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戦国大和国人名事典

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【あ】

逢坂内記【あふさかないき(15??~15??)】

逢坂山城主。岡政行家臣。

赤埴満近【あかはにみつちか(15??~15??)】

宇陀郡赤埴城主。「大和国宇陀七人衆」のひとり。宇陀郡は、地勢的に伊勢国司北畠具教の強い影響を受け、北畠具教の政治的な動向に左右された。赤埴満近も他の諸士同様、北畠具房に仕える一方で、宇陀郡三人衆のひとりである沢房満にも属し郡内各地に勢力を伸ばした。1528年、赤埴満近は、諸木野弥三郎と戦うなど小勢力ながら領土拡大には余念がなかった。

赤埴信安【あかはにのぶやす(15??~15??)】

赤埴満近の男。1576年、赤埴信安に北畠具房が滅亡すると、筒井順慶に属した。1584年、筒井順慶が病没すると筒井家は伊賀国に転封され、大和国は羽柴秀長が支配するところとなった。

赤埴安忠【あかはにやすただ(15??~15??)】

赤埴信安の男。1600年、宇陀郡は、福島正則の弟福島孝治が松山城主として領した。赤埴安忠は、福島孝治に仕えた。のちに赤埴に帰って医術を修め赤埴流金瘡外医の開祖となった。

赤部友春【あかべともはる(15??~15??)】

北葛城郡赤部城主。通称笠衛門。箸尾高春の娘婿となって箸尾家枝連衆に加わった。

秋篠藤賀【あきしのふじが(15??~15??)】

秋篠城主。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。南山城衆とも婚姻関係を結ぶなど勢力の確保に務めた。1545年、秋篠春藤が興福寺から「上鳥見二名庄外護職」に補任された。

秋津守政【あきつもりまさ(15??~15??)】

吉野郡秋津城主。1559年、秋津守政は庶家の秋津守信に攻められ、秋津城は落城、討死した。

秋津守信【あきつもりのぶ(15??~15??)】

秋津守政家臣。1559年、秋津城主秋津守政を攻撃、秋津守政を討取った。1578年、織田信長が一向一揆衆の願行寺を攻撃した際、秋津城も落城した。

秋山宗丹【あきやまそうたん(15??~15??)】

宇陀郡秋山(神楽岡)城主。「大和宇陀三人衆」のひとり。秋山家は沢、芳野家と並んで「宇陀三将」と称され、興福寺領宇陀郡秋山荘を領したことから始まり、南北朝時代に南朝方となり、隣接する北畠家と密接な関係を築き「応仁の乱」以降は北畠家に属して地盤を築いた。1532年、宇陀三人衆と吉野郡小川弘茂は、宇太水分神社の神前で一揆盟約を結んで一定の自立を保ちながら北畠家の軍役を担い各地を転戦した。1536年、北畠家と対立する木造家と結んで、宇陀郡内における勢力拡大を図っている。 1542年、秋山家と芳野家の対立が起こり、1548年、秋山家と沢家の対立も激化した。1558年、秋山宗丹は北畠家との抗争に破れ人質として北畠家に赴いたが大河内城で病没した。

秋山教家【あきやまのりいえ(15??~1563)】

秋山宗丹の男。官途は遠江守。通称藤次郎。室は三好長慶の娘。1558年、北畠具教の命に従わなかったため、秋山城を攻められ落城、父秋山宗丹を北畠具教に人質して差し出して降伏した。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。1562年「教興寺の戦い」で、畠山高政方に属して、三好長慶方と戦うが敗戦、この戦いを境に秋山教家は三好長慶方になる。秋山教家は、三好長慶の婿として権勢を奮った。

秋山直国【あきやまなおくに(15??~1615)】

秋山宗丹の次男。官途は右近将監。通称次郎。室は滝川一益の娘。秋山直国は、沢房満と争うが、沢房満が松永久秀との戦いで敗れると、興福寺領を巡って十市家と争った。十市家が三好三人衆と同盟を結ぶと秋山直国は、松永久秀と結んで対抗する。1568年、十市遠勝に森屋城を攻められるが松永久秀の後援を得て反撃し、十市家の龍王山城を攻略した。1571年、筒井順慶に属して、松永久秀による「辰市城の戦い」では、松永久秀勢を撃退する戦功を挙げた。1582年、筒井順慶が「山崎の戦い」に参陣した際は、筒井城の留守を任された。1584年、蒲生氏郷が南伊勢を治めると秋山直国は沢房満らと共に蒲生氏郷の寄騎衆となって、織田信雄を攻撃した。1590年、蒲生氏郷が奥州会津に転封となるがこれに従わずに大和国に残った。1600年、松平元康に属して「越後長尾(上杉)景勝討伐」に参陣して戦功を挙げた。本戦の「関ヶ原の戦い」では、石田三成に属して改易、没落した。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢に属して大坂城で討死した。

秋山萬助【あきやままんすけ(15??~15??)】

秋山宗丹家臣。1569年「大河内城の戦い」では、大河内城に籠城した。北畠具房は、頑強に二ヶ月も抵抗を続けた。鳥尾屋石見守も兵糧を十分に準備して籠城した。織田信長は、城兵に向かって「北畠具教は分をわきまえず、不毛な戦を起こして兵の命を失わせるは笑止千万、緒戦は大将の器にあらず、北畠具房は文弱の徒にして、槍もまともに振るえぬ、これまた大将の器にあらず餅食いである」などと大声で挑発した。鳥尾屋石見守は、大木に登って叫んでいる人を射落とすように命じました。射手には秋山直国家臣、諸木野弥三郎、秋山萬助、秋山志摩守が選ばれた。諸木野弥三郎は大弓を持って敵味方の見物する中、弓を射て4~5町先にいる大木の上の男の喉もとを射抜きました。これを見ていた織田信長は「見事な腕である」と大いに驚き、て諸木野の射た矢に引出物を添えて城中に返還した。

秋山志摩守【あきやましまのかみ(15??~15??)】

秋山宗丹家臣。通称島之助。1569年「大河内城の戦い」では、大河内城に籠城した。

秋山辰巳【あきやまたつみ(15??~15??)】

秋山宗丹家臣。山辺西城主。秋山家枝連衆。1532年「宇陀郡内一揆」に連署した。秋山辰巳は井足上荘と西山辺荘を知行地とした。

秋山家臣団【あきやまけかしんだん】

調査中。

浅井忠行【あざいただゆき(1520~15??)】

広瀬郡細井戸城主。官途は右近。室は箸尾城主為重の娘。1533年、浅井忠行は近江国より転封した。

新木丹後守【あらきたんごのかみ(15??~15??)】

新木城主。筒井家の被官。

安堵甚五郎【あんどじんごろう(15??~1569)】

東安堵館主。嫡男安堵甚三郎と共に筒井順慶に属して、大和国内を転戦した。1569年、松永久秀との戦いで揃って討死した。

安堵甚三郎【あんどじんさぶろう(15??~1569)】

安堵甚五郎の男。父安堵甚五郎と共に筒井順慶に属して、大和国内を転戦した。1569年、松永久秀との戦いで揃って討死した。

飯貝左吉【いいかいさきち(15??~15??)】

吉野郡飯貝城主。本善寺の徒衆のひとり。吉野真宗教団における在地の有力者として本善寺を支援した。1578年、筒井順慶の飯貝本善寺攻撃で飯貝城を焼かれた。

飯高永祐【いいだかえいすけ(15??~15??)】

飯高城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。はじめは越智家広に属したが没落すると、十市家の被官となった。

井足実栄【いだにさねえい(15??~15??)】

井足城主。秋山直国家臣。

磯壁則定【いそかべのりさだ(15??~15??)】

磯壁城主。岡政行家臣。

礒野十郎【いそのじゅろう(15??~15??)】

葛下郡礒野城主。当麻高田為重家臣。

一乗院尊政【いちじょういんたかまさ(15??~1616)】

興福寺一乗院門跡。近衛前久の男。大僧正。法務。興福寺別当。准三宮に叙せられた。連歌、和歌を能くした。

櫟原勝三郎【いちはらかつさぶろう(15??~15??)】

高市郡椿木城主。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。

井足実栄【いどあしみえ(15??~15??)】

宇陀郡井足城主。秋山宗丹家臣。「大和国宇陀七人衆」のひとり。井足上荘の秋山宗丹に対して、井足下荘を根拠地としたのが井足実栄。1539年「宇陀郡内一揆」に連署した。井足実栄は、秋山宗丹と対立し、秋山宗丹、沢房満、芳野宮内少輔、赤埴満近の諸家によって城を攻め落とされた。のちに秋山家の同名衆に連なった。

井戸良弘【いどよしひろ(1533~1612)】 

添上郡井戸城主。井戸覚弘の男。官途は若狭守。通称才助。室は筒井順慶の姉。兄井戸小殿之助良弘(才助良弘と同名)が早世したため井戸家の家督を相続した。1560年、畠山高政に属したため松永久秀の攻撃を辰市城に受け、筒井順慶の援軍を得たが開城した。1568年、足利義昭を擁する織田信長の上洛によりこれに従い、筒井順慶を離れて松永久秀に属したがやがて対立した。このため再び筒井順慶と和睦して松永久秀方に抗戦した。1575年、大和国に織田信長の家臣塙直政が入部してくるとこれに属した。1576年、塙直政の討死後塙家枝連衆の追放令が発せら、井戸良弘は戦功を挙げ、山城国槙島城を与えられた。1581年「第二次伊賀攻め」にも参陣した。1582年「本能寺の変」では、明智光秀に属した。羽柴秀吉勢に槙島城を攻められて降伏した。井戸良弘は吉野郡に逃れ、奈良に隠棲した。

井戸覚弘【いどさとひろ(1556~1638)】

井戸良弘の男。官途は若狭守。通称十郎。祖父と同名。筒井順慶に仕えた。井戸良弘が筒井家を去って槙島城主となったあとは、井戸覚弘が井戸城主を継いで20,000石を領した。1582年、父井戸良弘が明智光秀に属して没落した後も、井戸覚弘は引き続き筒井順慶に仕え、筒井順慶の病没後も筒井定次に仕えた。のち羽柴秀吉に仕え、織田秀信に属して「文禄の役」に従軍した。「井戸茶碗」は、井戸覚弘が「朝鮮の役」のとき入手したことより起った。1608年、筒井家定次が改易されると蟄居うした。1610年、松平元康に属して、常陸国真壁郡3,040石余を領した。1615年「大坂夏の陣」では、安藤重信の麾下に属して参陣した。安藤家勢は「天王寺、岡山の戦い」で大野治房勢と戦い、大野家勢の先鋒をつとめたのは、覚弘と共に順慶に仕えた布施春行率いる布施家勢であった。布施家勢は家老吉川主馬のもと突撃、安藤家勢はあえなく敗退し、大野家勢は松平秀忠の本陣をも脅かした。
  
井戸治秀【いどはるひで(15??~15??)】

井戸良弘の次男。通称忠右衛門尉。室は明智光秀の娘。松平秀忠、松平家光に仕えた。
 
井戸直弘【いどなおひろ(15??~15??)】

井戸良弘の三男。新右衛門尉。松平秀忠に仕えた。

井戸良弘【いどよしひろ(15??~15??)】

井戸覚弘の男。祖父と同じ名を称す。左馬助。1610年、松平秀忠に拝謁して仕えた。1614年「大坂冬の陣」に参陣した。1615年「大坂夏の陣」では、頸をひとつを挙げる戦功を挙げた。その後、寄騎衆十騎、鉄炮同心三十人を預かった。

稲屋戸景光【いねやとかげみつ(15??~15??)】

戸毛城主。越智家広家臣。

今市四郎【いまいちしろう(15??~15??)】

今市城主。筒井順興家臣。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1504年、越智家臣岸田がこの城を維持していたが、筒井順興の攻撃を受けは、攻撃を受け落城した。その後、この城に今市四郎が復帰した。

今里与八郎【いまざとよはちろう(15??~15??)】

葛下郡今里城主。当麻高田為重家臣。

今中行宜【いまなかぎょうせん(15??~15??)】

布施行盛家臣。 

石見太兵衛【いわみたへい(15??~15??)】

城下郡石見城主。箸尾高春家臣。

内牧内記【うちのまきないき(15??~15??)】

沢房満家臣。内牧家は古代の「肥伊牧」から発した内牧地域の在地土豪衆。1527年、宇太水分神社祭礼の頭役勤仕に際して樽を進上した。

宇野有治【うのありはる(15??~15??)】

宇智郡宇野城。宇智郡国人衆の宇野家は、大和守源頼親を祖とする大和源家の庶家である。もとは摂関家の侍臣として京都に在住したが、やがて宇智郡に所領を得て土着した。

宇野知治【うのともはる(15??~15??)】

宇野有治の男。1558年「郡内一揆」においては、宇野知治が国人衆のひとりとして連判状に署名した。

梅本正武【うめもとまさたけ(15??~15??)】

吉野郡上山(大林)城主。1578年、筒井順慶の飯貝本善寺攻撃において守備側に参陣し弟梅本正質が討死した。

梅本正弘【うめもとまさひろ(15??~1615)】

梅本正武の男。通称与一朗。羽柴秀吉は「文禄検地」を行い、小路村の石高159石を領した。梅本正氏は羽柴秀長に仕え。1615年「大坂夏の陣」で討死した。

梅本正継【うめもとまさつぐ(15??~15??)】

梅本正弘の男。通称与一。1595年、羽柴秀吉は吉野山金峯山寺蔵王領として、吉野山853石を寄進した。梅本正継はその代官に任じられた。

栄山実【えいざんみのる(15??~15??)】

宇智郡栄山城主。通称弥三郎。栄山寺を領主とする栄山荘を本拠とし、栄山寺別当職を壟断するなど勢力をふるい、二見光重の配下として河内国に出陣した。1558年「郡内一揆」においては、栄山実が国人衆の一員として連判状に署名した。

大岡頼尹【おおかよりのり(15??~15??)】

宇智郡大岡山城主。1558年「郡内一揆」においては、大岡頼尹が国人衆の一員として連判状に署名した。

大木重介【おおきじゅうすけ(15??~15??)】

十市遠勝家臣。1562年、畠山高政に属して三好義賢を「久米田の戦い」で破って、高屋城を奪取した。続く「教興寺の戦い」にも参陣するが敗れて湯川直光らが討死した。十市遠勝は、大木重介の嫡男と娘のおなへ(御料)を人質として、松永久秀に降伏した。

小夫実空【おおぶさねそら(15??~15??)】

城上郡小夫城主。1560年、越智家広に属して反筒井順昭の立場をとった。1565年、松永久秀に離反したため、攻められ城は落城し滅亡した。

岡政行【おかまさゆき(15??~15??)】

岡城主。越智家広家臣。官途は周防守。別名岡国高。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆に参加して国判衆十二家に連なった。近隣の布施行盛や万歳則盛らと戦いを繰り返した。松永久秀が大和国に侵攻するとこれに属した。1571年「辰市の戦い」で、筒井順慶が大和国内で優勢を拡大すると、筒井順慶の攻撃をうけ落城した。このとき枝連衆岡弥二郎が筒井順慶に帰順し、筒井順慶と共に上洛して織田信長に謁した。1577年、松永久秀と共に討死した。のちに岡弥二郎も織田信長の勘気にふれて自刃した。

岡崎則遠【おかざきのりとう(15??~15??)】

鈴山城主。岡政行家臣。

岡野因幡守【おかのいなばのかみ(15??~15??)】

狐井館主。岡政行家臣。家老職を務めた。

小川弘光【おがわひろみつ(15??~15??)】

吉野郡小川城主。小川家は、藤原弘重を祖とする在地土豪であった。吉野丹生神社の神職を務め、後に興福寺大乗院門跡で衆徒のひとりで、代官職などを請け負った。龍門庄の所有を巡って多武峰勢力と争った。龍門庄と引き換えに宇陀郡四郷(大熊、平尾、片岡、下片岡)を獲得した。

小川弘茂【おがわひろしげ(15??~15??)】

小川弘光の男。1532年、秋山国堅らの呼びかけに応じて「宇陀郡内一揆」の盟約に参陣した。一揆は宇太水分神社の神前で神誓が行われ、領主間の利害調整、農民支配の協同を図り、宇陀郡内における秩序を守ろうとした。宇陀郡の国人たちは北畠家の支配を受けながら、それぞれ自立した領主として家中を構成し、領地を支配する体制づくりを目指した。1576年、宇陀郡を支配下においた伊勢北畠家が織田信長によって滅ぼされ、松永久秀も織田信長に謀反を起こして滅亡した。1578年、筒井順慶が、大和国を支配して吉野郡を制圧すると小川弘茂は勢力を失った。1582年「本能寺の変」で、織田信長が滅びると、羽柴秀吉が覇権を握ると、筒井順慶は伊賀国に転封になった。大和国は羽柴秀長が領した。大和国の旧勢力は一掃され、宇陀郡の沢家、秋山家、芳野家ら三人衆も勢力を失っていった。1587年、小川次郎が当地を捨てて流浪し没落した。

小川家臣団【おがわけかしんだん】

北室弘覚、鷲賀弘元。

興留出雲守【おきどめいずものかみ(15??~15??)】

興留城主。法隆寺散郷で興福寺一乗院門跡領の興留荘の荘官を管理する地侍。

奥田忠高【おくだただたか(1521~1602)】

吉野郡高畑城主。小山八郎右衛門の男。奥田兼重の養子。官途は主税助。通称八郎右衛門。小豪族の習いで、松永久秀、筒井順慶、羽柴秀長といった歴代の大和国主に仕えて勢力を維持した。羽柴秀長の病没後、一度は致仕して大和国へ隠棲した。1600年、山岡景友を仲介者として松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康に属して戦功を挙げた。戦功により紀伊国名草郡で2,800石を領した。

奥田忠次【おくだだだつぐ(15??~1615)】

奥田忠高の男。1615年「大坂夏の陣」で後藤基次と激闘の末に討死した。

興ヶ原助豊【おくがはらすけとよ(15??~15??)】

興ヶ原城主。柳生宗厳家臣。官途は遠江守。娘は柳生宗厳に嫁いで、柳生宗矩を生み、後に春桃御前と称された。

興ヶ原助秀【おくがはらすけひで(15??~15??)】

興ヶ原助豊の男。官途は若狭守。羽柴秀長に仕えた。

興ヶ原助勝【おくがはらすけかつ(15??~15??)】

興ヶ原助秀の男。通称次郎四郎。1615年「大坂夏の陣」で、羽柴秀頼に属して戦った。役後浪人となるが柳生家に仕えた。

小倉政実【おぐらまさざね(15??~15??)】

小倉北城主。1581年、春日若宮願主人を巡って柳生宗厳と争った。

越智家教【おちいえのり(1489~1517)】

高市郡高取城主。越智家令の男。官途は弾正忠。1507年、父越智家令が赤沢朝経の大和侵攻の最中に病没した。「永正の錯乱」で、細川政元が謀殺、赤沢朝経も丹後国で討死した。1508年、足利義稙が大内義興の後ろ盾で上洛し、それに伴い大和国に影響力を持つ細川高国と畠山尚順も再び二派に分かれ、大和国人一揆も崩壊、越智家教と古市澄胤は足利義澄、細川澄元、畠山義英に、筒井順賢、十市遠治らは足利義稙、細川高国、畠山尚順についた。1516年、筒井順賢に勝利するもまもなく病没した。

越智家栄【おちいえひで(15??~15??)】

越智家教の男。

越智家頼【おちえいより(15??~15??)】

越智家教の次男。

越智家広【おちえいひろ(15??~15??)】

越智家栄の男。1532年「天文一揆」が起こり、一向宗門徒の一揆の余波は河内国から大和国におよび、南都を焼き払い、南下して高取城に押し寄せた。このとき、筒井順昭、十市遠忠らの救援もあって一揆勢は壊滅した。この一揆との戦いにおいて叔父貝吹城主越智家頼も戦功を挙げた。越智家広には子がなく、細川晴元の男を養子としたが、夭折した。1569年、越智家広の弟越智家増の子越智家高が家督を相続した。

越智家増【おちいえます(15??~1577)】

越智家栄の次男。官途は伊予守。別名楢原家益。1569年、嫡男越智家高が越智家惣領職を相続した。1571年、嫡男越智家増が兄越智家広に謀殺された。

越智家高【おちいたかた(1544~1571)】

越智家増の男。越智家広の養子。官途は民部少輔。別名楢原家高。1569年、越智家惣領職を相続した。1571年、叔父越智家広の家臣市尾深介に謀殺された。

越智家秀【おちいえひで(15??~15??)】

越智家増の次男。筒井順慶に仕えた。1582年「本能寺の変」で、織田信長が討死すると、筒井順慶は羽柴秀吉と手を結んだ。1583年、内衆の手によって、越智家秀は自刃させられた。

乙木徳兵衛【おとぎとくべい(15??~15??)】

山辺郡乙木城主。衆徒福智堂家の縁戚であり、布留郷神人衆のひとり。

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【か】

戒場勘右衛門【かいばかんざえもん(15??~15??)】

宇陀郡戒場城主。榛原地域の北部の大乗院門跡領の戒場に在った豪族衆。

戒重範宗【かいじゅう(15??~15??)】

戒場勘右衛門の男。官途は遠江守。1506年、赤沢朝経の大和国侵攻では、連合軍側で参陣した。戒重城は、赤沢朝経勢の攻撃を受け落城、多武峰に退却した。1559年、松永久秀が大和国侵攻すると、それに属して、越智広家や多武峰と戦った。1568年「貝吹山城の戦い」では、松永久秀の先陣を務めたが撃退されて多数の討死をだした。1577年、松永久秀の討死後は、筒井順慶に属したが、反筒井家の姿勢は崩さなかった。1580年、織田信長の命を受けた筒井順慶に検地の不正を理由に金蔵院において岡政行、大仏供政忠、高田為政と共に謀殺された。

片岡春利【かたおかはるとし(15??~15??)】

北葛城郡片岡城主。通称新介。室は筒井順興の娘。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。筒井家の枝連衆として、筒井家党の一翼を担った。1569年、松永久秀の侵攻には徹底抗戦した。

片岡春之【かたおかはるゆき(15??~15??)】

片岡春利の男。通称弥太郎。1571年「辰市の戦い」に参陣した。1577年「片岡城の戦い」では、先陣をつとめて城の奪回、松永家臣海老名弾正忠を討取った。その後の片岡春之は筒井家臣となったが、筒井定次の伊賀国転封には従わずに大和国に残り、羽柴秀長に仕えた。

勝原宗秀【かつはらむねひで(15??~15??)】

山辺郡勝原城主。都祁方面に進出して小山戸春俊と戦った。長谷寺衆徒の介入を受けたりするなど紛争をしばしば起こした。のちに奥田忠高の寄騎衆となった。

鎌田藤兵衛【かまたとうべい(15??~15??)】

鎌田館主。岡政行家臣。

河合清長【かわいきのなが(15??~15??)】

十市遠勝家臣。官途は権兵衛尉。別名川合長左衞門正冬。1568年、今井館で十市遠勝と三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わした。1569年、十市遠勝病死し、親松永久秀派(十市後室、おなへ、河合清長、伊丹源二郎、田中源一郎、川嶋藤五郎、上田源八郎、森本喜三) と親筒井順慶派(一族の十市常陸介遠長)に分裂し、河合清長以下六名は十市後室を奉じて十市城を出て今井館へ退去した。1576年、河合清長と十市後室、織田信長への礼問のため上洛した。1615年「大坂夏の陣」の戦功により松平忠明から改名を勧められて今西姓と改めた。

岸田忠氏【きしだただうじ(15??~1615)】

筒井家臣。官途は伯耆守。筒井順慶に仕えて2,000石を領した。1585年、筒井定次が伊賀国に転封になったとき、筒井家を離れて大和郡山城主羽柴秀長に仕えた。1594年、羽柴秀長を継嗣した羽柴秀保が病没すると、羽柴秀吉に仕えて山辺郡岸田城10,000石を領した。1600年「関ヶ原役」では、石田三成勢に属したため所領は没収、南部利直預かりとなった。

岸田遠近【きしだとおちか(15??~1618)】

岸田遠国の男。通称勝右衛門。筒井定次の移封の際、父岸田遠国は在国して羽柴秀長に仕えたが、岸田遠正、岸田遠近、岸田遠武の三兄弟は筒井定次に従った。兄岸田遠正と不和になり、弟岸田遠武とともに筒井家を辞して藤堂高虎に仕えた。藤堂高虎のもとでは伊予国、伊賀国で街奉行を務めた。1614年「大坂冬の役」では、伊賀国上野城を守備した。

北角善三郎【きたずみぜんざぶろう(15??~15??)】

乾城主。北角家は万歳戌亥家とも称され万歳則盛の枝連衆であった。万歳城の北西に位置していたために北角家と称した。

喜多興能【きたこうのう(15??~15??)】

北村城主。官途は石見守。筒井家に奉行衆として仕えた。

喜多信濃守【きたしなののかみ(15??~15??)】

喜多興能の男。

吉川喜蔵【きっかわぜんぞう(15??~15??)】

生駒郡吉川館主。十市忠之家臣。1582年、吉川善兵衛が松平元康の「伊賀越え」の案内に役に立った。

木原弥九郎【きはらよくろう(15??~15??)】

木原城主。十市遠勝家枝連衆。

吉備市助【きびいちすけ(15??~15??)】

吉備城主。大乗院門跡坊人で国民のひとり。春日若宮祭礼では長谷川党に属して願主人を勤めた。松永久秀に属して筒井順慶の大和国統一に抵抗した。1580年、織田信長の命によって自刃させられた。

木村盛秀【きむらもりひで(15??~15??)】

箸尾為政家臣。

百済将監【くだらしょうげん(15??~15??)】

広瀬郡百済城主。箸尾高春家臣。

窪城順貞【くぼしろじゅんさだ(15??~1576)】

窪之庄城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1559年、松永久秀の大和国侵入時には、筒井順慶に属して松永久秀勢に抵抗した。1568年、窪之庄城が松永久秀勢の攻撃を受け落城した。1570年、窪城順貞は窪之庄城を奪還、その後も筒井順慶に属して畿内各地を転戦した。1576年「石山本願寺城の戦い」で、討死した。

窪田内記【くぼたないき(15??~15??)】

上窪田城主。筒井党に属し、筒井順慶のもとで多くの戦功を挙げた。筒井定次の伊賀国転封には同行しなかった。

窪美作守【くぼみさくのかみ(15??~15??)】

水涌城主。染田天神講に参加した山内衆のひとりで国津神社の神官を務めた。筒井順興と古市澄胤および越智家広の抗争期には、はじめは筒井順興方につき、後に越智家広方に転ずるなど、両勢力のはざまで揺れ動いてたが、和睦が成ると再び来迎寺檀家衆の盟約に参加した。

倶尸羅俊種【くしらとしたね(15??~15??)】

倶尸羅城主、興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆に参加して国判衆十二家に連なった。

黒木藤五郎【くろきとうごろう(15??~15??)】

秋山宗丹家臣。秋山宗丹の本拠地であった秋山荘の神戸地域には地侍として黒木藤五郎がいたことが「国民郷士記」などにみえるが、詳細は不明である。黒木城は、宇陀郡を南方からの進出を抑える位置にあった。

小泉秀元【こいずみひでもと(15??~15??)】

小泉城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとりで、枝連衆が他国の興福寺荘園の荘官などに任じられた。天文年間、筒井順昭に降り、小泉秀元は筒井順昭の姪婿となった。

小泉重順【こいずみしげじゅん(1544~1561)】

小泉秀元の男。通称四郎左衛門。筒井家麾下十七人衆組頭を勤め、小泉、鳥見、三碓の三個所2,000石を領した。1561年、小泉城は、筒井順慶が織田信長に従って越前国へ参陣中に、松永久秀の攻撃を受け落城、城主小泉重順をはじめ市原正弘、丹後庄舜英房、龍田道春、小南政祐、目安祐弘、幸前慶尊房、丹後庄舜英房、中原盛祐、西之庄了円房、富道敬、法隆寺の盛阿房、矢田実雲房、杉原実円、龍ノ市定敬、目安祐弘、生駒懐円房など十七人が自刃した。家老職河本宗円の弟河本宗左衛門も自刃した。

小泉重元【こいずみしげもと(15??~15??)】

小泉重順の養子。筒井順慶の命により小泉尾崎家の小泉重元が跡をつぎ、大和国十六人衆につらなった。

小泉四郎【こいずみしろう(15??~15??)】

小泉重元の男。小泉四郎は筒井順慶に重用され、筒井順慶の没後にその名代を務めた。

小林春賀【こばやししゅんが(15??~15??)】

小林城主。筒井家枝連衆の山田順春の縁戚。

小南政祐【こみなみまさすけ(15??~15??)】

小泉秀元家臣。官途は甲斐守。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1561年、小泉城は、筒井順慶が織田信長に従って越前国へ参陣中に、松永久秀の攻撃を受け落城、城主小泉重順をはじめ市、小南政祐、原正弘、丹後庄舜英房、龍田道春、目安祐弘、幸前慶尊房、丹後庄舜英房、中原盛祐、西之庄了円房、富道敬、法隆寺の盛阿房、矢田実雲房、杉原実円、龍ノ市定敬、目安祐弘、生駒懐円房など十七人が自刃した。

小南甲斐守【こみなみかいのかみ(15??~1571)】

小南政祐の男。1571年、郡山衆と共に「辰市城の戦い」に参陣して討死した。

小柳源助【こやなぎげんすけ(15??~15??)】

磯城郡小柳城主。東大寺の僧兵。

小山戸春俊【こやまどはるとし(15??~15??)】

小山戸城主。

金剛寺覚淳【こんごうじえいじゅん(15??~15??)】

広瀬郡金剛寺城主。箸尾為政家臣。近隣の富本家、佐味家、唐院家らと共に箸尾為政家枝連衆に数えられた。興福寺一乗院門跡坊人で国民に列した。永禄年間、箸尾為政が松永久秀の属した際は、金剛寺覚淳は苦悩の果てに病に倒れ、その一党は士気を大いに落とした。

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【さ】

坂合部頼家【さかあいべよりいえ(15??~15??)】

宇智郡坂合部山城。紀伊国隅田党の一員であったが織田信長に属した。1580年、高野山勢力と対峙したため、城を高野山に奪われた。

坂合部頼重【さかあいべよりしげ(15??~15??)】

布袋山城主。1571年、坂合部頼重が布袋山城を築城した。

坂上尊忠【さかがみただたか(15??~15??)】

北田原城主。鷹山藤政の叔父。1615年「大阪夏の陣」の「道明寺の戦い」で討死した。

指柳浄光【さしやなぎじょうこう(15??~15??)】

山辺郡指柳城主。布留郷神人衆のひとり。

佐羅気三郎【さらげさぶろう(15??~15??)】

蛇穴館主。楢原家臣。

沢源五郎【さわげんごろう(15??~1554)】

宇陀郡沢城主。1484年、秋山宗丹、沢源五郎両家の間に諸木野の所領問題をめぐって「諸木野の戦い」が起こった。この合戦に筒井順興、越智家栄が介入、北大和国の有力国人古市澄胤も秋山家に協力して、伊勢国司北畠晴具、古市澄胤も参陣した。1487年、和議が成立するまで諸勢力入り乱れて戦いが続いた。宇陀郡においては秋山宗丹との対立を続けたが「諸木野の戦い」の後始末として北畠晴具によって沢源五郎が自刃させられ、幼い沢房満が家督を相続した。

沢房満【さわふさみつ(15??~15??)】

沢源五郎の男。官途は兵部大輔。1559年、松永久秀が大和国に侵入し宇陀郡へ勢力圏を拡大すると、宇陀郡の諸城は松永久秀勢によって攻略された。沢城には松永久秀の家臣高山友照が入った。1567年、沢房満は沢城を奪還をすると、北畠具教との関係を強化して東方に侵攻した。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻した。1562年「教興寺の戦い」では、畠山高政方に属して三好長慶方と戦うが敗北した。1567年、伊賀国に潜伏していた沢房満は北畠具教の支援によって沢城を回復した。1576年、北畠具教が滅亡したあとも、沢城に在城。1582年、織田信雄に属して「伊賀一揆鎮圧」に参陣した。

沢親満【さわちかみつ(15??~15??)】

沢房満の男。通称源六郎。1581年、沢親満は春日神社に灯篭を寄進した。1582年、羽柴秀吉に仕えた。

沢満兼【さわみつかね(15??~1615)】

沢親満の男。通称隼人正。藤堂家に仕え、伊勢国一志郡において1,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」で討死した。

沢満清【さわみつきよ(15??~15??)】

沢親満の次男。通称次郎九郎。

慈恩寺左衛門【じおんじさえもん(15??~15??)】

城上郡慈恩寺城主。上通道(上ツ道)衆のひとり。1517年、初瀬街道筋の長谷寺領諸郷への侵犯による勢力拡大を図って伊勢国司北畠家や長谷寺と争いを繰り返した。

島信勝【しまのぶかつ(15??~15??)】

生駒郡椿井城主。

島清興【しまきよおき(1540~1600)】

筒井家臣。官途は左近。松倉右近重信とともに「筒井の右近左近」と称された。1585年、筒井定次と不仲になり筒井家を辞し、羽柴秀長に仕えた。
1594年、羽柴秀保が病没すると、石田三成に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、島清興は、前哨戦の「杭瀬川の戦い」で中村一栄隊を撃破し、本戦では石田三成隊の先鋒として黒田長政隊と戦ったが、銃撃を受けて討死した。

島政勝【しままさかつ(15??~1600)】

島清興の男。通称新吉。1600年、父島清興と共に「関ヶ原の役」に参陣して、藤堂高虎隊と対戦し一騎討ちの末討死した。

島友勝【しまともかつ(15??~15??)】

島清興の次男。通称吉次郎。1600年「関ヶ原の役」には参陣せず敗報を聞き逃亡した、後に「白牡丹酒造」を興した。

島清正【しまきよまさ(15??~1600)】

島清興の四男。1600年「関ヶ原の役」では、大谷吉継隊に属して戦い討死した。

島野市兵衛【しまのいちべい(15??~15??)】

宇智郡島野城主。1532年、二見光重の配下として河内国に出陣した。1558年「郡内一揆」においては、島野市兵衛が国人衆の一員として連判状に署名した。1560年、三好康長の属して河内国で戦った。

慈明寺左門【じみょうじさもん(15??~15??)】

慈明寺城主。筒井家臣筆頭格である慈明寺家は高市郡興福寺別院慈明寺を任された興福寺六方衆辰巳方の堂衆であり、興福寺六方衆の上位職である「北面」に任じられた有力僧兵のひとり。慈明寺の住持は代々が左門を名乗って高市郡における筒井家派の中心的存在であった。筒井順興は三男筒井順国を慈明寺家に養子入りさせて連携を強め、ここに筒井党の有力枝連衆慈明寺家が誕生した。

慈明寺順国【じみょうじとしくに(1531~1580)】

筒井順興の三男。慈明寺左門の養子。別名筒井順国。室は筒井順昭の娘。興福寺六方衆の有力者だった僧官の慈明寺左門に弟子入りし養子となって慈明寺家の家督を相続した。畝傍山の西麓に壮大な伽藍を構えた興福寺子院の慈明寺の住持ともなり、寺を城館となした。筒井順慶を支え、幾度の没落にも見捨てずに護り通した。兄筒井順昭の娘を娶り、後に筒井順慶の養嗣子となった筒井定次が生まれた。筒井順昭の病没後は、枝連衆とともに影武者黙阿弥を立てて筒井順昭の死を秘した。1582年「本能寺の変」後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と軍議を行った。

下田友夏【しもだともか(15??~15??)】

下田城主。下田の鋳物業の発展を背景にして成長した豪族衆。

上総甚助【じょうそうじんすけ(15??~15??)】

山辺郡上総城主。興福寺大乗院門跡領であったが一乗院門跡寄人のひとり。布留郷神人衆に属しつつも井戸家に仕えて、段銭賦課などを行った。

秦楽寺伊斎【じんらくじいさい(15??~15??)】

城下郡秦楽寺城主。秦楽寺八郎の男。神楽寺の僧兵を出自とする地侍で、春日若宮祭礼流鏑馬頭役を勤める願主人のひとり。永禄年間は、松永久秀に属した。1570年、秦楽寺城には、松永久秀勢が入城して十市郷を攻撃した。 

秦楽寺左衛門【じんらくじさえもん(15??~15??)】

秦楽寺伊斎の男。

菅生平助【すがおへいすけ(15??~15??)】

山辺郡菅生城主。畑城主奥田忠高に仕えた。

簀川藤八【すがわとうはち(15??~1543)】

上簀川(鷹塚)城主。官途は兵庫助。興福寺大乗院で衆徒のひとり。福智庄、大柳生庄をめぐり、下狭川城簀川助宣とは度々対立した。1524年、柳生家厳と狭川助貞の抗争に介入して笠置城を攻撃、伊賀国仁木民部少輔と共同作戦を取ったが、筒井順昭の支援を受けた狭川助貞は簀川藤八を撃破した。1541年、木沢長政に従ったが、柳生家厳と共に裏切って笠置城を襲撃。木沢長政が討死すると筒井順昭と対立した。1543年、筒井順昭は神人衆と六方衆を動員して兵6,000余りを率いて簀川城を攻撃した。簀川藤八親子四人は討取られた。筒井順昭は、簀川城の落城後、簀川藤八を支援する古市城主古市胤重を攻撃した。

簀川助貞【すがわすけさだ(15??~1571)】

簀川藤八の三男。通称兵庫助。1546年「貝吹山城の戦い」「観学寺の戦い」では、簀川兵庫助の弟が討死した。その後、簀川兵庫助は松永久秀に属し、柳生宗厳や狭川福岡助宣らと山内四箇郷衆の共同戦線を組み、筒井順昭と戦い続けた。1567年、柳生宗厳らと結んで春日社神人を謀殺して寺門の山内入部を阻止した。1571年、松永久秀が対立関係にあった三好三人衆と結ぶと、これを不服として箸尾為綱は松永久秀勢から離脱、松永久秀勢の十市家を磯城の南柿森に攻略した。これより筒井順慶の反攻作戦が開始され、これに動揺した吐山光政は、郡山の松永久秀方付城にて離反、共に詰めていた簀川助貞が討取られた。

福岡簀川助宣【(すがわすけのぶ15??~15??)】

下簀川城主。1524年、筒井順昭に転じて古市家方の柳生宗厳や簀川藤八らと対立した。1568年、春日社神人を謀殺して興福寺衆徒の発向をこうむるべきところを告文を捧げて宥免された。狭川福岡助宣は松永久秀に属したが、惣領家簀川助貞は松永久秀にも筒井順慶にも通じて不安定な動向をみせたる。1577年、松永久秀が討死すると、筒井順慶に属したが伊賀国転封には従わなった。

菅田助隆【すがたすけたか(15??~15??)】

山辺郡小城城主。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒に連なって菅田下荘下司職などを請負った。枝連衆には菅田戌亥家、菅田南家があり、揃って筒井党に属した。

助命宗政【ぜんみょうむねまさ(15??~15??)】

山辺郡助命城主。興福寺の国民にひとり。

蔵堂長兵衛【ぞうどうちょうべい(15??~15??)】

城下郡蔵堂城主。浄福寺住持を勤めてもとは遊行上人空也光勝の門人のひとり。興福寺大乗院門跡の被官。

曽歩々々清繁【そぶそぶきよしげ(15??~15??)】

生駒郡上庄南城主。興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。

曾爾播磨守【そねはりまのかみ(15??~15??)】

宇陀郡今井城主。秋山宗丹の勢力圏は、今井城まで及ぶようになり、曾爾播磨守も秋山宗丹に属した。

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【た】

大仏供政忠【だいぶくまさただ(15??~1580)】

大福城主。十市家臣。松永久秀に属して筒井順慶の大和国統一に抵抗した。1580年、織田信長の命によって自刃させられた。

大乗院尋憲【だいじょういんじんけん(1529~1586)】

二条尹房の男。法相宗。興福寺大乗院門跡、興福寺別当、大僧正。著書に「尋憲記」。

鷹山弘頼【たかやまひろより(15??~1553)】

添下郡高山城主。官途は主殿助。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。はじめは筒井順昭に属したが、のち畠山義就方越智家栄に属し、また筒井家に帰属するなど動向は転変した。1542年「河内太平寺の戦い」では、細川晴元のに属して木沢長政と戦った。1544年、筒井順昭と柳生家厳の戦いに参陣した。柳生城の守りは固く、筒井順昭勢は多くの死傷者を出した。筒井順昭は柳生城の水路を断ち、近隣の須川城を落とすことで柳生城を孤立させた。1546年、鷹山弘頼は畠山高政から上山城三郡守護代に任ぜられた。1553年、鷹山弘頼は、畠山高政内衆の安見宗房や遊佐教らとの確執を生じて河内国高屋城で謀殺された。

鷹山藤政【たかやまふじまさ(15??~15??)】

鷹山弘頼の男。松永久秀の大和国侵入で、柳生家厳と同じく松永久秀方となり、松永久秀の没落後は筒井順慶に属した。三好家の内紛では、枝連衆が三好三人衆方と松永久秀方に分裂した。

竹田周防守【たけいすぼうのかみ(15??~15??)】

城下郡竹田城主。地域的には長谷川党のなかに組み込まれていたため、法貴寺家や八田家の寄騎衆として戦功を挙げた。

竹村八郎【たけむらはちろう(15??~15??)】

万歳則盛家臣。家老職。

多田延実【ただのぶみ(15??~15??)】

貝那木山城主。通称次郎。1540年、東山で筒井家党の山田民部、福住宗職らが勢力を得ると、多田延実は白石庄を押え、貝那木山城を築城して統治、軍事の拠点とした。1550年、伊賀国名張郡へ侵攻した。1559年、松永久秀が大和国に侵攻してくると筒井順慶は劣勢に追い込まれるが、多田延実らは筒井順慶を支援して松永久秀勢に対抗した。1577年、松永久秀は織田信長に叛して滅亡、筒井順慶が大和の守護職に任じられた。1580年、織田信長の破城令と差出命が出されると、大和武士たちは城塞を破却し。1581年、織田信長の「伊賀征伐」が開始されると、筒井順慶は大和国勢10,000余りを率いて参陣した。筒井家勢は笠間峠、波多郷口に分かれて進撃、東山内の諸家もその陣に従った。織田信長勢は徹底的に伊賀国を蹂躙し、老若男女の悉くを殺戮した。多田延実も筒井家勢と共に、伊賀国に攻め入ったが、黒田川原で討死した。

多田常胤【ただつねたね(15??~15??)】

多田延実の男。通称四郎。1582年、織田信長が「本能寺の変」で討死すると、政権は羽柴秀吉が引き継いだ。1584年、筒井順慶が病没すると筒井定次は伊賀国に移封され、大和国武士団の多くがそれに従った。1590年「小田原の役」では、筒井家勢に属して、多田常胤も参陣した。「伊豆山中城の戦い」では、多田常胤も奮戦したが枝連衆共々討死した。

辰市宮内【たついちくない(15??~15??)】

辰市城主。辰市神社の神官を勤めた。辰市宮内は筒井家の被官ではなかったが親筒井家だった。1571年、筒井順慶による辰市城築城にさいしては土地や労働力を提供して全面協力し、反松永久秀作戦を支援した。

龍田為定【たつたためさだ(15??~15??)】

生駒郡龍田城主。筒井順慶家臣。興福寺一乗院跡坊人で衆徒のひとり。筒井順慶に属して、松永久秀と戦った。1584年、筒井順慶が病没するとその葬儀に加わった。

龍田道春【たつたみちはる(15??~1561)】

筒井順慶家臣。松永久秀との戦いでは、筒井家に属して戦功を挙げた。1561年、松永久秀が小泉城を落城させた際、城主小泉重順と共に自刃した。

立野信久【たてののぶひさ(15??~15??)】

平群郡立野城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。

立野良信【たてのよしのぶ(15??~15??)】

山田順貞の次男。通称弥太郎 。天正年中、立野良信が、郡山城主羽柴秀長に仕えた。立野良信は山辺郡山田城主山田順貞の次男で、安村之安の婿養子になった。1600年、立野良信の孫立野信安は「 関ヶ原の役」では、大津において松平元康に拝謁がかない、大和川の「漁梁船(剣先船)」に関する御朱印の 制札を頂戴した。

田中善助【たなかぜんすけ(15??~15??)】

田中城主。筒井家臣。

多聞院英俊【たもんいんえいしゅん(1518~1596)】

興福寺多聞院主。十市盛眼の男。1528年、興福寺妙徳院へ入った。1533年、妙徳院長蓮房英繁を師として得度した。学問を修めて多聞院主となり、法印権大僧都に昇進。大乗院門主の大乗院尋憲の後見となった。英俊は、発心院祐算のもとで唯識の研鑽を積み、大乗院尋円、大乗院尋憲の御同学となり、大乗院尋円、大乗院尋憲が対立したときには、その関係修復に奔走した。一乗院尊政からも師匠として尊敬され、多聞院英俊のもとにあった書籍が一乗院へゆずられた。著書に『多聞院日記』。

田原本春覚【たわらもとはるえい(15??~15??)】

田原本城主。十市家臣。大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。

丹後庄舜英房【たんごのしょうしゅんえいぼう(15??~15??)】

筒井順慶家臣。丹後庄家は筒井家枝連衆で、興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。筒井家党の中堅勢力として活躍した。松永久秀の侵攻にともなって各地で抵抗戦に加わり、近隣の小泉家にも枝連衆を派遣した。1561年、小泉城は、筒井順慶が織田信長に従って越前国へ参陣中に、松永久秀の攻撃を受け落城、城主小泉重順をはじめ市原正弘、丹後庄舜英房、龍田道春、小南政祐、目安祐弘、幸前慶尊房、丹後庄舜英房、中原盛祐、西之庄了円房、富道敬、法隆寺の盛阿房、矢田実雲房、杉原実円、龍ノ市定敬、目安祐弘、生駒懐円房など十七人が自刃した。家老職河本宗円の弟河本宗左衛門も自刃した。

近内善右衛門【ちかうちぜんざえもん(15??~15??)】

宇智郡居伝城主。宇野家の庶家。1558年「郡内一揆」においては、近内善右衛門が国人衆の一員として連判状に署名した。

苣原英秀【ちしゃわらえいしゅう(15??~15??)】

苣原城主。興福寺官符衆徒衆のひとり。官途は伊賀守。筒井順慶の馬廻衆として、常に城を空けて各地で転戦していた。「大西城の戦い」では、苣原英秀の弟二人が討死した。

苣原英順【ちしゃわらえいじゅん(15??~15??)】

苣原英秀の家臣。官途は伊賀守。「長谷川の戦い」では、松永久秀家臣の強者二人を討取った。

超昇寺信次【ちょうしょうじのぶつぐ(15??~15??)】

超昇寺城主。超昇寺の僧。興福寺大乗院の衆徒ひとり。1559年、松永久秀の大和国侵攻時には、超昇寺城も攻撃を受け松永久秀に降伏した。降伏後、松永久秀に属すると、度々筒井順慶勢から攻撃を受けた。1569年、筒井順慶が織田信長の支援を受けて復帰すると、再び、筒井順慶に属したが、今度は松永久秀の攻撃にさらされた。

筒井順興【つついじゅんこう(1484~1535)】

添下郡筒井城主。筒井順尊の男。室は越智家令の娘。1521年。筒井家の家督を相続した。筒井順興は河内国守護職畠山家の影響力は大きく、畠山家の内争は大和国衆の対立も招いた。畠山家の内紛が収まると、大和国衆も和睦してた。筒井順興と越智家広の娘を娶って再び越智党と和睦した。一向宗徒による「天文一揆」の際、越智氏居城の高取城に一揆勢が迫ったが、筒井順興は援軍を派遣してこれを撃退した。

筒井順昭【つついじゅんしょう(1523~1550)】

筒井順興の男。官途は官符衆徒。別名栄舜坊順昭。室は山田道安の娘。1538年、得度した。1542年、筒井順昭は信貴山城主木沢長政方に属したが、木沢長政が畠山稙長を攻めて討死すると、畠山稙長に属した。1546年、越智家広を攻めて貝吹山城を攻略するなど勢力を拡大した。1549年、病を得て隠居し、比叡山に籠った。1550年、筒井城に戻るも病没した。病没後筒井順慶が幼かったため筒井順昭と声色の似ていた木阿弥という人物を身代わりに立てて喪を秘し、用が済んだところで身代わり役を解いたので「元の木阿弥」とゆう俗語が生まれた。

筒井順政【つついじゅんせい(15??~1564)】

筒井順興の次男。1550年、兄筒井順昭が急死すると、その息子である筒井順慶が幼少であったため、後見人として政務を見た。1562年「教興寺の戦い」では、配下の島清興と共に畠山高政の援軍に駆けつけるが三好家勢に敗退している。後に松永久秀率いる三好家勢が大和国に侵攻すると、領国を追われて逃亡先の堺で病死した。

筒井順吉【つついじゅんよし(15??~15??)】

筒井順昭の男。

筒井順慶【つついじゅんけい(1549~1584)】

筒井順昭の次男。官途は官符衆徒。別名筒井藤政、陽舜房順慶。室は妻木広忠の娘。1550年、興福寺官符衆徒、大和国守護代の病没により筒井家の家督を相続した。1559年、松永久秀が大和国に侵入すると、大和国から落延びた。その後、三好家の内紛を利用して、三好三人衆と結ぶなどして松永久秀に対抗した。興福寺成身院において出家得度し、官符衆徒に列した。1571年、織田信長に背いた松永久秀の討伐に参陣した。松永久秀は、足利義昭を奉じた織田信長に降伏して大和守護職に任ぜられていた。筒井順慶は松永久秀に対立する勢力として起用され、明智光秀の寄騎衆となって戦功を挙げた。1576年、織田信長によって、大和国守護職に任じられ、郡山城を築城した。1582年「山崎の戦い」では、明智光秀に属さず、郡山城を動かなかった。明智光秀に属さなかったことにより「洞ケ峠」と嘲笑されることとなったが、羽柴秀吉から大和国を安堵された。1584年「小牧、長久手の戦い」で、陣中で発病し郡山帰城後没した。教学に励み、謡曲、茶の湯にも秀でており、刀剣、能面、謡本、茶器などの遺品も多く残された。

筒井城之介【つついじょうのすけ(15??~15??)】

筒井順昭の三男。

筒井定次【つついさだつぐ(1562~1615)】

慈明寺順国の男。筒井順慶の養子。官途は伊賀守。通称藤四郎。室は織田信長の娘(秀子)。1584年、人質として大坂城にあり、羽柴秀吉に仕えて「小牧、長久手の役」に参陣した。筒井順慶の病没後、筒井家の家督を相続して郡山城主となった。1585年「四国征伐」に参陣して伊賀国上野城200,000石に転封になった。1590年「小田原の役」に参陣した。1592年「文禄の役」では肥前名護屋に在陣した。1592年、ヴァリニャーノを通じてキリスト教に受洗を受けた。1600年「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが、上野城は石田三成勢により落城した。役後、大坂方の大野治長と誼を通じるなどしていた。1608年、キリシタン信仰や家臣の内紛もあり、中坊秀祐の讒によって改易され、陸奥岩城の鳥居忠政に預けられた。1615年「大坂夏の陣」後に嫡男筒井順定と共に自刃した。
 
筒井順定【つついじゅんてい(1601~1615)】

筒井定次の男。通称は藤太郎。1608年、父筒井定次が改易されると、父筒井定次と共に磐城平城主鳥居忠政のもとに預けられた。1615年「大坂冬の陣」において、羽柴秀頼と内通したという罪により、父筒井定次と共に自刃させられた。

筒井紀伊守【つついきいのかみ(15??~1610)】

筒井城之介の男。松平元康に仕えた。

筒井新兵衛【つついしんべい(15??~15??)】

筒井順慶の男。母は南石蛸助の娘。

唐院秀満【とういんひでみつ(15??~15??)】

広瀬郡唐院城主。箸尾高春家臣。松永久秀に属した。1577年。松永久秀と共に討死した。

唐古与三郎【とうこよさぶろう(15??~15??)】

広瀬郡唐古城主。箸尾高春家臣。枝連衆の唐古東家および唐古南家は長谷川党に属した。

十市遠治【とおいちとおはる(15??~1534)】

十市郡十市城主。十市遠相の次男。通称新次郎。興福寺大乗院領の荘官として国判衆のひとり。1491年、父十市遠相が病没後、十市家の家督を相続した。1497年、越智家栄、越智家令父子と「壺阪寺で戦い」撃破して大和国に復帰した。1505年、春日社頭で大和国人衆が和睦、筒井順賢、布施、箸尾為国と共に越智家令らと和睦して国人一揆を結成した。1506年、細川政元の家臣赤沢朝経が古市澄胤の協力のもと大和国へ侵攻、十市遠治は敗北して他の国人衆と共に没落した。1507年「永正の錯乱」で、細川政元が謀殺され、赤沢朝経も丹後国で討死すると、大和国の細川家勢を
駆逐して本拠地へ戻った。細川澄元の家臣赤沢長経が再び大和国に侵攻した。大和国人衆は、畠山尚順、畠山義英らと連繋をとって細川澄元勢と戦ったが、国人衆はことごとく没落した。1508年、足利義稙の上洛で細川澄元と畠山尚順、畠山義英らが再度分裂、足利義稙と足利義澄、細川澄元、畠山義英との内乱が勃発。十市遠治は筒井順賢らと共に足利義稙、細川高国、畠山尚順方となって戦った。赤沢長経と古市澄胤が畠山尚順に敗れて自刃した。

十市遠忠【とおちとおただ(15??~1546)】

十市遠治の男。室は筒井順興の娘。1533年、十市遠治の病没により十市家の家督を相続した。大和国十市郡、城上郡、山辺郡に勢力を持ち、馬上六十騎を率いた。木沢長政と結ぶ筒井順昭と連年抗争を続けた。1540年、筒井順昭と和睦し、有力な家臣となった。1542年、木沢長政が討死すると筒井順昭に属して勢力をさらに拡大し、十市遠忠は木沢長政領に侵攻、楊本城や福智城などを攻め落とした。1544年、筒井順昭の柳生攻めに協力するため兵300余りを派遣した。和歌、書に長じ、公家衆とも親交が深かった。

十市遠勝【とおちとおかつ(15??~1569)】
 
十市遠忠の男。1545年、父十市遠忠の病没により十市家の家督を相続して十市城主となった。1559年、松永久秀が大和国に侵攻すると、松永久秀に降った。1565年、筒井順慶は三好三人衆と結んで松永久秀と敵対した。1562年、畠山高政に属して三好義賢を「久米田の戦い」で破って、高屋城を奪取した。続く「教興寺の戦い」にも参陣するが敗れて湯川直光らが討死した。松永久秀に降り、娘のおなへ(御料)と家臣大木重介の子息を人質として降伏した。1567年、東大寺大仏殿の戦いを切っ掛けに三好三人衆と松永久秀が対立し、十市遠勝は三好家に属したため、家中が内部分裂した。1568年、森屋城の秋山直国を攻略した。今井の河合清長の居宅で三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わした。松永久秀に通じた秋山直国の攻撃を受け龍王山城から十市城へ退去した。箸尾高春も松永久秀に鞍替えして、秋山直国と共に筒井順慶と十市遠勝を攻撃した。十市衆が守備に入っていた大西城落城、森本主水介、中井才三郎などが討死した。十市遠勝も遂にその勢いに対抗し切れず、再度松永久秀に内応することにいたった。1569年、十市遠勝が病没すると、親松永派(十市後室、おなへ、河合清長、伊丹源二郎、田中源一郎、川嶋藤五郎、上田源八郎、森本喜三) と親筒井派(一族の十市常陸介遠長)に分裂した。

十市遠長【とおちとおなが(15??~1593)】

十市遠忠の次男。官途は常陸介。1569年、兄十市遠勝の病没後、十市家の家督を相続した。筒井順慶と同盟を結び、織田信長に仕えた。1572年、河合清長の館に居た十市後室、おなへ(御料)は、松永久秀方の柳本城に移った。柳本城では、森本左京は自刃し、伊丹源二郎、森本喜三は捕縛された。1574年、九条城を攻撃、次いで内膳城を攻撃して城主藤田左近を討取った。森屋家と筒井順慶との三家同盟を成立させた。1575年、織田信長から離反すると、松永久通から攻撃を受け十市城を失い、筒井順慶に仕えた。1577年、織田信長に謀反した松永久秀、松永久通が討死しすると、嫁いでいた姪のおなへが実家に戻ってくると、おなへは十市家の家督を主張して、筒井家の縁戚布施家より婿養子十市藤政を迎え、十市宗家の家督を相続させた。十市遠長との家督争いに発展した。1584年、筒井順慶が病没して、筒井定次が家督を継ぐと役を辞して帰農した。

十市藤政【とおちふじまさ(15??~15??)】

十市遠勝の婿養子。通称は次郎。室は十市遠勝の娘(おなへ)。布施家の出身で十市遠長が筒井順慶との密接な関係を結んだことで十市遠勝の娘との婚姻を成立させたが、この事が十市家の督騒動に発展し、家中は分裂して争った。1584年、筒井順慶が病没して、筒井定次が筒井家の家督を相続するとこれに仕えるが伯父十市遠長は辞して筒井家を去った。1592年「文禄、慶長の役」では、筒井定次が参陣し、十市藤政は留守居役を務めた。1608年、筒井定次が改易されると十市藤政も職を辞して帰農した。

十市藤満【とおちふじみつ(1582~15??)】

十市藤政の男。

十市忠之【とおちただゆき(15??~15??)】

十市遠益の男。十市遠長の養子。官途は縫殿助。十市遠長の養子となり、十市城主となった。1585年、筒井定次は伊賀国転封となるが、十市忠之は大和国に残って羽柴秀長に仕えて3,000石を領した。1594年、羽柴秀保の死により主家が断絶すると浪人した。1615年「大坂夏の陣」では、弟十市忠次は討死したが十市忠之は落延びた。

十市忠次【とおちただつぐ(15??~1615)】

十市遠益の次男。十市遠長の養子。1614年「大坂冬の陣」が起こると、兄十市忠之と共に大坂城に入城した。1615年、兄十市忠之と共に長宗我部盛親の組に属し、八尾で藤堂高虎勢と戦い痛撃を与えるが、撤退中に壊滅的打撃を被った。その際、十市忠次は討死した。

鞆田重順【ともたしげじゅん(15??~15??)】

鞆田城主。古市家臣。都祁水分神社の神主職にあった在地土豪で、大乗院門跡坊人で国民であった。山内七庄(鞆田、無山、小山戸、藺生、水涌、南殿、向淵、針)の代官を務めた。1563年、鞆田重順が立願し年預を勤めて鞆田の邸宅で千句連歌会を開催した。

鞆田重純【ともたしげずみ(15??~1615)】

鞆田重順の男。1615年「大坂夏の陣」に参陣して平野表で討死した。

豊井権助【とよいごんすけ(15??~1570)】

山辺郡豊井城主。興福寺一乗院門跡坊人のひとり。1506年、筒井順賢の属して、赤沢朝経勢と戦ったが「豊井の戦い」で、豊井藤鶴をはじめ豊井辰巳ら枝連衆の多数が討死した。松永久秀が大和国に侵攻すると筒井順慶に属して戦った。1570年「郡山の戦い」では、豊井権助が討死した。

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【な】

中井正吉【なかいまさよし(1533~1609)】

法隆寺番匠(宮大工)。通称孫太夫。1583年、片桐且元に請われ大坂城の築城に協力した。1598年、方広寺大仏殿の作事で大和の大工を束ねる司を務めた。

中井正清【なかいまさきよ(1565~1619)】

中井正吉の男。官途は大和守。通称藤右衛門。法隆寺番匠で、法隆寺の屋根に上がるため殿上人でなければならず代々官位を得た。1588年、松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」に参陣した。1614年「大坂の両陣」にも参陣した。中井正清は土木に優れ、禁裏造営、駿府城天守普請、京都方広寺大仏殿再建、名古屋城普請、江戸城普請、二条城普請、知恩院、江戸の町割り、増上寺、内裏、日光東照宮、久能山東照宮などを手がけた。

長柄休斎【ながえきゅうさい(15??~15??)】

山辺郡長柄城主。興福寺大乗院門跡坊人、衆徒に列した。1568年、松永久秀勢の箸尾為綱の攻撃を受け、長柄城は落城、枝連衆の多数が討死した。1575年、織田信長勢の柴田勝家が十市家に命じて長柄城を接収した後は、十市郷侍衆に追われて逐電、滅亡した。

永原与次郎【ながはらよじろう(15??~15??)】

永原城主。大和武士団においては散在党に属した。八條藤政に布留神領七町を売却した。

中坊盛祐【なかのぼうもりすけ(15??~15??)】

筒井家臣。中坊秀友の男。官途は讃岐守。中坊家は菅原道真の後裔柳生永珍の弟が山城国笠置寺の宗徒となって中坊家を称したことに始まる一族。奈良家と称した。1527年、父中坊秀友は足利義晴に仕え、春日大社造営の奉行を務めた。1547年、奈良の奉行を務めた。

中坊秀国【なかのぼうひでくに(1542~1560)】

中坊盛祐の男。1560年「京都本国寺の戦い」で、和田惟政を討取る寸前で和田惟政の家臣恩地小太郎に討たれた。

中坊秀祐【なかのぼう ひですけ(1551~1609)】

中坊盛祐の次男。官途は飛騨守。吉野郡で3,500石を領した。1580年、春日大社造営の奉行を務めた。筒井定次に仕えたが寵愛され、専横を振るようになった。さらに島清興と常に対立し、筒井定次に対して島清興を讒言し、筒井家から追放に追い込んだ。1608年、駿府城の松平元康に対して筒井定次の不行状を訴えたが、これが原因で筒井定次は改易に追い込まれた。筒井家改易後に幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられ、大和国、近江国の直轄領を支配した。1609年、筒井家の旧臣が雇い入れた忍び衆に謀殺された。

中坊秀政【なかぼうひでまさ(15??~15??)】

中坊秀祐の男。官途は飛騨守。松平元康に見出されて弓持旗本から累進し、父中坊秀祐の没後に同じく奈良奉行を勤めた。

楢原遠治【ならはらとうはる(15??~15??)】

楢原城主。興福寺大乗院方の国民。楢原城30,000石を領した。1505年、赤沢朝経、赤沢長経らの大和国侵入に対しては大和国国人一揆に連判して抵抗した。

楢原光之【ならはらみつ(15??~15??)】

楢原遠治の男。筒井順昭に仕えた。

楢原俊久【ならはらとしひさ(15??~15??)】

楢原光之の男。官途は周防守。筒井順昭、筒井順慶の二代に仕えた。筒井定次の伊賀国転封には同行せず、伊賀国で帰農した。

仁興英勝【にごうえいかつ(15??~15??)】

山辺郡仁興城主。1505年、赤沢朝経の大和国侵攻に際しては筒井順賢に属した。

西田井則秀【にしたいのりひで(15??~15??)】

西田井城主。万歳家枝連衆。万歳郷における所領は万歳家に次いで二番目であった。

丹生谷金兵衛【にぶやきんべい(15??~15??)】

芳野清兼家臣。宇陀郡七人衆のひとり。

野原頼勢【のはららいせい(15??~15??)】

宇智郡野原城主。1558年「郡内一揆」においては、野原頼勢が国人衆の一員として連判状に署名した。

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【は】

箸尾為政【はしおためまさ(15??~1546)】
 
北葛城郡箸尾城主。箸尾為高の男。通称次郎。1546年、大和国の支配権を巡って、筒井順昭と争ったが、薪能に参加したところを筒井順昭の宿坊で謀殺された。箸尾為政を謀殺した筒井順昭は、越智家広の貝吹城を攻め、さらに十市遠忠の城をせめ陥落させ、大和国の覇者たる威勢を示した。1547年、箸尾城も破却された。

箸尾高春【はしおたかはる(1546~1615)】

箸尾為高の次男。官途は宮内少輔。別名箸尾為綱。室は筒井順昭の娘。継室に筒井順慶の養女(布施の娘)。筒井順慶と戦ったが、後に筒井順昭の娘を室として迎えて和睦した。筒井順慶に仕えて25,000石を領し、寄騎衆(布施、万財、南郷、東院、寺田、唐院)を含めて40,000石を収めた。1580年、織田信長が筒井順慶に大和国を任せるとそれに従った。筒井定次が伊賀国に転封されると、それに従わず、大和国に入ってきた羽柴秀長に仕えた。羽柴秀長が病没すると羽柴秀保にも仕えたが、羽柴秀保が病没すると羽柴秀吉に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、筒井定次の高取城を攻撃したが役後に改易された。1614年「大坂冬の陣」直前に大野治房の誘いを受けて筒井家の旧臣を糾合して、大坂城に入城し、大野治長配下として奮戦した。1615年「大坂夏の陣」で討死した。

八条藤政【はちじょうふじまさ(15??~15??)】

筒井順昭家臣。筒井家老職。福住宗職と共に筒井順昭に仕えた。

八田遠勝【はったとうかつ(15??~15??)】

八田城主。大乗院門跡坊人で国民ひとり。春日若宮祭礼には長谷川党の一員として参列していた。十市遠清の弟十市遠勝を養子に迎えて枝連衆に加わったが、十市家が国民であったために八田家も国民に転じた。

花内式部【はなうちしきぶ(15??~15??)】

北花内城主。布施行政家臣。

丹生文右衛門【はにゅうぶんざえもん(15??~15??)】

丹生城主。丹生神社の神主職を務めた。

吐山光政【はやまみつまさ(15??~15??)】

都祁城主。興福寺衆徒筆頭にして水分宮神職の鞆田家、来迎寺大檀乙として多田荘より進出を目論む多田家、そして吐山家の三大勢力が鼎立した。1559年、松永久秀が大和国に侵攻すると、吐山光政は松永久秀に属した。1571年、松永久秀が没落しはじめると、松永家に属していた郡山城付城にて離反、共に詰めていた簀川助貞を討ちとるかたちで松永久秀を裏切った。

吐山七郎【はやましちろう(15??~1576)】

吐山光政家臣。1576年「石山本願寺城の戦い」では、枝連衆の中で剛の者とされた吐山七郎が討死した。 

飯田基直【はんだもとなお(1494~1561)】

筒井順興家臣。

飯田頼直【はんだよりなお(15??~15??)】

飯田基直の男。官途は出羽守。室は筒井順興の娘。松永久秀の筒井家乗っ取りの提案を拒否したため筒井順昭の信頼を獲得した。

飯田直宗【はんだなおむね(15??~15??)】

飯田頼直の男。室は飯田基次の娘。父の弟飯田基次の婿となり、寄騎衆と合わせて20,000石を領した。

吐田遠光【はんだとおみつ(15??~15??)】

吐田城主。興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。大和武士団では葛上党に属した。1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆に吐田遠光も参加し国判衆十二氏に連なった。

吐田遠隆【はんだとうたか(15??~15??)】

吐田遠光の男。1567年、吐田郷に侵入した河内畠山家を撃退した。しかし筒井順慶の代になるとこれから離反した。1581年、筒井順慶によって郡山城で自刃されられ、その所領は島清興に与えられた。弟吐田栄順房も放火の罪で追われて自刃、吐田家は滅亡した。



番條懐盛【ばんじょうちかもり(15??~15??)】

高市郡北ノ(番條)城主。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。越智広長に属したが、筒井順昭が大和国の北部を勢力下に治める頃には、興福寺六方衆の大方が筒井順昭に属するようになった。1559年、松永久秀の大和国侵入時には、筒井順慶に属して松永久秀勢に抵抗したが北ノ城は落城した。番条懐盛は近隣の丹後庄家、小泉家、横田家らと連携しながら東山内に後退して抵抗を続け、福住宗職、山田順貞ら筒井家内衆に従って幼い筒井順慶を護り続けた。1571年、筒井順慶の反攻作戦に参陣して番條懐盛は城を奪還した。

番條懐慶【ばんじょうちかよし(15??~15??)】
 
番條懐盛の男。通称五郎。1571年、番條懐盛が忠義を尽くした筒井順慶が大和国に復帰すると、番條懐盛も北ノ城を回復した。筒井順慶は、後継者として番条懐慶を指名したが、番条懐慶が辞退したため、筒井順慶の叔父慈明寺順国の嫡男、筒井定次が後継者となった。

稗田兵蔵【ひえたひょうへい(15??~15??)】

稗田城主。筒井順慶家臣。

檜牧静秀【ひのまきしゅんしゅう(15??~15??)】

宇陀郡檜牧城主。沢房満の枝連衆。「宇陀七人衆」のひとり。式内御井神社の神官を務めた。1554年、沢房満の陣代を務めた。1560年、松永久秀の侵攻により檜牧城を開城させられた。

広瀬左近【ひろせさこん(15??~15??)】

広瀬郡広瀬館主。広瀬神社の神官職。

平等坊休可【びょうどうぼうきゅうか(15??~1506)】

山辺郡平等坊城主。興福寺一乗院門跡坊人、衆徒に列した。1506年、筒井順賢の属して、赤沢朝経勢との「豊井の戦い」で討死した。

笛堂善五郎【ふえどうぜんごろう(15??~15??)】

笛堂城主。布施行政の枝連衆。

深川宗重【ふかがわむねしげ(15??~15??)】

下深川城主。興福寺大乗院領上深川荘の代官を務めた。

福智堂宗閑【ふくちどうそうかん(15??~15??)】

山辺郡福智堂城主。興福寺大乗院門跡坊人、衆徒のひとり。1568年、松永久秀に降伏した。

福住宗職【ふくずみむねもと(15??~15??)】

福住城主。筒井家老職。官途は紀伊守。別名福須美宗職。筒井順昭時代から家政に携わった。

福住順弘【ふくずみとしひろ(15??~15??)】

筒井順興の次男。福住宗職の養子。室は筒井順昭の娘。1582年「本能寺の変」後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。

福住慶之【ふくずみじょうけい(1556~1615)】

福住順弘の次男。筒井順慶の養子。別名筒井定慶。筒井順慶死後、後継した筒井定次は伊賀国上野城へ転封され、福住定慶は大和国に残って新たに郡山城主となった羽柴秀長に仕えた。羽柴秀長が病没すると、松平元康に仕えた。1608年、筒井定次が改易されると筒井家の家督を相続して、郡山城の城番として10,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢の大野治房が来襲、郡山城を包囲し城下街に放火した。大野勢が2,000余だったのに対し福住定慶の手勢は僅か36騎余りで、福住定慶は城を放棄した。戦後それを恥じて自刃した。

福住順斎【ふくずみじゅんさい(15??~15??)】

福住順弘の三男。筒井順慶の養子。官途は紀伊守。兄福住定慶や弟福住慶之と同じく従兄に当たる筒井順慶の養子になるが、跡を継ぐことはなかった。1608年、後継の従兄筒井定次が改易されると、兄福住定慶が筒井家の家督を相続して、郡山城の城番として10,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢の大野治房が来襲、郡山城を包囲し城下街に放火した。大野勢が2,000余だったのに対し福住定慶の手勢は僅か36騎余りで、兄福住定慶は城を放棄した。戦後それを恥じて兄福住定慶と弟福住慶之は自刃した。福住順斎は松平元康の馬廻衆として筒井家を存続させた。

福住慶之【ふくずみよしゆき(15??~1615)】

福住順弘の三男。筒井順慶の養子。官途は紀伊守。筒井順慶の養子となるが、筒井順慶死後の跡は同じく養子で従兄の筒井定次が継いだ。1608年、筒井定次が改易されると筒井家の家督を相続して、郡山城の城番として10,000石を領した。1615年「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼勢の大野治房が来襲、郡山城を包囲し城下街に放火した。大野勢が2,000余だったのに対し福住定慶の手勢は僅か36騎余りで、福住定慶は城を放棄した。戦後それを恥じて兄福住慶之と共に自刃した。

藤井広英【ふじいひろひで(15??~15??)】

城上郡藤井城主。十市家臣。

藤原道順【ふじわらみちじゅん(15??~15??)】

藤原城主。古市党の寄騎衆として筒井家との対立を続けた。古市澄胤の活躍期には縁戚関係もあったが、古市澄胤の衰退にともなって、筒井順興に属した。

布施行政【ふせゆきまさ(15??~15??)】

葛下郡布施城主。官途は安芸守。興福寺一乗院国民のひとりで布施城22,000石を領した。布施家は、平田荘の荘官より成長した有力国人で、西山内においては楢原家と並ぶ筒井家党の雄で勢力を伸張した。1505年、赤沢朝経勢の侵入に対して結成された大和国国人一揆に布施国行も参加し国判衆十二氏に連なった。筒井家の大和統一に少なからぬ力を尽くした。

布施行盛【ふせゆきもり(15??~1577)】

布施国行の男。通称左京進。室は筒井順昭の娘。筒井順慶が最も愛したと思われる側室松姫は布施家の出身で、筒井順慶の病没後は出家剃髪した。1565年、松永久秀に急襲を受けて筒井城を失陥した筒井順慶を布施城に迎えた。その後、松永久秀に属した高田当次郎を攻撃した。このため、松永久秀が布施行盛から取っていた人質は串刺しになった。筒井順慶は三好三人衆と結び、筒井城を奪還した。布施行盛はこの間、高田城を包囲してその活動を封じ込めた。1568年、織田信長に属した松永久秀によって、筒井順慶はまたも筒井城を追われ、福住城に落延びた。1571年、筒井順慶が辰市城で松永久秀を破ると、布施行盛は松永久秀に属した高田当次郎の出城を攻略した。この戦いを境に高田氏は没落の一途をたどっていった。1577年、孫布施行国により自刃に追い込まれた。

布施行忠【ふせゆきただ(15??~15??)】

布施行盛の男。

布施行国【ふせゆきくに(15??~15??)】

布施行忠の男。通称弥七。1577年、祖父布施行盛を謀殺した。

二見左衛門大夫【ふたみさもんだいぐ(15??~15??)】

宇智郡合部山城主。宇智郡豊井荘の二見郷を本拠とした豪族衆。1532年、河内国守護代木沢長政に属し、宇智郡の豪族衆を率いて参陣した。木沢長政は、畠山義英を謀殺すると、大和国に侵攻して信貴山城を築城した。二見左衛門大夫は、木沢長政に属して、宇智郡の豪族衆を率いて参陣した。1542年、木沢長政が討死すると、畠山尚順に転じて本領安堵を受けた。

二見光重【ふたみみつしげ(15??~15??)】

二見左衛門大夫の男。官途は左京亮。1557年、宇智郡では打ち続く戦乱のなかで困窮した農民層を代表する地侍衆が連判して、 国衆宛に要求書を出した。対する二見光重ら国人衆たちも抗争をやめ大同団結して「宇智郡惣一揆」を結んだ。1568年、足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると、大和国は松永久秀は与えらえれると二見光重は、三好康長に属して、高野山勢力と結んで織田信長方の坂合部城を攻略した。

古市公胤【ふるいちきみたね(15??~15??)】

古市城主。古市澄胤の次男。1508年、細川澄元は家臣赤沢長経と共にに河内国高屋城主の畠山尚順を攻めたが敗れ自刃、その際、父古市澄胤、兄古市胤盛が討死した。1520年、筒井順興の攻撃を受け古市公胤方の油山城が落城すると、古市家内衆の井上九郎らが筒井順興に寝返った。その後も、古市公胤は勢力を挽回できず、鉢伏城を本拠とした。筒井順昭に属したのち、松永久秀に従った。松永久秀が滅亡すると古市家も滅亡した。

別所宗久【べっそむねひさ(15??~15??)】

山辺郡別所城主。官途は対馬守。山田家の庶家。

法貴寺丹波守【ほうきじたんばのかみ(15??~15??)】

城下郡法貴寺城主。法貴寺党。興福寺大乗院門跡寄所荘園を管轄して法貴寺の住職を兼ねた。

宝来春竹【ほうらいはるたけ(15??~15??)】

宝来ノ城主。興福寺一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1559年、松永久秀の大和国侵攻にも宝来春竹が抗戦し、城に攻め寄せられて落城している。

細井戸左近【ほそいどさこん(15??~15??)】

北葛城郡細井戸城。通称三郎。一乗院門跡坊人で衆徒のひとり。筒井家党として戦功を挙げ、越智家広や松永久秀らと度々戦を繰り広げた。1543年、越智家広方の万歳則盛の攻撃を撃退した。万歳則盛が和議を申し入れ、唐物茶碗「大海」を進物としましたが細井戸左近は万歳則盛の下心を疑い「大海」のみ受け取って和議を拒否、再びた戦に発展した。この事態を世間では「あさましや 世はさかさまに なりにけり ほそ井の中ゐ おつる大海」と嘲笑った。松永久秀の大和国侵攻により、箸尾高春が松永久秀に属したため、細井戸左近は箸尾高春との対立抗争にも入り、箸尾高春からの攻撃を何度も受けた。1561年、箸尾高春は細井戸城に攻め寄せましたが撃退した。1565年「高田川の戦い」では、箸尾師長を撃退した。1570年、箸尾高春によって細井戸城は落城、細井戸家の精鋭はこのとき多くが討死した。筒井順慶方は反攻に出て布施行盛の家臣高階高久が万歳則盛の応援を得てこれを奪回、これに箸尾高惟が攻め寄せましたが討死した。続いて箸尾高春が攻め寄せるといった戦いを繰りげた。

堀内市之助【ほりうちいちのすけ(15??~15??)】

吉野郡龍王城主。秋津家とは縁戚関係にあった。秋津守政が枝連衆の秋津守信に攻められて討死した際は、その所領を受け継いだ。1578年、筒井順慶の下市攻撃に際して籠城防戦したが落城した。

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【ま】

松倉政秀【まつくらまさひで(15??~15??)】

添上郡横田館主。通称弥七郎。島清興、森好之と共に筒井家の三家老と称された。筒井順昭、筒井順慶の二代に仕えた。1553年、春日大社に灯籠を寄進した。

松倉重信【まつくらしげのぶ(1538~1593)】

松倉政秀の次男。通称権左衛門。官途は右近大夫。島清興と並んで筒井家の両翼と目され、「右近左近」と称された。また森好之も加えて「筒井家の三家老」とも称された。筒井順慶に仕えて2,500石を領した。主に内政、外交を担した。1582年「本能寺の変」では、筒井順慶へ有名な「洞ヶ峠の日和見」の献策をした。1585年、筒井定次が伊賀国上野城に転封されるとこれに従い、伊賀国名張城8,300石を領した。

松倉重政【まつくらしげまさ(15??~1630)】

松倉重信の男。官途は豊後守。通称九十郎。室は筒井定慶の娘。筒井定次に仕えて伊賀梁瀬城主。1600年「関ヶ原役」では、松平元康勢に属して大和国五条城10,000石を領した。1614年「大坂両の陣」に参陣して、肥前国島原城40,000石を領した。松平秀康に従って切支丹弾圧を推し進めた。幕閣に接近を図って領民に重税を課して献金、島原城を築城し、領内に圧政を敷いた。千々石村の和田四郎左衛門義長の訴えにより、海風による塩害を防ぐために千々石海岸に堤防を築き松を植えさせた。1630年「呂宋征伐」を進言するが、実行に至らず病没した。

松倉勝家【まつくらかついえ(1597~1638)】

松倉重政の男。官途は長門守。1630年、松倉家の家督を継ぎ島原城主となった。父同様領民に重税を強い、苛政を行い、切支丹弾圧に傾注したため切支丹一揆を誘発した。1637年「島原の乱」を引き起こした。江戸にあった松倉勝家は急遽島原に戻って鎮圧勢に加わり、原城を落とすものの改易され、美作国に配流されて森長継預かりとなり、のち領内の一揆を招いた罪を問われて斬首された。

松蔵弥八郎【まつくらよはちろう(15??~15??)】

筒井順慶家臣。1581年「第二次天正伊賀の乱」に枝連衆の松蔵弥二郎と共に参陣しがた、負傷した。他に中村九郎三郎らも負傷した。

万歳則盛【まんざいのりもり(15??~15??)】

葛下郡万歳平城。興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。枝連衆には、万歳南、万歳北、万歳西らがおり、家臣として岡崎、奥、田中らがいた。1505年、大和国判衆十二氏に万歳則定が加わり、赤沢朝経および赤沢長経の侵攻を万歳城にて迎え撃った。1518年、河内遊佐長教から攻撃を受けた。

万歳則定【まんざいのりさだ(15??~15??)】

万歳則盛の男。1562年、松永久秀が大和国に侵攻すると一度は降るが、まもなく筒井順慶に帰属して松永久秀に対抗、三度まで万歳城に攻め寄せられたが死守した。1568年、松永久秀に万歳郷を焼かれた。その後は筒井順慶の家臣として織田信長に仕えた。1582年「武田家征伐」に参陣した。大和国八人衆の一人に連なり、名物茶器「万歳大海」を所持したことでも知られた。

三ヶ谷肥後守【みかたにひごのかみ(15??~15??)】

山辺郡三ヶ谷城主。三ヶ谷家は大乗院門跡坊人で国民であり、筒井家に属して越智家と戦った。都祁地域の小倉家寄騎衆。

森野図書【もりのずしょ(15??~15??)】

小川弘茂家臣。小川家の家臣として宇陀郡の小川家領を任された。

森好之【もりよしゆき(1518~1581)】

筒井順興家臣。官途は志摩守。室は筒井順興の娘。島清興、松倉重信と並んで「筒井家の三家老」と称された。 森本城に7,000石を領した。

森好高【もりよしたか(15??~15??)】

森好之の男。官途は縫殿助。通称九兵衛。室は松倉重信の娘。1581年、父森好之の病没により森家の家督を相続した。筒井定次の移封により伊賀国に従った。1587年、伊賀国を去り南都傳香寺に遊居と伝える。

森好久【もりよしひさ(1538~1582)】

森好高の従兄弟。官途は隼人佐。通称傳助。室は小泉四郎左衛門秀元の妹。2,000石を領した。1577年、織田信長による「信貴山城の戦い」の際、松永久秀勢に潜入して筒井家の軍勢を城内に手引きした。

森家臣団【もりけかしんだん】

森好武、森好頼。

諸木野弥三郎【もろぎのよさぶろう(15??~15??)】

秋山直国家臣。1569年「大河内城の戦い」では、大河内城に籠城した。諸木野弥三郎は大弓を持って敵味方の見物する中、弓を射て4~5町先にいる大木の上の男の喉もとを射抜きました。これを見ていた織田信長は「見事な腕である」と大いに驚き、て諸木野の射た矢に引出物を添えて城中に返還した。

桃谷与次郎【ももたによじろう(15??~15??)】

筒井定次家臣。1600年、伊賀国の忍び衆服部平七郎を雇い、中坊秀祐を謀殺した。
 
木阿弥【もくあみ(15??~15??)】

盲目の僧侶。別名黙阿弥。1551年、筒井順昭が没すると風貌が良く似ていたため、筒井順昭の影武者を務めた。筒井家が体勢を立て直し筒井順昭の病没を公表。筒井順慶を正式に当主とした。木阿弥は任を解かれ奈良に帰り「元の木阿弥」に戻った。

目安祐弘【めやすすけひろ(15??~15??)】

生駒郡目安館主。片岡重順家臣。1561年、松永久秀の攻撃を受け小泉城は落城、城主小泉重順をはじめ市原正弘、丹後庄舜英房、龍田道春、小南政祐、目安祐弘など十七人が自刃した。

道穂五郎【みちほごろう(15??~15??)】

北道穂館主。布施家臣。

持田藤七郎【もちだとうしちろう(15??~15??)】

小殿城主。吐田家臣。

室遠光【むろとおみつ(15??~15??)】

室城主。吐田家枝連衆。

邑地藤五郎【むらちとうごろう(15??~15??)】

邑地城主。古市家臣。

箕輪宗慶【みのわむね(15??~15??)】

山辺郡箕輪城主。

水間春澄【みずまはるずみ(15??~15??)】

山辺郡水間城主。山田家寄騎衆のひとりで、春日若宮祭礼にも戌亥脇党の一員として参陣した。

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【や】

柳生家厳【やぎゅういえよし(1497~1585)】

添上郡柳生城主。柳生重永の男。柳生家は、平安期に摂関家領の神戸四ヶ郷(大柳生、小柳生、阪原、邑地)のうちの小柳生荘の荘官となった大膳永家の庶流。1536年、畠山家臣木沢長政が信貴山に城を構え、大和国に侵攻した。柳生家厳は木沢長政に属して、筒井順興や二木民部少輔らと戦った。1542年、木沢長政は管領細川晴元、三好長慶と対立し「河内太平寺の戦い」で討死すると、筒井順昭は木沢残党を次々と攻略し、柳生家厳の居城である柳生城も攻撃を受けた。柳生家厳は筒井順昭に降伏、臣従し家名の存続を図った。その後大和国に松永久秀が侵攻すると松永久秀に寝返り「大和国攻略戦」に戦功を挙げた。その後、三好長慶が病没すると松永久秀と対立した三好家三人衆や筒井順昭らが戦うと、柳生家厳は松永久秀方に属した。松永久秀が織田信長に属して大和国に攻めこんだときにも松永久秀に属して筒井順慶を攻めた。

柳生宗厳【やぎゅうむねとし(1529~1606)】

柳生家厳の男。通称新左衛門。室は奥原助豊の娘(鍋姫)。別名石舟斎。

柳生家は14世紀ごろから代々大和の柳生の庄一帯を治める小領主であったが,宗厳はそのなかで戦国期の辛酸を最も多くなめている。36歳で上泉信綱に邂逅する以前の宗厳は,新当流その他の武芸を完全に修め,すでに兵法者としての名声は五畿内に高かったという。永禄6(1563)年,奈良宝蔵院で回遊中の信綱と立ち会い,その神技に感動して直ちに入門した。信綱から新陰流の印可状を与えられたのは,それからわずか2年後の永禄8年,翌9年には公案の「無刀取り」を師に示して,あまたいる門弟中ただひとり影目録3巻を授けられている。文禄3(1594)年,京都で5男宗矩と共に徳川家康に刀法を披露し,宗矩はこれをきっかけに徳川家に仕えることになる。晩年は石舟斎と号して柳生谷に隠棲した。

柳生厳勝【やぎゅうとしかず(1551~1616)】

柳生宗厳の男。1571年「辰市の戦い」で松永久秀に属して戦ったが、鉄砲で撃たれて半身不随となり隠退した。

柳生久斎【やぎゅうきゅうさい(15??~1605)】

柳生宗厳の次男。幼少時に出家した。

柳生徳斎【やぎゅうとくさい(15??~1624)】

柳生宗厳の三男。幼少時に出家した。

柳生宗章【やぎゅうむねあき(1566~1603)】

柳生宗厳の四男。通称五郎右衛門。1594年、弟柳生宗矩と共に松平元康に召されたが仕官せず、武者修行の末に小早川秀秋に召抱えられた。1600年「関ヶ原の役」では、小早川秀秋に近侍して警護の任にあたった。その後小早川家が改易されると、中村一忠の執政家老横田村詮に乞われて米子藩に客将として仕えた。1603年、横田村詮の才覚を妬み出世を目論む中村一忠の側近の安井清一郎、天野宗杷らの陰謀により、城内で催された慶事において謀殺された。これに対し横田家枝連衆を支持する家臣は憤りを感じ飯山に立て篭もると、柳生宗章も横田村詮への恩義から加勢した。隣国の堀尾吉晴の助勢を得た中村一忠により鎮圧され、その際に柳生宗章は吹雪の中で数本の刀を差して敵兵十八名を討取るなど奮戦するが、最後は刀折れて壮絶な討死を遂げた。

柳生宗矩【やぎゅうむねのり(1571~1646)】

柳生宗厳の五男。官途は但馬守。通称新左衛門。室は松下之綱の娘(おりん)。松平秀忠、松平家光の兵法師範を勤めた。父柳生宗厳の推挙によって松平元康の側近となった。1600年「関ヶ原の役」に参陣して戦功を挙げた。1601年、松平秀忠、松平家光の兵法師範に任ぜられた。1615年「大坂夏の陣」で、松平秀忠を急襲した木村重成の城兵七人を切り伏せる戦功を挙げた。1632年、惣目付として10,000石を領した。父柳生宗厳が上泉信綱から相伝し,改良した柳生家の新陰流は、柳生宗矩に至って将軍家の「御流儀」となりその公開を禁じられた。著書『兵法家伝書』。

柳生利厳【やぎゅうとしよし(1579~1650)】

柳生厳勝の次男。室は島清興の娘(珠姫)。通称兵庫助。祖父柳生宗厳のもとで剣術を学んだ。また、阿多棒庵より新当流長太刀(穴沢流薙刀術)を学んで皆伝を授った。1603年、加藤清正に仕えた。肥後加藤家領内で一揆が発生し、その鎮圧にあたった際、指示に従わない古参の伊藤長門守光兼を斬り捨て、一揆を鎮圧した後に、古参の将を斬った責を取って、加藤家から逐電した。1615年、成瀬正成の推挙で松平義直に仕えた。柳生利厳は松平義直に新陰流を直伝した。その後、三十年に渡って、柳生利厳は松平義直の兵法指南役として仕えた。

 矢田伊豆守【やだいずのかみ(15??~15??)】

矢田城主。興福寺一乗院門跡で衆徒のひとり。

楊本範遠【やなぎもとのりとお(15??~15??)】

式上郡楊本城主。1546年、木沢長政の属していたが、木沢長政が討死すると、楊本城は攻撃を受け落城した。

楊本範尭【やなぎもとのりたか(15??~15??)】

楊本範遠の男。1553年、楊本範尭が公卿三条西実条を吉野詣の途中に迎えて接待した。永禄年間には十市藤政に属して反松永久秀の立場をとった。1575年、十市家の内部分裂によって松永久秀勢力に楊本城を追われた。楊本範尭は筒井順慶の支援を受けて、楊本城を奪還を図ったが失敗した。

山糟林与【やまそうりんよ(15??~15??)】

沢房満家臣。宇陀郡山糟荘に在った豪族衆で、沢房満の勢力下にあった。

山田順貞【やまだじゅんてい(15??~1573)】

添下郡山田城主。別名山田道安。武将画家。筒井家枝連衆。山田順貞の妹は筒井順昭に嫁して大方殿と呼ばれ、後の筒井順慶を生んだ。兵火に焼損した東大寺大仏の修理を成し遂げたほか、自身も絵画や彫刻をよくし、当時の大和国を代表する文化人でもあった。「鍾馗図」「臨済裁松図」は、豪放かつ枯淡な画風を示す代表作。武人画家による作画は十六世紀以降盛んにおこなわれた。

山田順清【やまだじゅんせい(15??~1569)】

山田順貞の男。室は筒井順昭の娘(筒井大方殿)。父山田順貞は筒井順慶の母方の親類。筒井順慶の妹を室とし10,000石を領した。筒井順慶の与力衆として各地を転戦した。1569年「辰市の戦い」で討死した。

山田順智【やまだじゅんとも(15??~15??)】

山田順清の男。1569年、父山田順清の討死により、山田家の家督を相続した。1582年「本能寺の変」後、明智光秀に加勢するかを筒井順慶と共に話し合った。

山田宗意【やまだそうい(15??~15??)】

山田家枝連衆。分家筋として本家をよく補佐した。

山本外記【やまもとげき(15??~15??)】

宇陀郡深野城主。北畠晴具家臣。1581年「天正伊賀の乱」に、織田信長勢に攻められ落城。落城後、山本外記の弟山本刑部は地侍となり藤堂家に仕えた。

山村清胤【やまむらきよたね(15??~15??)】

山村城主。古市澄胤家臣。官途は筑後守。興福寺大乗院門跡坊人で衆徒のひとり。1497年、筒井順盛との戦いでは古市澄胤を支えたが「白毫寺の戦い」で討死した。

山陵春興【やまりょうはるおき(15??~15??)】

山陵城主。興福寺一乗院門跡坊人で国民のひとり。

結崎半蔵【ゆいざきはんぞう(15??~15??)】

磯城郡西結崎城主。延喜式内社糸井神社の神人。

横井則定【よこいのりさだ(15??~15??)】

横井城主。長井家臣。筒井家の攻勢をたびたび受けて長井家と共に早くから筒井家に属した。

横田治部【よこたじぶ(15??~15??)】

横田平城主。横田和爾下神社の神官として春日神人のひとり。筒井家の寄騎衆。

吉井常弘【よしいつねひろ(15??~15??)】

生駒郡立野城。吉井家、松岡家、上田家、東家、戌亥家等の庶家を輩出した。河内国畠山家の抗争では枝連衆が分裂して敵味方に分かれた。惣領家が畠山義就方であったのに対して分家筋の吉井常弘は畠山尚順方についた。

吉田義辰【よしだよしたつ(15??~15??)】

北葛城郡川合城主。松永久秀勢と戦った。

芳野堯円【よしのぎょうえん(15??~15??)】

宇陀郡芳野城主。官途は芳野民部大輔。1532年、宇陀郡の芳野堯円、秋山宗丹、沢房満と吉野郡小川弘茂は、宇太水分神社の神前で一揆盟約を結んだ。芳野堯円はこれを契機に東吉野地域の地侍の被官化はかり吉野郡地域への侵攻を図った。1537年、沢家麾下の守道家と合戦を行った。

芳野清兼【よしのきよかね(15??~15??)】

芳野堯円の男。官途は宮内少輔。芳野清兼は、筒井家の寄騎衆として大和国内を転戦していくことになる。「和州十五郡衆徒神人郷士」では筒井家の麾下に名を連ねて筒井家中の重臣たちと並んでいるので、芳野家が早い段階から筒井家の麾下に入っていたと考える。1562年、畠山高政に従い畿内侵攻。三好軍と「教興寺の戦い」で戦功をあげた。

米谷宗慶【よねたにそうけい(15??~15??)】

米谷城主。1581年、長谷寺の「人はいさ」の梅として知られる紅梅を接ぎ木して、若宮社前に献木した。

和田喜右衛門【わだきちざえもん(15??~15??)】

松倉重政家臣。松倉重政の時に和田家に跡継ぎがなく、松倉重政の弟が養子入りして家督を継ぎ、和田喜右衛門を称した。

若槻讃岐守【わかきさぬき(15??~15??)】

若槻館主。筒井家臣。

林堂山樹【りんどうさんき(15??~1520)】

忍海郡林堂城主。永正年間に河内畠山尚順の内衆に連なって室町幕府将軍の奉書を受けた。畠山尚順の領国である紀伊国をはじめ大和国にも守護代権力を行使して畠山尚順の活動を支えた。1520年、反畠山尚順の勢力の紀伊国人衆によって紀伊広城で謀殺された。林堂山樹が没した事によって畠山尚順の大和国への影響力は後退、筒井順興、越智家広は和睦した。

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【資料Ⅰ】

大和国(9郡/480,000石)

添上郡(添上郡、山辺郡/2郡):多聞山城、柳生城、今市城、椿尾城、古市城、窪之庄城、三ヶ谷城、桐山城、奈良街、興福寺、東大寺、超昇寺、薬師寺、西大寺、元興寺、大安寺。
添下郡:大和郡山城、筒井城、片桐城、若槻城、番條城、稗田城、小泉城、矢田城。
平群郡:信貴山城、生駒城、高山城、菜畑城、吉田城、土田城、目安城、笠目城、河原城。
葛下郡:(葛下郡、広瀬郡/2郡)高田城、新庄城、河合城、王寺城、上牧城、片岡城、箸尾城、下田城。
葛上郡:(葛上郡、忍海郡、宇智郡/3郡):佐味城、御所城、松本城、葛城城、忍海城、新庄城、五條城、二見城。
吉野郡:小川城、十津川城、上市城、下市城、北山城、大淀城、秋野城、白銀城。
宇陀郡:秋山城、沢城、松山城、多田城、山辺城、平井城、曾爾城、御杖城。
磯城郡(式上郡、式下郡、十市郡/3郡):山辺城、龍王山城、藤井城、福住城、別所城、柳本城、豊田城、三輪城。
高市郡:越智城、高取城、桜井城、田原城、今井城、八木城、野口城、芝村城。

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【資料Ⅱ】

宇陀郡三人衆【うだぐんさんにんしゅう】

秋山宗丹(三人衆筆頭)、芳野清兼、沢房満。

宇陀郡七人衆【うだぐんななにんしゅう】

秋山宗丹(七人衆筆頭)、赤埴満近、井足実栄、檜牧静秀、沢房満、芳野清兼、山辺康綱。

東山内衆【ひがしやましゅう】

大和国の「東山内衆」とは、興福寺および春日神社の支配領域で、「国中衆」とは地域称であった。興福寺や春日神社の被官となって衆徒、国民に列していた武士たちの身分称。

西山内衆【にしやましゅう】

矢田丘陵の西地域。

大和国四家【やまとよんけ】

筒井順昭、越智家栄、箸尾高春、十市遠勝の四家。

興福寺六方衆【ろっぽうしゅう】

奈良興福寺の僧兵。

興福寺門徒衆【こうふくじもんとしゅう】

南都六宗、法相宗の大本山の寺院で、南都七大寺のひとつ。藤原鎌足と藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原家の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。奈良法師と称された多数の僧兵を抱え大和一国を治める実力を持つに至った。戦国時代は織田信長と同盟を結びながら、勢力を維持し続けた。宝蔵院流槍術の宝蔵院胤栄なども有名。

妙楽寺門徒衆【みようらくじもんとしゅう】

多武峰勢力。藤原家の寺院でありながら宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけて度々領地などを巡り争論を繰り広げ、多武峯妙楽寺側の十市遠勝、越智家栄は興福寺側の楢原遠治、布施行政らの軍勢と小競り合いを繰り返していた。1506年、赤沢朝経軍に対する大和国人一揆(十市遠勝、箸尾高春、越智家栄)の抵抗戦した。1559年、松永久秀に対する十市家の抵抗戦といった「多武峰の戦い」と戦乱は絶えることがなかった。1585年、羽柴秀吉により郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。1590年、帰山を許された。

金峯山寺門徒衆【もんとしゅう】

金峯山寺の僧兵衆。修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに分かれ、本山派は天台宗系で、園城寺の円珍を開祖とした。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派の聖護院。当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。中世の金峯山寺は山上、山下に多くの子院をもち、多くの僧兵、その勢力は南都北嶺にも劣らないといわれた。1585年、大和国に入った羽柴秀長の武装解除要求に応じ、武具を供出した。

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【資料Ⅲ】

大和国【やまとのくに】

調査中。

奈良街【ならのまち】

奈良の町は、古代の都、平城京の外京とよばれる地域を中心に形成されました。都が京都へうつると平城京はまたたくまに荒廃してしまいましたが、京内にあった東大寺、興福寺、元興寺などの諸寺院はそのまま奈良にのこされました。のちに奈良は南都と称された。東大寺、興福寺の門前には、寺の仕事に従事するさまざまな人々が集まった。このような「街」を「郷」とよび、奈良の街は寺社の門前郷として発達した。平安時代末期、平家が勢力を強めると南都寺院と対立した。1180年、平重衡が南都を攻め、その兵火により東大寺、興福寺とともに奈良の町も大半が大きな被害をうけました。これら東大寺、興福寺などの復興は公家、武家の援助によっておこなわれ、門前の各郷も活気をとりもどしました。「南都七郷」の名がおこり、興福寺の一乗院、大乗院の両門跡郷、東大寺の転害郷なども加わり、やがて一乗院門跡郷に北市が、大乗院門跡郷に南市が開設されるようになり、商工業がますます発展していきました。戦国の争乱がおさまり、豊臣氏が政権をとると大和は豊臣秀吉の弟、秀長が領主となります。羽柴秀長は大和郡山を本拠地に井上源五高清を奈良代官に任命し、奈良椿井町の中坊屋敷を代官所として奈良の支配にあたりました。羽柴秀吉の奈良支配は、井上代官のもとに選ばれた十二の街を櫃本とし、そこから六人の街年寄が選ばれて奈良惣中を形成した。

興福寺【こうふくじ】

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。定昭の創立した一乗院と隆禅が創立した大乗院は皇族、摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。鎌倉、室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉、室町幕府は大和国に守護を設置できなかった。大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。1595年、織田政権に屈した。1595年「太閤検地」では、春日社興福寺合体の知行として寺領を21,000余石と認定された。

興福寺一乗院【いちじょういん】

摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家、鷹司家)の子弟が門主となることが多かった。京都御所の隣にも御里房(邸宅)があり、こちらは南都一乗院宮御里房とよばれた。中世に一乗院の属する南都の興福寺は、僧兵や衆徒も従え大和国の守護をつとめた一大武装勢力であり、比叡山の延暦寺と並び称され「南都北嶺」として恐れられた。足利義昭は、もともと近衛稙家の猶子として法名覚慶を名乗り一乗院の門跡となっていたが、兄足利義輝の謀殺にともない還俗し、織田信長の援助を得て将軍職を継いだ。大和国衆の筒井家は一乗院の衆徒の筆頭。

興福寺大乗院【だいじょういん】

九条家の管領に属し、九条流(九条家、二条家、一条家)の子弟が門主を務めることが多かった。『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子息)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われたあと、足利義昭の男が出家して法名を義尋と名乗り大乗院の門主となった。一乗院が筒井家を衆徒としたように、大乗院も古市家を衆徒とした。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂家、親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となったことはない。

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