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【あ】
秋穂盛光【あいおもりみつ(15??~1569)】
吉敷郡鷺山城。官途は因幡守。1551年、「大寧寺の乱」後、毛利元就に属した。1569年、大内晴英が山口に侵攻した際、手勢を率い大内晴英に属したが討死した。
阿川隆保【あがわたかやす(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称太郎。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆とともに法泉寺まで落延びた。
浅見道高【あさみみちたか(15??~15??)】
大内義興家臣。通称四郎左衛門尉。屋代島警固衆。
飯田隆言【いいだたか(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称左衛門尉。
伊香賀隆正【いかがたかまさ(15??~1555)】
陶晴賢家臣。官途は民部大輔。陶晴賢の近習を務めた。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢に属して参陣したが、毛利元就勢の攻撃を受け自刃した。辞世の句は「末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは」。
伊香保房明【いかがふさあき(15??~15??)】
陶晴賢家臣。1551年、陶晴賢が謀反を起こすと、大内義尊の謀殺を進言した。陶晴賢は大内義尊擁立を考えていたが、陶晴賢はこの意見を聞き入れた。
伊賀崎紹活【いがさきじょうかつ(15??~15??)】
冷泉隆豊家臣。後に周防国由宇郷にて10石を賜った。
伊賀崎満重【いがさきみつしげ(15??~1597)】
冷泉隆豊家臣。官途は右衛門尉。1597年、「蔚山城の戦い」で冷泉元満が討死した際、冷泉元満の死骸を船に乗せ日本に戻した。翌日、吉安満定、白松善右衛門とともに討死した。
伊佐景久【いさかげひさ(15??~1551)】
伊佐行光家臣。官途は土佐守。1551年、「大寧寺の乱」では、最後まで大内義隆に付き添い大寧寺で討死した。
伊佐隆光【いさたかみつ(15??~1551)】
大内義隆家臣。通称与三郎。1551年、「大寧寺の乱」では、最後まで大内義隆に付き添い大寧寺で討死した。
岩正興致【いわまさおきむね(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は伊豆守。毛利家に臣従。大庭賢兼、吉見興滋、河屋隆通とともに毛利家の山口奉行。市川経好の与力。
上田秋宣【うえだあきのぶ(15??~15??)】
朝倉弘房の五男。官途は掃部介。1534年、「九州侵攻」の際、陶興房の陣代として戦功を挙げた。
宇賀島忠重【うかしまただしげ(15??~1555)】
大内義隆家臣。通称十郎左衛門。備後国尾道と向島の間の尾道水道に浮かぶ宇賀島を根拠地とした海賊衆。宇賀島海賊衆の指揮官として陶晴賢に属した。1555年、「厳島の戦い」で陶晴賢勢は壊滅すると、宇賀島衆は毛利元就勢の掃討を受け文字通り全滅した。
宇佐川勝長【うさがわかつなが(15??~1554)】
大内義隆家臣。通称新七郎。山代衆ひとり。玖珂郡北部の山代十三郷の国人衆。1551年、「大寧寺の乱」で陶晴賢の謀反を起こすと、これに属した。「折敷畑の戦い」では、宮川房長勢に属して参陣するも討死した。
宇野元弘【うのもとひろ(15??~15??)】
陶隆康の次男(宇野景政の養子)。通称又右衛門。1551年、陶晴賢が謀反を起こした際、若年であったため、難を逃れた。小早川隆景から吉敷郡宇野令を領地として与えられ、宇野家の家督を相続した。1557年、「周防沼城の戦い」では、敵将江良主水正を討取る戦功を挙げた。
宇野正常【うのまさつね(15??~1556)】
鞍掛杉隆泰家臣。家老職を務めた。1555年、杉隆泰とともに毛利元就に降った。大内義長へ内通していたことが露見して討死した。
榎本宗忠【えのもとむねただ(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は弾正忠。別名榎本賢忠。1551年、「大寧寺の乱」では、陶晴賢の謀殺を企てるが失敗、毛利元就に仕えた。
榎本元吉【えのもともとよし(15??~15??)】
榎本宗忠の男。
江良房栄【えらふさひで(15??~1554)】
陶晴賢家臣。琥珀院城主。官途は丹後守。弘中隆包と並ぶ屈指の名将。1551年、陶晴賢が謀反を起こすと主力として中国各地を転戦した。大内義長を迎えた。毛利元就は、江良房栄への内応工作が失敗に終わると、「江良房栄が内応している」という虚報を流し陶晴賢を疑心暗鬼に陥れた。1554年、江良房栄と嫡男江良彦二郎をはじめとする江良家枝連衆は、岩国琥珀院にて、陶晴賢の命を受けた弘中隆包らによって謀殺された。
江良賢宣【えらかたのぶ(15??~15??)】
江良房栄家臣。官途は弾正忠。陶晴賢が吉見正頼に侵攻した際、安芸国桜尾城を守備した。毛利元就勢の攻撃を受け落城、周防国に落延びた。後に、周防国沼城への援軍に赴くが、毛利元就勢に敗退した。1555年、陶晴賢が討死後、毛利元就に降伏した。
江良昌泰【えらまさやす(15??~1556)】
江良房栄家臣。官途は主水正。1556年、山崎興盛守る周防国沼城へ援将として入城した。1556年、宇野元弘に討取られた。
江良興綱【えらおきつな(15??~15??)】
江良房栄家臣。官途は弾正忠。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
大内義興【おおうちよしおき(1477~1528)】
吉敷郡高嶺城主。大内政弘の男。官途は周防守。周防国、長門国、石見国、筑前国、安芸国、豊前国、山城国守護職。通称六郎。室は内藤弘矩の娘(東向殿)。1499年、足利義稙が庇護者であった大内政弘の縁を頼って大内義興を頼ると同様にこれを援助した。1507年、足利義稙を擁して上洛した。1508年、足利義澄、細川澄元らを近江国に追った。1511年、「船岡山の戦い」では勝利した。足利義稙政権にあって自らは管領代となり、山城国守護となって権勢を振るったが、出雲国の尼子経久は大内義興留守の間隙を突いて石見国、安芸国に侵攻して勢力圏を侵食した。1518年、尼子経久は安芸国人衆や安芸武田光和と結んで大内義興勢の諸城を攻略した。1524年、毛利元就が尼子経久から離反すると、安芸国内では優勢になった。1528年、山口において病没した。和歌や芸能を好み、また対明貿易を積極的におこなうなど、治政家としても有能であった。
大内義隆【おおうちよしたか(1507~1551)】
大内義興の男。官途は周防介。室は万里小路季房の娘。1528年、父大内義興の病死により大内家の家督を相続した。1532年、筑前国少弐家を撃破し、肥前国松浦党を勢力下に置いた。1534年、「勢場ヶ原の戦い」では、大友義鑑勢に大敗を喫した。1536年、後奈良天皇即位の費用を献じて大宰大弐に任ぜられ、これを機に少弐資元を滅ぼした。1537年、大友義鑑と和議を結び北九州における覇権を確立した。1540年、毛利元就が尼子詮久による攻撃を受けた際、陶晴賢を派遣して撃退した。さらに佐東銀山城を落として安芸武田光和を滅ぼした。1542年、富田月山城を攻撃するが大敗し、敗走途中に養子の大内晴持を失った。石見大森銀山をめぐって尼子家と争奪戦を繰り広げ。北九州でも少弐冬尚、大友義鎮が筑前国、豊前国を狙うなど油断のならない状況にあった。大内義隆はこれに対しほとんど有効な手段を講じなかった。1551年、陶晴賢が謀反を起こし、山口を襲撃、大内義隆、大内義尊父子は長門国湯本大寧寺において自刃した。このとき大内義隆の政治放棄の要因とされた公家衆や宣教師も追放、謀殺され、山口の街は灰燼に帰した。
大内輝弘【おおうちてるひろ(1520~1569)】
大内政弘の次男。通称太郎左衛門。1568年、大友義鎮が毛利元就と北九州地域の覇権を巡って争った際、大内輝弘に兵を与え、若林鎮興らの大友家海賊衆に支援させ海上から周防国に侵攻させた。大内輝弘の率いる兵力は少なかったが、水上戦では市川経好の周防海賊衆を撃破した。大内輝弘が周防国に侵入すると、毛利元就勢は北九州に参陣していたため、苦戦を強いられた。高嶺城を守る市川経好夫人が少ない城兵を指揮し徹底して抗戦したため、大内輝弘は、山口を完全に占領することができなかった。大内輝弘の攻撃を知った毛利元就は北九州攻略を諦め、吉川元春、小早川隆景率いる精鋭を周防国に向かわせた。大友輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出するも、追撃厳しく富海の茶臼山にて自刃した。
大内武弘【おおうちたけひろ(15??~1569)】
大内輝弘の男。1568年、父大内輝とともに大友義鎮の後援のもと周防国に侵攻、大内家再興の兵を挙げた。筑前国より素早く転戦した毛利家勢に大敗し、自刃した。
大内晴持【おおうちはるもち(1524~1544)】
一条房冬の四男(大内義隆の養子)。官途は左衛門佐。別名一条恒持。室は大内義隆の娘。文武に秀で和歌や管弦などの雅な教養にも明るく、公家の名門一条家の血筋もあってなのか大内義隆に可愛がられた。後に養子となった大内義長の扱いに比べると雲泥の差であった。1541年、出雲の尼子経久が没すと、大内義隆は大内晴持らを率いて出雲国に参陣したが、三刀屋久扶、本城常光らの寝返りで大内義隆勢は総崩れとなり、大内義隆と大内晴持は別々の船で周防に退却した。船が途中で転覆したため、大内晴持は溺死した。
大内義尊【おおうちよしたか(1544~1551)】
大内義隆の男。官途は周防守。1551年、陶隆房の謀反では、大寧寺まで父大内義隆とともに落延びたが、そこから別道で逃れようとするも、陶晴賢勢の兵に見つかり自刃した。
大内義長【おおうちよしなが(15??~1557)】
大友義鑑の次男(大内義隆の猶子)。官途は左京大夫。1545年、大内義隆に実子の大内義尊が誕生したため、猶子関係を解消され帰国した。1551年、陶晴賢が大内義隆に対して謀反を起こし大内義隆を謀殺すると、大内家に迎えた。兄大友義鎮は、大内義長の擁立には反対したが、大内義長が強く望んだため大友義鎮もこれを認めた。1556年、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは承認を拒まれた。1555年、陶晴賢が毛利元就との「厳島の戦い」で討死すると、大内義長の求心力は低く内訌で弱体化し、家臣団は完全に崩壊した。1557年、毛利元就勢が山口へ侵攻すると、寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄して内藤隆世の長門国且山城へ落延びた。福原貞俊勢により且山城を包囲され、内藤隆世は大内義長の助命を条件に開城し自刃した。大内義長も長福院に入ったあとに毛利元就勢に囲まれて自刃した。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。
大内大宮姫【おおみやひめ(15??~15??)】
大内義興の娘。吉見正頼の室。吉見広頼を生む。吉見正頼は側室を持たなかった。
大田隆通【おおたたかみち(15??~1551)】
大内義隆家臣。大内義隆の近習を務めた。1551年、陶晴賢の謀反の際、大内義隆に殉じ大寧寺で自刃した。辞世の句は「秋風の 至り至らぬ山陰に 残る紅葉も 散らずやはある」。
大庭景家【おおばかげいえ(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は若狭守。1545年、豊前国内の所領を安堵された。
大庭賢兼【おおばかたかね(15??~15??)】
大内義隆家臣。大庭矩景の男。官途は加賀守。豊後国守護代杉豊後守の寄騎衆を務めた。毛利元就に降伏した。吉見興滋、河屋隆通、岩正興致とともに市川経好の寄騎衆として山口奉行を務めた。
岡部興景【おかべおきかげ(15??~15??)】
大内義興家臣。通称勘解由左衛門尉。1520年、御倉奉行を務めた。
岡部隆景【おかべたかかげ(15??~1551)】
大内義興家臣。官途は右衛門大夫。美祢郡岩永の地を所領としていた。陶晴賢の謀反の際には大内義隆に最期まで付き従い大寧寺で天野隆良、黒川隆像、禰宜右延らとともに討死した。辞世の句は「白露の消え ゆく秋の名残とや しばしは残る 末の松風」。
岡屋隆秀【おかやたかひで(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、陶晴賢の乱では、大寧寺まで大内義隆に付き添い自刃した。辞世の句は「時有りて 自から至り 時有りて又還る 清風水を度り明月天に在り」。
小幡義実【おばたよしざね(15??~1551)】
大内義尊家臣。大寧寺から大内義尊を警固して脱出する最中に三浦房清に捕縛、斬頸に処された。辞世の句は「宝剣を呑却して名弓を放下す 只斯の景のみ有り一陣の清風」。
小原隆言【おばらたかこと(15??~1554)】
大内義興家臣。官途は安芸守。大内家警固衆の大将。大内家警固衆を率いて白井房胤らとともに安芸国、伊予国を転戦した。1551年、大内義隆自刃の際、書き残された弾劾状に名指しされた。1554年、鶴姫に討取られた。
小原加賀守【おばらかがのかみ(15??~15??)】
大内義長家臣。1557年、草場越中守、河越伊豆守らとともに大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて障子ヶ岳城で挙兵した。長門守護代で荒滝山城主内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕らわれて処刑された。
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【か】
賀屋景頼【かがやかげより(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は和泉守。大内家警固衆。1555年、「厳島の戦い」後、毛利元就に属した。
柿並隆幸【かきなみたかゆき(15??~1554)】
陶晴賢家臣。柿並弘慶の男。通称小平太。1554年、「折敷畑の戦い」では、毛利元就への討伐軍の大将として派遣されるが、周防山代衆を率いて戦ったが討死した。
柿並隆正【かきなみたかまさ(15??~1555)】
柿並隆幸の男。官途は佐渡守。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢が自刃後、その頸を隠し山崎隆方、伊香賀隆正とともに自刃した。
勝屋興久【かつやおきひさ(15??~1557)】
都濃郡殿浴山城主。相良正任の男。陶晴賢家臣。官途は右馬允。別名相良興久。1555年、山崎興盛の須々万沼城が毛利元就勢から攻撃を受けた際、援軍として入城した。後に討死した。
賀屋景頼【かやかげより(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は和泉守。大内警固衆の大将。1555年、「厳島の戦い」後、毛利元就に降り岩国に侵攻した吉川元春を自らの屋敷で歓待した。後に冷泉元満らとともに瀬戸内海の制海権を守った。
河屋隆通【かわやたかみち(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は因幡守。1555年、大内義長の滅亡後、大庭賢兼、吉見興滋、仁保隆慰、岩正興致らとともに、山口奉行市川経好の補佐を務めた。
河越伊豆守【かわごえいずのかみ(15??~15??)】
大内義長家臣。1557年、草場越中守、小原加賀守らとともに大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて障子ヶ岳城で挙兵した。長門守護代で荒滝山城主内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕らわれて処刑された。
狩野入道【かりのにゅうどう(15??~15??)】
大内義隆家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
神田貞安【かんださだやす(15??~15??)】
甲田丹後守の男。官途は豊前守。別名甲田蔵人丞。山代衆のひとり。1555年、「厳島の戦い」後、三分一式部丞、松原彦右衛門とともに毛利元就に降伏した。宇佐川勝長、甲田丹後守らと戦った。
神田元重【かんだもとしげ(1550~1569)】
神田貞安の男。
岐志甲斐守【きしかいのかみ(15??~1554)】
大内義隆家臣。高森城主。岐志通之の男。1554年、「折敷畑の戦い」では、陶晴賢勢の宮川房長が率いる軍勢と毛利元就が戦った際、陶晴賢勢に属して参陣したが討死した。
北野次郎右衛門【きたのじろうえもん(15??~15??)】
毛利元就家臣。室は三分一左衛門九郎の娘。
北野季勝【きたのまごべえ(15??~1609)】
北野次郎右衛門の男。通称孫兵衛。山代本郷村の庄屋。毛利輝元勢に属して中国地方各地を転戦した。1600年、「関ヶ原の役」後、帰農して本郷村の庄屋を務めた。関ヶ原の敗戦により、毛利輝元は1,200,000石から360,000石に減封されため、財政難に直面した。領国維持のため、「慶長検地」を実施、重税を強いられた。北野季勝、庄屋西村次右衛門らは11ヶ村の庄屋は年貢の減免を求めた嘆願を行った。1609年、毛利輝元は減免を受け入れたが、11ヶ村の庄屋衆を一揆を首謀したとして斬頸となった。
草場越中守【くさばえちゅうのかみ(15??~15??)】
大内義長家臣。1557年、小原加賀守、河越伊豆守らとともに大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて障子ヶ岳城で挙兵した。長門守護代で荒滝山城主内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕縛され斬頸となった。
沓屋興種【くつやおきたね(15??~15??)】
屋代島警固衆。官途は紀伊守。
沓屋隆貞【くつやたかさだ(15??~15??)】
沓屋興種の男。通称源太郎。別名沓屋勝範。屋代島海賊衆のひとり。1523年、武田光和との戦いのため五枚帆の関船に沓屋通種、小野山十郎を乗せて参陣した。1524年、東山攻めの最中、右脛を矢で射られた負傷した。1555年、「厳島の戦い」の際、他の屋代島衆とともに毛利元就に対し計1,877石の所領を要求した。これは屋代島衆の旧領であり、毛利元就もこれを了承した。
沓屋景頼【くつやかげより(15??~15??)】
沓屋隆貞の男。官途は東市佐。通称源四郎。別名沓屋通種。1523年、武田光和もとでは、五枚帆の関船に座乗した。後に毛利元就に仕えた。1561年「門司城の戦い」で戦功を挙げた。
沓屋右衛門尉【くつやうえもんのじょう(15??~15??)】
屋代島警固衆。1556年、毛利元就から今後の忠勤を期待するという書状を送られた。
沓屋勝範【くつやかつのり(15??~15??)】
大内義興家臣。屋代島警固衆。1555年、「厳島の戦い」後、毛利元就勢に属した。
蔵田教信【くらた のりのぶ(15??~1551)】
大内義隆家臣。玖珂郡差川城主。官途は治部少輔。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆に忠節を尽くして陶晴賢勢と戦い討死した。
黒川隆像【くろかわたかかた(1512~1551)】
大内義興家臣。吉敷郡黒川館主。官途は刑部少輔。別名宗像氏男。1551年、陶晴賢の謀反の際、大内義隆を最後まで守り、長門国大寧寺で討死した。
黒川氏隆【くろかわうじたか(15??~15??)】
黒川隆像の男。父黒川隆像が大寧寺で討死後、長門国に落延びた。
黒川著保【くろかわあきやす(15??~15??)】
黒川隆像家臣。官途は三河守。毛利元就に降伏した。1573年、国司就信らとともに山口奉行を務めた。
黒川隆尚【くろかわたかひさ(15??~1547)】
大内義隆家臣。官途は刑部少輔。別名宗像正氏。大内義隆に従い山口へ赴き、周防吉敷郡黒川郷を与えられ黒川隆尚と名乗りを改める。 主に水軍を指揮した。1541年、厳島神主家の友田興藤が厳島を占拠した際、隆尚は警固衆を率い厳島を奪回した。この時、棚守房顕より太刀を賜られる。
謙道宗設【けんどうそうせつ(15??~15??)】
大内義興家臣。大内義興が管領細川高国の要請を受けて追放されていた足利義稙を奉じて上洛、将軍職復帰を実現させると、その戦功として大内義興が遣明船派遣の管掌権を永久的に保証された。1523年、大内義興が謙道宗設を正使に月渚永乗を副使に遣明船を派遣すると、細川高国は対抗して鸞岡端佐を正使、宋素卿を副使として、既に無効となった弘治勘合符を持たせて南海経由で遣明船を派遣した。細川高国派遣の遣明船を明当局が優遇したため、鸞岡瑞佐を謀殺して、街で放火や略奪をおこなった。1536年、大内義隆が貿易を再開した。この事件をきっかけに寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇の活動となった。
甲田貞安【こうださだやす(15??~15??)】
甲田丹後守の男。官途は豊前守。別名神田貞安。山代衆のひとりで本郷村の地侍。山代衆は周防玖珂郡北部の山代十三郷の領主達で、大内家に属していた。1555年、「厳島の戦い」後、甲田貞安は父甲田丹後守と袂を分かち、三分一、松原らとともに毛利元就に降伏した。
甲田元重【こうだもとしげ(1550~1569)】
甲田貞安の男。通称二郎三郎。別名神田元重。1569年、「筑前立花山城の戦い」で討死した。
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【さ】
相良武任【さがらたけとう(1498~1551)】
大内義隆家臣。相良正任の男。官途は遠江守。大内義隆の右筆、奉行人として仕え、国人衆の統制と守護代の権力抑制、大名権力の強化に務めた。この行政能力を大内義隆に信任され、評定衆にも列せられた。1541年、陶晴賢が「出雲討伐」を提言したことに対して反対し、これを契機に陶晴賢と対立した。「出雲討伐」が失敗に終わると、大内義隆の信任を受けて文治派を形成し、武断派の陶隆房、内藤興盛らと対立した。1545年、陶晴賢らの巻き返しを受けて失脚した。1548年、大内義隆の要請を受けて再出仕した。1550年、陶晴賢との対立が決定的となり、暗殺まで謀られるに至るが、武任は事前に察知して大内義隆に密告することで難を逃れた。陶晴賢との対立を回避するため、陶長房(陶晴賢の嫡男)に美貌で知られた自分の娘を嫁がせるなど融和策をとったが失敗に終わった。1551年、大内義隆に陶晴賢と内藤興盛らに謀反の企てを知らせた。1551年、陶晴賢が謀反を起こしたとき、野上房忠によって杉興連とともに花尾城で謀殺された。辞世の句は「空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く」。
佐藤宗左衛門尉【さとうむねざえもん(15??~15??)】
陶晴賢家臣。1557年、佐藤宗左衛門尉親子が山口で挙兵したが毛利元就勢の温品種重、市川経好、祖式友兼らに鎮圧された。
讃良秀安【さんらひでやす(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は伊賀守。1547年、長門国美禰郡、周防国玖珂郡で18石の所領安堵された。
白松満明【しらまつみつあき(15??~1597)】
冷泉隆豊家臣。通称善右衛門。白松満明は吉安満定、伊賀崎満重とともに冷泉家の家老職を務めた。1592年、「慶長の役」のさい、冷泉元満が「蔚山城の戦い」で討死すると、その死骸を取り戻し、日本に送った。その翌日、吉安満定、伊賀崎満重とともに加藤清正勢に属して勢し奮戦したが、討死し冷泉元満に殉じた。
陶興房【すえおきふさ(1475~1539)】
都濃郡富田若山城主。大内義興家臣。陶弘護の男。周防国守護代。官途は尾張守。通称次郎。室は朝倉弘詮の娘。父陶弘護の病没により陶家の家督を相続したが、幼少のため、叔父陶弘詮が陣代となった。1508年、大内義興が足利義稙を奉じて上洛した際、これに従った。1524年、大内義興の銀山城攻めに参陣した。桜尾城を包囲、銀山城攻めの途中毛利元就の夜襲により兵520余りを討たれた。陶興房は撤退を決意。尼子経久勢の夜襲は毛利元就の進言により行われた。陶興房は毛利元就の家臣井上元貞、粟屋元秀らを介して内応させ、最終的に大内義興勢の勝利に終わった。1532年、兵23,000余りを率いて豊前国に侵攻した。1533年、「武蔵城の戦い」で、筑紫惟門と戦い勝利した。1534年、「場ヶ原の戦い」では、杉重信とともに大友義鑑勢を撃退した。肥前にて少弐資元勢の龍造寺と戦い敗北した。1535年、少弐資元、冬尚親子を追討した。和歌にも長じ、連歌師宗碩と親しむほか、飛鳥井雅俊と交流した。
陶興昌【すえおきまさ(15??~15??)】
陶興房の男。謀反の疑いを受け、父陶興房により謀殺された。
陶晴賢【すえはるかた(1521~1555)】
陶興房の次男。通称五郎。官途は尾張守。別名陶隆房。父陶興房が病没した際、兄陶興昌は死去していたため陶家の家督を相続した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、援軍として毛利元就のもとに派遣された。1541年、毛利元就と協力して尼子晴久勢を撤退に追い込んだ。1542年、「出雲討伐」では、月山富田城を攻撃したが失敗した。撤退時に尼子晴久勢の追撃を受け大内義隆の養子大内大内晴持が討死した。その後、大内義隆は政治に興味を失い、外様衆の相良武任を重用して譜代衆の陶晴賢、内藤隆春、杉隆泰らは中枢から排除された。1551年、大内義隆を山口館に急襲し、長門国大寧寺で自刃させた。1552年、大友義鎮の弟大内晴英を迎え、大内家を相続させた。反陶晴賢の石見国三本木城主吉見正頼を攻撃した。吉見正頼は毛利元就に救援を求め、毛利元就は陶晴賢から離反して、安芸国内の陶晴賢勢を攻撃した。陶晴賢は吉見正頼と和議を結び、毛利元就との戦いに備えた。毛利元就の流した、「江良房栄が内応している」という虚報を信じ、腹心の江良房栄を謀殺した。1554年、「折敷畑の戦い」では、勇猛で知られた宮川房長が討死した。安芸国出張城主白井房胤や矢野保木城主野間隆実らも毛利元就に討取られた。1555年、「厳島の戦い」では、厳島に渡海して宮ノ尾城を攻撃した陶晴賢勢の背後を三島村上海賊衆、小早川海賊衆の奇襲を受け大敗、厳島大江浦で自刃した。
陶隆信【すえたかのぶ(15??~15??)】
陶興房の三男。
陶長房【すえながふさ(15??~1557)】
陶晴賢の男。富田若山城主。通称五郎。相良武任は陶晴賢と和議を結ぶため、娘と陶長房の婚姻を大内義隆に願い出た。大内義隆もこの婚姻を認めたが、陶晴賢は拒否。両者の関係は更に悪化した。1555年、「厳島の戦い」で陶晴賢が討死すると急遽、陶家の家督を相続した。若年の陶長房では毛利元就には抗し得ず、大内義長を擁しながらも富田若山城も落城した。1557年、杉重輔の奇襲を受け陶長房も討死した。遺児鶴寿丸も毛利元就により謀殺されて周防国の陶家嫡流は滅滅亡した。
陶貞明【すえさだあき(15??~1557)】
陶晴賢の次男。通称小次郎。1557年、周防国冨田城が落城した際、龍文寺に潜伏していたが、杉重輔、杉正重勢の攻撃を受け自刃した。
陶信勝【すえのぶかつ(15??~15??)】
陶長房の男。1557年、若山城落城の際、乳母に引き連れられて、安芸国に落延びた。
陶隆満【すえたかみつ(1497~15??)】
大内義興家臣。官途は安房守。奉行衆を務めた。1551年、陶晴賢勢に属して山口を襲った。大内義隆死後、大内義長が豊後国から山口へ入る際これを迎え、山口まで送ったが、後に毛利元就に降った。「源氏物語」の収集で知られる好事家。
陶隆康【すえたかやす(15??~1551)】
大内義興家臣。朝倉弘詮の男。官途は右馬允。大内義隆の近習から侍大将となった。1551年、陶晴賢の謀反の際には、大内義隆を落延びさせるため、嫡男陶隆弘とともに殿を務め、法泉寺で討死にした。
陶隆弘【すえたかひろ(15??~1551)】
陶隆康の男。官途は中務少輔。1551年、陶晴賢の謀反の際には、大内義隆を落延びさせるため、父陶隆康とともに殿を務め、法泉寺で討死にした。
菅田宣真【すがたのりざね(15??~1551)】
大内義興家臣。官途は越中守。大内義隆によって安芸に派遣され、在所の地名を取り、菅田姓を名乗った大内義隆の命を受けて安芸郡槌山城に在番した。1551年、「大寧寺の変」により大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就は菅田宣真を槌山城に攻め、菅田宣真は嫡男菅田宣種、尾和秀義、大林隆廉、財満隆久らとともに槌山城に籠城したが落城。菅田宣真は自刃した。
菅田宣種【すがたのりたね(15??~15??)】
菅田宣真の男。1551年、「大寧寺の変」により大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就は菅田宣真を槌山城に攻め、菅田宣種も父菅田宣真に従って、尾和秀義、大林隆廉、財満隆久らとともに槌山城に籠城したが落城。菅田宣種は自刃した。
杉民部大夫【すぎみんぶだいふ(15??~1555)】
大内義長家臣。1555年、大内義長の介錯を務めた後、自刃した。
鞍掛杉隆泰【すぎたかやす(1525~1555)】
玖珂郡鞍掛城主。杉興道の男。官途は治部少輔。鞍掛城30,000石を領した。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。1555年、毛利元就に降った。大内義長へ内通していたことが露見して小方元康に討取られた。
鞍掛杉隆季【すぎたかよし(15??~1557)】
杉興道の次男。
椙杜隆康【すぎもりたかやす(15??~15??)】
玖珂郡蓮華山城主。椙杜房康の男。大内義隆家臣。官途は右京亮。1551年、陶晴賢によって大内義隆が弑逆されるとそれに従った。1555年「厳島の戦い」で陶晴賢が討死し、毛利元就が周防へと侵攻すると、積極的に毛利元就に加担した。近隣の鞍掛山城主杉隆泰の降伏を偽りと注進した。のちに杉隆泰を討取った。椙隆康には男児がなかったため、毛利元就の五男椙杜元秋を養子に迎えた。後に毛利元秋が月山富田城主になったため、その弟末次元康が椙杜家を継いだ。1585年、毛利元秋が月山富田城内で病死した。後任として末次元康が任じられたため、またもや椙杜家の家督は空となった。その後、志道元保の男志道元縁を養子として跡を継がせた。
椙杜元秋【すぎもりもとあき(1552~1585)】
毛利元就の五男(椙杜隆康の養子)。官途は刑部大輔。1568年、月山富田城主となり3,500貫を領した。尼子残党の蜂起に対しても、が補佐役の天野隆重の助力により月山富田城を守り抜いた。若くして病死した。
椙杜元縁【すぎもりもとより(15??~15??)】
志道元保の男(椙杜隆康の養子)。1600年、「関ヶ原の役」では、安国寺恵瓊は吉川広家に石田三成勢への参陣を求めるが、椙杜元縁を使者として毛利輝元に参陣を断るよう伝えた。吉川広家は榊原康政や本多正信に石田三成の挙兵を報告し、黒田長政には毛利輝元が関与していないとする書状を送った。毛利輝元が防長移封されると、毛利秀元の筆頭家老職を務めた。
杉元相【すぎもとすけ(1522~1585)】
都濃郡一の井手城主。杉隆宣の男。通称次郎左衛門。1540年、「池の内の戦い」で、湯原宗綱を粟屋元良と挟撃し討取った。1543年、父杉隆宣の討死により杉家の家督を相続した。1551年、陶晴賢による大内義隆への謀反「大寧寺の変」では中立を維持した。1556年、「防長経略」で毛利元就に降伏した。1569年、「大内輝弘の乱」では、富海近くの椿峠に布陣し、大内輝弘の残存兵の逃亡を防ぎ壊滅させた。
杉元宣【すぎもとのぶ(15??~1589)】
杉元相の男。通称小次郎。室は児玉元良の娘。1585年、父杉元相の病死より杉家の家督を相続した。毛利輝元は児玉元良の娘(二の丸殿)を側室とすることを望んでいたが、娘は婚姻相手に杉元宣を選んだ。杉元宣の内室になっても二の丸殿を諦めきれない毛利輝元は家臣の椙山土佐守、椙山清兵衛親子、佐世元嘉らに命じて杉元宣の内室を奪った。1589年、杉元宣は、毛利輝元の行為を羽柴秀吉に直訴すべく大坂に向ったが、途中小早川隆景の追ってによって謀殺された。
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【た】
田子兵庫頭【たなこひょうごのすけ(15??~15??)】
大内義隆家臣。1543年、本陣を京羅木山に移し、飯梨川を越え月山富田城を攻撃すべきと主張した。毛利元就は尼子晴久を侮っていると反論するが、陶晴賢の賛成により大内義隆は本陣を京羅木山に移した。
津守輔直【つもりすけなお(15??~15??)】
大内義隆家臣。1557年、大内義長が討死すると、毛利元就に仕えた。大内輝弘が山口へ侵攻した際、高嶺城に籠城した。
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【な】
長井貞重【ながいさだしげ(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆に忠節を尽くして陶晴賢勢と戦い討死した。
長崎元康【ながさきもとやす(15??~1543)】
大内義興家臣。官途は左近将監。屋代島警固衆。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣したが討死した。
長杉次郎左衛門【ながすぎじろうさえもん(15??~15??)】
大内義隆家臣。1540年、尼子晴久が毛利元就領に攻め込むと、救援に派遣された。毛利元就とともに尼子晴久勢と戦った。
日継須益【にっけいすうえき(15??~15??)】
龍福寺住職。龍福寺は大内義隆の菩提寺。著書に『大内義隆記』。
仁保興奉【にほしおきとも(15??~1539)】
吉敷郡仁保館主。仁保興棟の次男。官途は上総介。
仁保隆在【にほしたかあり(15??~1566)】
吉田元種の次男(仁保興奉の養子)。官途は上総介。
仁保元氏【にほしもとうじ(15??~1631)】
吉川元春の次男。官途は宮内少輔。別名仁保元棟。
貫隆仲【ぬきたかなか(15??~1551)】
大内義隆家臣。官途は下野守。奉行衆を務めた。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。1551年、山口法泉寺にて大内義隆に殉じた。
温品種重【ぬくしなたねしげ(15??~15??)】
大内義興家臣。通称吉左衛門尉。1555年、陶家旧臣佐藤宗左衛門尉親子が山口で挙兵した際、市川経好、祖式友兼らととも鎮圧に向かった。
温科盛長【ぬくしなもりなが(15??~15??)】
大内義興家臣。1532年、筑前立花山城を巡り少弐、大友勢と交戦。温科盛長らの奮戦により立花山城は陥落した。城主立花親貞らは降伏した。
沼間敦定【ぬまあつさだ(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は備前守。弘中正長とともに御厩奉行衆を務めた。
沼間興国【ぬまおきくに(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は隼人佑。大内義興、大内義隆二世代にわたって奉行人を務めた。
禰宜右延【ねぎみぎのぶ(15??~1551)】
大内義隆家臣。官途は民部少輔。山口多賀神社大宮司。1551年、陶晴賢の謀反の際、大寧寺で義隆を守って討死した。辞世の句は「風荒み跡なき露の草の原 散り残る花もいくほどの世ぞ」。
禰宜言延【ねぎみことのぶ(15??~15??)】
禰宜右延の男。著書に『言延覚書』。
能美重友【のうみしげとも(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は式部丞。1556年、「木部の戦い」で戦功を挙げ大内義長から感状を賜った。
野上房忠【のがみふさただ(15??~1557)】
陶晴賢家臣。官途は隠岐守。1551年、「大寧寺の変」の後、筑前国花尾城主相良武任を討取った。1555年、「厳島の戦い」で諸将の多くを失った陶家を支えた。吉見正頼勢への押さえとして長門国渡川に布陣していたが、吉見正頼勢の前に大敗した。山口失陥後、陶晴賢の遺児陶鶴寿丸を奉じ、長門国且山城に入城するも、落城の際、長福院にて鶴寿丸を刺殺した後、自刃した。これにより、名家陶家の嫡流は断絶した。
野田長房【のだながふさ(15??~15??)】
内藤隆世家臣。1556年、毛利元就勢が周防国に侵攻すると内藤隆世は右田岳城に右田隆量、野田長房を派遣した。
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【は】
波多野勝実【はたのかつざね(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称彦左衛門尉。周防国人衆。1555年、「厳島の戦い」後、周防国に侵攻した毛利元就勢に降伏した。「蓮華山城の戦い」で戦功を挙げた。大内後周防で起こった大内旧臣の一揆の鎮圧等に功があった。
平井入道【ひらいにゅうどう(15??~15??)】
陶晴賢家臣。軍配者。1555年、「厳島の戦い」に際し、城攻めの日が悪日であるため延期するよう進言した。これに弘中隆兼は反対した。陶晴賢は平井入道の意見を採用し、攻撃を延期した。
弘中武長【ひろなかたけなが(15??~15??)】
大内義興家臣。通称新四郎。官途は越後守。1508年、大内義興に従って上洛、山城国守護代を務めた。 1520年、山口高嶺大神宮の普請奉行に任じられた。
弘中興勝【ひろなかおきかつ(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称右衛門大夫尉。官途は下野守。白崎八幡宮社家。大内義隆の奉行人を務めた。1511年、「山城船岡山の戦い」に参陣した。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
弘中興兼【ひろなかおきかね(15??~15??)】
大内義興家臣。玖珂郡亀尾城主。奉行職や軍事職などの要職を代々務めた。弘中家は白崎八幡宮の大宮司を兼ねた。
弘中隆兼【ひろなかたかかね(1523~1555)】
弘中興兼の男。官途は三河守。別名弘中隆包。白崎八幡宮社家。安芸国守護代。智勇兼備の武将として名声高く若くして数多くの戦功を挙げ、安芸国守護代に任じられ西条槌山城主として活躍した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、毛利元就とともに尼子晴久勢を撃退した。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。1551年、陶晴賢派に属したが。陶晴賢が謀反を起こすと中立の立場を取った。大内義長が擁立されると、これに従った。毛利元就の謀略により内通の嫌疑をかけられた江良房栄を討取った。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就の謀略であると陶晴賢に再三諫言したが、陶晴賢は聞き入れなかった。毛利元就の謀略により、江良房栄と弘中隆兼に謀反の疑いがかかり、陶晴賢は弘中隆兼に江良房栄を謀殺させた。弘中隆兼は、弟弘中方明を岩国に残し、弘中隆助とともに厳島に渡海した。陶晴賢勢は毛利元就の罠にかかり一夜にして壊滅した。弘中隆兼は、自ら殿となって総大将の陶晴賢を逃がし、大聖院で吉川元春勢と戦い討死した。
弘中隆助【ひろなかたかすけ(15??~15??)】
弘中隆兼の男。
弘中隆守【ひろなかたかもり(15??~1555)】
弘中隆兼の次男。官途は中務丞。1555年、「厳島の戦い」で父弘中隆兼とともに奮戦するも力尽き討死した。
弘中方明【ひろなかかたあき(15??~15??)】
弘中興兼の次男。官途は民部丞。通称忠左衛門。別名弘中就慰。弘中方明は大内義隆と血縁関係にあり、陶晴賢から冷遇された。白井賢胤に海賊衆の長の地位を奪われ、軍船も所有していなかった。1555年、「厳島の戦い」で兄弘中隆兼や甥の弘中隆助が討死すると、抵抗を示さず岩国錦見の琥珀院に出家し毛利元就に降伏した。毛利元就にその武勇を認められて家臣となり、300貫を領した。その後は毛利家海賊衆の海賊大将として活動した。
弘中隆佐【ひろなかたかさ(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は中務少輔。白崎八幡宮社家。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
弘中左衛門大夫【ひろなかさえもんだいふ(15??~15??)】
大内義興家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
深川胤兼【ふかがわつぐかね(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は将監。山代衆のひとり。玖珂郡の豪族衆。1532年、須川、深川、大野の三村を領した。
深野興信【ふかのおきのぶ(15??~1532)】
陶弘房の三男。通称平左衛門尉。別名陶興房。1532年、「吉田郡山城の戦い」で後詰に参陣したが討死した。
深野重成【ふかのしげなり(15??~1543)】
大内義隆家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣したが討死した。
藤嶋直立【ふじしまなおたて(15??~15??)】
藤嶋実直の男。小早川隆景に仕えるも、後に周防国玖珂郡久田村に帰農した。
藤島実直【ふじしまさねなお(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆に忠節を尽くして、陶晴賢勢と戦い弟藤島誠忠とともに大寧寺で討死した。
藤島誠忠【ふじしませいちゅう(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆に忠節を尽くして、陶晴賢勢と戦い兄藤島実直とともに大寧寺で討死した。
舟越通吉【ふなこしみちよし(15??~15??)】)
大内義隆家臣。官途は淡路守。山代衆のひとり。山代衆とは玖珂郡の山代と呼ばれる地域の有力武士団。1555年、「厳島の戦い」後、舟越通吉は三分一式部丞、毛利房郷、中村左馬充、神田貞安ら他の山代衆とともに周防国に侵攻してきた毛利元就勢に降り、宇佐川勝長、甲田丹後守ら敵対していた他の山代衆を撃破した。
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【ま】
町野隆親【まちのたかちか(15??~1555)】
玖珂郡高山寺城主。高山城主に任じられた。1554年、安芸国明石口にて兵1,000余りを率い毛利元就勢と戦うも敗走した。1555年、「厳島の戦い」で討死した。
町野隆治【まちのたかはる(15??~1555)】
町野隆親の男。官途は相模守。1553年、「長門賀年城の戦い」に戦功を挙げた。1554年、「明石口の戦い」に参陣するも敗走した。1555年、「厳島の戦い」で討死した。
松原隆則【まつばらたかのり(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、大内義隆が大寧寺で自刃する際、最後まで付き従い、大内義隆に殉じた。
三浦房清【みうらふさきよ(15??~1555)】
陶晴賢家臣。官途は越中守。陶晴賢の股肱の家臣。厳島侵攻を強く進言した。1555年、「厳島の戦い」では、自刃しようとする陶晴賢を逃走させようと奮戦するも、その途中で二宮俊実に討ち取られた。後に神田惣四郎(三浦元忠)が行跡を受け継いだ。
三浦将監【みうらしょうげん(15??~15??)】
大内義興家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
右田重政【みぎたしげまさ(15??~15??)】
内藤隆世家臣。佐波郡右田ヶ嶽城主。官途は但馬守。別名右田隆量。1556年、毛利元就勢が周防国に侵攻すると内藤隆世は右田ヶ嶽城に右田隆量、野田長房を派遣した。毛利元就の「防長経略」のとき、右田ヶ嶽城を守っていたが、力の差を感じ、降伏した。後に右田家は毛利元就の七男天野元政に吸収された。
右田隆次【みぎたたかつぐ(15??~1551)】
大内義隆家臣。官途は右京亮。大内義隆の近習を務めた。1551年、陶晴賢謀反の際には大寧寺まで付き従い、黒川隆像、天野隆良らととともに討死した。辞世の句は「末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは」。
御郷康政【みごうやすまさ(15??~15??)】
右田重政の男。通称勘兵衛尉。天野元政が右田家の養子に入ったため、姓を右田から御郷に改めた。三田尻御舟手組の指揮官のひとり。
光井尚豊【みついなおとよ(15??~1561)】
大内義隆家臣。官途は右京亮。1555年、毛利元就に降った。1561年、「門司城の戦い」で討死した。
光井尚久【みついなおひさ(15??~15??)】
光井尚豊の男。官途は兵庫助。吉川元春勢に属して本領である周防国光井庄を給された。
宮川興房【みやがわおきふさ(15??~15??)】
陶晴賢家臣。玖珂郡高森城主。1511年、「山城船岡山の戦い」で戦功を挙げた。
宮川房長【みやかわふさなが(15??~1554)】
宮川興房の男。官途は甲斐守。玖珂郡山代地方の代官を務めた。1551年、「大寧寺の変」後、陶晴賢の吉見家攻略中に毛利元就は陶方を離反、このため毛利元就の抑えのために安芸国に派遣されて毛利元就と戦った。1554年、兵7,000余りを率いて安芸国に侵攻するも「折敷畑の戦い」で、敵に倍する大勢にありながら敗北を喫し討死した。
上関村上武満【むらかみたけみつ(15??~15??)】
熊毛郡上関城主。村上吉敏の男。官途は刑部少輔。能島村上海賊衆の海賊大将。1557年、大内義長の滅亡後上関に移り、同地を支配した。1562年、「蓑島沖の戦い」で村上武吉や村上吉充、乃美宗勝らとともに毛利元就勢に属して参陣した。1576年、「木津川口の戦い」に参戦し、戦功を挙げた。
毛利房継【もうりふさつぐ(15??~15??)】
陶晴賢家臣。官途は掃部允。陶家で奉行人ならびに徳地代官職を務めた。1557年、大内義長の滅亡後は毛利家に降り、上徳地を給された。
毛利房郷【もうりふささと(15??~15??)】
大内義隆家臣。山代衆のひとり。1555年、「厳島の戦い」のとき毛利元就に降った。
毛利房元【もうりふさもと(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は右京進。山代衆のひとりで周防国玖珂郡美川を領した。
毛利元堯【もうりもとたか(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称与三郎。官途は加賀守。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。1551年、「大寧寺の乱」では、陶晴賢勢に属して安芸国桜尾城を守備した。久芳賢重、久芳賢直とともに毛利元就に降伏した。
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【や】
矢田隆通【やだたかみち(15??~1551)】
大内義隆家臣。官途は蔵人大夫。1551年、大内義隆が大寧寺で自刃した後、防州黒川で自刃した。
矢田隆直【やだたかなお(1532~1581)】
矢田隆通の男。官途は甲斐守。毛利元就に仕え、720石を領した。
楊井長盛【やないながもり(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は修理進。美和庄内10石、粕屋郡内5石、宇佐郡内で所領を安堵された。
楊井春盛【やないなるもり(15??~15??)】
楊井長盛の男。官途は但馬守。
楊井国久【やないくにひさ(15??~15??)】
楊井長盛の次男。官途は飛騨守。医師。1551年、陶晴賢の謀反に際し、大内義隆は法泉寺に逃れた。大内義隆生母は真如寺に逃れたが、驚きのあまり体調を崩してしまった。大内義隆は自身が危機的状況にあるにもかかわらず、楊井国久を派遣し、母の様態を見舞っている。
楊井武盛【やないたけもり(15??~15??)】
楊井国久の男(楊井春盛の養子)。
山崎興盛【やまざきおきもり(15??~1557)】
玖珂郡熊毛山城主。官途は出雲守。陶晴賢勢に属して、沼城を守備した。1557年、「防長経略」で、毛利元就勢を相手に一年以上戦い続けた。最後は熊谷信直勢の攻撃を受け、都濃郡須々万沼城に江良賢宣、勝屋興久ともども籠城するが落城した。
山崎隆次【やまざきたかつぐ(15??~1557)】
山崎興盛の男。官途は右京進。1557年、毛利元就の「防長経略」で父山崎興盛や江良賢宣、勝屋興久らとともに沼城に籠城して奮闘するも落城。父とともに自刃した。
山崎隆方【やまざきたかかた(15??~1555)】
陶晴賢家臣。官途は勘解由。陶晴賢の近習を務めた。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢に従い柿並隆正、伊香賀隆正とともに自刃した。辞世の句は「ありと聞きなしと思うも迷いなり 迷いなければ悟りさえなき」。
山田範秀【やまだのりひで(15??~1543)】
大内義隆家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣したが、能義郡津田で討死した。
大和興武【やまとおきたけ(15??~1555)】
陶晴賢家臣。官途は伊豆守。1555年、「厳島の戦い」で奮戦するも、香川光景に捕縛されるが、降伏せず自刃した。
吉井元武【よしいもとたけ(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は相模守。通称平右衛門。毛利元就が陶晴賢と断交し広島湾沿岸諸城を攻撃した際、五日市で起こった戦いで戦功を挙げた。筑前国立花山城を巡る合戦の際、飯田義武とともに立花山城の偵察に行った。
吉田興種【よしだおきたね(15??~1569)】
大内義長家臣。官途は左兵衛尉。大内義長のもとで侍大将を務めた。後に毛利元就に降伏した。1569年、大内輝弘が周防国に侵攻すると、挙兵するが、あえなく討取られた。
吉原次秀【よしはらつぐひで(15??~15??)】
大内義興家臣。1542年、武田光和が滅亡すると、大内義隆の要請により城番として銀山城に派遣された。
吉見興滋【よしみおきしげ(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は備中守。通称源右衛門。二度の中国渡海、明国を訪ずれた。毛利元就に降伏した。大庭賢兼、河屋隆通、岩正興致とともに市川経好の寄騎衆として山口奉行を務めた。豊前国門司城で冷泉元豊とともに討死した。
吉安豊英【よしやすとよひで(15??~15??)】
冷泉興豊の次男。大内家滅亡後、冷泉隆豊の男冷泉元豊、冷泉元満兄弟とともに毛利元就に仕えた。
吉安満定【よしやすみつさだ(15??~15??)】
冷泉隆豊家臣。通称太郎兵衛。1597年、「慶長の役」で、冷泉元満が討死した際、吉安満定は所用で他所に居たがすぐに馳せ戻り敵から冷泉元満の遺骸を奪還し、日本に返す事に成功した。
龍崎道輔【りゅうざきみちすけ(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は中務丞。家老職を務めた。1508年、大内義興に従って上洛した。大内政弘の私歌集「拾塵和歌集」の撰者。
冷泉隆豊【れいぜいたかとよ(1513~1551)】
冷泉興豊の男。玖珂郡冷泉館主。官途は左衛門尉。室は平賀玄信の娘。大内家警固衆を率いた。1527年、「仁保島の戦い」に参陣した。1542年、「出雲討伐」にも参陣し鯛浦、大根島で尼子経久勢と戦った。1543年、伊予国に出陣するなど武功は数多い。武官派であるが遊興に耽る大内義隆に度々諫言し、また陶隆房の謀叛の噂を聞いて誅伐を進言した。1551年、隆房謀叛では最後まで大内義隆を護り、大内義隆を介錯後、陶晴賢勢に突撃して討死した。辞世の句は「みよやたつ雲も煙も中空に さそひし風のすえも残らず」。
冷泉元豊【れいぜいもととよ(1537~1562)】
冷泉隆豊の男。1551年、「大寧寺の変」後、父冷泉隆豊が大内義隆に殉じると、家臣吉安豊英らに守られ安芸国の平賀弘保のもとに落延びた。後に坂元祐とともに毛利元就に仕えた。1555年、大内義長の滅亡後、門司城代に任じられ10,000石を領した。1562年、大友義鎮勢の攻撃を受け討死した。
冷泉元満【れいぜいもとみつ(1539~1597)】
冷泉隆豊の次男。官途は民部少輔。室は渋川義満の娘。1551年、「大寧寺の変」後、父冷泉隆豊が大内義隆に殉じると、家臣吉安豊英らに守られ安芸国の平賀弘保のもとに落延びた。後に坂元祐とともに毛利元就に仕えた。1555年、大内義長の滅亡後、兄冷泉元豊が門司城代に任じられ10,000石を領した。毛利輝元が石山本願寺に兵糧を運ぶようになると、制海権確保のため、淡路国岩屋城の城番を務めた。防長両国に所領を得ていたが、後に出雲国仁多郡亀嶽城3,585石に転封された。1592年、「蔚山城の戦い」で討死した。この際、家臣の吉安満定、伊賀崎満重、白松善左衛門は冷泉元満の遺骸を奪還し日本に送ると翌日に討死し冷泉元満に殉じた。
脇兼親【わきかねちか(15??~15??)】
大内義隆家臣。玖珂郡和木館主。通称勘解由左衛門。1554年、陶晴賢が石州三本松城を攻撃した参陣した。後毛利元就に降伏した。
鷲頭隆政【わしずたかまさ(15??~15??)】
鷲頭高綱の男。官途は玄蕃。1555年、「防長経略」の際、防府の大専坊に布陣したが敗走した。
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【資料Ⅰ】
周防国(6郡/180,000石)
大島郡(6,000石):大島城。
玖珂郡(32,000石):岩国城、鞍掛城、蓮華山城、楊井街。
熊毛郡(30,000石):屋代城、上関城、神代城、島末城、竃戸街、室積寺。
都濃郡(42,000石):富田城、須々万城、徳山館、末武城、深浦街。
佐波郡(30,000石):敷山城、右田嶽城、防府街、松崎寺、三田尻湊。
吉敷郡(40,000石):山口館、築山城、高嶺城、大道寺。
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【資料Ⅱ】
大内家三家老【おおうちけさんかろう】
陶晴賢、内藤隆春、杉隆泰。
山代衆【やまだいしゅう】
山代地方は周防国玖珂郡の東部に位置し、東を安芸国、北を石見国と接します。山代は1,309mの寂地山を始め、鬼ヶ城山、小五郎山、羅漢山など1,000mを越える山に囲まれ、ほとんど平地はなく、その面積の90%近くは山林です。
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【資料Ⅲ】
周防国【すおうのくに】
本州最西端に近い山陽道の国。東は安芸国、西は長門国と境を接し、北は中国山地に連なる冠山山地で石見、長門両国と境を隔てる。南から東にかけては瀬戸内海が広がり、中国方面では伊予国、九州方面では周防灘越しに豊前、豊後両国を臨む。また内海に屋代島以下多数の小島を持つ。国土全域に山地が広がるが、錦川、島田川、佐波川の流域に広瀬、玖珂、山口などの盆地が点在し、沿岸部には岩国、光、防府などの沖積平野が形成されている。この海岸線には遠浅の干潟が多く、農業、漁業ともに高水準を保ち、平安時代には東大寺をはじめとする権門勢家の荘園が多数設置された。早くから大陸文化、半島文化と接していたが、瀬戸内海と中国路を通じて畿内文化、瀬戸内文化とも結び付きが深く、内外文化の接点というべき位置にある。大内興義によって、山口は京を模した小京都として繁栄した。
上関【かみのせき】
長島と熊毛半島によって波と風から守られた良湊で、周防灘、豊後水道と安芸灘を結ぶ要衝を占めた湊街。
山陰道【さんいんどう】
山陰道は京都丹波口から亀山、福知山を経て和田山から因幡国。そして日本海側を西に米子、松江、出雲、浜田を経て益田で日本海を離れ、冠山山地の西端を抜けて津和野、山口を経て小郡で山陽道に合流。この山陰道は五機七道の一つで、丹波国、丹後国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国、石見国、長門国を通り周防国小郡に至る街道。
山陽道【さんようどう】
山陽道は西宮を起点に兵庫、明石、姫路、三石、岡山、徳山を経て下関に至る街道。西国街道とも称された。大和政権が日本国を五十八国三島に分け、各国の国府と大和地方を結ぶため、東海道、東山道、北陸道、山陽道、南海道、山陰道の七道を整備した。山陽道は大和と大宰府を結ぶ最も重要な街道とされた。平安時代に都が京都に移った後も、重要な公道として他の諸道にも増して栄えた。その後、鎌倉時代を迎え京都~鎌倉を結ぶ東海道が開かれ、山陽道の重要性は薄れていった。
防府宮市【ほうふみやいち】
佐波川下流、周防国府の西隣に位置し、周防国中部の中心的な物資集散地として栄えた松崎天満宮の門前街。
三田尻【みたじり】
佐波川河口部に位置し、古くから周防国府の港湾部を担ったとみられる湊街。対岸の向島や田島、東の龍ヶ崎などにより波風から守られる天然の良港で瀬戸内海航路の要衝を占めた。
楊井【やない】
楊井川河口に中世以前から形成された湊街。柳井からは内陸部への街道が延びており、周防の東の玄関口でもあった。また楊井には周防に大きな既得権を持つ鋳物師集団が存在した。
山口【やまぐち】
大内興義が防長二国を平定し、山口に京の都を模した街をつくるとともに、朝鮮や明との貿易や大陸文化の導入に努めた。そのため 、山口は大きな都市として栄えた。「西の京」と称され、華やかな大内文化が開花した。フランシスコ・サビエルや雪舟、戦乱の京都から逃れてきた公家や文化人も山口に滞在した。
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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には城か地名を入れています。
※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。
※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。
※大内家臣で本貫地が不明な諸将は、長門国に記載します。
※陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、立花道雪は戸次鑑連の名前で統一しました。
※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【あ】
秋穂盛光【あいおもりみつ(15??~1569)】
吉敷郡鷺山城。官途は因幡守。1551年、「大寧寺の乱」後、毛利元就に属した。1569年、大内晴英が山口に侵攻した際、手勢を率い大内晴英に属したが討死した。
阿川隆保【あがわたかやす(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称太郎。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆とともに法泉寺まで落延びた。
浅見道高【あさみみちたか(15??~15??)】
大内義興家臣。通称四郎左衛門尉。屋代島警固衆。
飯田隆言【いいだたか(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称左衛門尉。
伊香賀隆正【いかがたかまさ(15??~1555)】
陶晴賢家臣。官途は民部大輔。陶晴賢の近習を務めた。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢に属して参陣したが、毛利元就勢の攻撃を受け自刃した。辞世の句は「末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは」。
伊香保房明【いかがふさあき(15??~15??)】
陶晴賢家臣。1551年、陶晴賢が謀反を起こすと、大内義尊の謀殺を進言した。陶晴賢は大内義尊擁立を考えていたが、陶晴賢はこの意見を聞き入れた。
伊賀崎紹活【いがさきじょうかつ(15??~15??)】
冷泉隆豊家臣。後に周防国由宇郷にて10石を賜った。
伊賀崎満重【いがさきみつしげ(15??~1597)】
冷泉隆豊家臣。官途は右衛門尉。1597年、「蔚山城の戦い」で冷泉元満が討死した際、冷泉元満の死骸を船に乗せ日本に戻した。翌日、吉安満定、白松善右衛門とともに討死した。
伊佐景久【いさかげひさ(15??~1551)】
伊佐行光家臣。官途は土佐守。1551年、「大寧寺の乱」では、最後まで大内義隆に付き添い大寧寺で討死した。
伊佐隆光【いさたかみつ(15??~1551)】
大内義隆家臣。通称与三郎。1551年、「大寧寺の乱」では、最後まで大内義隆に付き添い大寧寺で討死した。
岩正興致【いわまさおきむね(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は伊豆守。毛利家に臣従。大庭賢兼、吉見興滋、河屋隆通とともに毛利家の山口奉行。市川経好の与力。
上田秋宣【うえだあきのぶ(15??~15??)】
朝倉弘房の五男。官途は掃部介。1534年、「九州侵攻」の際、陶興房の陣代として戦功を挙げた。
宇賀島忠重【うかしまただしげ(15??~1555)】
大内義隆家臣。通称十郎左衛門。備後国尾道と向島の間の尾道水道に浮かぶ宇賀島を根拠地とした海賊衆。宇賀島海賊衆の指揮官として陶晴賢に属した。1555年、「厳島の戦い」で陶晴賢勢は壊滅すると、宇賀島衆は毛利元就勢の掃討を受け文字通り全滅した。
宇佐川勝長【うさがわかつなが(15??~1554)】
大内義隆家臣。通称新七郎。山代衆ひとり。玖珂郡北部の山代十三郷の国人衆。1551年、「大寧寺の乱」で陶晴賢の謀反を起こすと、これに属した。「折敷畑の戦い」では、宮川房長勢に属して参陣するも討死した。
宇野元弘【うのもとひろ(15??~15??)】
陶隆康の次男(宇野景政の養子)。通称又右衛門。1551年、陶晴賢が謀反を起こした際、若年であったため、難を逃れた。小早川隆景から吉敷郡宇野令を領地として与えられ、宇野家の家督を相続した。1557年、「周防沼城の戦い」では、敵将江良主水正を討取る戦功を挙げた。
宇野正常【うのまさつね(15??~1556)】
鞍掛杉隆泰家臣。家老職を務めた。1555年、杉隆泰とともに毛利元就に降った。大内義長へ内通していたことが露見して討死した。
榎本宗忠【えのもとむねただ(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は弾正忠。別名榎本賢忠。1551年、「大寧寺の乱」では、陶晴賢の謀殺を企てるが失敗、毛利元就に仕えた。
榎本元吉【えのもともとよし(15??~15??)】
榎本宗忠の男。
江良房栄【えらふさひで(15??~1554)】
陶晴賢家臣。琥珀院城主。官途は丹後守。弘中隆包と並ぶ屈指の名将。1551年、陶晴賢が謀反を起こすと主力として中国各地を転戦した。大内義長を迎えた。毛利元就は、江良房栄への内応工作が失敗に終わると、「江良房栄が内応している」という虚報を流し陶晴賢を疑心暗鬼に陥れた。1554年、江良房栄と嫡男江良彦二郎をはじめとする江良家枝連衆は、岩国琥珀院にて、陶晴賢の命を受けた弘中隆包らによって謀殺された。
江良賢宣【えらかたのぶ(15??~15??)】
江良房栄家臣。官途は弾正忠。陶晴賢が吉見正頼に侵攻した際、安芸国桜尾城を守備した。毛利元就勢の攻撃を受け落城、周防国に落延びた。後に、周防国沼城への援軍に赴くが、毛利元就勢に敗退した。1555年、陶晴賢が討死後、毛利元就に降伏した。
江良昌泰【えらまさやす(15??~1556)】
江良房栄家臣。官途は主水正。1556年、山崎興盛守る周防国沼城へ援将として入城した。1556年、宇野元弘に討取られた。
江良興綱【えらおきつな(15??~15??)】
江良房栄家臣。官途は弾正忠。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
大内義興【おおうちよしおき(1477~1528)】
吉敷郡高嶺城主。大内政弘の男。官途は周防守。周防国、長門国、石見国、筑前国、安芸国、豊前国、山城国守護職。通称六郎。室は内藤弘矩の娘(東向殿)。1499年、足利義稙が庇護者であった大内政弘の縁を頼って大内義興を頼ると同様にこれを援助した。1507年、足利義稙を擁して上洛した。1508年、足利義澄、細川澄元らを近江国に追った。1511年、「船岡山の戦い」では勝利した。足利義稙政権にあって自らは管領代となり、山城国守護となって権勢を振るったが、出雲国の尼子経久は大内義興留守の間隙を突いて石見国、安芸国に侵攻して勢力圏を侵食した。1518年、尼子経久は安芸国人衆や安芸武田光和と結んで大内義興勢の諸城を攻略した。1524年、毛利元就が尼子経久から離反すると、安芸国内では優勢になった。1528年、山口において病没した。和歌や芸能を好み、また対明貿易を積極的におこなうなど、治政家としても有能であった。
大内義隆【おおうちよしたか(1507~1551)】
大内義興の男。官途は周防介。室は万里小路季房の娘。1528年、父大内義興の病死により大内家の家督を相続した。1532年、筑前国少弐家を撃破し、肥前国松浦党を勢力下に置いた。1534年、「勢場ヶ原の戦い」では、大友義鑑勢に大敗を喫した。1536年、後奈良天皇即位の費用を献じて大宰大弐に任ぜられ、これを機に少弐資元を滅ぼした。1537年、大友義鑑と和議を結び北九州における覇権を確立した。1540年、毛利元就が尼子詮久による攻撃を受けた際、陶晴賢を派遣して撃退した。さらに佐東銀山城を落として安芸武田光和を滅ぼした。1542年、富田月山城を攻撃するが大敗し、敗走途中に養子の大内晴持を失った。石見大森銀山をめぐって尼子家と争奪戦を繰り広げ。北九州でも少弐冬尚、大友義鎮が筑前国、豊前国を狙うなど油断のならない状況にあった。大内義隆はこれに対しほとんど有効な手段を講じなかった。1551年、陶晴賢が謀反を起こし、山口を襲撃、大内義隆、大内義尊父子は長門国湯本大寧寺において自刃した。このとき大内義隆の政治放棄の要因とされた公家衆や宣教師も追放、謀殺され、山口の街は灰燼に帰した。
大内輝弘【おおうちてるひろ(1520~1569)】
大内政弘の次男。通称太郎左衛門。1568年、大友義鎮が毛利元就と北九州地域の覇権を巡って争った際、大内輝弘に兵を与え、若林鎮興らの大友家海賊衆に支援させ海上から周防国に侵攻させた。大内輝弘の率いる兵力は少なかったが、水上戦では市川経好の周防海賊衆を撃破した。大内輝弘が周防国に侵入すると、毛利元就勢は北九州に参陣していたため、苦戦を強いられた。高嶺城を守る市川経好夫人が少ない城兵を指揮し徹底して抗戦したため、大内輝弘は、山口を完全に占領することができなかった。大内輝弘の攻撃を知った毛利元就は北九州攻略を諦め、吉川元春、小早川隆景率いる精鋭を周防国に向かわせた。大友輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出するも、追撃厳しく富海の茶臼山にて自刃した。
大内武弘【おおうちたけひろ(15??~1569)】
大内輝弘の男。1568年、父大内輝とともに大友義鎮の後援のもと周防国に侵攻、大内家再興の兵を挙げた。筑前国より素早く転戦した毛利家勢に大敗し、自刃した。
大内晴持【おおうちはるもち(1524~1544)】
一条房冬の四男(大内義隆の養子)。官途は左衛門佐。別名一条恒持。室は大内義隆の娘。文武に秀で和歌や管弦などの雅な教養にも明るく、公家の名門一条家の血筋もあってなのか大内義隆に可愛がられた。後に養子となった大内義長の扱いに比べると雲泥の差であった。1541年、出雲の尼子経久が没すと、大内義隆は大内晴持らを率いて出雲国に参陣したが、三刀屋久扶、本城常光らの寝返りで大内義隆勢は総崩れとなり、大内義隆と大内晴持は別々の船で周防に退却した。船が途中で転覆したため、大内晴持は溺死した。
大内義尊【おおうちよしたか(1544~1551)】
大内義隆の男。官途は周防守。1551年、陶隆房の謀反では、大寧寺まで父大内義隆とともに落延びたが、そこから別道で逃れようとするも、陶晴賢勢の兵に見つかり自刃した。
大内義長【おおうちよしなが(15??~1557)】
大友義鑑の次男(大内義隆の猶子)。官途は左京大夫。1545年、大内義隆に実子の大内義尊が誕生したため、猶子関係を解消され帰国した。1551年、陶晴賢が大内義隆に対して謀反を起こし大内義隆を謀殺すると、大内家に迎えた。兄大友義鎮は、大内義長の擁立には反対したが、大内義長が強く望んだため大友義鎮もこれを認めた。1556年、勘合貿易の再開を求めて明に使者を派遣したが、明からは承認を拒まれた。1555年、陶晴賢が毛利元就との「厳島の戦い」で討死すると、大内義長の求心力は低く内訌で弱体化し、家臣団は完全に崩壊した。1557年、毛利元就勢が山口へ侵攻すると、寡兵をもってよく防戦したが、高嶺城を放棄して内藤隆世の長門国且山城へ落延びた。福原貞俊勢により且山城を包囲され、内藤隆世は大内義長の助命を条件に開城し自刃した。大内義長も長福院に入ったあとに毛利元就勢に囲まれて自刃した。辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」。
大内大宮姫【おおみやひめ(15??~15??)】
大内義興の娘。吉見正頼の室。吉見広頼を生む。吉見正頼は側室を持たなかった。
大田隆通【おおたたかみち(15??~1551)】
大内義隆家臣。大内義隆の近習を務めた。1551年、陶晴賢の謀反の際、大内義隆に殉じ大寧寺で自刃した。辞世の句は「秋風の 至り至らぬ山陰に 残る紅葉も 散らずやはある」。
大庭景家【おおばかげいえ(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は若狭守。1545年、豊前国内の所領を安堵された。
大庭賢兼【おおばかたかね(15??~15??)】
大内義隆家臣。大庭矩景の男。官途は加賀守。豊後国守護代杉豊後守の寄騎衆を務めた。毛利元就に降伏した。吉見興滋、河屋隆通、岩正興致とともに市川経好の寄騎衆として山口奉行を務めた。
岡部興景【おかべおきかげ(15??~15??)】
大内義興家臣。通称勘解由左衛門尉。1520年、御倉奉行を務めた。
岡部隆景【おかべたかかげ(15??~1551)】
大内義興家臣。官途は右衛門大夫。美祢郡岩永の地を所領としていた。陶晴賢の謀反の際には大内義隆に最期まで付き従い大寧寺で天野隆良、黒川隆像、禰宜右延らとともに討死した。辞世の句は「白露の消え ゆく秋の名残とや しばしは残る 末の松風」。
岡屋隆秀【おかやたかひで(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、陶晴賢の乱では、大寧寺まで大内義隆に付き添い自刃した。辞世の句は「時有りて 自から至り 時有りて又還る 清風水を度り明月天に在り」。
小幡義実【おばたよしざね(15??~1551)】
大内義尊家臣。大寧寺から大内義尊を警固して脱出する最中に三浦房清に捕縛、斬頸に処された。辞世の句は「宝剣を呑却して名弓を放下す 只斯の景のみ有り一陣の清風」。
小原隆言【おばらたかこと(15??~1554)】
大内義興家臣。官途は安芸守。大内家警固衆の大将。大内家警固衆を率いて白井房胤らとともに安芸国、伊予国を転戦した。1551年、大内義隆自刃の際、書き残された弾劾状に名指しされた。1554年、鶴姫に討取られた。
小原加賀守【おばらかがのかみ(15??~15??)】
大内義長家臣。1557年、草場越中守、河越伊豆守らとともに大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて障子ヶ岳城で挙兵した。長門守護代で荒滝山城主内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕らわれて処刑された。
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【か】
賀屋景頼【かがやかげより(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は和泉守。大内家警固衆。1555年、「厳島の戦い」後、毛利元就に属した。
柿並隆幸【かきなみたかゆき(15??~1554)】
陶晴賢家臣。柿並弘慶の男。通称小平太。1554年、「折敷畑の戦い」では、毛利元就への討伐軍の大将として派遣されるが、周防山代衆を率いて戦ったが討死した。
柿並隆正【かきなみたかまさ(15??~1555)】
柿並隆幸の男。官途は佐渡守。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢が自刃後、その頸を隠し山崎隆方、伊香賀隆正とともに自刃した。
勝屋興久【かつやおきひさ(15??~1557)】
都濃郡殿浴山城主。相良正任の男。陶晴賢家臣。官途は右馬允。別名相良興久。1555年、山崎興盛の須々万沼城が毛利元就勢から攻撃を受けた際、援軍として入城した。後に討死した。
賀屋景頼【かやかげより(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は和泉守。大内警固衆の大将。1555年、「厳島の戦い」後、毛利元就に降り岩国に侵攻した吉川元春を自らの屋敷で歓待した。後に冷泉元満らとともに瀬戸内海の制海権を守った。
河屋隆通【かわやたかみち(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は因幡守。1555年、大内義長の滅亡後、大庭賢兼、吉見興滋、仁保隆慰、岩正興致らとともに、山口奉行市川経好の補佐を務めた。
河越伊豆守【かわごえいずのかみ(15??~15??)】
大内義長家臣。1557年、草場越中守、小原加賀守らとともに大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて障子ヶ岳城で挙兵した。長門守護代で荒滝山城主内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕らわれて処刑された。
狩野入道【かりのにゅうどう(15??~15??)】
大内義隆家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
神田貞安【かんださだやす(15??~15??)】
甲田丹後守の男。官途は豊前守。別名甲田蔵人丞。山代衆のひとり。1555年、「厳島の戦い」後、三分一式部丞、松原彦右衛門とともに毛利元就に降伏した。宇佐川勝長、甲田丹後守らと戦った。
神田元重【かんだもとしげ(1550~1569)】
神田貞安の男。
岐志甲斐守【きしかいのかみ(15??~1554)】
大内義隆家臣。高森城主。岐志通之の男。1554年、「折敷畑の戦い」では、陶晴賢勢の宮川房長が率いる軍勢と毛利元就が戦った際、陶晴賢勢に属して参陣したが討死した。
北野次郎右衛門【きたのじろうえもん(15??~15??)】
毛利元就家臣。室は三分一左衛門九郎の娘。
北野季勝【きたのまごべえ(15??~1609)】
北野次郎右衛門の男。通称孫兵衛。山代本郷村の庄屋。毛利輝元勢に属して中国地方各地を転戦した。1600年、「関ヶ原の役」後、帰農して本郷村の庄屋を務めた。関ヶ原の敗戦により、毛利輝元は1,200,000石から360,000石に減封されため、財政難に直面した。領国維持のため、「慶長検地」を実施、重税を強いられた。北野季勝、庄屋西村次右衛門らは11ヶ村の庄屋は年貢の減免を求めた嘆願を行った。1609年、毛利輝元は減免を受け入れたが、11ヶ村の庄屋衆を一揆を首謀したとして斬頸となった。
草場越中守【くさばえちゅうのかみ(15??~15??)】
大内義長家臣。1557年、小原加賀守、河越伊豆守らとともに大内義隆の遺子問田亀鶴を奉じて障子ヶ岳城で挙兵した。長門守護代で荒滝山城主内藤隆春が反乱軍を鎮圧し、草場越中守などは討死、亀鶴丸も捕縛され斬頸となった。
沓屋興種【くつやおきたね(15??~15??)】
屋代島警固衆。官途は紀伊守。
沓屋隆貞【くつやたかさだ(15??~15??)】
沓屋興種の男。通称源太郎。別名沓屋勝範。屋代島海賊衆のひとり。1523年、武田光和との戦いのため五枚帆の関船に沓屋通種、小野山十郎を乗せて参陣した。1524年、東山攻めの最中、右脛を矢で射られた負傷した。1555年、「厳島の戦い」の際、他の屋代島衆とともに毛利元就に対し計1,877石の所領を要求した。これは屋代島衆の旧領であり、毛利元就もこれを了承した。
沓屋景頼【くつやかげより(15??~15??)】
沓屋隆貞の男。官途は東市佐。通称源四郎。別名沓屋通種。1523年、武田光和もとでは、五枚帆の関船に座乗した。後に毛利元就に仕えた。1561年「門司城の戦い」で戦功を挙げた。
沓屋右衛門尉【くつやうえもんのじょう(15??~15??)】
屋代島警固衆。1556年、毛利元就から今後の忠勤を期待するという書状を送られた。
沓屋勝範【くつやかつのり(15??~15??)】
大内義興家臣。屋代島警固衆。1555年、「厳島の戦い」後、毛利元就勢に属した。
蔵田教信【くらた のりのぶ(15??~1551)】
大内義隆家臣。玖珂郡差川城主。官途は治部少輔。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆に忠節を尽くして陶晴賢勢と戦い討死した。
黒川隆像【くろかわたかかた(1512~1551)】
大内義興家臣。吉敷郡黒川館主。官途は刑部少輔。別名宗像氏男。1551年、陶晴賢の謀反の際、大内義隆を最後まで守り、長門国大寧寺で討死した。
黒川氏隆【くろかわうじたか(15??~15??)】
黒川隆像の男。父黒川隆像が大寧寺で討死後、長門国に落延びた。
黒川著保【くろかわあきやす(15??~15??)】
黒川隆像家臣。官途は三河守。毛利元就に降伏した。1573年、国司就信らとともに山口奉行を務めた。
黒川隆尚【くろかわたかひさ(15??~1547)】
大内義隆家臣。官途は刑部少輔。別名宗像正氏。大内義隆に従い山口へ赴き、周防吉敷郡黒川郷を与えられ黒川隆尚と名乗りを改める。 主に水軍を指揮した。1541年、厳島神主家の友田興藤が厳島を占拠した際、隆尚は警固衆を率い厳島を奪回した。この時、棚守房顕より太刀を賜られる。
謙道宗設【けんどうそうせつ(15??~15??)】
大内義興家臣。大内義興が管領細川高国の要請を受けて追放されていた足利義稙を奉じて上洛、将軍職復帰を実現させると、その戦功として大内義興が遣明船派遣の管掌権を永久的に保証された。1523年、大内義興が謙道宗設を正使に月渚永乗を副使に遣明船を派遣すると、細川高国は対抗して鸞岡端佐を正使、宋素卿を副使として、既に無効となった弘治勘合符を持たせて南海経由で遣明船を派遣した。細川高国派遣の遣明船を明当局が優遇したため、鸞岡瑞佐を謀殺して、街で放火や略奪をおこなった。1536年、大内義隆が貿易を再開した。この事件をきっかけに寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇の活動となった。
甲田貞安【こうださだやす(15??~15??)】
甲田丹後守の男。官途は豊前守。別名神田貞安。山代衆のひとりで本郷村の地侍。山代衆は周防玖珂郡北部の山代十三郷の領主達で、大内家に属していた。1555年、「厳島の戦い」後、甲田貞安は父甲田丹後守と袂を分かち、三分一、松原らとともに毛利元就に降伏した。
甲田元重【こうだもとしげ(1550~1569)】
甲田貞安の男。通称二郎三郎。別名神田元重。1569年、「筑前立花山城の戦い」で討死した。
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【さ】
相良武任【さがらたけとう(1498~1551)】
大内義隆家臣。相良正任の男。官途は遠江守。大内義隆の右筆、奉行人として仕え、国人衆の統制と守護代の権力抑制、大名権力の強化に務めた。この行政能力を大内義隆に信任され、評定衆にも列せられた。1541年、陶晴賢が「出雲討伐」を提言したことに対して反対し、これを契機に陶晴賢と対立した。「出雲討伐」が失敗に終わると、大内義隆の信任を受けて文治派を形成し、武断派の陶隆房、内藤興盛らと対立した。1545年、陶晴賢らの巻き返しを受けて失脚した。1548年、大内義隆の要請を受けて再出仕した。1550年、陶晴賢との対立が決定的となり、暗殺まで謀られるに至るが、武任は事前に察知して大内義隆に密告することで難を逃れた。陶晴賢との対立を回避するため、陶長房(陶晴賢の嫡男)に美貌で知られた自分の娘を嫁がせるなど融和策をとったが失敗に終わった。1551年、大内義隆に陶晴賢と内藤興盛らに謀反の企てを知らせた。1551年、陶晴賢が謀反を起こしたとき、野上房忠によって杉興連とともに花尾城で謀殺された。辞世の句は「空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く」。
佐藤宗左衛門尉【さとうむねざえもん(15??~15??)】
陶晴賢家臣。1557年、佐藤宗左衛門尉親子が山口で挙兵したが毛利元就勢の温品種重、市川経好、祖式友兼らに鎮圧された。
讃良秀安【さんらひでやす(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は伊賀守。1547年、長門国美禰郡、周防国玖珂郡で18石の所領安堵された。
白松満明【しらまつみつあき(15??~1597)】
冷泉隆豊家臣。通称善右衛門。白松満明は吉安満定、伊賀崎満重とともに冷泉家の家老職を務めた。1592年、「慶長の役」のさい、冷泉元満が「蔚山城の戦い」で討死すると、その死骸を取り戻し、日本に送った。その翌日、吉安満定、伊賀崎満重とともに加藤清正勢に属して勢し奮戦したが、討死し冷泉元満に殉じた。
陶興房【すえおきふさ(1475~1539)】
都濃郡富田若山城主。大内義興家臣。陶弘護の男。周防国守護代。官途は尾張守。通称次郎。室は朝倉弘詮の娘。父陶弘護の病没により陶家の家督を相続したが、幼少のため、叔父陶弘詮が陣代となった。1508年、大内義興が足利義稙を奉じて上洛した際、これに従った。1524年、大内義興の銀山城攻めに参陣した。桜尾城を包囲、銀山城攻めの途中毛利元就の夜襲により兵520余りを討たれた。陶興房は撤退を決意。尼子経久勢の夜襲は毛利元就の進言により行われた。陶興房は毛利元就の家臣井上元貞、粟屋元秀らを介して内応させ、最終的に大内義興勢の勝利に終わった。1532年、兵23,000余りを率いて豊前国に侵攻した。1533年、「武蔵城の戦い」で、筑紫惟門と戦い勝利した。1534年、「場ヶ原の戦い」では、杉重信とともに大友義鑑勢を撃退した。肥前にて少弐資元勢の龍造寺と戦い敗北した。1535年、少弐資元、冬尚親子を追討した。和歌にも長じ、連歌師宗碩と親しむほか、飛鳥井雅俊と交流した。
陶興昌【すえおきまさ(15??~15??)】
陶興房の男。謀反の疑いを受け、父陶興房により謀殺された。
陶晴賢【すえはるかた(1521~1555)】
陶興房の次男。通称五郎。官途は尾張守。別名陶隆房。父陶興房が病没した際、兄陶興昌は死去していたため陶家の家督を相続した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、援軍として毛利元就のもとに派遣された。1541年、毛利元就と協力して尼子晴久勢を撤退に追い込んだ。1542年、「出雲討伐」では、月山富田城を攻撃したが失敗した。撤退時に尼子晴久勢の追撃を受け大内義隆の養子大内大内晴持が討死した。その後、大内義隆は政治に興味を失い、外様衆の相良武任を重用して譜代衆の陶晴賢、内藤隆春、杉隆泰らは中枢から排除された。1551年、大内義隆を山口館に急襲し、長門国大寧寺で自刃させた。1552年、大友義鎮の弟大内晴英を迎え、大内家を相続させた。反陶晴賢の石見国三本木城主吉見正頼を攻撃した。吉見正頼は毛利元就に救援を求め、毛利元就は陶晴賢から離反して、安芸国内の陶晴賢勢を攻撃した。陶晴賢は吉見正頼と和議を結び、毛利元就との戦いに備えた。毛利元就の流した、「江良房栄が内応している」という虚報を信じ、腹心の江良房栄を謀殺した。1554年、「折敷畑の戦い」では、勇猛で知られた宮川房長が討死した。安芸国出張城主白井房胤や矢野保木城主野間隆実らも毛利元就に討取られた。1555年、「厳島の戦い」では、厳島に渡海して宮ノ尾城を攻撃した陶晴賢勢の背後を三島村上海賊衆、小早川海賊衆の奇襲を受け大敗、厳島大江浦で自刃した。
陶隆信【すえたかのぶ(15??~15??)】
陶興房の三男。
陶長房【すえながふさ(15??~1557)】
陶晴賢の男。富田若山城主。通称五郎。相良武任は陶晴賢と和議を結ぶため、娘と陶長房の婚姻を大内義隆に願い出た。大内義隆もこの婚姻を認めたが、陶晴賢は拒否。両者の関係は更に悪化した。1555年、「厳島の戦い」で陶晴賢が討死すると急遽、陶家の家督を相続した。若年の陶長房では毛利元就には抗し得ず、大内義長を擁しながらも富田若山城も落城した。1557年、杉重輔の奇襲を受け陶長房も討死した。遺児鶴寿丸も毛利元就により謀殺されて周防国の陶家嫡流は滅滅亡した。
陶貞明【すえさだあき(15??~1557)】
陶晴賢の次男。通称小次郎。1557年、周防国冨田城が落城した際、龍文寺に潜伏していたが、杉重輔、杉正重勢の攻撃を受け自刃した。
陶信勝【すえのぶかつ(15??~15??)】
陶長房の男。1557年、若山城落城の際、乳母に引き連れられて、安芸国に落延びた。
陶隆満【すえたかみつ(1497~15??)】
大内義興家臣。官途は安房守。奉行衆を務めた。1551年、陶晴賢勢に属して山口を襲った。大内義隆死後、大内義長が豊後国から山口へ入る際これを迎え、山口まで送ったが、後に毛利元就に降った。「源氏物語」の収集で知られる好事家。
陶隆康【すえたかやす(15??~1551)】
大内義興家臣。朝倉弘詮の男。官途は右馬允。大内義隆の近習から侍大将となった。1551年、陶晴賢の謀反の際には、大内義隆を落延びさせるため、嫡男陶隆弘とともに殿を務め、法泉寺で討死にした。
陶隆弘【すえたかひろ(15??~1551)】
陶隆康の男。官途は中務少輔。1551年、陶晴賢の謀反の際には、大内義隆を落延びさせるため、父陶隆康とともに殿を務め、法泉寺で討死にした。
菅田宣真【すがたのりざね(15??~1551)】
大内義興家臣。官途は越中守。大内義隆によって安芸に派遣され、在所の地名を取り、菅田姓を名乗った大内義隆の命を受けて安芸郡槌山城に在番した。1551年、「大寧寺の変」により大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就は菅田宣真を槌山城に攻め、菅田宣真は嫡男菅田宣種、尾和秀義、大林隆廉、財満隆久らとともに槌山城に籠城したが落城。菅田宣真は自刃した。
菅田宣種【すがたのりたね(15??~15??)】
菅田宣真の男。1551年、「大寧寺の変」により大内義隆が陶晴賢に謀殺されると、毛利元就は菅田宣真を槌山城に攻め、菅田宣種も父菅田宣真に従って、尾和秀義、大林隆廉、財満隆久らとともに槌山城に籠城したが落城。菅田宣種は自刃した。
杉民部大夫【すぎみんぶだいふ(15??~1555)】
大内義長家臣。1555年、大内義長の介錯を務めた後、自刃した。
鞍掛杉隆泰【すぎたかやす(1525~1555)】
玖珂郡鞍掛城主。杉興道の男。官途は治部少輔。鞍掛城30,000石を領した。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。1555年、毛利元就に降った。大内義長へ内通していたことが露見して小方元康に討取られた。
鞍掛杉隆季【すぎたかよし(15??~1557)】
杉興道の次男。
椙杜隆康【すぎもりたかやす(15??~15??)】
玖珂郡蓮華山城主。椙杜房康の男。大内義隆家臣。官途は右京亮。1551年、陶晴賢によって大内義隆が弑逆されるとそれに従った。1555年「厳島の戦い」で陶晴賢が討死し、毛利元就が周防へと侵攻すると、積極的に毛利元就に加担した。近隣の鞍掛山城主杉隆泰の降伏を偽りと注進した。のちに杉隆泰を討取った。椙隆康には男児がなかったため、毛利元就の五男椙杜元秋を養子に迎えた。後に毛利元秋が月山富田城主になったため、その弟末次元康が椙杜家を継いだ。1585年、毛利元秋が月山富田城内で病死した。後任として末次元康が任じられたため、またもや椙杜家の家督は空となった。その後、志道元保の男志道元縁を養子として跡を継がせた。
椙杜元秋【すぎもりもとあき(1552~1585)】
毛利元就の五男(椙杜隆康の養子)。官途は刑部大輔。1568年、月山富田城主となり3,500貫を領した。尼子残党の蜂起に対しても、が補佐役の天野隆重の助力により月山富田城を守り抜いた。若くして病死した。
椙杜元縁【すぎもりもとより(15??~15??)】
志道元保の男(椙杜隆康の養子)。1600年、「関ヶ原の役」では、安国寺恵瓊は吉川広家に石田三成勢への参陣を求めるが、椙杜元縁を使者として毛利輝元に参陣を断るよう伝えた。吉川広家は榊原康政や本多正信に石田三成の挙兵を報告し、黒田長政には毛利輝元が関与していないとする書状を送った。毛利輝元が防長移封されると、毛利秀元の筆頭家老職を務めた。
杉元相【すぎもとすけ(1522~1585)】
都濃郡一の井手城主。杉隆宣の男。通称次郎左衛門。1540年、「池の内の戦い」で、湯原宗綱を粟屋元良と挟撃し討取った。1543年、父杉隆宣の討死により杉家の家督を相続した。1551年、陶晴賢による大内義隆への謀反「大寧寺の変」では中立を維持した。1556年、「防長経略」で毛利元就に降伏した。1569年、「大内輝弘の乱」では、富海近くの椿峠に布陣し、大内輝弘の残存兵の逃亡を防ぎ壊滅させた。
杉元宣【すぎもとのぶ(15??~1589)】
杉元相の男。通称小次郎。室は児玉元良の娘。1585年、父杉元相の病死より杉家の家督を相続した。毛利輝元は児玉元良の娘(二の丸殿)を側室とすることを望んでいたが、娘は婚姻相手に杉元宣を選んだ。杉元宣の内室になっても二の丸殿を諦めきれない毛利輝元は家臣の椙山土佐守、椙山清兵衛親子、佐世元嘉らに命じて杉元宣の内室を奪った。1589年、杉元宣は、毛利輝元の行為を羽柴秀吉に直訴すべく大坂に向ったが、途中小早川隆景の追ってによって謀殺された。
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【た】
田子兵庫頭【たなこひょうごのすけ(15??~15??)】
大内義隆家臣。1543年、本陣を京羅木山に移し、飯梨川を越え月山富田城を攻撃すべきと主張した。毛利元就は尼子晴久を侮っていると反論するが、陶晴賢の賛成により大内義隆は本陣を京羅木山に移した。
津守輔直【つもりすけなお(15??~15??)】
大内義隆家臣。1557年、大内義長が討死すると、毛利元就に仕えた。大内輝弘が山口へ侵攻した際、高嶺城に籠城した。
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【な】
長井貞重【ながいさだしげ(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆に忠節を尽くして陶晴賢勢と戦い討死した。
長崎元康【ながさきもとやす(15??~1543)】
大内義興家臣。官途は左近将監。屋代島警固衆。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣したが討死した。
長杉次郎左衛門【ながすぎじろうさえもん(15??~15??)】
大内義隆家臣。1540年、尼子晴久が毛利元就領に攻め込むと、救援に派遣された。毛利元就とともに尼子晴久勢と戦った。
日継須益【にっけいすうえき(15??~15??)】
龍福寺住職。龍福寺は大内義隆の菩提寺。著書に『大内義隆記』。
仁保興奉【にほしおきとも(15??~1539)】
吉敷郡仁保館主。仁保興棟の次男。官途は上総介。
仁保隆在【にほしたかあり(15??~1566)】
吉田元種の次男(仁保興奉の養子)。官途は上総介。
仁保元氏【にほしもとうじ(15??~1631)】
吉川元春の次男。官途は宮内少輔。別名仁保元棟。
貫隆仲【ぬきたかなか(15??~1551)】
大内義隆家臣。官途は下野守。奉行衆を務めた。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。1551年、山口法泉寺にて大内義隆に殉じた。
温品種重【ぬくしなたねしげ(15??~15??)】
大内義興家臣。通称吉左衛門尉。1555年、陶家旧臣佐藤宗左衛門尉親子が山口で挙兵した際、市川経好、祖式友兼らととも鎮圧に向かった。
温科盛長【ぬくしなもりなが(15??~15??)】
大内義興家臣。1532年、筑前立花山城を巡り少弐、大友勢と交戦。温科盛長らの奮戦により立花山城は陥落した。城主立花親貞らは降伏した。
沼間敦定【ぬまあつさだ(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は備前守。弘中正長とともに御厩奉行衆を務めた。
沼間興国【ぬまおきくに(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は隼人佑。大内義興、大内義隆二世代にわたって奉行人を務めた。
禰宜右延【ねぎみぎのぶ(15??~1551)】
大内義隆家臣。官途は民部少輔。山口多賀神社大宮司。1551年、陶晴賢の謀反の際、大寧寺で義隆を守って討死した。辞世の句は「風荒み跡なき露の草の原 散り残る花もいくほどの世ぞ」。
禰宜言延【ねぎみことのぶ(15??~15??)】
禰宜右延の男。著書に『言延覚書』。
能美重友【のうみしげとも(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は式部丞。1556年、「木部の戦い」で戦功を挙げ大内義長から感状を賜った。
野上房忠【のがみふさただ(15??~1557)】
陶晴賢家臣。官途は隠岐守。1551年、「大寧寺の変」の後、筑前国花尾城主相良武任を討取った。1555年、「厳島の戦い」で諸将の多くを失った陶家を支えた。吉見正頼勢への押さえとして長門国渡川に布陣していたが、吉見正頼勢の前に大敗した。山口失陥後、陶晴賢の遺児陶鶴寿丸を奉じ、長門国且山城に入城するも、落城の際、長福院にて鶴寿丸を刺殺した後、自刃した。これにより、名家陶家の嫡流は断絶した。
野田長房【のだながふさ(15??~15??)】
内藤隆世家臣。1556年、毛利元就勢が周防国に侵攻すると内藤隆世は右田岳城に右田隆量、野田長房を派遣した。
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【は】
波多野勝実【はたのかつざね(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称彦左衛門尉。周防国人衆。1555年、「厳島の戦い」後、周防国に侵攻した毛利元就勢に降伏した。「蓮華山城の戦い」で戦功を挙げた。大内後周防で起こった大内旧臣の一揆の鎮圧等に功があった。
平井入道【ひらいにゅうどう(15??~15??)】
陶晴賢家臣。軍配者。1555年、「厳島の戦い」に際し、城攻めの日が悪日であるため延期するよう進言した。これに弘中隆兼は反対した。陶晴賢は平井入道の意見を採用し、攻撃を延期した。
弘中武長【ひろなかたけなが(15??~15??)】
大内義興家臣。通称新四郎。官途は越後守。1508年、大内義興に従って上洛、山城国守護代を務めた。 1520年、山口高嶺大神宮の普請奉行に任じられた。
弘中興勝【ひろなかおきかつ(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称右衛門大夫尉。官途は下野守。白崎八幡宮社家。大内義隆の奉行人を務めた。1511年、「山城船岡山の戦い」に参陣した。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
弘中興兼【ひろなかおきかね(15??~15??)】
大内義興家臣。玖珂郡亀尾城主。奉行職や軍事職などの要職を代々務めた。弘中家は白崎八幡宮の大宮司を兼ねた。
弘中隆兼【ひろなかたかかね(1523~1555)】
弘中興兼の男。官途は三河守。別名弘中隆包。白崎八幡宮社家。安芸国守護代。智勇兼備の武将として名声高く若くして数多くの戦功を挙げ、安芸国守護代に任じられ西条槌山城主として活躍した。1540年、「吉田郡山城の戦い」では、毛利元就とともに尼子晴久勢を撃退した。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。1551年、陶晴賢派に属したが。陶晴賢が謀反を起こすと中立の立場を取った。大内義長が擁立されると、これに従った。毛利元就の謀略により内通の嫌疑をかけられた江良房栄を討取った。1555年、「厳島の戦い」では、毛利元就の謀略であると陶晴賢に再三諫言したが、陶晴賢は聞き入れなかった。毛利元就の謀略により、江良房栄と弘中隆兼に謀反の疑いがかかり、陶晴賢は弘中隆兼に江良房栄を謀殺させた。弘中隆兼は、弟弘中方明を岩国に残し、弘中隆助とともに厳島に渡海した。陶晴賢勢は毛利元就の罠にかかり一夜にして壊滅した。弘中隆兼は、自ら殿となって総大将の陶晴賢を逃がし、大聖院で吉川元春勢と戦い討死した。
弘中隆助【ひろなかたかすけ(15??~15??)】
弘中隆兼の男。
弘中隆守【ひろなかたかもり(15??~1555)】
弘中隆兼の次男。官途は中務丞。1555年、「厳島の戦い」で父弘中隆兼とともに奮戦するも力尽き討死した。
弘中方明【ひろなかかたあき(15??~15??)】
弘中興兼の次男。官途は民部丞。通称忠左衛門。別名弘中就慰。弘中方明は大内義隆と血縁関係にあり、陶晴賢から冷遇された。白井賢胤に海賊衆の長の地位を奪われ、軍船も所有していなかった。1555年、「厳島の戦い」で兄弘中隆兼や甥の弘中隆助が討死すると、抵抗を示さず岩国錦見の琥珀院に出家し毛利元就に降伏した。毛利元就にその武勇を認められて家臣となり、300貫を領した。その後は毛利家海賊衆の海賊大将として活動した。
弘中隆佐【ひろなかたかさ(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は中務少輔。白崎八幡宮社家。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
弘中左衛門大夫【ひろなかさえもんだいふ(15??~15??)】
大内義興家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
深川胤兼【ふかがわつぐかね(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は将監。山代衆のひとり。玖珂郡の豪族衆。1532年、須川、深川、大野の三村を領した。
深野興信【ふかのおきのぶ(15??~1532)】
陶弘房の三男。通称平左衛門尉。別名陶興房。1532年、「吉田郡山城の戦い」で後詰に参陣したが討死した。
深野重成【ふかのしげなり(15??~1543)】
大内義隆家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣したが討死した。
藤嶋直立【ふじしまなおたて(15??~15??)】
藤嶋実直の男。小早川隆景に仕えるも、後に周防国玖珂郡久田村に帰農した。
藤島実直【ふじしまさねなお(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆に忠節を尽くして、陶晴賢勢と戦い弟藤島誠忠とともに大寧寺で討死した。
藤島誠忠【ふじしませいちゅう(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、「大寧寺の乱」では、大内義隆に忠節を尽くして、陶晴賢勢と戦い兄藤島実直とともに大寧寺で討死した。
舟越通吉【ふなこしみちよし(15??~15??)】)
大内義隆家臣。官途は淡路守。山代衆のひとり。山代衆とは玖珂郡の山代と呼ばれる地域の有力武士団。1555年、「厳島の戦い」後、舟越通吉は三分一式部丞、毛利房郷、中村左馬充、神田貞安ら他の山代衆とともに周防国に侵攻してきた毛利元就勢に降り、宇佐川勝長、甲田丹後守ら敵対していた他の山代衆を撃破した。
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【ま】
町野隆親【まちのたかちか(15??~1555)】
玖珂郡高山寺城主。高山城主に任じられた。1554年、安芸国明石口にて兵1,000余りを率い毛利元就勢と戦うも敗走した。1555年、「厳島の戦い」で討死した。
町野隆治【まちのたかはる(15??~1555)】
町野隆親の男。官途は相模守。1553年、「長門賀年城の戦い」に戦功を挙げた。1554年、「明石口の戦い」に参陣するも敗走した。1555年、「厳島の戦い」で討死した。
松原隆則【まつばらたかのり(15??~1551)】
大内義隆家臣。1551年、大内義隆が大寧寺で自刃する際、最後まで付き従い、大内義隆に殉じた。
三浦房清【みうらふさきよ(15??~1555)】
陶晴賢家臣。官途は越中守。陶晴賢の股肱の家臣。厳島侵攻を強く進言した。1555年、「厳島の戦い」では、自刃しようとする陶晴賢を逃走させようと奮戦するも、その途中で二宮俊実に討ち取られた。後に神田惣四郎(三浦元忠)が行跡を受け継いだ。
三浦将監【みうらしょうげん(15??~15??)】
大内義興家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。
右田重政【みぎたしげまさ(15??~15??)】
内藤隆世家臣。佐波郡右田ヶ嶽城主。官途は但馬守。別名右田隆量。1556年、毛利元就勢が周防国に侵攻すると内藤隆世は右田ヶ嶽城に右田隆量、野田長房を派遣した。毛利元就の「防長経略」のとき、右田ヶ嶽城を守っていたが、力の差を感じ、降伏した。後に右田家は毛利元就の七男天野元政に吸収された。
右田隆次【みぎたたかつぐ(15??~1551)】
大内義隆家臣。官途は右京亮。大内義隆の近習を務めた。1551年、陶晴賢謀反の際には大寧寺まで付き従い、黒川隆像、天野隆良らととともに討死した。辞世の句は「末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは」。
御郷康政【みごうやすまさ(15??~15??)】
右田重政の男。通称勘兵衛尉。天野元政が右田家の養子に入ったため、姓を右田から御郷に改めた。三田尻御舟手組の指揮官のひとり。
光井尚豊【みついなおとよ(15??~1561)】
大内義隆家臣。官途は右京亮。1555年、毛利元就に降った。1561年、「門司城の戦い」で討死した。
光井尚久【みついなおひさ(15??~15??)】
光井尚豊の男。官途は兵庫助。吉川元春勢に属して本領である周防国光井庄を給された。
宮川興房【みやがわおきふさ(15??~15??)】
陶晴賢家臣。玖珂郡高森城主。1511年、「山城船岡山の戦い」で戦功を挙げた。
宮川房長【みやかわふさなが(15??~1554)】
宮川興房の男。官途は甲斐守。玖珂郡山代地方の代官を務めた。1551年、「大寧寺の変」後、陶晴賢の吉見家攻略中に毛利元就は陶方を離反、このため毛利元就の抑えのために安芸国に派遣されて毛利元就と戦った。1554年、兵7,000余りを率いて安芸国に侵攻するも「折敷畑の戦い」で、敵に倍する大勢にありながら敗北を喫し討死した。
上関村上武満【むらかみたけみつ(15??~15??)】
熊毛郡上関城主。村上吉敏の男。官途は刑部少輔。能島村上海賊衆の海賊大将。1557年、大内義長の滅亡後上関に移り、同地を支配した。1562年、「蓑島沖の戦い」で村上武吉や村上吉充、乃美宗勝らとともに毛利元就勢に属して参陣した。1576年、「木津川口の戦い」に参戦し、戦功を挙げた。
毛利房継【もうりふさつぐ(15??~15??)】
陶晴賢家臣。官途は掃部允。陶家で奉行人ならびに徳地代官職を務めた。1557年、大内義長の滅亡後は毛利家に降り、上徳地を給された。
毛利房郷【もうりふささと(15??~15??)】
大内義隆家臣。山代衆のひとり。1555年、「厳島の戦い」のとき毛利元就に降った。
毛利房元【もうりふさもと(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は右京進。山代衆のひとりで周防国玖珂郡美川を領した。
毛利元堯【もうりもとたか(15??~15??)】
大内義隆家臣。通称与三郎。官途は加賀守。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣した。1551年、「大寧寺の乱」では、陶晴賢勢に属して安芸国桜尾城を守備した。久芳賢重、久芳賢直とともに毛利元就に降伏した。
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【や】
矢田隆通【やだたかみち(15??~1551)】
大内義隆家臣。官途は蔵人大夫。1551年、大内義隆が大寧寺で自刃した後、防州黒川で自刃した。
矢田隆直【やだたかなお(1532~1581)】
矢田隆通の男。官途は甲斐守。毛利元就に仕え、720石を領した。
楊井長盛【やないながもり(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は修理進。美和庄内10石、粕屋郡内5石、宇佐郡内で所領を安堵された。
楊井春盛【やないなるもり(15??~15??)】
楊井長盛の男。官途は但馬守。
楊井国久【やないくにひさ(15??~15??)】
楊井長盛の次男。官途は飛騨守。医師。1551年、陶晴賢の謀反に際し、大内義隆は法泉寺に逃れた。大内義隆生母は真如寺に逃れたが、驚きのあまり体調を崩してしまった。大内義隆は自身が危機的状況にあるにもかかわらず、楊井国久を派遣し、母の様態を見舞っている。
楊井武盛【やないたけもり(15??~15??)】
楊井国久の男(楊井春盛の養子)。
山崎興盛【やまざきおきもり(15??~1557)】
玖珂郡熊毛山城主。官途は出雲守。陶晴賢勢に属して、沼城を守備した。1557年、「防長経略」で、毛利元就勢を相手に一年以上戦い続けた。最後は熊谷信直勢の攻撃を受け、都濃郡須々万沼城に江良賢宣、勝屋興久ともども籠城するが落城した。
山崎隆次【やまざきたかつぐ(15??~1557)】
山崎興盛の男。官途は右京進。1557年、毛利元就の「防長経略」で父山崎興盛や江良賢宣、勝屋興久らとともに沼城に籠城して奮闘するも落城。父とともに自刃した。
山崎隆方【やまざきたかかた(15??~1555)】
陶晴賢家臣。官途は勘解由。陶晴賢の近習を務めた。1555年、「厳島の戦い」では、陶晴賢に従い柿並隆正、伊香賀隆正とともに自刃した。辞世の句は「ありと聞きなしと思うも迷いなり 迷いなければ悟りさえなき」。
山田範秀【やまだのりひで(15??~1543)】
大内義隆家臣。1543年、「月山富田城の戦い」に参陣したが、能義郡津田で討死した。
大和興武【やまとおきたけ(15??~1555)】
陶晴賢家臣。官途は伊豆守。1555年、「厳島の戦い」で奮戦するも、香川光景に捕縛されるが、降伏せず自刃した。
吉井元武【よしいもとたけ(15??~15??)】
大内義隆家臣。官途は相模守。通称平右衛門。毛利元就が陶晴賢と断交し広島湾沿岸諸城を攻撃した際、五日市で起こった戦いで戦功を挙げた。筑前国立花山城を巡る合戦の際、飯田義武とともに立花山城の偵察に行った。
吉田興種【よしだおきたね(15??~1569)】
大内義長家臣。官途は左兵衛尉。大内義長のもとで侍大将を務めた。後に毛利元就に降伏した。1569年、大内輝弘が周防国に侵攻すると、挙兵するが、あえなく討取られた。
吉原次秀【よしはらつぐひで(15??~15??)】
大内義興家臣。1542年、武田光和が滅亡すると、大内義隆の要請により城番として銀山城に派遣された。
吉見興滋【よしみおきしげ(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は備中守。通称源右衛門。二度の中国渡海、明国を訪ずれた。毛利元就に降伏した。大庭賢兼、河屋隆通、岩正興致とともに市川経好の寄騎衆として山口奉行を務めた。豊前国門司城で冷泉元豊とともに討死した。
吉安豊英【よしやすとよひで(15??~15??)】
冷泉興豊の次男。大内家滅亡後、冷泉隆豊の男冷泉元豊、冷泉元満兄弟とともに毛利元就に仕えた。
吉安満定【よしやすみつさだ(15??~15??)】
冷泉隆豊家臣。通称太郎兵衛。1597年、「慶長の役」で、冷泉元満が討死した際、吉安満定は所用で他所に居たがすぐに馳せ戻り敵から冷泉元満の遺骸を奪還し、日本に返す事に成功した。
龍崎道輔【りゅうざきみちすけ(15??~15??)】
大内義興家臣。官途は中務丞。家老職を務めた。1508年、大内義興に従って上洛した。大内政弘の私歌集「拾塵和歌集」の撰者。
冷泉隆豊【れいぜいたかとよ(1513~1551)】
冷泉興豊の男。玖珂郡冷泉館主。官途は左衛門尉。室は平賀玄信の娘。大内家警固衆を率いた。1527年、「仁保島の戦い」に参陣した。1542年、「出雲討伐」にも参陣し鯛浦、大根島で尼子経久勢と戦った。1543年、伊予国に出陣するなど武功は数多い。武官派であるが遊興に耽る大内義隆に度々諫言し、また陶隆房の謀叛の噂を聞いて誅伐を進言した。1551年、隆房謀叛では最後まで大内義隆を護り、大内義隆を介錯後、陶晴賢勢に突撃して討死した。辞世の句は「みよやたつ雲も煙も中空に さそひし風のすえも残らず」。
冷泉元豊【れいぜいもととよ(1537~1562)】
冷泉隆豊の男。1551年、「大寧寺の変」後、父冷泉隆豊が大内義隆に殉じると、家臣吉安豊英らに守られ安芸国の平賀弘保のもとに落延びた。後に坂元祐とともに毛利元就に仕えた。1555年、大内義長の滅亡後、門司城代に任じられ10,000石を領した。1562年、大友義鎮勢の攻撃を受け討死した。
冷泉元満【れいぜいもとみつ(1539~1597)】
冷泉隆豊の次男。官途は民部少輔。室は渋川義満の娘。1551年、「大寧寺の変」後、父冷泉隆豊が大内義隆に殉じると、家臣吉安豊英らに守られ安芸国の平賀弘保のもとに落延びた。後に坂元祐とともに毛利元就に仕えた。1555年、大内義長の滅亡後、兄冷泉元豊が門司城代に任じられ10,000石を領した。毛利輝元が石山本願寺に兵糧を運ぶようになると、制海権確保のため、淡路国岩屋城の城番を務めた。防長両国に所領を得ていたが、後に出雲国仁多郡亀嶽城3,585石に転封された。1592年、「蔚山城の戦い」で討死した。この際、家臣の吉安満定、伊賀崎満重、白松善左衛門は冷泉元満の遺骸を奪還し日本に送ると翌日に討死し冷泉元満に殉じた。
脇兼親【わきかねちか(15??~15??)】
大内義隆家臣。玖珂郡和木館主。通称勘解由左衛門。1554年、陶晴賢が石州三本松城を攻撃した参陣した。後毛利元就に降伏した。
鷲頭隆政【わしずたかまさ(15??~15??)】
鷲頭高綱の男。官途は玄蕃。1555年、「防長経略」の際、防府の大専坊に布陣したが敗走した。
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【資料Ⅰ】
周防国(6郡/180,000石)
大島郡(6,000石):大島城。
玖珂郡(32,000石):岩国城、鞍掛城、蓮華山城、楊井街。
熊毛郡(30,000石):屋代城、上関城、神代城、島末城、竃戸街、室積寺。
都濃郡(42,000石):富田城、須々万城、徳山館、末武城、深浦街。
佐波郡(30,000石):敷山城、右田嶽城、防府街、松崎寺、三田尻湊。
吉敷郡(40,000石):山口館、築山城、高嶺城、大道寺。
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【資料Ⅱ】
大内家三家老【おおうちけさんかろう】
陶晴賢、内藤隆春、杉隆泰。
山代衆【やまだいしゅう】
山代地方は周防国玖珂郡の東部に位置し、東を安芸国、北を石見国と接します。山代は1,309mの寂地山を始め、鬼ヶ城山、小五郎山、羅漢山など1,000mを越える山に囲まれ、ほとんど平地はなく、その面積の90%近くは山林です。
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【資料Ⅲ】
周防国【すおうのくに】
本州最西端に近い山陽道の国。東は安芸国、西は長門国と境を接し、北は中国山地に連なる冠山山地で石見、長門両国と境を隔てる。南から東にかけては瀬戸内海が広がり、中国方面では伊予国、九州方面では周防灘越しに豊前、豊後両国を臨む。また内海に屋代島以下多数の小島を持つ。国土全域に山地が広がるが、錦川、島田川、佐波川の流域に広瀬、玖珂、山口などの盆地が点在し、沿岸部には岩国、光、防府などの沖積平野が形成されている。この海岸線には遠浅の干潟が多く、農業、漁業ともに高水準を保ち、平安時代には東大寺をはじめとする権門勢家の荘園が多数設置された。早くから大陸文化、半島文化と接していたが、瀬戸内海と中国路を通じて畿内文化、瀬戸内文化とも結び付きが深く、内外文化の接点というべき位置にある。大内興義によって、山口は京を模した小京都として繁栄した。
上関【かみのせき】
長島と熊毛半島によって波と風から守られた良湊で、周防灘、豊後水道と安芸灘を結ぶ要衝を占めた湊街。
山陰道【さんいんどう】
山陰道は京都丹波口から亀山、福知山を経て和田山から因幡国。そして日本海側を西に米子、松江、出雲、浜田を経て益田で日本海を離れ、冠山山地の西端を抜けて津和野、山口を経て小郡で山陽道に合流。この山陰道は五機七道の一つで、丹波国、丹後国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国、石見国、長門国を通り周防国小郡に至る街道。
山陽道【さんようどう】
山陽道は西宮を起点に兵庫、明石、姫路、三石、岡山、徳山を経て下関に至る街道。西国街道とも称された。大和政権が日本国を五十八国三島に分け、各国の国府と大和地方を結ぶため、東海道、東山道、北陸道、山陽道、南海道、山陰道の七道を整備した。山陽道は大和と大宰府を結ぶ最も重要な街道とされた。平安時代に都が京都に移った後も、重要な公道として他の諸道にも増して栄えた。その後、鎌倉時代を迎え京都~鎌倉を結ぶ東海道が開かれ、山陽道の重要性は薄れていった。
防府宮市【ほうふみやいち】
佐波川下流、周防国府の西隣に位置し、周防国中部の中心的な物資集散地として栄えた松崎天満宮の門前街。
三田尻【みたじり】
佐波川河口部に位置し、古くから周防国府の港湾部を担ったとみられる湊街。対岸の向島や田島、東の龍ヶ崎などにより波風から守られる天然の良港で瀬戸内海航路の要衝を占めた。
楊井【やない】
楊井川河口に中世以前から形成された湊街。柳井からは内陸部への街道が延びており、周防の東の玄関口でもあった。また楊井には周防に大きな既得権を持つ鋳物師集団が存在した。
山口【やまぐち】
大内興義が防長二国を平定し、山口に京の都を模した街をつくるとともに、朝鮮や明との貿易や大陸文化の導入に努めた。そのため 、山口は大きな都市として栄えた。「西の京」と称され、華やかな大内文化が開花した。フランシスコ・サビエルや雪舟、戦乱の京都から逃れてきた公家や文化人も山口に滞在した。
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戦国人名辞典は1530~1600年期間の国別戦国武将名辞典。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には城か地名を入れています。
※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。
※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。
※大内家臣で本貫地が不明な諸将は、長門国に記載します。
※陶隆房は陶晴賢、尼子詮久は尼子晴久、大友宗麟は大友義鎮、黒田如水は黒田孝高、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、立花道雪は戸次鑑連の名前で統一しました。
※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(西国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(西国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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