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戦国豊後国人名事典

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【あ】

合沢市助【あいざわいちすけ(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘勢は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的には「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

一万田親実【いちまんだちかざね(15??~1553)】

大野郡小牟礼城主。一万田親泰の男。官途は弾正忠。一万田家惣領職として大友義鎮の重臣に名を連ねていた。大友義鎮が一万田親実の室に懸想して、室を奪われたうえに死に追いやられた。兄一万田親実の討死を知った高橋鑑種は大友義鎮の非道を恨んで、ついには叛意を抱くようになった。次男高橋鑑種、三男宗像鑑久。

一万田鑑実【いちまんだあきざね(15??~1588)】

一万田親実の男。官途は美濃守。別名宗慶。通称兵部大輔。嫡男一万田鎮実に一万田家の家督を譲って後は鳥ヶ鼻城主橋爪鑑種の跡を継承して橋爪鑑実と称した。大友義鑑死後はその子大友義鎮に仕えた。1553年、大友義鎮の命により父一万田親実や叔父宗像鑑久らが滅ぼされてしまい、これを受けて一万田鑑実が一万田家の家督を相続した。1550年「菊池義武討伐」「秋月文種討伐」では戦功を挙げた。1568年、叔父高橋鑑種が謀反を起こしたときも、大友義鎮に属して高橋鑑種を討伐した。1569年、毛利元就と戦った「多々良浜の戦い」では嫡男の一萬田鎮実、そして朽網鑑康と共に、乃美宗勝、桂元重を撃退した。1578年「耳川の戦い」では、殿軍を務めた。1586年、島津義久との戦いでも、諸将の寝返りが続出する中で、大友義鎮に属して戦功を挙げた。1588年、大友義統により自害を命じられて自刃した。

一万田鑑景【いちまんだあきかげ(15??~15??)】

一万田親実の次男。

一万田鑑通【いちまんだあきみち(15??~15??)】

一万田親実の三男。

一万田鎮之【いちまんだしげゆき(15??~15??)】

一万田親実の四男。1588年、突如として大友義統により兄一万田鑑実と共に自害を命じられて自刃した。

一万田鎮実【いちまだしげざね(15??~1587)】

一万田鑑実の男。室は大友義鎮の娘。1568年、叔父高橋鑑種の謀反鎮圧に参陣した。父一万田鑑実の橋爪家継承により一万田家の家督を相続した。1569年、立花山城番を命じられたが、毛利元就勢に阻まれ入城かなわず、城外で龍造寺隆信勢勢力を牽制した。「立花城の戦い」で毛利元就勢を破るが負傷した。大友義鎮の病没後は、大友義統に引き続き仕えた。1587年、突如として大友義統により自害を命じられて自刃した。

一万田統政【いちまんだ(15??~1588)】

一万田鑑実の男。1588年、突如として大友義統により父一万田鎮実と共に自害を命じられて自刃した。
 
一万田勘解由【いちまんだかげゆ(15??~15??)】

一万田家枝連衆。1600年「石垣原の戦い」で敗れると、講和のための使者となった。

臼杵長景【うすきながかげ(15??~1528)】

海部郡水ヶ谷城主。臼杵義直の男。官途は近江守。臼杵家は、元は大神姓であったが、後に大友家から養子を送り込まれて大友家枝連衆となった。臼杵長景は臼杵家出身者としては初の加判衆を務め、大友義長、大友義鑑の二代に仕えた。1516年「朽網親満の乱」で戦功を挙げた。1527年「佐伯惟治の反」でも戦功を挙げた。佐伯家との戦いの後に病を得て病没した。

臼杵鑑続【うすきあきつぐ(15??~1561)】

臼杵長景の男。官途は安房守。1528年、父臼杵長景の病没後に臼杵家の家督を相続した。加判衆として大友義鑑、大友義鎮の二代にわたって仕えた。外交方面で活躍し、たびたび幕府への使者となり、大内義隆との関係を修復するため和睦交渉や実子の無い大内義隆に大友義鑑の次男大友晴英(大内義長)を猶子として養子縁組させた。大友義鎮と一色義清の娘との婚礼交渉などで多大な功績を挙げた。さらに志摩郡代、好士岳城代を勤め、周辺の在地領主層との間に与力被官契約を結び、筑前国西部地域において大友義鎮の安定勢力構築や南蛮貿易にも多大な功績を挙げた。跡取りに恵まれず家督を弟臼杵鑑速に譲った。

臼杵鑑速【うすきあきすみ(1520~1575)】

臼杵長景の次男。官途は越中守。通称四郎左衛門尉。大友義鑑、大友義鎮の二代に仕え加判衆を務めた。吉岡長増と共に豊州家二家老と称されて内政面で大いに活躍した。軍事面、内政面を支える大友家三家老とも称された。兄臼杵鑑続と同じく外交面で活躍した。弘治年間より兄臼杵鑑続の後を受けて加判衆を務め、臼杵鑑続の職であった豊前国、筑前国守護職の継承などといった幕府との交渉を担当した。さらに毛利元就を始めとした近隣諸国、さらに影響下にある国人衆たちとの交渉などは、吉岡長増とこの臼杵鑑速が行なった。吉岡長増没後は島津義久と単独交渉を続けた。

臼杵鎮続【うすきしげつぐ(15??~1578)】

臼杵長景の三男。官途は安房守。通称新介。別名紹冊。筑前国志摩郡柑士岳城代。戸次鑑連や吉弘鑑理と共に大友家三家老と称された。1561年、兄臼杵鑑続の病没後、筑前国に入り、志摩郡の国人達を統率していた。大友義鎮はこの臼杵鎮続に命じて、博多の町の南東を流れ那珂川に注ぐ比恵川の氾濫を防ぐため大規模な治水工事を行わせた。博多湾に直接流れ込むよう作った川が現在の石堂川。比恵川の跡を堀として敵の来襲に備えたが、臼杵鎮続が安房守であったことから房州堀と称された。1568年、毛利元就との戦いでは博多を良く防衛したが、高橋鑑種の守る宝満城攻撃の隙を突かれ原田隆種に柑士岳城を奪われるも、激戦のすえ奪還した。勢いに乗じて原田隆種勢を高祖城付近まで追い立てたものの反撃されて敗走した。この責任を取り柑士岳城代を降り豊後国に帰国した。臼杵鎮氏は原田隆種との「池田川原の戦い」で敗れ自刃した。その後、臼杵鎮続が城代に再任した。1578年、甥臼杵統景の後見人となり日向国高城を攻めるが「耳川の戦い」において島津義弘勢の釣り野伏せに遭って隊は壊滅、臼杵統景と共に討死した。臼杵家の家督は弟臼杵鎮順の男臼杵鎮尚が継いだ。

臼杵統景【うすきむねかげ(15??~15??)】

臼杵鑑速の男。1575年、臼杵鑑速の病没により臼杵家の家督を相続した。文武の道に通じ、田原親虎とともに大友義鎮からその才を愛された。特に能は金春八郎の指導を受け、鼓をよくした。1578年、臼杵統景は叔父臼杵鎮続が後見人となり日向国高城攻めに参陣するが「耳川の戦い」において島津義弘勢の釣り野伏せに遭って隊は壊滅、臼杵鎮続と共に討死した。臼杵家の家督は従弟臼杵鎮尚が継いだ。

臼杵鎮尚【うすきしげなお(15??~15??)】

臼杵鎮順の男。1586年、島津家久勢は、府内城を包囲すると、別働隊を組織して白浜重政、野村文綱に兵2,000余り任せ臼杵城も包囲した。臼杵城(丹生島城)の大友義鎮は、武宮親実に「国崩し」の発砲をさせ、臼杵鎮尚、柴田礼能、吉岡甚吉、利光彦兵衛、吉田一祐に島津家勢を急襲さでた。これにより、島津家久勢に大打撃を与えた。島津家久は津久見を島津家海賊衆で固める動きを見せるが、これも大友家海賊衆により撃破され、臼杵城攻略を断念、島津家久勢は撤退した。
  
臼杵鑑連【(15??~15??)】

官途は安芸守。天文七年、柑子ヶ岳城番。
 
臼杵鑑続【(15??~15??)】

臼杵鑑連の男。官途は安芸守。柑子ヶ岳城番。
 
臼杵新助【(15??~15??)】

柑子ヶ岳城主。永禄十一年七月、原田隆種を攻めるも敗れる。元亀二年、豊後に戻る。
 
臼杵鎮氏【(15??~1572)】

進士兵衛。元亀二年、柑子ヶ岳城主。元亀三年正月、原田隆種との池田下河原合戦で討死。

内田新十郎【うちだしんじゅうろう(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

内田仁兵衛【うちだにへい(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

瓜生貞延【うりうさだのぶ(1525~1611)】

大友義鎮家臣。官途は左近大夫。1546年、大友義鎮の筑前国侵攻で「麻生隆盛討伐」の命を受け、岡城を落城させた。 以後、岡城主となり遠賀郡一帯を統治した。1562年、大友義鎮が出家したのにならい禅宗の普門寺を建立した。1586年、羽柴秀吉の「九州征伐」の際、岡城は宗像氏貞の攻撃を受け廃城となった。

瓜生勝忠【うりうかつただ(15??~15??)】

瓜生貞延の男。官途は長門守。

大友義鑑【おおとも しあき(1502~1550)】

大友義長の男。豊後国守護職。室は大内義興の娘。継室は阿蘇惟憲の娘。1515年、父大友義長の隠居により大友家の家督を相続した。大友家は大友義長の時代に内紛を収拾していたため、大友義鑑は積極的な領土拡大政策に乗り出した。肥後国には菊池家がいたが内紛のために弱体化していた。大友義鑑は、弟大友重治(菊池義武)を養子として送り込むことによって、肥後国の支配を目論んだ。大友義武は、大友義鑑と折り合いが悪く、大友家からの独立を画策したため、大友義鑑は弟と骨肉の争いを繰り広げた。さらに大内義隆の侵攻も受けた。1534年「勢場ヶ原の戦い」後、劣勢に立たされていた。1538年、足利義晴の仲介で大内義隆と和睦した。1550年、大友義鑑は後継者で問題を起こし、嫡男大友義鎮より、溺愛している三男大友塩市丸に家督を譲ろうとした。そのため寵臣の入田親誠と共謀して大友義鎮派の家臣を次々と謀殺した。大友義鎮派家臣の津久見美作らが「二階崩れの変」起こし、大友義鑑の居館を襲撃、大友義鑑、大友塩市丸とその母を謀殺した。

大友重治【おおともしげはる(1505~1554)】

大友義長の次男(菊池武包の養子)。肥後国守護職。官途は左兵衛佐。室は名和武顕の娘。別名菊池義武。大友義鑑は肥後国に勢力を拡大するため、肥後国に大きな影響力を持つ菊池家の乗っ取りを目論み、武経の跡をまずは詫摩家出身の菊池武包に継がせ、弟大友重治の成長後に菊池家の家督を継がせる密約を結んだ。1520年、菊地武包から菊池家の家督を譲られて当主となった。しかし菊池義武と改名した重治は大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄に反抗した。大友義鑑との争いに敗れ、相良家を頼って落ち延びた。1550年、大友義鑑が「二階崩れの変」で討死すると再び領地を奪還した。1554年、大友義鎮の帰国の誘いに乗り、豊後国へ向かう途上で大友義鎮勢に包囲され自刃した。

大友義鎮【おおともよししげ(1530~1587)】

大友義鑑の男。官途は左衛門督。室は一色義清の娘。継室は奈多鑑基の娘。側室は一万田親実の娘。別名大友宗麟。1550年、大友義鎮派の派家臣が「二階崩れの変」を起こし、大友義鑑、大友塩市丸とその母を謀殺した。父大友義鑑の横死により、大友義鎮が大友家の家督を相続した。1551年、周防国の大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により自刃すると、陶晴賢の要請で弟大友晴英(大内義長)を大内家の養子に送り込み和睦した。1554年「菊池義武の乱」を鎮圧し、肥後国も勢力下に置いた。1557年、大内義長が自刃すると、北九州における旧大内家領を占領した。1567年、毛利元就は、尼子義久を滅ぼすと北九州に侵攻した。豊前国や筑前国で大友義鎮方の国人衆が毛利元就と内通して蜂起し、高橋鑑種もそれに加わるが大友義鎮は戸次鑑連を派遣してこれを鎮圧した。1569年、毛利元就が再び北九州に侵攻すると、大内輝弘に海賊衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させ、毛利元就の後方を脅かし撤退へと追い込んだ。1570年、肥前国に侵攻するが「今山の戦い」で龍造寺隆信に弟大友親貞を討たれるという大敗を喫し、龍造寺隆信と和睦した。1576年、家督を嫡男大友義統に譲って臼杵城へ隠居した。1578年、島津義久が日向国侵攻を開始すると、日向国に出陣したが「耳川の戦い」で、島津義久勢に大敗し、多くの家臣を失った。1579年、蒲池鎮並、草野親永、黒木家永などの筑後の諸勢力が大友義鎮の影響下から離れ、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり大友家は衰退の一途をたどった。1584年「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が島津義久の弟島津家久に大敗北を喫し討死すると、戸次鑑連に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回した。1585年、島津義久の北上が始り、高橋紹運、立花宗茂の奮戦で島津義久勢の侵攻を遅らせたが大友家単独では、島津義久に対抗することは出来なくなった。1586年、大友義鎮は羽柴秀吉に属して、島津義久に対抗した。1586年、島津義久勢が「戸次川の戦い」で、大友家救援に赴いた羽柴秀吉勢を壊滅させ、島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められた。1587年、大友家滅亡寸前、羽柴秀長勢100,000余りが九州に到着して滅亡を免れた。

大友義長【おおともよしなが(1532~1557)】

大友義鑑の次男(大内義隆の養子)。官途は左京大夫。別名大内義長。1544年、叔父大内義隆の猶子として迎えられた。1545年、大内義隆に嫡男大内義尊が誕生したため、猶子関係を解消され、帰国した。1551年、陶晴賢が大内義隆を謀殺すると、陶晴賢は大友義長を大内家に迎えた。1556年、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは正統な大内家惣領職としての承認を拒まれた。1555年、陶晴賢が毛利元就との「厳島の戦い」で討死すると、大内義長の求心力は急激に低下、大内家臣団は崩壊した。1557年、毛利元就の「防長経略」では、大内義長は寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄して重臣内藤隆世の長門且山城へ敗走する。しかしすぐに福原貞俊により且山城を包囲され、内藤隆世は大内義長の助命を条件に開城し自刃した。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。

大友塩市丸【おおともしおいちまる(15??~1550)】

大友義鑑の三男。父大友義鑑は嫡男大友義鎮と疎遠になる一方でこの塩市丸を溺愛し、入田親誠と計り大友義鎮を廃嫡して塩市丸を世子に立てようとした。大友家臣団の中には大友義鎮を支持する一派も多く、大友義鑑はそれらを粛清して強引に塩市丸を立てようとした。1550年、大友義鎮支持派は、府内館の塩市丸らを襲撃、塩市丸とその生母、妹は謀殺された。大友義鑑もこのときの傷が原因で死去した。これにより、塩市丸の異母兄である大友義鎮が大友家の家督を相続した。

大友親貞【おおともちかさだ(15??~1570)】

大友義鑑の四男。1570年、大友親貞は大友義鎮の命により、兵60,000余りを率いて佐嘉城主龍造寺隆信を攻撃した。龍造寺隆信勢は兵5,000余りを集めて佐嘉城に籠城した。大友親貞勢の攻撃は進まず、大友義鎮は援軍を送って大友親貞に総攻撃を命じた。大友親貞勢の総攻撃を察知した、鍋島直茂は、大友親貞本陣への夜襲を画策したが、龍造寺隆信から反対された。だが、龍造寺隆信の母慶誾尼が叱咤し、龍造寺隆信も奇襲を容認した。大友親貞は、鍋島直茂勢の成松信勝に討取られた。大友親貞勢は兵2,000余りを失い佐嘉城から撤退した。

大友義統【おおともよしむね(1558~1610)】

大友義鎮の男。官途は左兵衛督。別名大友吉統。室は吉弘鑑理の娘(菊姫)。1576年、父大友義鎮の隠居により、大友家の家督を相続した。1578年、日向国に侵攻するも「耳川の戦い」で大敗を喫した。父大友義鎮との二頭政治により大友家臣団の弱体化を招いた。戸次鑑連が病没すると、肥後国方面を担当していた志賀親次とも確執を起こし指揮権を失った。大友家の版図であった肥後、筑後、筑前は龍造寺隆信や島津義久に侵食された。1586年、島津義久による豊後侵攻が始まると、大友義鎮や大友義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反した。羽柴秀吉より派遣された長宗我部元親や仙石秀久らと共に島津義久勢と戦うが「戸次川の戦い」で大敗し、家臣利光宗魚、戸次統常を失った。大友義統は大友義鎮や家臣志賀親次、佐伯惟定が交戦中に府内を退去した。1587年「九州討伐」で島津義久が降伏すると、豊後国を安堵された。1590年「小田原の役」に参陣した。1592年「文禄の役」に第三軍の黒田長政勢5,000余りと共に兵6,000を率いて参陣した。嫡男大友義乗に大友家の家督を譲った。1593年、明軍に包囲された小西行長の敗戦の誤報により、鳳山城を放棄して撤退した。これにより羽柴秀吉から改易処分を受けた。1600年「関ヶ原の役」では、毛利輝元の支援を受け、御家再興を目指して西軍の将として豊後国に侵攻した。「石垣原の戦い」で黒田孝高勢に敗れ、剃髪し黒田家臣母里友信の陣に出頭して降伏した。

大友親家【おおともちかいえ(1561~1641)】

大友義鎮の次男(田原親貫の養子)。官途は常陸介。別名田原親家、利根川道孝。洗礼名「ドン・セバスチャン」。田原家宗家の家督を相続した。気性が激しく、大友義鎮は僧籍に置いたが還俗した。1575年、洗礼を受けキリシタンとなった。1579年、反乱を起こした田原親貫に代わり田原家の家督を相続した。1581年、加判衆として、北九州各地を転戦した。1586年、兄大友義統が大友家の家督を相続すると、島津義久に通じた。「九州討伐」後、羽柴秀吉からその不忠を咎められたが、父大友義鎮の取り成しで助命されたが所領は失った。1591年、再び加判衆に再任された。1592年「文禄の役」に参陣した。大友家が改易された後は、立花宗茂勢に属した。1609年、細川忠興に仕え客分として130人扶持を領した。

大友親盛【おおともちかもり(1567~1643)】

大友義鎮の三男(田原親賢の養子)。官途は民部少輔。別名田原親盛、松野半斎。洗礼名「パンタレアン」。田原家の庶家武蔵田原家を相続した。1580年、洗礼を受けキリシタンとなった。1581年、大友親盛の叔父田原親賢が養子の田原親虎を廃嫡し武蔵田原家の後継者が不在となったため、田原親賢の養子となり、妙見岳城に入った。父大友義鎮は田原親盛を最も信頼していた。島津義久との戦いでは主に豊前国方面で戦功を挙げた。「戸次川の戦い」では先陣を務めた。1592年「文禄の役」にも参陣した。1593年、大友家が改易されたために細川忠興に2000石で仕えた。

大友義乗【おおともよしのり(1577~1612)】

大友義統の男。1593年、父大友義統が「文禄の役」において敵前逃亡をしたとされる失態で大友家は羽柴秀吉の逆鱗に触れ改易されると、大友義乗は加藤清正にお預けの処分となった。1594年、お預け先が松平元康へと変わり、江戸城下牛込に屋敷を与えられ蟄居させられた。1600年、大友義統が「石垣原の戦い」に敗れ常陸国宍戸に幽閉された。大友家の家督を相続し、高家として松平元康に仕えた。

雄城治景【おぎはるかげ(15??~15??)】

大友義鎮家臣。官途は若狭守。加判衆。「二階崩れの変」で重傷を負った大友義鑑は、死の間際に嫡男大友義鎮に「義鑑条々」を送った。雄城治景は吉岡長増、田北鑑生、臼杵鑑続らと共に連署した。1551年、小原鑑元が加判衆から解任された時に、加判衆として他姓衆を代表して就任した。加判衆は同紋衆(一門、譜代)が四人、他姓衆が一人で、その他姓衆が雄城治景。1553年、雄城治景は大友義鎮がキリシタン布教を許可した際に反対したため、大友義鎮の不興を買い加判衆を解任された。

小原鑑元【おばらあきもと(15??~1556)】

小原右並の男。通称四郎左衛門尉。官途は遠江守。阿南家の庶流で阿南荘小原を本貫とした。1550年「二階崩れの変」の際、大友義鑑の遺書に雄城治景、吉岡長増、田北鑑生、臼杵鑑続、志賀親守とともに連署した。大友義鎮の加判衆となった。大友家の混乱に乗じて隈本城に入った菊池義武を佐伯惟教らと共に攻撃、肥後国を平定した。1556年、他紋衆を糾合し、大友庶家である同紋衆の重用政策に反対して挙兵した。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて大友義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。大友義鎮は同紋衆を重用し、小原鑑元は肥後国平定後加判衆から外されていた。他紋衆の挙兵は大友家館のある府内でも発生し、大友義鎮も要害の丹生島城へ避難する事態となった。同紋衆の働きにより、ともに挙兵した本庄新左衛門尉、中村長直らは豊後国で討ち取られ、佐伯惟教は伊予国に逃亡した。勇将である小原鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるにおよんで妻子を手に掛け、城兵とともに城外に打って出て討死した。

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【か】

木田主殿助【きだもんどのすけ(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

朽綱親満【くたみちかみつ(15??~1544)】

山ノ城主。田原親述、永弘氏輔らと結び、大友義鑑と対立した。永正十三年八月、挙兵。この時、田原親述は朽綱親満を支持しなかった。永正十六年、筑前に落ち延びた。天文十三年、讒言によって大友義鑑に討たれる。
 
朽綱親定【くたみちかさだ(15??~1544)】

朽綱親満の弟。官途は能登守。兄朽綱親満が讒言によって討たれると、これに激怒し籠城。しかし、大友義鑑勢に敗れ、上嵯峨にて自刃した。

朽網鑑康【くたみあきやす(1502~1586)】

入田親廉の次男。官途は三河守。別名朽綱宗暦。朽網親満の謀反により絶えていた朽網家を継いで朽網鑑康と称した。1550年「二階崩れの変」の際に、大友義鑑や兄入田親誠が亡くなったが、朽網鑑康は大友義鑑の跡を継いだ大友義鎮に引き続き仕えた。1569年、加判衆を務めた。「門司城の戦い」「菊池義武討伐」「秋月文種討伐」「土持親成討伐」「立花鑑載討伐」等の討伐に参陣した。毛利元就勢と戦った「多々良浜の戦い」では一万田鑑実親子と共に乃美宗勝、桂元重を撃退した。1572年「耳川の戦い」では、志賀親守と共に肥後国方面の総大将を勤めた。1586年、島津義久勢との戦いでは、隠居の身で病床にあった。居城山野城の支城三船城を固めはじめたものの、兵が降伏しようとしたことに激怒、病をおして戦いに臨んだ。しかし三船城を守っていた嫡男朽網鎮則は山野城へ撤収。共に籠城したものの、まもなく病没した。

朽網鎮則【くたみしげのり(15??~1587)】

朽網鑑康の男。官途は左近大夫。室は田北鑑重の娘。1578年、大友義鎮の日向攻めに参陣せず、父朽網鑑康と肥後国に駐留した。1586年、島津義久勢の豊後国侵攻では「三船城の戦い」で敗れ、山野城へ撤退した。山野城に籠城するが、父朽網鑑康の病没により、城兵の士気は低下した。1587年、島津義久と和睦して開城した。羽柴秀吉の「九州征伐」後、大友義統は島津義久に降った者を許さず討伐を決定した。朽網鎮則は、岳麓寺住職の進言で佐賀関経由で落延びようとしたが、徳丸筑前守の追手に包囲され、自刃した。嫡男朽網統直は国東郡都甲で討死、他の枝連衆は肥後国方面へ落延びた。

朽網鎮房【くたみしげふさ(15??~15??)】

朽網鑑康の次男。官途は内蔵丞。室は蒲池鎮漣の娘(徳子)。兄朽網鎮則と共に大友義鎮から偏諱を賜って朽網鎮房と称した。父朽網鑑康は島津義久勢の攻撃を受け籠城中に病没した。兄朽網鎮則は島津義久に内通したとして謀殺され、朽網鑑房も浪々のまま玖珠で病没した。
 
朽綱式部大輔【くたみしきぶだいふ(15??~15??)】

朽綱鑑康の三男。1586年、島津家久に備えるため三船城の守りを固めた。
 
朽綱統直【くたみむねなお(15??~1587)】

朽綱鎮則の男。1587年、島津義久と結んだことを咎められ、国東郡都甲にて森左内に討たれた。
 
朽綱内記【くたみないき(15??~15??)】

朽網鑑康枝連衆。1586年、三船城の南方に200余りで布陣した。島津家久勢が三船城を攻めると、これを撃退した。

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【さ】

佐伯惟治【さえきこれはる(1495~1527)】

海部郡栂牟礼城主。佐伯惟世の男。官途は薩摩守。1527年、菊池義武に通じて大友義鑑に対し謀叛を企てていると讒言する者があり、大友義鑑は臼杵長景に佐伯惟治の討伐を命じた。釈明を行った佐伯惟治からの使者を謀殺した。大友義鑑は臼杵長景に「佐伯惟治征伐」を命じた。「栂牟礼城の戦い」で、栂牟礼城は落城。二十余名の家臣と共に落ち延びた。日向国高尾産で新名党に討たれた。

佐伯惟勝【さえきこれかつ(15??~15??)】

佐伯惟安の男。海部郡木戸城主。1527年、佐伯惟治没後、栂牟礼城に入城。弟佐伯惟常が佐伯家の家督を相続した後も、城主として居座った。

佐伯惟常【さえきこれつね(15??~15??)】

佐伯惟安の次男。

佐伯惟教【さえきこれのり(15??~1578)】

佐伯惟常の男。官途は紀伊守。1550年「二階崩れの変」の際に大友義鎮を奉じて府内城を制圧し、以来大友義鎮の重臣として信任された。菊池義武や肥後国の国人衆との戦いで先陣を務め、戦功を挙げた。1556年、他紋衆小原鑑元が中村長直らと共に叛旗を翻すと、佐伯惟教も大友義鎮から討伐を受けたが、佐伯惟教は枝連衆と共に伊予国の西園寺実充の元に落延びた。1569年、佐伯惟教は臼杵鑑速らのとりなしによって帰参した。1572年、一条兼定が西園寺公広と争うと、大友義鎮の命により一条兼定救援のため伊予国に参陣し、飯森城などを攻略して西園寺公広を降した。1577年、嫡男佐伯惟真に家督を譲った。1578年、佐伯惟教の妹婿松尾城主土持親成が離反して島津義久に属すると、大友義鎮は佐伯惟教に討伐を命じた。佐伯惟教は松尾城を攻略、土持親成を自刃させた。島津義久勢が日向国に侵攻すると、山田有信の籠もる高城を救援に来た島津家久勢を撃破したが追撃に失敗、島津家久は高城に入城を許した。島津義久との戦いでは、家臣団の対立により各部隊の連携が取れず苦戦しているところに高城から出撃した島津家久らの急襲を受け大友義鎮勢は壊滅した。乱戦の中、佐伯惟教は嫡男佐伯惟真、佐伯惟忠らと共に討死した。

佐伯惟真【さえきこれまさ(15??~1578)】

佐伯惟教の男。1578年、父佐伯惟教と共に「耳川の戦い」で討死した。

佐伯惟忠【さえきこれただ(15??~1578)】

佐伯惟教の次男。1578年、父佐伯惟教と共に「耳川の戦い」で討死した。

佐伯惟定【さえきこれさだ(1569~1618)】

佐伯惟真の男。1578年、父佐伯惟真と祖父佐伯惟教が「耳川の戦い」で討死しため、佐伯家の家督を相続した。1586年、島津義久の豊後国侵攻では、栂牟礼城に母と共に籠城して、島津家久勢を「堅田の戦い」で撃退した。星河城を攻め落とし、島津義久に寝返っていた柴田紹安の妻子を捕らえ佐伯西正寺に連行し処刑した。因尾谷を通る島津義久勢の輜重隊を率いる戸高将監を伏兵で討取った。1587年、1578年、佐伯惟定は土持親信が守備する朝日嶽城を奪回した。羽柴秀吉勢が九州に上陸すると、府内から撤退する島津義弘と島津家久を日豊国境の梓峠で撃破した。羽柴秀長勢を先導して日向国に攻め入り戦功を挙げた。1592年「文禄の役」に参陣したが、大友義統が敵前逃亡をしたとされる失態で改易されると、藤堂高虎に仕え2,000石を領した。1600年「関ヶ原の役」では、宇和島城留守居役を務めた。1601年、藤堂高虎の手掛けた普請に従事し、津城下には佐伯町を開いた。1614年「大坂冬の陣」では、士隊10騎、卒隊40人を率いて参陣し、藤堂高刑の寄騎衆となった。1615年「大坂夏の陣」では、先鋒が壊滅した為、藤堂高吉と共に左先鋒を務めた。役後4,500石に加増された。

佐伯惟重【さえきこれしげ(15??~15??)】

佐伯惟定の男。
 
斎藤長実【さいとうながざね(15??~1550)】

海部郡丹生城主。官途は播磨守。1550年「二階崩れの変」が起こるまで加判衆を務めた。1550年、大友義鑑は家督相続を巡る諸問題を解決すべく、この斎藤長実をはじめとする家臣団に大友義鎮の廃嫡について相談した。家臣団の激しい反対にあうと、斎藤長実と小佐井大和守を呼びだして謀殺した。この後に津久見美作守、田口蔵人らによって、大友義鑑は謀殺された。

斎藤鎮実【さいとうしげざね(15??~15??)】

斎藤長実の男。官途は兵部少輔。1550年、父斎藤長実が「二階崩れの変」で謀殺されたため、斎藤家の家督を相続した。大友義鎮は斎藤鎮実を側近とした。「入田親誠討伐」では、戸次鑑連らと共に参陣した。この後も国内外の幾度の戦で戦功を挙げた。1567年、筑紫惟門との戦いでは総大将として遠征し、初戦では敗れたものの、攻撃の手を緩めることなく十数日間に渡って攻撃を続け、降伏させた。1578年「耳川の戦い」では、大友家臣団たちが積極論と慎重論に分かれ、戦い方について激しく言い争っていた。斎藤鎮実は田北鎮周らと共に積極策を献じ、吉弘鎮信と共に耳川の強行渡河を試みたが、島津義久勢の迎撃に遭って討死した。

斎藤統実【さいとうむねざね(15??~15??)】

斎藤鎮実の男。

北志賀親守【しがちかもり(15??~15??)】

直入郡岡城主。志賀親益の男。官途は民部少輔。志賀家は大友三家(志賀親守、田原、詫摩)のひとつで北志賀家は南郡衆の筆頭。1550年「二階崩れの変」の後、大友義鎮の家督相続に尽力した。1552年、嫡男志賀親度に家督を譲って早々に隠居した。志賀親度が大友義統と対立し失脚すると、志賀親度共々謀殺されそうになるが、大友義鎮の仲介により免れた。1578年「耳川の戦い」では肥後国に参陣したが、この戦に反対していたため軍勢を積極的に動かそうとしなかった。1586年、島津義久勢が侵攻すると、大友義鎮と共に丹生島城に籠城したが、入田義実を通して島津義久と内通していた。志賀親度は入田義実や南志賀家と共に島津義久に属して、孫志賀親次が守備する岡城を攻撃した。「九州討伐」で、島津義久が敗北すると志賀親度は処罰されたが、志賀親守は咎められず、孫志賀親次の後見役となった。その後も大友義統の側近として仕えた。1592年「文禄の役」の際は、豊後国において留守を守った。

北志賀親度【しがちかのり(15??~1587)】

志賀親守の男。官途は民部大輔。室は大友義鎮の娘。1550年「二階崩れの変」後、父志賀親守と共に大友義鎮の家督相続に尽力した。その後、父志賀親守の隠居により志賀家の家督を相続して、加判衆を務めた。1577年、大友義鎮の後を継いだ大友義統と不仲になって対立し、父志賀親守と共に謀殺されそうになったが、大友義鎮の仲介で免れた。1586年、志賀親度は、島津義久と密かに通じた入田義実の誘いに乗り、島津義久勢が日向国に侵攻すると、南志賀家(志賀鑑隆、志賀鎮隆親子)と共に島津義久勢に属した。北志賀家の惣領家の嫡男志賀親次はただひとり、大友義統に誠忠を尽くし岡城を守り抜いた。1587年「九州討伐」が始まると、南志賀家は滅ぼされ、志賀親度も大友義統によって謀殺された。

北志賀親次【しがちかつぐ(1566~15??)】

志賀親度の男。通称少左衛門尉。洗礼名「ドン・パウロ」。志賀親次は武勇に優れていた。1584年、黒木家永の守る猫尾城攻めに参陣した。父志賀親度が大友義統と不和になって失脚すると、志賀家の家督を相続した。1586年、島津義久勢が豊後国に侵攻して来ると、父志賀親度や南郡衆が島津義久に属するなか志賀親次は岡城に籠城して徹底抗戦し、島津義弘や新納忠元を何度も撃退した。羽柴秀長の援軍が豊後国に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし、父志賀親度を自刃さた。この戦いでの戦功の大きさから、大友吉統から疎外されるようになった。大友義鎮の病没後にキリスト教は禁教とされ、志賀親次は棄教を拒否し豊後国内におけるキリシタンの事実上の保護者となった。1592年「文禄の役」に参陣した際、誤報を信じ撤退を図り、羽柴秀吉により大友家は改易処分となった。

南志賀鑑隆【しがあきたか(1530~1588)】

直入郡南山城主。官途は兵庫頭。志賀鑑隆も大友義統の加判衆となった。1578年「耳川の戦い」で、大友義鎮勢が島津義久勢に大敗すると、大友家の支配下にあった国人武将が反乱を起こした。志賀鑑隆は、この反乱軍を各個撃破すべく各地を転戦し、国人衆討伐に戦功を挙げた。大友家に属していた肥前国の龍造寺隆信が挙兵し、筑前国、筑後国を攻撃し始めると志賀鑑隆は、筑前国、筑後国に参陣して龍造寺隆信と戦った。1585年、島津義久が豊後国に侵攻すると志賀鑑隆は、大友義統を助け、南山城に籠城して島津義久勢と戦った。大友義統が島津家久勢に大敗すると事態回復の見込みが立たず、遂に島津義久勢に降伏した。羽柴秀吉の「九州討伐」により、島津義久が降伏すると、再び大友義統に仕えた。1588年、島津義久に降伏した不忠を責められ、自刃して果てた。

南志賀鎮隆【しがしげたか(1563~1586)】

志賀鑑隆の男。田原親貫や島津義久との戦いで戦功を挙げた。1586年、島津義久勢との戦いで討死した。

柴田紹安【しばたしょうあん(15??~1586)】

大野郡朝日嶽城主。官途は遠江守。野津院衆を率いて日向国、豊後国境を守った。1578年「耳川の戦い」で、島津義久勢に大敗を喫した大友義鎮は勢力を後退させた。1586年、島津家久勢が迫ると家臣帆足市弥太の諫言を無視して島津義久に寝返った。島津家久は寝返ってきた柴田紹安を信用せず、妻子は人質として星河城、柴田紹安は監視を付けて天面山城に留め置いた。星河城は芦別大膳に内応によって佐伯惟定に攻略され、妻子は捕らわれ謀殺された。これにより、柴田紹安は、島津義久を裏切って大友義鎮に属したが、島津義久勢によって取り囲まれ討死した。

柴田礼能【しばたれいのう(15??~1586)】

柴田紹安の弟。洗礼名「リイノ」。槍の名手で「豊後のヘラクレス」と称された。1580年「田原親貫の乱」の「安岐城の戦い」で戦功を挙げた。後に田原家を継いだ大友義鎮の次男大友親家の補佐として、田原家旧臣を味方に引き入れる交渉などで活躍した。1582年、府内の万寿寺の寺社領を大友義義統が没収すると、その旧領に武家屋敷を与えられ、大友家の諸公事のほぼ全てを任され、府内奉行に任じられた。1586年、島津義久が豊後国に侵攻すると、嫡男柴田統勝は羽柴秀吉に救援要請のため上阪する大友義鎮に従った。島津義久勢が丹生島城を包囲した際は大友義鎮と共に籠城し、島津義久勢を一度は撃退したものの、兄柴田紹安が島津義久に寝返ったため、背信を疑われ、島津義久勢に突撃を行い討死した。

柴田統勝【しばたむねかつ(15??~1586)】 

柴田紹安の男。通称左京進。1586年、大友義鎮の上阪の際には同行した。弟柴田次郎らと共に大友義統に捕らえられ、正西寺で誅殺された。

寒田親将【そうだちかまさ(14??~1534)】

大友義鑑家臣。官途は三河守。1534年、大内義隆は豊後国を狙い、豊前国宇佐郡糸口原に布陣した。大友義鑑は寒田親将と吉弘氏直を大将に、豊前国大村山の頂上に兵を集結させた。大村山の大友義鑑勢に対し、大内義隆勢は勢場ヶ原から奇襲をかけた。寒田親将は杉長門守を討取ったが、数で勝る大内義隆勢は鶴翼の陣に切り替えた。吉弘氏直は矢疵を受け討死、吉弘氏直を助けようとした寒田親将も討死した。

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【た】

田北親員【たぎたちかかず(15??~1538)】

速見郡熊牟礼城主。大友義長家臣。官途は駿河守。加判衆のひとりで大友義長、大友義鑑の二代に仕えた。1516年「朽網親満の乱」に際して、朽網親満を討つため宇佐郡豪族衆を調略した。1517年「高崎城の戦い」で、朽網親満を攻撃した。「佐伯惟治の乱」においても、田北親員は嫡男田北鑑生とともに東西一揆を率いて参陣し乱の鎮圧した。1534年「勢場ヶ原の戦い」では三男田北鑑生が戦功を挙げた。その後田北親員は筑後国を転戦したが枝連衆の城後親興を失った。1538年、山下長就、臼杵鑑続と共に、大友義鑑の使節として大内義隆との和睦交渉に当たった。

田北鑑生【たきたあきなり(15??~1561)】

日差城主。田北親員の男。官途は大和守。田北鑑生は初め大友義鑑の側近として仕えた。1527年、父田北親員に属して栂牟礼城主佐伯惟治の討伐に参陣して戦功を挙げた。1534年、大内義隆との「勢場ヶ原の戦い」では、劣勢の大友義鑑勢だったが、田北鑑生が大内義隆勢に突撃して杉重信を討取り、さらに陶興房に傷を負わせる戦功を挙げ、勝利に貢献した。大友義鎮が大友家の家督を相続すると加判衆となった。「小原鑑元の乱」や「秋月文種討伐」にも参陣して戦功を挙げた。1561年、毛利元就との「門司城の戦い」では、補給線を断たれて撤退するところを、乃美宗勝らの待ち伏せに遭って重傷を負い、その傷がもとで死亡した。

田北鎮述【たきたしげのぶ(15??~15??)】

田北鑑生の男。
 
田北鎮生【たきたしげなり(15??~15??)】

田北鎮述の男。刑部大輔。田北鎮周討死後、蛟ノ尾城の城主に任じられた。
 
田北統生【たきたむねなり(15??~15??)】 

田北鎮生の男。1593年、大友家が改易になると、日差村に帰農した。

田北鑑富【たきたあきとみ(15??~1580)】

田北親員の次男。官途は大和守。別名田北紹鉄。1556年「小原鑑元の乱」に参陣して戦功を挙げた。1561年、毛利元就勢が北九州に侵攻するとこれと戦った。1565年、長野種信と規矩郡で戦い戦功を挙げた。しかしこれらの戦功に対して大友義鎮が報いることは少なかった。策略家で有力国人だったことを大友義鎮が恐れており、大友家の年寄役などにも任命されず中枢から排除された。大友義鎮からは実弟で養子の田北鎮周のほうが信任されて重用された。1578年「耳川の戦い」では、弟田北鎮周が参陣して討死した。1580年、田原親貫、秋月種実らと共謀して謀反を起こした。他の南群衆(一萬田鑑実、志賀親度等)は田北鑑富に同情的で、討伐に積極的ではなかった。直入郡阿曾野で大友義統勢の攻撃を受け、秋月種実を頼って落延びる途中、日田郡五馬荘松原で80名の部下と共に大友義統勢に討取られた。

田北鎮周【たきたしげかね(1543~1578)】

田北親員の三男(田北鑑重の養子)。蛟ノ尾城主。官途は相模守。通称弥十郎。武勇に優れ大友義鎮からの信任を厚かった。1568年「立花鑑載の乱」の鎮圧や、小早川隆景率いる毛利元就勢との戦いで戦功を挙げた。1578年「耳川の戦い」の前哨戦である土持親成攻めなので戦功を挙げた。その後も大友義鎮勢の先鋒として山田有信が守る日向高城に攻め寄せたがた。田北鎮周は戦意の低い味方を励ますために敵軍に突撃し、最初は敵勢を圧倒したものの力尽き、討死した。

多田和泉守【ただいずみのかみ(15??~15??)】

鶴ヶ城主。1586年、島津義久勢の攻撃を受け落城した。

角隈石宗【つのくませきそう(15??~1578)】

大友義鎮家臣。官途は越前守。大友義鑑、大友義鎮の二代に仕えた。軍配者として武田流、小笠原流などの兵法をはじめ、占術、気象予測に優れたことから大友家の軍師的存在であった。1550年「菊池義武の乱」による肥後征伐や豊前平定勢に参陣した。1578年、島津義久との戦いを進める大友義鎮を諌めたが、大友義鎮は角隈石宗の諫言を聞かずに出陣した。角隈石宗は、死の覚悟を決めて自身の書いた兵法書を全て焼き払って参陣した。角隈石宗は北郷忠左衛門を討つが重傷を負い遂に討死した。

利光鑑教【としみつとしのり(15??~1587)】

大分郡鶴賀城主。別名利光宗魚。大友義鎮、大友義統父子に仕えた。1586年、島津家久の豊後侵攻により豊後国の各地が島津家勢に侵略される中で、利光宗魚は島津家勢、相手に籠城戦で対抗した。利光宗魚は善戦したが、城外で島津家勢と戦っていたときに流れ弾に当たって討死した。城兵は利光宗魚が討死した後も、その遺志を継いで島津家勢と戦ったが、直後の「戸次川の戦い」で大友義鎮勢が島津家久勢に大敗したため、やむなく降伏した。

利光統久【としみつむねひさ(15??~15??)】

利光鑑教の男。1587年、父利光鑑教の出陣中に島津家久勢の攻撃を受けた。兵力の差が大きいため、家臣牧宇之助を人質に出して和睦。父利光鑑教の帰城後、油断した島津家久勢に夜襲を行い島津家勢を撃退した。

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【な】

奈多鑑基【なだあきもと(15??~1569)】

豊後国安岐郷八幡奈多宮の大宮司家。娘は大友義鎮の室。大友義鎮に属して寺社奉行に任じられた。奈多鑑基は、数々の戦いに参陣し、戦功を挙げた。1569年「立花鑑載討伐」に参戦して陣没した。寺社奉行としての権限を私的に利用したとして奈多鎮基と共に悪名高い。

奈多鎮基【なだしげもと(15??~15??)】

奈多鑑基の男。通称左衛門大夫。室は大友義鎮の娘。宇佐神宮と度々争い「到津公澄誅殺事件」「宇佐宮末社司宅放火事件」「 安心院公糺領押領事件」などを次々と引き起こし、宇佐神宮から無道の張行 、天下希代の悪逆と訴えられた。1578年「土持親成討伐」では、寄騎衆の糸永家、屋方家らを伴って参陣した。「耳川の戦い」にも参陣した。1580年「田原親貫の乱」で、戦功を挙げた。1584年「黒木実久の乱」でも参陣し戦功を挙げた。1586年、秋月種実の日田郡侵入に対して大友義鎮勢の先鋒として迎撃し、秋月種実勢を撃破する戦功を挙げた。「戸次川の戦い」にも参戦したが大友義統勢が大敗した。1587年、奈多鎮基は病没すると、養子万福丸が奈多家を相続した。養子の万福丸は公家久我晴通から迎えたものだが、のちに京都に帰ったため奈多家は断絶した。

入田親誠【にゅうたちかざね(15??~1550)】

直入郡津賀牟礼城主。入田親廉の男。官途は丹後守。室は阿蘇惟豊の娘。大友義鑑に信任を受け加判衆のひとりとなり、大友義鑑から嫡男大友義鎮の傅役を任された。大友義鎮とは不仲で、また大友義鑑も大友義鎮より三男大友塩市丸を後継者にすることを望んでいたため、入田親誠は大友義鑑と共謀して大友義鎮の廃嫡を目論んだ。大友義鑑は大友義鎮派の家臣を次々と謀殺して、強引に大友塩市丸を後継者にしようとした。1550年、大友義鎮派の家臣により「二階崩れの変」が起きると大友塩市丸は謀殺され、大友義鑑も重傷い間もなく病没した。大友義鎮が大友家の家督を相続すると、入田親誠は戸次鑑連らの攻撃を受け岳父である阿蘇惟豊に庇護を求めたが、阿蘇惟豊は入田親誠の行為を嫌悪したため、入田親誠は謀殺された。

入田義実【にゅうたよしざね(1533~1601)】

入田親誠の男。1550年「る二階崩れの変」で、父入田親誠が謀殺され入田家は没落した。1580年、大友義鎮から筑前国鞍手郡若宮荘350町などを所領安堵されて入田家の家督を相続した。1585年、島津義久の侵攻を受けるようになると志賀親度と共に新納忠元を介して島津義久と内通した。1586年、島津義弘による豊後国侵攻が始まると、入田義実は島津義久勢の先鋒を務めた。1587年、大友義鎮の援軍要請に応じた羽柴秀吉による「九州征伐」が開始されると、島津義久勢は豊後国を放棄して薩摩国に撤退し、入田義実もこれに従った。以後は島津義久に仕え、日向国内に30町の所領を領した。その後、所領を失い没落した。

入田親利【にゅうたちかとし(15??~15??)】

入田親誠の次男。

入田鎮氏【にゅうたしげうじ(15??~15??)】

入田親誠の三男。

入田氏虎【にゅうたうじとら(15??~15??)】

入田義実の男。1600年、島津義弘に属して「関ヶ原の役」に参陣した。以後は高岡衆中となった。

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【は】

樋口左馬助【ひぐちさまのすけ(15??~15??)】

若林鎮興家臣。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

戸次親家【べっきちかいえ(1478~1526)】

鎧ヶ岳城主。戸次親宣の男。室は由布惟常の娘。大友家枝連衆であったが、家運は大きく衰えており、本貫地の戸次庄も失って没落していた。戸次親家もその衰運を覆すことはできなかった。1526年、大内義興が佐野親基、問田重安を豊前国に侵入させ、豊前国の馬ヶ岳城を攻落した。病に臥せっていたが、嫡男戸次鑑連を参陣させた。戸次鑑連は戦功を挙げた。

戸次鑑連【べっきあきつら(1513~1585)】

戸次親家の男。官途は伯耆守。別名立花道雪。室は入田親誠の娘。継室は問註所鑑豊の娘(仁志姫)、側室は宗像正氏の娘(色姫)。

戸次鑑方【べっきあきかた(15??~1567)】

戸次親家の次男。1567年、毛利元就と同盟を結び勢力拡大を図る秋月種実を討伐するため兄戸次鑑連と共に筑前国に参陣した。秋月種実は大友義鎮勢と戦ったが、戦況が不利になり撤退した。その夜、警戒を解いた大友義鎮勢に対し秋月種実は夜襲を仕掛けた。「休松の戦い」では、秋月種実勢の夜襲を受けた大友義鎮勢は、同士討ち等で壊乱し、乱戦の中、枝連衆の戸次親繁、戸次親宗らと共に討死した。

戸次親行【べっきちかゆき(15??~15??)】

戸次親家の三男。

戸次鎮連【べっきしげつら(15??~1586)】

鎧ヶ岳城主。戸次鑑方の男。1553年、伯父戸次鑑連の猶子となった。戸次鑑連に属して筑前国、豊前国を転戦した。1567年、秋月種実との戦い「休松の戦い」では、父戸次鑑方ら多くの枝連衆や家臣が討死するも、戸次鎮連は奮戦して戦功を挙げた。1578年、日向国北部に侵攻し、土持親成らを討って、土持家を滅亡に追い込んだ。「耳川の戦い」にも参陣したが、大友義統勢は大敗した。猶父戸次鑑連らは大友家の衰勢を挽回すべく筑前国、筑後国を転戦したが大友家領は次第に縮小した。1580年、戸次鎮連、志賀親度、一万田鎮実らと連署で大友義統を諌める書状を提出した。1585年、猶父戸次鑑連が病没すると、大友家の衰運は決定的となった。1586年、島津義久勢が北進して豊後国まで侵攻すると、戸次鎮連は島津義久に内応したとされ、大友義統によって謀殺された。

戸次鎮林【べっきしげとき(15??~1592)】

戸次鑑方の次男。1592年「文禄の役」で討死した。

戸次鎮利【べっきしげとし(15??~15??)】

戸次鑑方の三男。

戸次統常【べっきむねつね(1565~1587)】

戸次鎮連の男。別名戸次統連。1586年、父戸次鎮連は島津義久勢に内応したとされ、大友義統によって謀殺された。これにより戸次統常が戸次家の家督を相続した。戸次統常は、伝来の書物や家宝を焼き「戸次川の戦い」に参陣した。戸次統常を見送った母の志賀夫人は幼い子供たちを殺した後に自らも自刃した。1587年、枝連衆と郎党100余りを率いて、島津義久勢の新納大膳正隊と戦い、嫡男戸次述常、戸次鎮時、戸次統昌父子、戸次鎮直ら枝連衆と共に討死した。

帆足鑑直【ほあしあきなお(15??~15??)】

日出生城城主。室に古後摂津守の娘(鬼御前)。1586年、島津義久との戦いで、角牟礼城攻略がなかなか進まない島津義久勢は、新納忠元に兵を率いさせ、日出生城を攻撃させた。日出生城主帆足鑑直は室の鬼御前と共に僅か数百の兵を率いて、新納忠元を待ち伏せ、休憩中の島津義久勢を急襲、壊滅させ新納忠元を負傷させた。

帆足鎮直【ほあししげなお(15??~15??)】

帆足鑑直の男。弟は帆足鎮次。三弟帆足統通は日出帆足家を興し、四弟帆足統実は戸次帆足家を興した。1586年、兄弟四人は「日出生城の戦い」に参陣した。

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【ま】

真玉親房【またまちかふさ(15??~1534)】

真玉城主。1534年、大内義隆は陶興房、杉隆連らを豊前国に侵攻させた。大友義鑑は、吉弘氏直を大将に命じ、寒田親将を副将とした。大友義鎮勢は宇佐郡方面から侵入を予想して立石峠、地蔵峠に兵を配し、大群山に本陣をおいた。大内義隆勢は宇佐の糸口原に集結していたが、大友義鎮勢の布陣をみて勢場ヶ原に移動した。吉弘氏直は、敵を殲滅として大内義隆勢めがけて突進した。「勢場ヶ原の戦い」では、吉弘氏直と寒田親将は討死した。立石峠、地蔵峠の大友義鎮勢はただちに兵を動かし、大内義隆勢のまっただ中に攻め込んだ。大内義隆勢は敗退し、杉興連は討死し、陶興房は敗走した。この戦いに真玉親房も参陣していたが、大将吉弘氏直と共に討死した。

真玉治房【またまはるふさ(15??~15??)】

真玉親房の男。1534年「勢場ヶ原の戦い」で、父真玉親房が討死すると、真玉家の家督を相続した。大友義鎮に仕えて度々戦功を挙げた。
1564年、大友義鎮の命により家督を真玉鎮持に譲った

真玉鎮持【またましげもち(15??~1579)】

真玉親房の次男。官途は掃部頭。通称次郎。真玉家の家督を継いだ真玉鎮持は、大友義鎮に従って筑後国に参陣、さらに筑前国にも参陣した。
1572年、伊予国の西園寺公広を攻め、真玉鎮持は海賊衆の「北浦部衆」を指揮して戦功を挙げた。1578年、大友義鎮は日向国に侵攻した。「耳川の戦い」で潰滅的敗北を喫し、大友家は大きく勢力を失墜したのである。真玉鎮持も参陣したが家臣井口秀虎を失い負傷した。

真玉統寛【またまつねとも(15??~15??)】

真玉鎮持の男。1586年、島津義久勢が豊後国に侵攻した際は、真玉統寛は宗家木付鎮直らと共に島津義久勢と戦い、国東郡への侵攻を防いだ。1590年、真玉統寛は羽柴秀吉による「小田原の役」に参陣するため竹田津に向かう途中で家臣山田兼佐の謀反により落命した。

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【や】

山下長就【やましたながのり(15??~15??)】

大友義鑑家臣。官途は治部少輔。加判衆を務め、大内義隆との戦いで戦功を挙げた。1538年、田北親員、臼杵鑑続と共に、大友義鑑の使節として大内義隆との和睦交渉に当たった。

吉岡長増【よしおかながます(1502~1573)】

大分郡鶴崎城主。官途は越前守。通称左衛門大夫。大友能直の孫野津頼宗を祖とする野津家の庶家。大友義鑑、大友義鎮の二代にわたって仕え臼杵鑑速、吉弘鑑理と共に大友家三家老と称された。加判衆として高田衆を率いて参陣して多くの戦功を挙げた。1533年「勢場ケ原の戦い」では、吉岡長増が総大将となり、佐田朝景率いる宇佐郡衆らを撃退した。1550年「二階崩れの変」で、大友義鎮が実権を握ると加判衆へ復帰、豊前国、筑前国、肥前国方分として三ヶ国の政務を担当し、日向国の土持親佐の取次役を務めた。毛利元就との戦いでは総責任者として戦功を挙げた。内応、後方撹乱などの戦争外交に長け、強力な毛利元就勢と渡り合ったのは吉岡長増の度重なる献策の力が大きい。1569年、毛利元就に軍事力の前に劣勢に立たされていた大友義鎮勢であった。吉岡長増は、周防国において大内輝弘に兵を挙げさせることにより、毛利元就勢を北九州から撤退せしめた。奈多鑑基は宇佐宮で悪行を重ねた際、宮司らは吉岡長増に助力を求め、吉岡長増は宇佐宮に陳謝し、奈多鑑基を激しく叱咤した。1562年、大友義鎮と共に出家、吉岡宗歓と称して筆頭家老に就任した。晩年は毛利輝元、龍造寺隆信、島津義弘との外交に奔走し、和睦交渉をことごとく成功させた。そのやり方は実に柔軟で臨機応変。特に領内安定のために、秋月種実、宗像氏貞、筑紫惟門などに立て続けに婚姻を結ばせるなどして懐柔策をとる事で豊後国周辺を安定させた功績は大きかった。

吉岡鑑興【よしおかあきおき(15??~1578)】

吉岡長増の男。官途は河内守。室は妙林尼。1573年、父吉岡長増の病没により吉岡家の家督を相続した。1576年、加判衆として名を連ねた。1578年「耳川の戦い」で討死した。

吉岡統増【よしおかむねます(15??~15??)】

吉岡鑑興の男。別名吉岡甚橘。1573年「耳川の戦い」で討死した父吉岡鑑興の後を継ぎ吉岡家の家督を相続した。1586年「丹生島城の戦い」では、大友義鎮に属して丹生島城に籠城した。鶴崎城には伊集院久宣、野村文綱、白浜重政率いる島津家勢が攻め寄せた。この時、城主吉岡統増は、大友義鎮に属して臼杵城に籠城していたため、代わりに吉岡統増の母妙林尼が城兵の指揮をとり、島津家勢と対峙した。妙林尼は、守りに不安のあった当城を早急に整備した上で籠城。羽柴秀吉の軍勢が来援するまで見事に城を守り抜いた。羽柴秀吉勢接近のため島津家軍が退却を始めると妙林尼はすぐさま攻勢に転じ、予め用意しておいた伏兵を用いて奇襲を仕掛け、伊集院久宣、白浜の重政二将を討取り、野村文綱も重傷を負い、撤退中に死去してしまった。

若林越後守【わかばやしえちごのかみ(15??~15??)】

一尺屋城主。浦部衆のひとり。若林家は、大友親治から豊後国佐賀郷一尺屋を賜って、大友家海賊衆の中核を担った。

若林鎮興【わかばやししげおき(1547~1594)】

若林越後守の男。官途は中務少輔。室は浦上宗鉄の娘。1569年、毛利元就が北九州への侵攻を開始すると、大友義鎮の支配に反発する国人衆(秋月種実、高橋元種等)が、毛利元就の調略に離反した。豊前国、筑前国の大友家の戦線は崩壊した。大友義鎮は、大内輝弘に兵を与え、若林鎮興に命じて周防国山口へと海路輸送した。毛利家海賊衆を排除して、周防国秋穂浦に大内輝弘勢を上陸させた。毛利家勢が、北九州から吉川元春勢、毛利元就勢が引き返して来ると大内輝弘勢は劣勢に立たされた。若林鎮興が撤退すると、大内輝弘勢は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させることには成功した。1572年、土佐国一条兼定を支援するため、伊予国へ侵攻した。1574年、一条兼定が豊後国へ落延びる際は、それを警固した。1575年、一条兼定の土佐国侵攻を支援したが、一条兼定は「四万十川の戦い」で大敗した。1578年、日向国への侵攻では戦功を挙げたが「耳川の戦い」で大友家勢が島津義弘勢に大敗した。1580年、田原親貫が謀反を起こすと、若林鎮興は国東半島沖を封鎖し、援軍の毛利家海賊衆を撃退した。1586年、島津義弘勢が豊後国へ侵攻すると、若林鎮興は、嫡男若林統昌と共に臼杵城へ籠城した。1592年「文禄、慶長の役」でも、大友家海賊衆を率いて参陣した。1593年、大友義統が朝鮮での不手際で改易されると、速吸瀬戸通過のための寄港地である二間津で病没した。

若林統昌【わかばやしむねまさ(1568~1637)】

若林鎮興の男。武勇の士であり、強弓の使い手として知られ、剣術も柳生流の免許皆伝を得ていた。1586年、島津家久勢が北上し、豊後国へ侵入した際は、海辺郡丸尾砦にて防戦した。1593年「文禄の役」の際、において大友義統が「明軍の来襲を前に退去した」とされて、羽柴秀吉の命により改易されると、大友義統に従って周防国に蟄居した。後に大友家を辞し、松平定勝に仕えて200石を領した。

若林弾正忠【わかばやしだんじょうちゅう(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。
 
若林九郎【わかばやしくろう(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

若林藤兵衛尉【わかばやしとうべいのふ(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。

若林大炊助【わかばやしだいのすけ(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。1569年、大友家海賊衆の若林鎮興は、毛利家海賊衆と戦いこれを敗走させた。合尾浦を攻撃し大内輝弘を上陸させたが、大内輝弘勢は吉川元春勢の攻撃を受け敗走した。若林鎮興も合尾浦から撤退した。大内輝弘軍は壊滅したが、北九州から毛利元就勢を撤退させ、戦略的にこの「大内輝弘の乱」は成功を収めた。
 
若林上総介【わかばやしかずさのすけ(15??~15??)】

若林鎮興の枝連衆。

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【資料Ⅰ】

豊後国(8郡/460,000石)

日田郡:日隈城。
玖珠郡:角牟礼城。
国東郡:高田城。
速見郡:杵築城。
大分郡:戸次城。
直入郡:岡城。
大野郡:筒井城。
海部郡:拇牟礼城。

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【資料Ⅱ】

立花家四天王【】

戸次鑑連家臣団。由布惟信、十時連貞、安東家忠、高野大膳(安東家忠が隱居した後は安東家忠の代わりに小野鎮幸を加える)。

日田郡八奉行衆【ひたぐんはちぶぎょうしゅう】

蕪城主:石松肥前守鑑正、藤山城主:財津長門守永満、坂本城主:坂本伯耆守鑑次、安禅寺砦主:佐藤出雲守永信、西池部城主:世戸口大和守永益、西池部城主:高瀬山城守鑑俊、堤城主:堤越前守鑑智、羽野城主:羽野遠江守鑑房。※大友義鑑は、日田郡奉行に財津鑑永、坂本鑑次、羽野鑑房、石松鑑正、堤鑑智、高瀬鑑俊らを任じて、のちに佐藤永信。瀬戸口永益の二家を目代に命じ、八家は総称して「日田八奉行」と称した。

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【資料Ⅲ】

豊後国【ぶんごのくに】

調査中。

大野川【おおのがわ】

大野川は、日向国高千穂地方、豊後国と日向国境をなす祖母、傾山の祖母山に源流を発し北流。阿蘇山を中心としたカルデラの一部も源流となる。これらが豊後国を流れ、別府湾に注ぐ。大野川はかつて、その下流では戸次川と称された。1587年、島津家久勢と長宗我部元親、長宗我部信親親子、仙石秀久、大友義統らが率いる羽柴秀吉勢の間で「戸次川の戦い」が起きた。

岐部【きべ】

国東半島北岸の入江に向かう湊街。中世、大友家に属し、海上活動に従事した岐部家の本拠地。1513年、岐部家は、富来家らと、大友家に渡唐船の日向国外浦への抑留を命じられ、他にも渡唐船の水先案内や警固を担当し、豊後国周辺海域を支配した。岐部家は岐部を根拠地として大友家の朝鮮貿易の一翼を担った。岐部とその周辺が鉄とその製品の産地であったことがわかる。豊後国では「豊後刀」として知られる刀剣の生産が盛んであり、岐部は、府内近辺の高田など、鍛冶場に供給される鉄の積出しでも栄えた。

府内【ふない】

大分川河口西岸に位置し、鎌倉期から「府内」と称され、大友家のもとで国際交易都市として繁栄を極めた城下街。大友家は室町、戦国期の遣明船派遣に関わり、対朝鮮貿易や対琉球貿易、対明貿易を行った。16世紀、大友家は室町幕府に白砂糖や猩々皮など輸入品を恒常的に贈り、府内の市場には中国、朝鮮産陶磁に加えてタイやベトナム、ミャンマー産の陶磁器が売られていた。府内には渡来系の商人や職人が「唐人街」などを形成し、京、堺、博多からも商人が来住して取引を行った。大友義鎮が交易のためにキリスト教を受け入れ後はポルトガル船の来航と宣教師の逗留により、キリシタン文化の拠点ともなった。

佐賀関【さがのせき】

伊予国佐田岬と速吸瀬戸を挟んで対峙する佐賀関半島先端部のくびれ部分に位置し、豊後水道の航路の要衝として栄えた港町。大友氏は貞治三年(1364)の段階で佐賀関を直轄領としており、以後も代々受け継いでいる。近世の『武家万代記』では、天文二十年(1551)以降に、大友氏が富来や靏崎とともに佐賀関に海関を設けたとしており、名の通りの「関」でもあったとみられる。弘治元年(1555)から二年間日本に滞在した鄭舜功は『日本一鑑』で、豊後の明船寄港地として蒲江や臼杵、府内とともに佐賀関を挙げており、佐賀関が明国と貿易を行う大友氏の海外貿易拠点でもあったことがうかがえる。戦国期の佐賀関の状況、及び大友氏の佐賀関への政策は、天正十六年(1588)六月に大友義統が若林越後入道に宛てて発給した計十一か条の袖判条々から推測できる。第一条は「関両浦」(佐賀関は上浦と下浦から構成されている)の町立(都市計画)についてであり、第二条では「計屋」を両浦に三軒ずつ設置することを命じている。「計屋」は交易の拠点で銀の秤量を担った商人であり、第二条付則に「府内・臼杵可為同前」とあることから、府内、臼杵、佐賀関という領国経済の中心三都市で衡量制の統一が図られたものとみられている。

臼杵【うすき】

豊後国臼杵湾の最奥部に位置する湊街。1562年、大友義鎮によって丹生島城が築かれて以降、大友家領国の政治、経済の中心として発展した。豊後国の明船寄港地として佐賀関や府内などとともに臼杵も挙げられており、国際性も持つ重要な港湾であった。臼杵には唐人街、畳屋街、唐人懸ノ街、海添中街、横浜街、吉水小路片街、浜街、菊屋街、横街の九街と祇園洲から構成され、田畠屋敷総数四〇四筆のうち、実に三七五筆が屋敷であるなど、戦国末期には大規模な都市となっていた。臼杵は大友家の計画的な都市建設プランのもとで、府内の町人を誘致して新たに町立てされた。南蛮、中国貿易を行う大友家のもとで、臼杵は国際貿易港として発展した。唐人町などには陳元明など明国からの渡来系技術者など外国人が居住、営業しており、イエズス会も司祭や修道士を臼杵に常駐させた。また唐人懸ノ街に居住した豪商仲屋宗悦は堺、京都や明人との貿易に従事して莫大な富を得ており、屋敷地が唐人懸ノ街の過半を占た。

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戦国人名辞典は1530~1600年の期間に国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。

※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

※大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、豊臣秀吉は羽柴秀吉、立花 道雪は戸次 鑑連の名前で統一しました。

※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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