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戦国大隅国人名辞典

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【あ】

安楽兼清【あんらくかねきよ(15??~1576)】

肝付兼亮家臣。官途は肥後守。1576年、「日向侵攻」で島津義久勢に属して伊東義祐と戦い弟安楽兼治とともに討死した。

安楽兼利【あんらくかねとし(15??~15??)】

安楽兼清の男。

安楽兼治【あんらくかねはる(15??~1576)】

安楽兼清の弟。1576年、「日向侵攻」で島津義久勢に属して伊東義祐と戦い討死した。

安楽兼寛【あんらくかねひろ(15??~1575)】

肝付兼亮家臣。牛根館主。官途は備前守。1572年、島津義久勢の攻撃を受けた。1573年、肝付兼亮からの援軍は島津忠長、川上久信らに敗れ撤退した。1574年、島津義久から攻撃を受け、肝付兼続勢も敗退したため降伏した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安楽兼元【あんらくかねもと(15??~15??)】

肝付良兼家臣。官途は下総守。別名柏原兼之。1563年、肝付良兼の志布志移徙に、継嗣の安楽兼朗とともに随従した。

安楽兼朗【あんらくかねあき(15??~15??)】

安楽兼元の男。

池袋宗政【いけぶくろむねまさ(15??~15??)】 

島津忠昌家臣。桑西郡池袋館主。辺田七人衆。家老職を務めた。

石井岩助【いしいいわすけ(15??~1574)】

禰寝重長家臣。1574年、「瀬脇館の戦い」で肝付兼続、伊東義祐らの攻撃を受け討死した。

石井義定【いしいよしさだ(15??~15??)】 

島津実久家臣。辺田七人衆。

石井義辰【いしいよしたつ(15??~1550)】 

石井義定の男。官途は石見守。

和泉兼依【いずみかねより(15??~15??)】

肝付良兼家臣。官途は三河守。1560年、高山の神宮司阿弥陀堂造営に薬丸兼将とともに奉行として連署した。

池端清住【いけはたすみきよ(15??~15??)】

祢寝院館主。池端清本の男。「高岳城の戦い」で討死した。

池端重尚【いけばたしげなお(15??~1544)】

池端清住の男。通称弥次郎。1544年、唐人のジャンクに乗船してパタニを出港したディエスは、中国の寧波や南京などで取引をした後に日本に向かった。小祢寝湊にはパタニに住む中国人所有のジャンク船五隻が停泊し、葡萄牙人が何人か乗船していたが、そこに百隻以上の唐人のジャンク船が葡萄牙人に襲い掛かってきた。これに対し、葡萄牙人は四隻の小舟と三門の火砲、火縄銃十六丁で応戦し、中国人のジャンクを敗走させて多くの唐人を殺した。池端重尚はこの戦いに巻き込まれ討死した。

池端又七【いけばたまたしち(15??~1544)】

池端清住の次男。

伊地知重武【いじちしげたけ(14??~15??)】

肝付良兼家臣。伊地知重周の男。官途は周防守。1539年、「市来城の戦い」では、島津忠良に従った。

伊地知重興【いじちしげおき(1528~1580)】

伊地知重武の男。官途は周防守。通称又九郎。室は禰寝重就の娘。1571年、肝付兼続と結び、禰寝重長、肝付兼続らとともに鹿児島を攻撃したが撃退された。1572年、「小浜館の戦い」で島津義久勢の攻撃を受けた。島津義久の諜略により禰寝重長が戦線を離脱した。肝付兼亮とともに喜入季久勢の支援を受けた禰寝重長を攻撃したが敗退した。1573年、田上、高城、新城などの地を差し出して島津義久に降伏した。島津義久も伊地知重興の降伏をいれ、本領の内下之城3,800石を安堵した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

伊地知重政【いぢちしげまさ(1540~1618)】

伊地知重興の男。官途は縫殿介。通称三郎九郎。室は肝付良兼の娘。別名伊地知重昌。和歌を好む人物。

伊地知重順【いじちしげじゅん(15??~15??)】

伊地知重昌の男。1584年、「肥後堅志城の戦い」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、船奉行を務めたが、帰国後、朝鮮の役における罪を咎められ領地没収の処分を受けた。

伊地知重矩【いじちしげのり(15??~15??)】

伊地知重興家臣。1571年、「小浜館の戦い」で島津義久勢の攻撃を受けた。

伊地知重辰【いじちしげたつ(15??~1529)】

島津勝久家臣。平山館主。1529年、「平山館の戦い」で島津忠良勢の祁答院重武に攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

井手籠重久【いでかごしげひさ(15??~1567)】

馬越重猛家臣。官途は駿河守。1567年、「馬越籠城の戦い」に参陣したが、籠城の後に自刃した。この戦いで馬越城兵200余りが討死した。
 
井手籠重房【いでかごしげふさ(15??~1567)】

井手籠重久の男。1567年、「馬越籠城の戦い」に参陣したが、籠城の後に自刃した。この戦いで馬越城兵200余が討死した。
 
井手籠重光【いでかごしげみつ(15??~1557)】

井手籠重久の次男。1557年、「吉峰の戦い」で討死した。
 
井手籠重陣【いでかごしげじん(15??~1567)】

井手籠重光の男。通称弥四郎。1567年、「馬越籠城の戦い」に参陣したが、籠城の後に自刃した。この戦いで馬越城兵200余が討死した。

馬越重猛【うまこししげたけ(1532~1566)】

菱刈重州の次男。菱刈郡馬越城主。別名菱刈重猛。1552年、島津忠良が北原兼親を攻撃すると、島津貴久勢に属した。1556年、島津貴忠良が蒲生城主蒲生範清を攻撃すると、救援のため北村に陣を布いて島津忠良勢を牽制した。1557年、島津忠良勢と戦い討死した。
 
馬越重広【うまこししげひろ(1562~15??)】

馬越重猛の男。通称鶴千代丸。1557年、父馬越重猛が島津忠良勢と戦い討死したため、馬越家の家督は叔父馬越隆秋が相続した。

上井為秋【うわいためあき(15??~15??)】

本田薫親家臣。諏訪兼春の男。別名諏訪為秋。辺田七人衆。本田薫親に属し大隅上井を領有した。1548年、島津貴久に仕えて薩摩永吉地頭職を務めた。

上井薫兼【うわいかおかね(15??~15??)】

諏訪為秋の男。官途は武蔵守。室は肝付兼固の娘。父上井為秋とともに島津貴久に降り、薩摩国永吉を領有した。上井覚兼が日向宮崎地頭となると日向柴波洲崎城へ入った。

上井覚兼【うわいかくけん(1545~1589)】

上井薫兼の男。官途は伊勢守。別名神左衛門。室は敷根頼賀の娘。1559年、島津貴久に仕えた。1561年、「廻城の戦い」では、肝付兼続を攻撃して戦功を挙げた。1576年、島津義久の老中職を務め、家政を取り仕切った。1580年、日向宮崎城を守備して行政面で功を挙げた。1587年、島津家久に従い羽柴秀長勢と戦ったが、敗れて島津家久とともに降伏した。著書に『上井覚兼日記』、『伊勢守心得書』。

上井秀秋【うわいひであき(15??~1592)】

上井薫兼の次男(上井親秋の養子)。通称次郎左衛門。島津義弘に仕えて日向国飯野城に在城した。1572年、「木崎原の戦い」で戦功を挙げた。1576年、馬関田地頭に任じられた。島津義弘が肥後国守護代として八代に入るとそれに従うが、その際に島津義弘より家老職に任じられた。

上井里兼【うわいさとかね(1566~1631)】

上井秀秋の男。別名神次郎左門。1590年、島津義弘の家老に就任し、日向国小林地頭職に任じられた。1592年、「文禄の役」では、島津義弘勢に属して、渡海した。1598年、「泗川の戦い」での戦勝を報告するために帰国した。その後は琉球国の検地で功を上げた。1613年、島津義弘とともに人質として江戸に八年間在住した。

上井兼政【うわいかねまさ(1571~1599)】

上井秀秋の次男。別名仲五。大剛の者で、島津義弘の家臣として日向国小林の地頭職を務めた。1592年、「文禄の役」で島津義弘にとともに小林衆20余りを率いて参陣した。1599年、「小松ヶ尾での戦い」で伊集院忠真勢と戦い平田増宗勢が敗走すると、伊集院忠真の家臣松永五左衛門と戦い奮戦したが、谷口伊予守の鉄炮によって討取られた。

大野出羽守【おおのでわのかみ(15??~1556)】

肝付兼演家臣。1546年、蓬原城を領した。1556年、「龍相城の戦い」で島津忠親勢の攻撃を受け討死した。

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【か】

梶原昌豊【かじわらまさとよ(15??~15??)】 

田上館主。「垂水城の戦い」で島津勝久、伊地知重貞、梶原昌豊勢の攻撃を受け田上館も落城した。

蒲生充清【がもうみつよき(15??~15??)】

姶良郡蒲生城主。蒲生宣清の男。継嗣をもうけることができず、種子島忠時に嫁いだ姉の子蒲生茂清を長女の婿に迎え継嗣とした。死後、蒲生茂清が蒲生家の家督を相続しだが、蒲生清親が生まれたため、家督争いが生じた。次女は加治木城主肝付兼演に嫁いだ。

蒲生茂清【かもうしげきよ(1505~1550)】

種子島忠時の男(蒲生充清の養子)。室は蒲生充清の娘。養父の蒲生充清は継嗣をもうけることができなかっため、蒲生茂清を長女の婿に迎えて継嗣とした。1549年、「吉田城の戦い」では、肝付兼演、蒲生茂清、祁答院良重らは島津貴久勢が籠城する吉田城を攻撃したが、敗れて撤退した。島津貴久は伊集院忠朗、菱刈隆秋らに、加治木城主肝付兼演を攻撃させた。蒲生茂清、祁答院良重、肝付兼演らは敗れて島津貴久に降伏した。肝付兼演は和議を結び、蒲生茂清、祁答院良重と袂を分かち島津貴久勢に属した。

蒲生範清【かもうのりきよ(1524~1574)】

蒲生茂清の男。1550年、蒲生範清が蒲生家の家督を相続すると、祁答院良重、菱刈隆秋らと結んで、島津貴久勢と戦った。1554年、蒲生範清は祁答院良重、菱刈隆秋とともに加治木城主肝付兼盛を攻撃した。島津貴久は蒲生範清、祁答院良重を撤退させるため、城主祁答院良重、蒲生範清の家臣西俣盛家らが守る岩剣城を肝付兼演に攻撃させた。蒲生範清は、祁答院良重の継嗣祁答院重経勢とともに岩剣城の救援に向ったが、島津貴久勢の攻撃を受け祁答院重経、城将西俣盛家らは討死、蒲生範清は敗走した。1555年、「帖佐平安城の戦い」では、祁答院良重が島津貴久勢の猛攻を受け祁答院に落延びた。1557年、「蒲生院内の戦い」で蒲生範清は島津貴久に敗れ祁答院の松尾城に落延びた。

.蒲生清親【がもうきよちか(15??~15??)】

蒲生充清の男。官途は美濃守。通称十郎三郎。蒲生茂清との内訌で島津忠良勢に属した。1539年、「市来平城の戦い」では、島津忠良勢に属して蒲生茂清と戦った。1557年、蒲生範清が島津貴久に敗れ、松尾城に落延びると、蒲生家惣領職を相続した。

河越家実【かわごえいえざね(15??~15??)】

肝付兼続家臣。官途は丹後守。1542年、肝付兼続と禰寝清年が対立すると、肝付兼賢とともに肝付兼続に従った。高隈地頭、百引地頭職を務めた。

北村清康【きたむらきよやす(15??~15??)】

蒲生範清家臣。姶良郡北村館主。官途は伯著守。1554年、「岩剣城の戦い」で祁答院良重、菱刈隆秋、蒲生範清らが守る岩剣城が島津貴久勢に落とされると北村清康の継嗣北村安芸守は、島津貴久に内応した。蒲生範清と北村清康が不仲になり、北村安芸守は妻子を城中に残し島津貴久のもとに落延びた。北村館は北村清康と次男の北村伯著守が守備した。家臣の山下半太夫は、島津貴久に偽りの降伏を申し出て、島津貴久勢を城下まで誘い込み、蒲生範清勢と北村清康勢で挟み討ちにした。島津貴久勢は敗走した。

北村安芸守【きたむらあきのかみ(15??~15??)】

北村清康の男。1554年、「岩剣城の戦い」で祁答院良重、菱刈隆秋、蒲生範清らが守る岩剣城が島津貴久勢に落とされると島津貴久に内応した。父北村清康と不仲になり、妻子を城中に残し島津貴久のもとに落延びた。

北村伯著守【きたむらほうきのかみ(15??~15??)】

北村清康の次男。1554年、兄北村安芸守が島津貴久に内応して島津貴久のもとに落延びたたため、父北村清康とともに北村館を守備した。

肝付兼興【きもつきかねおき(1492~1533)】

肝付郡高山城主。肝付兼久の男。官途は河内守。室は島津忠朝の姪。1523年、父肝付兼久の死去により肝付家の家督を相続した。薩摩国島津家とは縁戚関係を結んでいた。1524年、豊州島津忠朝から北原家の居城であった大隅の串良城を奪還した。その後、居城を高山城に移し、島津家と幾度も抗争して勢力拡大に努めた。

肝付兼執【きもつきかねまさ(15??~15??)】

肝付兼久の次男。1533年、兄肝付兼興が病没すると、肝付家の家督を巡って甥の肝付兼続を戦い討死した。

肝付兼続【きもつきかねつぐ(1511~1566)】

肝付兼興の男。官途は河内守。通称三郎。室は島津忠良の娘(御南)。1533年、父肝付兼興が病没すると、叔父肝付兼執を滅ぼして家督を相続した。島津忠良の娘を内室に迎え、妹を島津貴久に嫁がせた。1539年、「市来城の戦い」では、島津忠良勢に援軍を派遣した。1553年、肝付良兼に家督を譲って隠居したが、実権は握り続けた。1558年、日向の伊東義祐と結んで飫肥領主島津忠親と戦った。1561年、「竹原山の戦い」で島津貴久の弟島津忠将を討取る戦功を挙げた。1564年、「日向福原の戦い」で島津忠親勢を撃破った。1566年、北郷時久と戦って勝利し、福島城を攻略した。島津貴久勢の反撃を受け自刃した。

肝付良兼【きもつきよしかね(1535~1571)】

肝付兼続の男。官途は河内守。通称三郎。室は伊東義祐の娘。1553年、父肝付兼続の隠居により、肝付家の家督を相続した。1566年、肝付兼続の死後、家中の権力を掌握した。1568年、伊東義祐と結んで、飫肥城を攻撃して島津忠親を追い落とした。1571年、島津義久が大隅国に侵攻して小浜城主伊地知重興を攻撃すると、これを救援して撃退した。1571年、若くして夭折した。

肝付兼樹【きもつきかねみき(15??~15??)】

肝付兼続の次男。官途は右京亮。1572年、肝付兼亮の母阿南(島津忠良の娘)は重臣と謀って、肝付兼亮、肝付兼樹を追放された。伊東家を頼った。

肝付兼亮【きもつきかねすけ(1544~1573)】

肝付兼続の三男。1571年、兄肝付良兼の病没を受けて肝付家の家督を相続した。伊東義祐や伊地知重興、禰寝重長とともに島津家を攻めるが撃退された。その後も島津家に抗した。1572年、肝付兼亮の母阿南(島津忠良の娘)は重臣と謀って、肝付兼亮、肝付兼樹を追放し、その弟肝付兼道を擁立して島津家に接近した。

肝付兼道【きもつきかねみち(15??~1600)】

肝付兼続の四男(生田忠能の養子)。通称三郎四郎。別名肝付兼護。初め日向救仁院夏井城主麦生田忠能の養子となっていたが、兄肝付兼亮の追放後、肝付家の家督に相続した。1574年、伊地知重興、禰寝重長らは島津家に降り、肝付兼道も廻城、市成城、恒吉城を差し出して島津義久に帰順した。1577年、島津義久は大隅高山のみを肝付兼道に与え、ほかの旧領(志布志、福島、安楽、松山、大崎、串良、平房、恒吉、鹿屋、百引、大姶良)は接収された。1580年、薩摩国阿多郡阿多へ転封となった。大隅肝付家は事実上その領主としての地位を失った。1600年、「関ヶ原の役」に参陣して討死した。

肝付兼幸【きもつきかねゆき(1592~1610)】

肝付兼道の男。父肝付兼道と室が不和だったため知行を削減されたが、肝付兼幸が訴えたため知行100を加増された。1610年、島津家久とともに上洛する途中、暴風雨に巻き込まれて溺死した。肝付家の家督は新納忠秀の嫡男肝付兼康が継いだ。

肝付兼演【きもつきかねひろ(15??~1552)】

肝付兼続家臣。加治木城主。肝付兼国の男。官途は越前守。通称三郎五郎。室は廻兵部少輔の娘。早くから島津忠良に属した。1529年、加治木城15,084石を領した。その後一時薩州島津家に奔って伊作島津家と争った。1549年、和睦して加治木城を安堵された。

肝付兼盛【きもつきかねもり(1533~1578)】

肝付兼演の男。官途は弾正忠。通称三郎五郎。室は島津忠良の娘。側室は菱刈重根の娘。1549年、肝付家本宗家が島津忠良に対抗したのに反し、肝付兼盛は父肝付兼演とともに島津貴久に属して、加治木を安堵され、以後島津家臣として働いた。1554年、「岩剣城の戦い」に参陣して戦功を挙げた。1555年、「蒲生攻め」「伊東攻め」には、長浜衆を率いて参陣、戦功を挙げた。1568年、島津忠良に特に賞された。1569年、新納忠元とともに大口城を攻めこれを落城せしめると島津義久から感状と曽於郡上三台堂城を与えられた。その後も大隅統一戦や日向の高原城攻めなど数々の合戦に参陣した。

肝付兼寛【きもつきかねひろ(1558~1590)】

肝付兼盛の男。官途は弾正忠。通称三郎五郎。1580年、肥後国、肥前国方面において戦功を挙げた。上井覚兼から『雨宝童子之法』の秘伝を伝授された。

肝付兼三【きもつきかねみつ(1585~1602)】

伊集院忠棟の三男(肝付兼寛の養子)。加治木から喜入に転封された。養父肝付兼寛が謀殺されたため肝付家を去った。1602年、島津忠恒の命で謀殺された。

肝付兼篤【きもつきかねあつ(15??~15??)】

肝付兼盛の男。官途は越前守。1599年、伊集院忠棟が伏見で殺害された際に、肝付兼三が肝付家を去ったため家督を継承した。

肝付兼清【きもつきかねきよ(15??~15??)】

肝付兼演家臣。官途は伊勢守。1547年、知行宛行状に検見崎兼堯、安楽兼元とともに署名した。肝付兼続から六代前、肝付兼氏の弟山下久兼の玄孫であるという。当主が大旦那となって再興、建設した神社などに願主奉行となっている。

肝付兼吉【きもつきかねよし(15??~15??)】

肝付兼清の次男。官途は加賀守。1560年、「廻城の戦い」では弟肝付兼名とともに島津家と戦った。1573年、救援を求めて日向伊東家に派遣された。

肝付兼名【きもつきかねな(15??~15??)】

肝付兼清の三男。官途は治部左衛門尉。1560年、「廻城の戦い」では、肝付兼続より佩刀を与えられて島津貴久勢が守る廻城を夜襲して、これを奪還した。

城を奪取した後は城の守備にあたった。肝付家の勢力が衰えると一族の肝付三河入道竹友の代わりとして志布志の地頭に任ぜられた。

肝付兼純【きもつきかねずみ(15??~1572)】

肝付兼実の次男。官途は越後守。1572年、「市成境の戦い」で島津義久と戦って討死した。

肝付竹友【きもつきたけとも(15??~1573)】

肝付兼盛家臣。1560年、「志布志城の戦い」で戦功を挙げた。1564年、志布志地頭となった。1573年、「末吉国合原の戦い」で北郷時久勢と戦い討死した。

検見崎兼堯【けみざきかねあき(15??~15??)】

肝付兼続家臣。官途は播磨守。八幡宮再興の奉行職や代官職を務めた。1588年、家臣への知行宛行状に署名した。

検見崎兼書【けみざきかねひさ(15??~15??)】

検見崎兼堯の男。官途は常陸介。1554年、曾於郡の郡司を務めた。

検見崎兼泰【けみざきかねやす(15??~1578)】

検見崎兼書の男。官途は常陸介。肝付兼続が島津義久に臣従すると島津義久に従った。1570年、検見崎福田寺阿弥陀堂を建立した。1578年、「高鍋の戦い」で討死した。

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【さ】

敷根頼賀【しきねよりいわ(1513~1596)】

島津貴久家臣。敷根館主。敷根頼愛の男。官途は備中守。「長尾城の戦い」では、肝付兼盛勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

敷根頼兼【しきねよりかね(1533~1578)】

敷根頼賀の男。

敷根頼元【しきねよりもと(15??~15??)】

敷根頼兼の男。1592年、「文禄の役」では、島津義弘に従い参陣したが、帰国の途中で病没した。継嗣をもうけることができず、島津忠長の三男敷根立頼を養子に迎えた。

敷根立頼【しきねたてより(1585~1627)】

島津忠長の三男(敷根頼元の養子)。官途は中務少輔。通称三十郎。室は敷根頼元の娘。1598年、「慶長の役」で養父敷根頼元が病没したため、娘婿となり敷根家の家督を相続した。1599年、垂野城に転封となった。1610年、島津忠長の代わりに松平元康のもとに人質として送られた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

敷根久頼【しきねしさより(15??~15??)】

敷根立頼の男。室は島津家久の娘。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

篠川小四郎【しのはらこしろう(15??~15??)】

種子島時堯家臣。種子島時堯の意向を受け、南蛮人から火薬の調合法を学んだ。

税所篤辰【ぜいしょあつたつ(15??~1538)】

曾於郡橘木城主。税所篤家の男。1538年、「加世田城の戦い」で島津実久勢と戦い討死した。

税所篤和【ぜいしょあつかず(15??~15??)】

税所篤辰の男。1580年、曾於郡の地頭に任じられた。九州各地を転戦して戦功を挙げた。

税所篤清【ぜいしょあつきよ(15??~15??)】

税所篤辰の次男。官途は但馬守。島津家久に仕えた。琉球奉行、京都御蔵奉行などを務めた。

税所敦朝【ぜいしょあつとも(1569~1608)】

北郷忠相家臣。通称七右衛門。洗礼名「レオン」。オルファネル神父の洗礼を受け基督丹となった。棄教命令を拒否し、平佐で刎頸されドミニコ会初の殉教となった。

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【た】

谷河清親【たにかわきよちか(15??~15??)】

蒲生充清の男。別名蒲生清親。父蒲生充清の病没後、叔父蒲生茂清が蒲生家の家督を相続したが、蒲生充清が死んだとき妊娠していた内室が谷河清親をもうけた。蒲生茂清が蒲生家の家督を相続したため、別家を立てた谷河家を称した。その後、蒲生茂清と谷河清親は互いに疑心暗鬼を生じ、ついに谷河清親は蒲生家を退去した。

谷河清綱【たにかわきよつな(15??~15??)】

谷河清親の男。蒲生茂清に謀殺されそうになったため、伯父蒲生兼演に引き取られた。1539年、「市来平城の戦い」では、父谷河清親とともに蒲生茂清に属さず島津貴久勢に属した。

谷口伊予守【たにぐちいよのかみ(15??~15??)】

伊集院忠真家臣。鉄炮衆。1599年、「小松ヶ尾での戦い」で伊集院忠に従い平田増宗勢と戦い上井兼政を鉄炮で討取る戦功を挙げた。

種子島恵時【たねがしましげとき(1503~1567)】

島津忠良家臣。種子島忠時の男。官途は加賀守。1543年、葡萄牙船が種子島に漂着した。種子島恵時は、葡萄牙人から二丁の鉄炮を2,000両で購入した。種子島恵時は、刀鍛冶の八板清定に鉄炮の複製を命じた。これにより、種子島で鉄炮が量産されるようになった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

種子島時述【たねがしまときつじ(15??~1543)】

種子島忠時の次男。1543年、兄種子島恵時は奢侈を諌めた弟種子島時述を疎んじたため、禰寝清年に内応して種子島恵時と戦ったが討死した。種子島恵時は屋久島に逃れ、継嗣の種子島時堯は禰寝清年勢に敗れて自刃を覚悟したが、禰寝清年は種子島恵時の悪政を正すことが目的で、種子島時堯は関係ないとしてこれを許した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

種子島時堯【たねがしまときたか(1528~1579)】

種子島恵時の男。官途は左近将監。室は島津忠良の娘。1555年、島津貴久に属して大隅国攻めに参陣した。種子島時堯と島津貴久の妹の間にできた娘、妙蓮夫人は、島津貴久の継嗣島津義久に継室として嫁ぎ、国分舞鶴城の女城主となる三女亀寿をもうけた。島津忠良の娘とは継嗣をもうけることができず、禰寝重長から側室を迎えた。側室との間に継嗣をもうけたのを知った夫人は、娘二人を連れて鹿児島城に帰ってしまった。1560年、種子島家の家督を継嗣の種子島時次に譲るが、二年後に七歳で早世したため家督に復した。後に次男の種子島久時が種子島家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

種子島時次【たねがしまときつぐ(1556~1562)】

種子島時堯の男。官途は左兵衛尉。父の種子島時堯は島津忠良の娘を内室に迎えていたが、長らく跡継ぎとなる継嗣に恵まれなかった。禰寝重長の娘を側室に迎え継嗣をもうけた。島津貴久と禰寝重長は対立していたため、島津忠良の娘は種子島時堯と離縁して実家に戻った。1560年、元服して種子島家の家督を譲られたが、まもなく病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

種子島久時【たねがしまひさとき(1568~1612)】

種子島時堯の次男。官途は左近大夫。鉄炮術に精通していた。種子島時次が早世したため父種子島時堯が復帰したあと、島津義久の意向を受け種子島家の家督を相続した。1589年、「小田原の役」では、島津義弘に従い参陣して羽柴秀吉に鉄炮200挺を献上した。1592年、「文禄の役」で島津義弘に従い李氏朝鮮勢と戦った。1595年、島津以久が種子島に転封したため、薩摩知覧院に転封した。1599年、種子島を再領有した。島津義弘、島津忠恒に家老職として仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

種子島忠時【たねがしまただとき(1612~1654)】

種子島久時の男。官途は左近大夫。室は島津家久の娘。1612年、父種子島久時の病没後に生まれた。島津家久の意向を受けて種子島家の家督を相続したが、島津家久のもとで養育された。松平秀忠や松平家光への使者を務めた。種子島が政治犯罪人の流刑地となると、堅野カタリナ(島津光久の祖母で隠れキリシタン)や島津久憲(島津歳久の玄孫で前家老の島津久慶の養子)などの流刑人の監視を担当した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

寺山直久【てらやまなおひさ(15??~1567)】

島津貴久家臣。日輪館主。室は猿渡信種の娘。1567年、「牛山の戦い」で伊集院久慶、川上久朗とともに討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

寺山久兼【てらやまひさかね(1567~1611)】

寺山直久の男。官途は出羽守。通称四郎左衛門尉。室は川上忠照の娘。1598年、「泗川の戦い」では、島津義弘に従い望津を守り勝利に貢献した。1599年、「庄内の乱」でも戦功を挙げ、恒吉地頭職に任じらえた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

泊一火【とまりいっか(15??~15??)】

種子島時堯家臣。砲術家。官途は兵部少輔。筑前国の生まれで、天正年間、大隅国種子島に渡り砲術を学ぶ。七年の修行により砲術を究め、後に一火流を興した。

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【な】

西俣盛家【にしまたもりいえ(15??~1554)】

蒲生範清家臣。官途は武蔵守。1554年、「岩剣城の戦い」で祁答院良重が島津貴久の攻撃を受けるとこれを支援したが、守り切れずに討死した。
 
西俣出羽守【にしまたでわのかみ(15??~15??)】

蒲生範清家臣。1557年、島津貴久勢に降伏した。

西村時弘【にしむらときひろ(15??~15??)】

種子島時堯家臣。1543年、種子島時述が謀反を起こすと、種子島時堯の屋敷に籠城して応戦した。

.西村時貫【にしむらときつぐ(15??~1543)】

西村時弘の男。通称織部丞。1543年、種子島西之浦に漂着した中国船に乗っていた五峰と筆談で通訳を行った。種子島時述が謀反を起こすと、父西村時弘とともに種子島時堯の屋敷に籠城して応戦した。

禰寝重就【ねじめしげなり(15??~15??)】

肝属郡根占城主。禰寝忠清の男。官途は式部大輔。娘は島津勝久に嫁いだ。

禰寝清年【ねじめきよとし(1510~1559)】

禰寝重就の男。室は島津忠興の娘。1529年、島津忠朝、肝付兼続、新納忠勝、本田薫親、樺山幸久らとともに島津勝久と島津忠良の和議を図ったが失敗に終わった。1530年、「横尾峠の戦い」では、肝付兼興勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

禰寝清年【ねじめ(15??~15??)】

禰寝重就の次男。

禰寝重貞【ねじめ(15??~15??)】

禰寝重就の三男。

禰寝重長【ねじめしげなが(1536~1580)】

禰寝清年の男。官途は右近大夫。通称七郎。室は肝付兼続の娘。1543年、種子島恵時と戦い屋久島を奪い城ヶ平館を築き屋久島を領した。1544年、種子島恵時勢の反撃を受け屋久島から撤退した。1561年、「廻城の戦い」では、肝付兼続に従い参陣した。その後も肝付兼続とともに島津貴久勢と戦った。1571年、禰寝重長は薩摩国指宿郡に侵攻したが、島津義久勢の反撃に遭い敗退した。1573年、肝付兼続が病没すると、島津義久と和議を結んだ。内治において優れた才を発揮し、対明貿易や商業の奨励を盛んに行なった。禰寝重長は温州蜜柑、櫨などの交易、栽培に従事してこれを奨励した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

禰寝重張【ねじめしげひら(1566~1629)】

禰寝重長の男。官途は安芸守。禰寝重張は島津義久に属した。1580年、父禰寝重長の病没により禰寝家の家督を相続した。1592年、「文禄の役」では、島津義弘に従わず陣代を派遣した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【は】

肥後時典【ひごときのり(15??~15??)】

種子島恵時家臣。官途は下総介。1544年、「楠川館の戦い」で寝禰重長が守る楠川城を攻落とす戦功を挙げた。

菱刈重副【ひしかりしげぞえ(15??~15??)】

島津勝久家臣。菱刈重時の男。1528年、牛屎院のうち青木、長尾村を島津勝久から与えられた。

菱刈重州【ひしかりしげくに(15??~15??)】

菱刈重副の男。官途は相模守。1529年、「羽月大島の戦い」で島津明久を討取る戦功を挙げた。1530年、「大口城の戦い」では、相良義滋と結んで大口城を攻落とした。1548年、姫木城の本田薫親、加治木城の肝付兼演が島津貴久に降伏すると、は祁答院良重、入来院重嗣、蒲生範清、北原兼守らと結び肝付兼演の加治木城を攻撃した。島津貴久は加治木城を支援するため、菱刈隆秋、蒲生範清、祁答院良重らが拠る岩剣城を攻撃した。加治木城を攻撃していた蒲生範清は、加治木城の包囲を解き岩剣城を支援した。「平松の戦い」で島津貴久勢と戦い祁答院重経、西俣盛家らが討死して敗退した。

菱刈隆秋【ひしかりたかあき(1518~15??)】

菱刈重州の三男(馬越重猛の養子)。官途は大膳亮。別名馬越隆秋。1566年、幼少の甥馬越重広に代わりに馬越家の家督を相続した。1567年、島津貴久勢の攻撃を受け大口城に落延びた。1569年、相良義陽の仲介で島津貴久と和議を結び、人吉城に落延びた。

菱刈重広【ひしかりしげひろ(15??~15??)】

菱刈重猛の男。1574年、島津義久から謀反の嫌疑を受け曾木城から伊集院神殿に転封を命じられた。

平山忠康【ひらやまただやす(15??~15??)】

肝属郡鶴亀館主。肝付兼興の再三にわたる攻撃を撃退した。

平山近久【ひらやまちかひさ(15??~15??)】

平山忠康の男。1520年、「鶴亀館の戦い」で肝付兼興勢の攻撃を受けたが撃退した。1524年、「鶴亀館の戦い」で肝付兼興勢の攻撃を受け落城した。

本田兼親【ほんだかねちか(15??~15??)】

曾於郡清水城主。島津勝久家臣。官途は因幡守。大隅の国人で守護代を務めた曾於郡地頭。島津勝久に仕えて家老職を務めた。1523年、丸村北辰妙見社の棟札に署名した。

本田董親【ほんだただちか(15??~15??)】

本田兼親の男。1548年、「姫城の戦い」で本田実親と対立してこれを攻めたが、島津貴久の派遣した伊集院久朗勢の攻撃を受けて降伏した。1548年、島津貴久に背き、またもや伊集院久朗勢の攻撃を受け清水城は落城した。本田董親は継嗣の本田親兼とともに日向庄内に落延びた。

本田親兼【ほんだちかかね(15??~15??)】

本田薫親の男。官途は大炊大夫。父本田董親が島津貴久の意向を受けた伊集院忠朗に清水城を落とされたとき本田董親とともに日向庄内に落延びた。

本田公親【ほんだきみちか(15??~15??)】

本田親兼の男。官途は大炊大夫。通称与左衛門。島津義久から本家惣領職の安堵を受けて復活を果たした。1595年、島津島津義久が隠居して曾於郡富隈城に移ったのちに島津義久の家老職を務めた。1598年、「慶長の役」に参陣した。田布施地頭職、湯之尾地頭職をつとめた。

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【ま】

松下五郎三郎【まつしたごろうざぶろう(15??~15??)】

種子島恵時家臣。明との貿易船が嵐のため種子島に漂着。所持していた鉄炮に種子島の人々は衝撃を受け、鉄炮の術を教わった。

松永五左衛門【まつながござえもん(15??~15??)】

伊集院忠真家臣。1599年、「小松ヶ尾での戦い」で伊集院忠に従い平田増宗勢と戦いこれを敗走させた。

三原重秋【みはらしげあき(15??~15??)】

島津忠良家臣。三原重平の男。官途は遠江守。曾於郡地頭。島津貴久の老中職を務めた。

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【や】

八板清定【やいたきよさだ(1502~1570)】

種子島の刀鍛冶。通称金兵衛。1543年、種子島時堯が漂着した葡萄牙商人から二挺の鉄炮を手に入れると、八板清定と家臣の篠川小四郎に鉄炮製作を命じた。八板清定は複製を作り上げるが、失敗を重ねた。1545年、八板清定は娘の若狭を葡萄牙人に嫁がせて葡萄牙人からネジの製法を学び国産鉄炮製造に成功した。

薬丸兼将【やくまるかねまさ(15??~1576)】

肝付兼続家臣。官途は出雲守。1562年、島津貴久の家臣が肝付家の館を訪問した際、伊集院忠朗が「宴の羮(肉に野菜を混ぜて作った吸物)は鶴であるか」と戯れに薬丸兼将に言ったことが発端となり(鶴は肝付家の家紋)肝付兼続が島津貴久から離反した。1576年、「日向侵攻」で大友義鑑勢と戦い討死した。

薬丸兼持【やくまるかねもち(15??~15??)】

薬丸兼将の男。官途は弾正少弼。1574年、島津義久への使者として鹿児島城に赴いた。

山下半太夫【やましたはんだゆう(15??~15??)】

北村清康家臣。

吉田清存【よしだきよあり(15??~15??)】 

姶良郡吉田館主。官途は美作守。島津義久の奏者を務めた。1584年、「沖田畷の戦い」で島津家久に従い龍造寺隆信勢と戦い戦功を挙げた。1585年、鎌田政弘とともに足利義昭、毛利輝元の接待役に任じられた。1586年、日向霧島社に使者として派遣された。

若松石見守【わかまついわみのかみ(15??~1599)】 

曾於郡月野館主。通称宗右衛門。1599年、「月野館の戦い」で伊集院忠真勢の攻撃を受け討死した。

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【資料Ⅰ】

大隅国(10郡/270,000石)

菱苅郡:馬越城、湯之尾城、本城城、曾木城。
桑原郡:吉松城、栗野城、横川城、日当山城。
始良郡:溝辺城、加治木城、帖佐城、重富城、山田城、蒲生城。
囎唹郡:
肝付郡:百引城、高隈城、鹿屋城、花岡城、姶良城、串良城、高山城、内之浦城。
大隅郡:
馭謨郡:
熊毛郡:(種子島、屋久島)
大島郡:(奄美群島)

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【資料Ⅱ】

肝付五人衆【きもつきごにんしゅう】

肝付兼続、肝付良兼、肝付兼亮、肝付兼護、肝付兼盛。

辺田七人衆【へんだななにんしゅう】

石井義定、肥後、伊地知重辰、池袋宗政、廻元政、敷根頼賀、上井薫兼。錦江湾に面した辺田の豪族衆。

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【資料Ⅲ】

大隅国【おおすみのくに】

大隅半島を中心とした西海道の国。大隅半島から錦江湾にかけての九州南部と、南方海上の種子島、屋久島、奄美諸島からなる。北から東にかけては霧島火山群の山並みを境として日向国に接し、西は烏帽子岳の山系で薩摩に接する。古くは熊襲国と呼ばれ隼人族、熊襲族の居留地だったが、後に日向国から分かれ大隅国となった。北東の霧島火山群、半島中央部の高隅山地、半島突端の肝付山地など、全般的に山地が多く、平野は天降川流域の国分地方、志布志湾に面した肝付平野などがあるが、火山性の土壌のために農業の生産性は低い。

鉄炮伝来【てっぽうでんらい】

鉄炮伝来。1543年、大隅国熊毛郡種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していた葡萄牙人(「牟良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ))の二人が鉄炮を所持しており、鉄炮の実演を行い種子島恵時、種子島時尭親子がそのうち二挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板清定に命じて複製を研究させる。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄炮製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。鉄炮鍛冶が成立し、戦場における新兵器として火器が導入され、日本の天下統一を左右することになる。後に松平元康による覇権の成立後、日本は武器輸出を禁止した。伝来当初は猟銃としてであったがすぐに戦場で用いられ、鉄炮はマッチロック式であり、火縄銃と呼ばれた。やがて早合と呼ばれる弾と火薬を一体化させる工夫がなされ、すぐに装填できるよう改良された。

種子島筒【たねがしまつつ】

種子島で製造、もくは種子島の技術で製造された鉄炮。1543年、伝来した鉄炮とその関連技術を基礎として、もともと鍛冶が盛んであった種子島で鉄炮の生産がはじまった。1555年、日本に滞在した鄭舜功も『日本一鑑』で国(中国)の商人が「種島」に製造法を伝え、その後、坊津や豊後、平戸、和泉などに伝播したとしている。当然、その製造開始時期はかなり早くい。1549年、細川晴元の書状によれば、細川晴元は京都の本能寺の仲介で種子島から鉄炮を入手している。1560年、豊後の大友宗麟は将軍足利義輝に「経営料三十万疋」や太刀、馬、石火矢などとともに「種子島筒」を贈っており、大友家の領国に種子島筒が移入されていたことがうかがえる。

志布志湊【しぶしみなと】

深く広く湾入した志布志湾の奥に位置し、中世、物資の集散地や中国など海外との貿易で栄えた湊街。鎌倉末期には既に「志布志津」と呼ばれ、流通ルートと関係の深い西国寺末寺の宝満寺が建立されていた。海運と深く関わる北条得宗家も志布志を含む島津御庄に進出し、志布志湊は発展した。1378年、志布志に建立された東福寺末寺の大慈寺は、九州探題今川了俊から志布志の関所での「駄口米」(馬の荷にかける通行徴収を免許されている。志布志を多くの荷を運ぶ人々が行き交っていた。1374年、大慈寺は奥州島津氏久に命じられ中国に留学僧を派遣して宋版の『大般若経』を入手した。奥州島津家は志布志を拠点に海外交易を展開した。島津元久は京への贈り物に金、料足、唐物などを用意し、志布志の廻船衆に預けている物を福昌寺に寄進することを約束した。

宮之浦(屋久島)【みやのうら】

屋久島の北東岸 、宮之浦川河口部の湊街。奈良期には遣唐使船の南島路の寄港地となっており、鑑真や吉備真備の乗船も寄港した。屋久島や種子島の「木売舟」、あるいは九州各地から来航した「木買舟」によって屋久島の港から材木が輸出され、九州各地に陸揚げされていた。1582年、島津義久は種子島久時に対し、材木を買いに来る船「木買舟」の着津と、他国へ木を売りに行く船「木売舟」を禁じた。

屋久杉【やくすぎ】

屋久島の杉。栄養の少ない花崗岩の島に生える屋久杉は成長が遅く木目が詰まっており、降雨が多く湿度が高いため、樹脂分が多く腐りにくい特徴を持つ。

1582年、島津義久は種子島嶋久時に対して琉球渡航

の際には島津家へ必ず連絡することなど、いくつかの事柄を命じている。その中に「六ヶ国より木買舟着津之時、許容あるべからず事」「同じく三嶋より他邦へ木売舟は、停止せられべき事」とある。島津義久が種子島久時に対し、九州九カ国の内、薩摩国、大隈国、日向国の三ヶ国を除いた「六ヶ国」から材木を購入しようと渡航してきた商船の受け入を禁止し、同時に種子島や屋久島など「三嶋」から他国への材木売却も禁じた。

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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

豊臣秀吉は羽柴秀吉、武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、由良成繁は横瀬成繁に統一しました。

城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『九州戦国合戦記』by海鳥社、『大宰府戦国史』by海鳥社、『筑前戦国史』by葦書房、『筑後戦国史』by葦書房、『九州戦国史』by葦書房。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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