荒河城主。官途は伊豆守。越後十七将のひとり。長尾景虎の影武者を務めた。1561年、「第四次川中島の戦い」で先陣を務めた。その際、武田晴信勢に攻撃をけか、武田晴信に三太刀斬りつけ、二箇所に傷を負わせたが討取ることは出来なかった。長尾景虎勢が撤退すると、武田晴信勢に包囲され討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒川弥次郎【あらかわよじろう(15??~15??)】

荒川長実の男。

有明平右兵衛【ありあけさへい(15??~15??)】

本庄房長家臣。1535年、本庄房長に謀反を企てたが露見したため、須貝伊賀守の支援を受け羽前国に落延びた。

飯岡刑部大輔【いいおかぎょうぶだいほ(15??~15??)】

色部勝家臣。岩船郡飯岡館主。

飯岡長行【いいおかながゆき(15??~15??)】

飯岡刑部大輔の男。

池ノ端掃部介【いけのはたかもんのすけ(15??~1582)】

新発田重家家臣。北蒲原郡池ノ端城主。別名高橋掃部介。1582年、「小坂の戦い」で長尾景勝勢と戦い討死した。

池ノ端鴨之助【いけのはたかもんのすけ(1557~15??)】

池ノ端掃部介の男。1582年、「新発田重家の乱」では、父池ノ端掃部介とともに新発田重家に従って参陣した。1583年、「放生橋の戦い」で、冑頸と、母袋武者二騎を討取る戦功を挙げた。1587年、「新発田城の戦い」で新発田城が落城すると池端鴨之助は城兵30騎余りを率いて血路を開き、7騎が包囲を撃破り落ち延びた。
 
五十公野景家【いじみのかげいえ(15??~15??)】

新発田綱貞家臣。通称弥三郎。1531年、『越後衆連判軍陣壁書』に連署した。1530年、「上条定憲の乱」では、長尾為景勢に属して上条定憲勢に属した他の揚北衆と戦った。その後、上条定憲に属した。

五十公野信宗【いじみののぶむね(15??~1578)】

長沢光国家臣(新発田綱貞の養子)。蒲原郡五十公野城主。室は新発田綱貞の娘。越中国湯山城代長沢光国の小姓だった。1569年、長沢光国が長尾景虎に降った。越後三条街奉行を任じられた。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属して、義兄五十公野治長とともに加地城主加地秀綱や三条城主神余親綱を攻撃した。1580年、新発田長敦が病没し、新発田治長が新発田重家と称し新発田家の家督を相続すると、代わりに五十公野家を相続した。1581年、新発田重家が長尾景勝に謀反を起こすとこれに属した。1587年、藤田信吉が率いる長尾景勝勢に五十公野城を囲まれ、籠城中に家老の河瀬次太夫、羽黒権太夫が藤田信吉に内応したため、落城し五十公信宗も討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

稲葉名兵衛【いなばなへい(15??~15??)】

本庄繁長家臣。1547年、本庄繁長が羽前国の庄内地方を領すると、これに従い庄内に転封した。1569年、本庄繁長が長尾景虎に降伏すると、責任を取り、猿沢城に隠居した。

今井源右衛門【いまいげんえもん(15??~15??)】

長尾景勝家臣。北蒲原郡笹岡城主。1578年、「御館の乱」後、上郷城から今井源右衛門が転封した。1585年、新発田重家勢の攻撃を受けた落城した。

色部清長【いろべきよなが(15??~15??)】

岩船郡平林城主。通称弥三郎。1535年、砂越氏維宛の連署状に中条藤資らと連署した。

色部憲長【いろべのりなが(15??~15??)】

色部清長の男。官途は遠江守。越後国守護代長尾為景が越後国を掌握すると、度重なる軍役は国人衆の財政を圧迫した。1530年、「上条定憲の乱」で上条定憲と長尾為景が戦うと、長尾為景勢に属した。1531年、『越後衆連判軍陣壁書』に岩船郡、蒲原郡、刈羽郡の諸将十八名とともに連署した。1542年、「伊達天文の乱」で小河長基らととも上条定憲を支援した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

色部勝長【いろべかつなが(1493~1569)】

色部憲長の男。官途は修理進。通称弥三郎。1530年、「上条定憲の乱」で本庄房長、黒川清実、中条藤資ら揚北衆とともに上条定憲勢に属して長尾為景と戦い長尾為景を隠居に追い込んだ。1542年、「伊達天文の乱」では、本庄房長、黒川清実らとともに伊達晴宗勢に属して、伊達稙宗勢に属した鳥坂城主中条藤資を攻撃した。小川長資、鮎川清長らが本庄繁長に謀反を起こすと、その調停を行った。1561年、「第四次川中島の戦い」では、柿崎景家、安田長秀らとともに戦功を挙げた。1564年、「下野佐野城の戦い」で戦功を挙げた1569年、「本庄繁長の乱」で本庄繁長勢の夜襲に遭い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

色部顕長【いろべあきなが(1549~1587)】

色部勝長の男。官途は修理亮。通称弥三郎。1569年、「本庄繁長の乱」で父の色部勝長が討死すると家督を相続した。1576年、病弱を理由に隠居し色部家の家督を弟色部長実に譲り隠居した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

色部長実【いろべながざね(1553~1592)】

色部勝長の次男。官途は修理大夫。通称惣七郎。室は新発田綱貞の娘。1576年。兄色部顕長が病弱を理由に隠居すると、色部家の家督を相続した。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属して、長尾三郎景虎勢と戦った。1581年、「新発田重家の乱」では、内室が新発田重家の妹であったため、新発田重家との折衝役を務めた。1588年、長尾景勝の上洛に随行し、直江兼続、須田満親とともに羽柴秀吉から豊臣姓を授けられた。1590年、「仙北一揆」では、羽柴秀吉の意向を受けて出羽国平鹿郡大森城で大谷吉継とともにその鎮圧に戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、長尾景勝に従って肥前名護屋城に赴いたが、その途上に発病し帰国した。大石綱元と木戸元斎に自分の病没後色部家を直江兼続に託す遺言状を残し病死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

色部光長【いろべみつなが(1587~1640)】

色部長実の男。官途は修理亮。通称与三郎。室は樋口兼豊の娘。1592年、色部長実が死去したため、幼少で家督を継ぐ。色部長実の遺言に従って直江兼続の妹を室に迎え、元服するまでは後見人となった直江兼続の助けを借りて家中を治める。1598年、長尾景勝が会津転封になると出羽国置賜郡金山城主に任じられた。1600年、「長谷堂城の戦い」では、先陣を務め最上義光勢と戦った。長尾景勝が減封になると出羽国置賜郡窪田村を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

色部長継【いろべながつぐ(15??~15??)】
 
色部勝長家臣。1535年、色部勝長の家臣田中長義、早田守吉、布施家秀らが出奔すると、彼等と色部勝長の和議斡旋を本庄房長に依頼した。
 
色部中務少輔【いろべなかつかさしょうゆ(15??~15??)】

色部勝長家臣。1542年、「伊達天文の乱」で色部勝長が伊達晴宗勢を支援すると、色部勝長から離反して色部大蔵少輔らとともに伊達稙宗勢を支援した。
 
色部大蔵少輔【いろべおおくらしょうゆ(15??~15??)】

色部勝長家臣。1542年、「伊達天文の乱」で色部勝長が伊達晴宗勢を支援すると、色部勝長から離反して色部中務少輔らとともに伊達稙宗勢を支援した。

上野九兵衛尉【うえのくへいのじょう(15??~15??)】

柿崎晴家家臣。1578年、「猿毛城の戦い」では、長尾三郎景虎勢に属した篠宮出羽守が守備する猿毛城を長ヶ部半兵衛、田中喜兵衛らとともに猿毛城を攻落とした。この戦功により柿崎家は柿崎憲家によって再興された。

牛屋右近丞【うしやうきょうのじょう(15??~15??)】

色部勝長家臣。岩船郡牛屋館主。569石を領した。

大川忠秀【おおかわただひで(15??~1561)】

岩船郡藤懸城主。官途は駿河守。1561年、「第四次川中島の戦い」に参陣して海津城を守備した。山県昌景勢と戦い奮戦するが討死した。

大川長秀【おおかわながひで(15??~15??)】

大川忠秀の男。1569年、「本庄繁長の乱」では、二人の弟が本庄繁長勢に属して藤懸城を奪ったため、長尾景虎の意向により奪還戦の指揮を執った。本庄繁長の降伏により、再び藤懸城を居城とした。

大室主計【おおむろしゅけい(15??~15??)】

北蒲原郡大室館主。1583年、「新発田重家の乱」では、長尾景勝勢に属して先陣を務め、新発田重家勢と戦った。

小川長資【おがわながすけ(15??~1551)】

上杉定実家臣。本庄時長の次男(小川長基の養子)。1542年、「伊達天文の乱」では、兄本庄房長とともに伊達晴宗勢に属したが、対立する上杉定実、小川藤資らに内応して、本庄房長が出陣中に鮎川清長とともに本庄城を占拠した。本庄房長が陣中で病没すると、幼少の本庄繫長を本庄惣領職に擁立して自らはその陣代となり本庄家を専横した。1551年、本庄房長の十三回忌に参列した際、本庄繁長に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小国頼久【おぐによりひさ(15??~15??)】

蒲原郡天神山城主。官途は修理亮。通称主水入道。1553年、「第一次川中島の戦い」では、後詰を務めた。

小国頼恭【おぐによりのり(15??~1601)】

小国重頼の男。官途は石見守。別名小国重頼。1573年、父小国頼久の隠居により小国家の家督を相続した。1582年、小国家の家中で内紛があり、長尾景勝の意向を受け樋口兼豊の次男小国実頼を養子に迎えた。

小国実頼【おぎにさねより(1562~1622)】

樋口兼豊の次男(小国頼恭の養子)。官途は但馬守。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属した。1582年、長尾景勝の意向を受けて天神山城主小国重頼の養子となり、小国家の家督を相続した。1586年、「新発田重家の乱」に参陣して、新潟城を焼打にした。1598年、長尾景勝が会津黒川城に転封になると、南山城代として21,000石を領した。1600年、神指城を築城では、直江兼続とともに普請奉行を務めた。「関ヶ原の役」後、羽前国高畠城代として7,000石を領した。1604年、直江兼続と本多政重との養子縁組に反対し、本多政重を迎えるために使者、西山宗秀、飯田元貞を謀殺した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【か】

柿崎利家【かきざきとしいえ(15??~15??)】

中頸城郡柿崎城主。1507年、長尾為景が上杉定実を擁して上杉房能と戦うと長尾為景勢に属した。

柿崎景家【かきざきかげいえ(1513~1574)】

柿崎利家の男。官途は和泉守。通称弥次郎。室は黒田秀忠の娘。長尾晴景と長尾景虎が長尾家の家督をめぐって争うと、長尾景虎勢に属した。1558年、春日山城の留守居役を務めた。1561年、「第四次川中島の戦い」では、先陣を務め八幡原の武田晴信勢本陣を壊滅寸前にまで追い込んだ。柿崎景家の活躍は軍事面にとどまらず、内政面では斎藤朝信とともに奉行に任じられ、領内の諸役免除などの重要な施策に携わった。1570年、北条氏康との越相同盟締結においても尽力し、次男柿崎晴家を人質として小田原城へ送るなど、外交面でも活躍した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柿崎祐家【かきざきすけいえ(15??~15??)】

柿崎景家の男。1572年、「越中朝日城の戦い」で一向一揆と銃撃に遭い深手を負った。柿崎家の家督は次男の柿崎晴家が相続した。

柿崎晴家【かきざきはるいえ(15??~1578)】

柿崎景家の次男。官途は和泉守。通称左衛門大夫。1570年、長尾景虎と北条氏康が「越相同盟」を結んだとき、子の無い長尾景虎に代わって柿崎景家が北条氏康に対する人質として柿崎晴家を差し出した。北条氏康が病没して同盟が破棄されると柿崎景家のもとに戻った。1574年、柿崎景家が亡くなると、家督を継いで柿崎家の家督を相続した。1578年、「御館の乱」では、長尾三郎景虎を支持したため、長尾景勝勢によって春日山城内で謀殺された。

柿崎憲家【かきざきのりいえ(15??~15??)】

柿崎晴家の男。官途は能登守。通称弥次郎。1578年、「御館の乱」では、柿崎憲家を擁した上野九兵衛らが長尾景勝勢に属したため、柿崎憲家を当主として柿崎家は存続した。

加地春綱【かじはるつな(15??~15??)】

加地秀経の男。官途は安芸守。室は長尾為景の娘。七手組大将のひとり(本庄繁長、色部勝長、中条藤資、竹俣清綱、新発田長敦、柿崎景家)。1530年、「上条定憲の乱」では、本庄房長、鮎川清長、水原政家、黒川清実、中条藤資、五十公野景家、新発田綱貞、竹俣昌綱らとともに上条定憲に従い守護代長尾為景から離反した。窮した長尾為景は加地春綱に娘を嫁がせることで和議を結んだ。長尾為景の病没後は長尾景虎に仕え重く用いられた。1564年、飯山城代に任じられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

加地秀綱【かじひでつな(15??~1587)】

加地春綱の男。長尾景虎に従って数々の戦いで参陣して戦功を挙げた。1578年、「御館の乱」では、長尾三郎景虎勢に属したが、長尾景勝勢の五十公野治長と五十公野信宗から攻撃を受け降伏した。1581年、「新発田重家の乱」でも、新発田重家勢に属して長尾景勝勢と戦った。1587年、長尾景勝勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

加地景綱【かじかげつな(15??~15??)】

加地秀綱の男。1587年、父加地秀綱が討死すると、加地景綱は長尾景勝に帰参した。1598年、長尾景勝の会津転封には従わず帰農した。1600年、「関ヶ原の役」では、竹俣壱岐守とともに越後国内で一揆勢を指揮した。

河瀬行親【かわせゆきちか(15??~15??)】

五十公野信宗家臣。通称次太夫。1587年、「五十公野城の戦い」で長尾景勝の家臣藤田信吉勢の攻撃を受けると、羽黒権太夫とともに藤田信吉に内応した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

黒川盛実【くろかわもりざね(15??~15??)】

北蒲原郡黒川城主。1509年、中条藤資、築地忠基、黒川盛実、安田長秀らとともに長尾為景勢に属した。

黒川清実【くろかわきよざね(15??~15??)】

黒川盛実の男。官途は備前守。室は色部憲長の娘。1530年、「上条定憲の乱」では長尾為景に属した。1547年、長尾晴景と長尾景虎が府中長尾家の家督を争うと、長尾晴景勢に属して長尾景虎勢に属した中条藤資と対立した。1554年、長尾景虎から郡司不介入の特権を認められた。1578年、「御館の乱」では、長尾三郎景虎勢に属し、長尾景勝勢に属した鳥坂城主中条景泰を攻撃した。築地城主築地資豊勢の攻撃を受け長尾景勝勢に降伏した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

黒川為実【くろかわためざね(15??~1619)】

黒川清実の男。官途は豊前守。室は本庄繁長の娘。1589年、長尾景勝が会津黒川城に転封になると3,800石を領した。1601年、長尾景勝が羽前国米沢城300,000石に減封になると、1,193石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

草壁彦五郎【くさかべひこごろう(15??~15??)】

本庄房長家臣。1509年、『耕雲寺納所帳』に草壁彦五郎、草壁源三郎、天神太夫らとともに連署した。

黒川為実【くろかわたべざね(15??~1619)】

黒川清実の男。官途は豊前守。通称左馬介。1598年、黒川為実は長尾景勝の会津転封に従い3,800石を領した。1601年、米沢転封以降は1,292石となり、七手隊となった。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

黒田秀忠【くろだひでただ(1492~1546)】

西蒲原郡黒滝城主。上杉定実家臣。胎田常陸介の男(黒田長門守の養子)。官途は和泉守。通称久三郎。室は三条信景の娘。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達実元を養子に迎える工作を行った。長尾為景の意向を受け、黒田長門守の養子となり、黒田家の家督を相続した。1545年、長尾晴景が府中長尾家の家督を相続すると、謀反を起こし、長尾晴景の弟長尾景康、長尾景房らを謀殺した。「黒滝城の戦い」では、長尾景虎の家臣村山与七郎勢の攻撃を受け降伏した。1546年、再び謀反を起こすが敗れ自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

河野次左衛門【こうのつぎざえもん(15??~15??)】

新発田長敦家臣。普請奉行衆。新発田長敦の意向を受け、新発田領内の道路整備を行った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【さ】

坂木磯八【さかきいそはち(15??~15??)】

柿崎景家家臣。1561年、「第四次川中島の戦い」では、柿崎景家に従って参陣した。萩田三与兵衛、吉田喜四郎、河田軍兵衛らとともに山本晴幸勢を包囲して、山本晴幸を討取る戦功を挙げたが、武田晴信勢の追撃を受け、その頸級は奪い返された。

佐々木晴信【ささきはるのぶ(15??~15??)】

新発田重家臣。蒲原郡八幡館主。1583年、「新発田重家の乱」では、新発田重家に従って長尾景勝勢と戦った。

山辺里長門守【さべりながとのかみ(15??~15??)】

本庄繁長家臣。岩船郡山辺里館主。家老職を務め300貫を領した。

山辺里筑後守【さべりちくごのかみ(15??~15??)】

山辺里長門守の男。

猿橋和泉守【さるはしいずみのかみ(15??~15??)】

新発田重家家臣。通称刑部。蒲原郡猿橋城主。1587年、「新発田城の戦い」では、新発田城の守備についていた猿橋和泉守は、長尾景勝に内応して、猿橋口から長尾景勝勢を引き入れた。

篠宮出羽守【しのみやでわのかみ(15??~15??)】

柿崎晴家家臣。1578年、「猿毛城の戦い」では、長尾三郎景虎勢に属して柿崎晴家の旧臣を集めて猿毛城を守備した。長尾景勝勢に属した上野九兵衛尉、長ヶ部半兵衛、田中喜兵衛らの攻撃を受け討死した。

新発田綱貞【しばたつなさだ(1512~1561)】

蒲原郡新発田城主。新発田長綱の男。官途は伯耆守。長尾為景が守護職の上杉房能を倒し越後国を平定するとこれに従った。1530年、「上条定憲の乱」では、本庄房長、鮎川清長、水原政家、黒川清実、中条藤資、五十公野景家、加地春綱、竹俣昌綱らとともに長尾為景と戦った。長尾景虎が越後国守護代に任じられると臣従した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

新発田長敦【しばたながあつ(1538~1580)】

新発田綱貞の男。官途は尾張守。七手組大将のひとり(本庄繁長、色部勝長、中条藤資、加地春綱、竹俣清綱、柿崎景家)。1530年、「上条定憲の乱」では、長尾為景勢に属して上条定憲勢に属する国人衆の切り崩しに功を挙げた。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属して武田勝頼との和議を締結するなど外交手腕を発揮したが、まもなく病没した。新発田家の家督を養子として五十公野家の家督を相続していた弟の新発田重家が相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

新発田重家【しばたしげいえ(1547~1587)】

新発田綱貞の次男。官途は因幡守。通称名源太。別名五十公野治長。室は小田切貞遠の娘(於栄)。1561年、「第四次川中島の戦い」では、諸角虎定を討取る戦功を挙げた。1578年、「御館の乱」では、安田顕元とともに長尾景勝勢に属して、長尾三郎景虎勢に属した加地秀綱を降し、三条城主神余親綱を討取り、芦名盛氏、伊達輝宗勢を撃退する戦功を挙げた。1582年、「新発田重家の乱」では、芦名盛隆勢の津川城主金上盛備、赤谷城主小田切盛昭らの支援を受け新発田城に籠城して長尾景勝勢を撃退した。1586年、長尾景勝勢の攻撃を受け、新潟城と沼垂城が落城すると、新潟湊からの補給路を失った。1587年、長尾景勝勢の攻撃を受け、水原城、加地城、今泉城、赤谷城、五十公野城が落城すると、芦名盛隆からの補給路を失った。「新発田城の戦い」では、新発田重家の突撃を最後に新発田城は落城、新発田重家は自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

新発田治時【しばたはるとき(15??~1587)】

新発田重家の男。1587年、「新発田重家の乱」では、新発田重家勢に属したが、長尾景勝勢の攻撃を受け、父新発田重家ともに討死した。

新発田盛喜【しばたもりよし(15??~15??)】

新発田綱貞の三男。官途は駿河守。1586年、「新潟津の戦い」、山吉景長の討取られた。

渋谷近宗【しぶやちかむね(15??~15??)】

五十公野信宗家臣。通称八郎右衛門。

志村長門守【しむらながとのかみ(15??~15??)】

新発田重家臣。蒲原郡真木山砦主。1583年、「新発田重家の乱」では、新発田重家に従って長尾景勝勢と戦った。

下条実頼【しもじょうさねより(15??~15??)】

蒲原郡下条城主。官途は薩摩守。揚北衆のひとり。1559年、「披露太刀之次第」披露太刀之衆第二十八位。1561年、「第四次川中島の戦い」に参陣した。

下条忠親【しもじょうただちか(15??~1617)】

河田長親の次男(下条実頼の養子)。官途は采女正。室は安田長秀の娘。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属した。長尾景勝の会津移封時には秋山定綱とともに二本松城代を務めた。1601年、長尾家の米沢転封にも従った。1608年、鮎貝城代に任じられた。1614年、「大坂冬の陣」に参戦した。

下重実【しもしげざね(15??~1552)】

黒川清実家臣。官途は伊賀守。1542年、「伊達天文の乱」では、中条藤資勢に属した。伊達稙宗の意向を受け伊達実元を迎え入れる準備を行ないが、伊達晴宗が反対したため、失敗に終わった。1552年、長尾景虎に自刃に追い込まれた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

下久長【しもひさなが(15??~1578)】

下重実の男。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属した。「赤田の戦い」で長尾三郎景虎勢と戦い討死した。

下秀久【しもひでひさ(15??~15??)】

下重実の次男。通称次右衛門。官途は対馬守。室は土肥政繁の娘。天正17年、尾浦城主となり荘内三郡の代官職を務めた。1,600年、「羽前谷地城の戦い」で戦功を挙げた。「関ヶ原の戦い」で石田三成勢が大敗したため、長尾景勝勢は撤退を図ったが、下秀久勢は谷地城に孤立し、最上義光勢の猛攻を受け降伏した。「尾浦城の戦い」では、最上義光の先陣を務め、戦功を挙げ20,000石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

水原政家【すいはらまさいえ(15??~15??)】

北蒲原郡水原城主。1530年、「上条定憲の乱」では、上条定憲勢に属して長尾為景勢と戦った。上条定憲と揚北衆の取次役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

水原満家【すいばらみついえ(15??~15??)】

水原政家の男。官途は壱岐守。1560年、上杉憲政を擁して関東に出陣した長尾景虎に従軍したようで、翌永禄四年、景虎が小田原攻めを行ったときの名簿に隆家の名が記されている。さらに、同年秋に行われた「川中島の戦い」にも従軍した。1575年、水原隆家が揚北の国人衆として把握され、軍役数八十七をつとめた。1578年、「御館の乱」には本庄、色部家らとともに長尾景勝方に属し、乱を制した長尾景勝が家督を相続するとこれに仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

水原親憲【すいばらちかのり(15??~15??)】

大関親信の男(水原満家の養子)v。1561年、「第四次川中島の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属した。1579年、「広瀬城の戦い」で戦功を挙げた。1580年、深沢利重、栗林政頼らとともに上田城の在番を務めた。1586年、「新発田重家の乱」で討死した水原満家の家督を相続した。1598年、長尾景勝が会津黒川城に転封すると、猪苗代城代として5,500石を領した。1600年、「長谷堂城の戦い」では、鉄砲隊200余りを率いて最上義光勢の追撃を撃退した。1614年、「鴫野の戦い」でも鉄砲隊を率いて戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

須貝伊賀守【すがいいがのかみ(15??~15??)】

色部長真家臣。蒲原郡貝附城主。

菅名源三【すがなげんざぶろう(15??~15??)】

蒲原郡菅名城主。

菅名綱輔【すがなつなすけ(15??~1582)】

菅名源三の弟。官途は但馬守。通称孫四郎。長尾景虎に仕えた。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属して、長尾三郎景虎勢の本庄秀綱の拠る栃尾城を攻撃して三条城の神余親綱を牽制した。1582年、「放生橋の戦い」で新発田重家勢と戦い討死した。

諏訪部岑輝【すわべみねてる(15??~15??)】

蒲原郡佐渡山城。諏訪部益則の男。

諏訪部光頼【すわべみつより(15??~15??)】

諏訪部岑輝の男。

諏訪部春氏【すわべはるうじ(15??~15??)】

諏訪部光頼の男。別名霜鳥六左衛門。1561年、「第四次川中島の戦い」で戦功を挙げ1,000石を領した。1564年、諏訪部隼人正がを諏訪神社を創立した。1578年、新発田行房の讒言を受け改易処分に処された。

諏訪部元良【すわべもとよし(15??~15??)】

諏訪部春氏の男。通称六左衛門。

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【た】

竹俣清綱【たけのまたきよつな(15??~15??)】

蒲原郡竹俣城主。竹俣清忠の男。七手組大将のひとり(本庄繁長、色部勝長、中条藤資、加地春綱、新発田長敦、柿崎景家)。1507年、「永正の乱」で上杉房能が討死した後も本庄時長、色部昌長らとともに長尾為景勢と戦い続けた。長尾為景勢に属した中条藤資、築地資豊らの攻撃を受け降伏した。以後は長尾為景に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹俣慶綱【たけのためつな(1524~1582)】

竹俣清綱の男。官途は三河守。別名竹俣為綱。長尾景虎の奉行衆を務めた。1559年、長尾景虎の上洛祝いのため太刀を献上した。「第四次回川中島の戦い」に参陣して戦功を挙げ馬一頭と鎧一領を賜った。1581年、越中松倉城を守備した。1582年、「越中魚津城の戦い」で自刃した。

竹俣昌綱【たけのまたまさつな(15??~15??)】

竹俣清綱の次男。官途は筑後守。1530年、「上条定憲の乱」では、本庄房長、鮎川清長、水原政家、黒川清実、中条藤資、五十公野景家、加地春綱、新発田綱貞らとともに上条定憲勢に属して長尾為景勢と戦った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹俣重綱【たけのまたしげつな(15??~15??)】

竹俣昌綱の男。室は上条政繁の娘。
 
竹俣利綱【たけのまたとしつな(15??~1613)】

竹俣為綱の男。官途は三河守。別名長尾景人。1593年、断絶していた竹俣家の家督を継承した。『上杉定能員数目録』では、921石を領して55余りの軍役を担った。1598年、長尾景勝が会津黒川城に転封になると、会津守山城代2,100石を領した。1602年、羽前国米沢城に減封になるとそれに従った。

竹俣清房【たけのまたきよふさ(15??~15??)】

市河房綱の男(竹俣利綱の養子)。通称市川左衛門尉。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。

田中喜兵衛【たなかきちべい(15??~15??)】

柿崎晴家家臣。1578年、「猿毛城の戦い」では、長尾三郎景虎勢に属した篠宮出羽守が守備する猿毛城を上野九兵衛尉、長ヶ部半兵衛、田中喜兵衛らとともに猿毛城を攻落とした。この戦功により柿崎家は柿崎憲家によって再興された。

田中長義【たなかながよし(15??~15??)】

色部憲長家臣。通称太郎左衛門。1534年、色部憲長が病没すると、色部勝長の補佐役を務めた。1535年、色部勝長のもとで勢力を拡大すると、他の家臣の反発を招き、早田守吉、布施家秀らとともに本庄房長を頼って出奔した。本庄房長の仲介で色部勝長と和議を結び帰参した。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達実元の越後上杉家養子入りに反対した。
 
田中長頼【たなかながより(15??~15??)】

田中長義家臣。1535年、田中長義、早田守吉、布施家秀が出奔すると、彼等と色部勝長の和議斡旋を本庄房長に依頼した。

築地忠基【つきじただもと(15??~15??)】

中条藤資家臣。官途は修理亮。1509年、「本庄城の戦い」では、本庄時長勢を撃破った。1510年、「平林城の戦い」でも、色部昌長勢を撃破る戦功を挙げた。
1511年、上杉顕定勢が越後国に侵攻すると、長尾為景勢に属して越後国内を転戦した。1515年、「安田城の戦い」では、中条藤資勢とともに上杉房能勢に内応した安田実秀を攻撃した。1516年、「上田城の戦い」で上杉房能勢を撃破った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
永禄二年
築地資豊【つきじすけとよ(15??~15??)】

築地忠基の男。1578年、「鳥坂城の戦い」では、長尾景勝勢に属した鳥坂城主中条景泰が長尾三郎景虎勢に属した黒川清実の攻撃を受けると、築地資豊が黒川城を攻撃した。1582年、「越中魚津城の戦い」で中条藤資の養嗣子中条景泰が柴田勝家勢と戦い自刃すると、長尾景勝は中条景泰の継嗣中条三盛に家督を相続させ、築地資豊が後見役を務めた。1586年、「新発田重家の乱」では、中条三盛の陣代を務め戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【な】

長沢義風【ながさわよしかぜ(15??~1587)】

新発田重家家臣。別名五十公野道如斎。新発田重家の義妹の婿。1587年、「新発田重家の乱」では、新発田重家に従い長尾景虎勢と戦った。「五十公野城の戦い」で討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

中条藤資【なかじょうふじすけ(15??~15??)】

北蒲原郡鳥坂城主。中条定資の男。1494年、父中条定資が討死により中条家の家督を相続した。1507年、「永正の乱」で長尾為景が上杉房能を討取り上杉定実を擁立すると、長尾為景勢を支援して他の揚北衆と戦った。1542年、「伊達天文の乱」では、伊達稙宗の次男伊達実元を上杉定実の養子に迎え守護権力の回復を図ったが失敗に終わった。1548年、中野城城主高梨政頼、栖吉城城主長尾景信、箕冠城城主大熊朝秀、与板城城主直江実綱、三条城城主山吉行盛、本庄実乃らとともに越後国守護代として長尾晴景を擁立すると、長尾晴景を擁する坂戸城城主長尾政景、黒川城城主黒川清実勢と戦った。上杉定実の仲介により和議が結ばれ、長尾景虎が府中長尾家の家督を相続した。

中条景資【なかじょうかげすけ(1532~1573)】

中条藤資の男。室は高梨政頼の娘。1568年、父中条藤資が病没後、中条家の家督を相続した。本庄繁長が武田晴信の調略に応じて謀叛を企てると、中条景資にも誘いの密書が送られたが、密書の封をそのままに長尾景虎に送り届け、本庄城を攻撃した。その後も長尾景虎勢に属して、信越、関東を転戦した。中条景資には継嗣がおらず、河田堅親を婿養子に迎えた。

中条景泰【なかじょうかげやす(1558~1582)】

吉江景資の次男(中条景資の養子)。官途は越前守。通称与次。室は中条景資の娘(俊子)。1573年、「朝日山城の戦い」では、籠城する一向一揆のと戦いで戦功を挙げた。1574年、中条景資の娘(俊子)を娶って中条家の家督を相続した。鳥坂城には家老職の築地資豊を城代に充て、長尾景虎の側に仕えた。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属して本庄秀綱の籠もる栃尾城を攻落す戦功を挙げた。1582年、「魚津城の戦い」で織田信長勢と戦い自刃した。

中条三盛【なかじょうみつもり(1573~1607)】

中条景泰の男。通称与次。別名中条資盛。1582年、「魚津城の戦い」で父中条景泰が討死したため、中条家の家督を相続した。幼少のため、家老職の築地資豊の後見を受けた。1598年、長尾景勝が会津黒川城に転封になると、出羽国置賜郡鮎貝城主に任じられ10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、水原親憲らとともに最上義光勢の支城を攻略した。役後、長尾景勝が米沢城に減封となると、引き続き鮎貝城主を務め1,800石を領した。

中条資種【なかじょうすけたね(15??~15??)】

中条景泰の次男。通称帯刀。
 
中条資春【なかじょうすけはる(15??~15??)】

中条景泰の三男。通称七蔵。
 
中条盛直【なかじょうもりなお(15??~15??)】

中条三盛の男。通称市正。
 
中条玄蕃充【なかじょうげんばのじょう(15??~15??)】

中条藤資家臣。1551年、長尾政景勢との戦いで戦功を挙げた。

長ヶ部半兵衛【ななべはんんべい(15??~15??)】

柿崎晴家家臣。1578年、「猿毛城の戦い」では、長尾三郎景虎勢に属した篠宮出羽守が守備する猿毛城を上野九兵衛尉、長ヶ部半兵衛、田中喜兵衛らとともに猿毛城を攻落とした。この戦功により柿崎家は柿崎憲家によって再興された。

新津信資【にいつのぶすけ(15??~15??)】

長尾為景家臣。蒲原郡新津館主。官途は越前守。別名金津信資。1506年、護代長尾為景に従った。

新津大膳亮【にいつたいざんりょう(15??~15??)】

新津信資の男。1559年、長尾景虎の上洛を祝して太刀を献上した。1573年、越中国に参陣した。1575年、『上杉氏軍役帳』では、軍役91人を負担した。

新津勝資【にいつかつすけ(15??~15??)】

新津大膳亮の男。官途は丹波守。長尾為景の二十八将のひとり。1598年、長尾景勝が会津黒川城に転封となると、それに従った。

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【は】

羽黒権太夫【はぐろごんだいふ(15??~15??)】

五十公野信宗家臣。1587年、「五十公野城の戦い」で長尾景勝の家臣藤田信吉勢の攻撃を受けると、河瀬次太夫とともに藤田信吉に内応した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

早田守吉【はやはだもりよし(15??~15??)】

色部憲長家臣。1534年、色部憲長が病没すると色部勝長を補佐した。1535年、色部家中での権力を強めたことが原因で他の家臣の反発を招き、家臣団が本庄房長を頼って出奔した。色部勝長は出奔した重臣三名の帰参を願い、本庄房長もその和議を斡旋した。本庄房長の家臣有明平右兵衛が謀反を起こすと、その首謀者のひとりとして疑われた。

早部甚甫守【はやべじんぼのかみ(15??~15??)】

長尾景虎家臣。蒲原郡加茂山城。1578年、「御舘の乱」では、加茂山城は長尾三郎景虎勢の拠点となったが、長尾景勝に属した菅名綱輔勢の攻撃を受けて落城した。

平賀重資【ひらやましげつけ(15??~15??)】

蒲原郡護摩堂城主。官途は左京亮。通称助四郎。

布施家秀【ふせいえひで(15??~15??)】

色部憲長家臣。1534年、色部憲長が病没すると色部勝長を補佐した。1535年、色部家中での権力を強めたことが原因で他の家臣の反発を招き、家臣団が本庄房長を頼って出奔した。色部勝長は出奔した重臣三名の帰参を願い、本庄房長もその和議を斡旋した。

本庄房長【ほんじょうふさなが(15??~1539)】

岩船郡村上城主。本庄時長の次男。官途は大和守。1509年、「村上城の戦い」で父本庄時長、兄本庄弥次郎が長尾為景勢と戦い討死したため、本庄家の家督を相続した。1539年、上杉定実と伊達実元の養子縁組に反対して上杉定実や中条藤資、伊達晴宗勢の援軍と戦った。伊達実元の上杉家入嗣に反対した。中条藤資勢の攻撃を受け、弟小河長資に本庄城を奪われ陣中で病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

本庄繁長【ほんじょうしげなが(1540~1614)】

本庄房長の男。官途は越前守。通称弥次郎。室は上杉景信の娘。継室は須田満親の娘。側室は大川忠秀の娘。長尾景虎に仕え、戦場を縦横無尽に駆け巡って戦功を重ねた。1551年、小川長資を捕縛して自刃に追い込み、本庄家の実権を取り戻した。小川長資を支援していた長尾景虎と対立していた。1558年、長尾景虎勢に属した。1561年、「第四次川中島の戦い」など、長尾景虎に従って各地を転戦し、戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

本庄顕長【ほんじょうあきなが(1564~15??)】

本庄繁長の男。官途は豊後守。1568年、父本庄繁長が武田晴信に内応して長尾景虎に謀反を起こしたが、長尾景虎勢の猛攻を受け降伏すると、人質として長尾景虎に差し出された。1578年、「御館の乱」では、父本庄繁長が長尾景勝勢に属したのに対し、長尾三郎景虎勢に属したため、乱後本庄家の家督相続権を失った。1591年、「藤島一揆煽動」で本状繁長と弟武藤義勝(武藤義興の養子)が改易処分に1されると、別家を興して蒲原郡加茂で2,298石を領した。1597年、須田満胤、柿崎憲家らとともに改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

本庄充長【ほんじょうみつなが(1573~1623)】

本庄繁長の次男(武藤義興の養子)。別名大宝寺義勝。室は島津利忠の娘。長尾景勝は武藤義氏と結んで最上義光と敵対した。1583年、武藤義氏が家臣によって謀殺され、後を継いだ長尾義興も最上義光に謀殺されため、長尾景勝は、本庄義勝を武藤義興の養子に送り込み武藤家の家督を相続させた。1588年、「十五里ヶ原の戦い」では、父本庄繁長とともに最上義光勢を撃破った。武藤義勝は長尾景勝を介して羽柴秀吉勢に属した。1591年、「太閤検地」で一揆扇動の咎を受けて改易処分に処された。1592年、「文禄の役」に参陣して罪を許され、長尾景勝に仕えた。

本庄久長【ほんじょうひさなが(15??~16??)】

本庄繁長の四男。通称外記。はじめ仏門に入り出家していたが還俗して、長尾景虎に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝ともに参陣して戦功を挙げた。

本庄孫五郎【ほんじょうまごごろう(15??~15??)】

本庄房長家臣。本庄時長の三男。1539年、兄本庄房長の病没後、弟の小河長資や本庄房長の家臣矢羽幾長南が争った。矢羽幾長南が謀殺されると、小河長資勢の攻撃を受けた。1541年、色部勝長の仲介で小河長資と和議を結んだ。
 
本庄宗緩【ほんじょう(15??~15??)】

本庄房長家臣。1554年、庄田定賢とともに本誓寺に長尾景虎上洛の便宜を図ったことの謝意を伝えた。1555年、長尾景虎が安田景元へ宛てた出陣要請の起請文に名がある。1569年、中条藤資と黒川家の所領争いで中条藤資に加勢した。
 
本庄清七郎【ほんじょうきよしろう(15??~15??)】

本庄房長家臣。1571年、武田晴信が上野国厩橋城へ向けて進軍すると、それに対抗するため沼田城へ向かった。1573年、一向一揆に備えるため越中に派遣された。1578年、長尾三郎景虎に加勢するため御館に入る。長尾景勝に敗れ、栃尾に撤退した。やがて降伏した。

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【ま】

三潴長政【みつまながまさ(15??~15??)】

色部勝長家臣。1569年、色部勝長が病没すると、長尾景虎の意向を受け色部顕長の補佐役を務めた。

嶺岸佐左衛門【みねぎしさざえもん(15??~15??)】

色部勝長家臣。1587年、「新発田城の戦い」で新発田重家は、色部長真勢に突入して、甲冑を脱ぎ捨て真一文字に腹を掻き切って自刃した。嶺岸佐左衛門は新発田重家の頸を取って長尾景勝の本陣に赴いた。

村松山城守【むらまつやましろのかみ(15??~15??)】

蒲原郡村松城主。新発田長敦家臣。

村松新右衛門尉【むらまとしんえもん(15??~15??)】

村松山城守の男。1561年、「第四次川中島の戦い」では、新発田長敦とともに海津城の守備を務めた。武田晴信の家臣諸角虎光を討取る戦功を挙げた。

元井為宗【もといためむね(15??~15??)】

本庄房長家臣。官途は日向守。1561年、「第四次川中島の戦い」に参陣した。

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【や】

安田長秀【やすだながひで(1516~1582)】

北蒲原郡安田城主。安田実秀の男。官途は治部少輔。通称新太郎。別名安田有重。室は長尾房長の娘。1530年、「上条定憲の乱」では、長尾晴景勢に属した。1561年、「第四次川中島の戦い」では、揚北衆の色部勝長、中条藤資らとともに戦功を挙げた。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属した。「安田城の戦い」では、長尾三郎景虎勢を支援する芦名盛隆勢の攻撃を受けた。参考文献:『戦国大名家臣団事典(東国編)』by新人物往来社。

安田堅親【やすだかたちか(1557~1639)】

河田元親の三男(安田長秀の養子)。官途は筑前守。室は安田長秀の娘。中条藤資の養子となるが、中条家臣団との対立などから河田家の戻った。後に安田長秀の養子となり、安田家の家督を相続した。1592年、「文禄の役」では、長尾景勝に従い参陣した。1598年、長尾景勝が岩代国黒川城に転封に従い、仙道2,500石の領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

矢島清左衛門【やじませいざえもん(15??~15??)】

新発田長敦家臣。新発田長敦の意向を受け、新発田領内の道路整備を行った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

矢羽幾長南【やはぎちょうなん(15??~1541)】

本庄房長家臣。下渡島城主。本庄房長の病没後、小川長資、本庄孫五郎と家中の権力争いに陥った。1541年、小川長資勢に謀殺された。
 
矢羽幾孫次郎【やはぎまぎじろう(15??~15??)】

本庄房長家臣。1542年、「伊達天文の乱」では、本庄房長に従い伊達稙宗勢を支援した。

山田源八郎【やまだげんぱちろう(15??~15??)】

新発田重家臣。蒲原郡浦村城主。1583年、「新発田重家の乱」では、新発田重家勢に属して法正橋で長尾景勝勢と戦った。

山吉能盛【やまよしよしもり(15??~15??)】

蒲原郡三条城主。蒲原郡惣領職。長尾為景が上条上杉定実を擁立すると、これに属して上杉房能を自刃に追い込んだ。揚北衆が謀反を起したが、長尾為景勢に属して本成寺の僧兵らとともに三条城を守った。

山吉政久【やまよしまさひさ(1496~1556)】

山吉能盛の男。官途は伊予守。室は高梨頼宗の娘。1530年、「上条定憲の乱」では、長尾為景が上杉定実を擁立すると、上条定憲勢に属して長尾景虎勢と戦った。上条定憲が劣勢になると降伏した。1542年、「伊達天文の乱」では、上杉定実勢に属した。長尾景虎が長尾家の家督を相続すると、これに従った。1552年、隠居して山吉家の家督を山吉豊守に譲った。

山吉豊守【やまよしとよもり(1525~1578)】

山吉政久の男。官途は丹波守。通称孫次郎。別名山吉。室は本庄実乃の娘。1552年、父山吉政久の隠居により山吉家の家督を相続した。『上杉家軍役帳』では、家中筆頭375名の軍役を負担した。長尾景虎が越中国に侵攻すると、春日山城留守居役を務めた。

山吉盛信【やまよしもりのぶ(1525~15??)】

山吉豊守の男。1575年、父山吉豊守の病没後、山吉家の家督を相続してまもなく病没した。

山吉景長【やまよしかげなが(1565~1611)】

山吉豊守の次男。別名山吉景盛。1575年、父山吉豊守が病没すると、兄山吉盛信が山吉家の家督を相続したが、その山吉盛信も若くして病没したため、叔父山吉景久の後見を受けて山吉家の家督を相続したが、領地半減のうえ三条城から木場城に転封に処された。1578年、「御館の乱」では、上杉景勝勢に属して木場城を守備した。1583年、「新発田重家の乱」でも長尾景勝勢に属して新発田重家勢と戦った。「沼垂城の戦い」では、新発田盛喜を討取る戦功を挙げた。1589年、「八王子城の戦い」では、羽柴秀吉勢に属した長尾景勝に従い戦功を挙げた。1598年、長尾景勝が会津黒川城に転封になるとそれに従った。

吉江宗信【よしえむねのぶ(1505~1582)】

西蒲原郡吉江城主。吉江景宗の男。官途は常陸介。長尾景虎に従って越中国や下野国を転戦した。1578年、「御館の乱」では、長尾景勝勢に属した。「越中増山城の戦い」では、柴田勝家勢に内応した木舟城主石黒成綱を攻撃した。1582年、「越中魚津城の戦い」では、柴田勝家勢の攻撃を受け吉江景資、寺島長資、中条景泰、山本寺孝長、竹俣慶綱らとともに自刃した。

吉江景資【よしえかげすけ(1527~1582)】

吉江宗信の男。官途は織部佑。馬廻衆として仕えた。春日山城留守居役を務めた。1567年、「唐沢山城の戦い」では、北条氏康勢と戦った。1582年、「魚津城の戦い」では、柴田勝家勢の攻撃を受け父吉江宗信、継嗣の寺島長資、次男の中条景泰とともに自刃した。

吉江資賢【よしえすけかた(1537~1582)】

長尾景虎家臣。1575年、「上杉家軍役帳」によると105人の軍役を課せられていた。1578年、「御館の乱」では、上杉景勝勢に属して戦功を挙げた。1582年、「魚津城の戦い」では、柴田勝家勢の攻撃を受け河田長親とともに自刃した。

和納伊豆守【わのういずのかみ(15??~15??)】

蒲原郡和納城主。1578年、「御館の乱」では、長尾三郎景虎勢に属して長尾景勝勢と戦った。1580年、天神山城主小国実頼勢の攻撃を受け落城した。

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【資料Ⅰ】

南越後国(3郡/250,000石)

岩船郡:村上城、平林城。

北蒲原郡:安田城、鳥坂城、津川城。

蒲原郡:新潟城、新潟湊。

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【資料Ⅱ】

揚北衆【あがきたしゅう】

北越後国の揚北(阿賀野川北岸)に割拠した国人衆。小泉庄を所領とした秩父党(本庄家(宗家)、色部家、鮎川家)、奥山庄を所領とした三浦党(中条家(宗家)、黒川家)、加地庄を所領とした佐々木党(加地家(宗家)、新発田家、竹俣家、五十公野家、大見家)、白河庄を所領とした大見党(安田家(宗家)、水原家、下条家)。「伊達天文の乱」で中条藤資と本庄房長、色部勝長、鮎川清長らが争って揚北衆は分裂、独立性は衰退した。

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【資料Ⅲ】

北越後国【きたえちごのくに】

日本海に面して南北に長く伸びた北陸道の国。東北は出羽国、東は岩代国、東南は上野国、南は信濃国、西南は越中国と境を接する。西は広く日本海に面し、佐渡海峡を隔てて佐渡国と向かい合う。陸続きの各国との境には山岳地帯があり、これが国境防衛に大きな役割を果たしている。出羽との境の朝日山地、飯豊山地、岩代国、上野国との境の越後山脈、信濃国との境の妙高高原、越中国との境には急峻な親不知の険がある。日本海側には中部の越後平野と南部の高田平野があり、農業、漁業とおに盛んである。山岳地帯と日本海に囲まれた地形から冬期には豪雪地帯となり、部隊の移動はほとんど不可能になる。国土防衛には適した環境であるが、他国へ侵攻を行うには時季が重要となる。文化的には、国土が南北に長く、多数の国と国境を接しているため、国内は上越、中越、下越の三地域に分割され、それぞれ独立性を保っている。

高根金山【たかねきんざん】

岩船郡鳴海山にあった金山。1568年、高根金山は本庄繁長の直轄領にあったが、長尾景虎に反抗したため没収、以後は長尾家の直轄領となった。

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戦国人名辞典は1500~1630年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

武田信玄は武田晴信、徳川家康は松平元康、豊臣秀吉は羽柴秀吉、上杉謙信は、長尾景虎で統一しました。養子の上杉景勝と上杉景虎については、それぞれ長尾景勝、長尾三郎景虎に統一しました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『武田信玄』by新潮社、『武田勝頼」by講談社、『戦国最強上杉武将伝」byPHP文庫、『上杉三郎景虎」by光文社、『天と地と(全3巻)』by文春社、『謀将直江兼継(全2巻)』by角川文庫、『上杉謙信』byPHP文庫。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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