----------------------------
【あ】
安威源秀【あいげんしゅう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安威藤治【あいとうじ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は兵部少輔。洗礼名「シモン」。もと室町幕府部屋衆で馬廻衆のひとり。基督教を信仰した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安威孫作【あいまごさく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安威守佐【あいもりすき(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は摂津守。通称五郎左衛門。1585年、羽柴秀吉の代官として摂津国豊島郡を治めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。のちに羽柴秀頼に仕え1,000石を領した。1611年、禁裏普請の奉行職を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木重矩【あおき しげのり(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。室は関兼定の娘(三女)。内室は羽柴秀吉の養父竹阿弥の縁者で大政所の義妹。
青木一矩【あおきかずのり(1541~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は紀伊守。通称勘兵衛。別名青木重治。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。1585年、「四国討伐」で戦功を挙げ、紀伊国入山城主となり10,000石を領した。1587年、「九州征伐」にも参陣して、播磨国立石城主となった。1598年、越前国北ノ庄城80,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、大谷吉継勢に属して、北陸の石田三成勢の諸将とともに松平元康勢の前田利長と浅井畷で戦ったが敗れて、北ノ庄城に籠城した。石田三成勢が、「関ヶ原の戦い」で大敗すると、土方雄久の仲介により嫡男青木俊矩を人質に差し出して前田利長に降伏した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木俊矩【あおきとしのり(15??~1608)】
青木一矩の男。官途は右衛門佐。通称善右衛門。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。1599年、青木秀頼に仕え、越前国金剛院城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して北陸路で戦うが敗北した。役後、改易処分に処せられ没落した。子孫は町人となり酒造業を営んだ。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木久矩【あおきひさのり(15??~1615)】
青木俊矩の男。通称四郎右衛門。1600年、「関ヶ原の役」では、父青木俊矩とともに石田三成勢に属して北陸路で戦った。役後、青木俊矩が改易処分に処されると、前田利長の客将となった。1614年、「大坂冬の陣」では、大坂城に入城し、甥木村重成のもとで戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」で討死した。弟青木善四郎は前田常利に仕え250石を領した。末弟青木荘左衛門は「平吹屋」という酒の醸造業を営んだ。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木重直【あおきしげなお(1529~1613)】
羽柴秀吉家臣。官途は刑部卿法印。通称加賀右衛門。1593年、摂津国豊島郡内で1,400石を領した。1595年、兎原郡内で360石を加増された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木直継【あおきなおつぐ(15??~1578)】
青木重直の三男。1578年、「播磨神吉城の戦い」に参陣して討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木一重【あおやまかずしげ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。後に松平元康に仕えた。
蘆塚忠右衛門【あしづかちゅうえもん(15??~1614)】
小西行長家臣。通称平馬。室は皆吉続熊の娘。小西行長の三家老のひとりで2,000石を領した。1597年、「慶長の役」での撤退戦の際、小西行長を落延びさせるため、小西長統らと兵500余りで20,000の明勢と戦ったが、奇跡的に帰還した。「関ヶ原の戦い」では、小西行長勢の2,000余りを指揮したが敗走した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣したが討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
蘆塚忠右衛門【あしづかちゅうざえもん(15??~15??)】
蘆塚忠右衛門の男。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。後に有馬晴信に仕えた。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の侍大将を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
蘆塚貞春【あしづかさだはる(15??~15??)】
蘆塚忠右衛門の次男。通称忠太夫。別名蘆塚忠兵衛。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の指導者のひとりとなった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
蘆塚権右衛門【あしづかごんざえもん(15??~15??)】
蘆塚忠右衛門の三男。
青山雲宅【あおやまうんたく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。黄母衣衆のひとり。
青山新八郎【あおやましんぱちろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青山助六【あおやますけろく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤座三右衛門【あかざさえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤座藤八郎【あかざとうはちろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
明石元知【あかしもととも(15??~1595)】
羽柴秀吉家臣。仙恵の男。官途は左近将監。通称与四郎。別名明石則春。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1585年、「四国討伐」に参陣して戦功を挙げ、但馬国豊岡城10,000石を領した。継いで播磨国明石城主となった。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、京城に参陣した。1595年、「羽柴秀次事件」連座して、小早川景隆に預けられ自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤部長介【あかべちょうすけ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤松伊豆守【あかまついずのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
秋田助右衛門【あきたすけえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。旗奉行を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の属して、「伏見城の戦い」に参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
阿吉田新右衛門【あこだしえんもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1591年、美濃国黒坪城を領した。
浅井喜八郎【あざいきはちろう(15??~15??)】
羽柴秀勝家臣。1582年、「山崎の戦い」に参陣した。羽柴秀勝の病没後、佐々成政に仕えた。「肥後国人一揆」で戦功を挙げた。参考文献:『戦国人
名事典』by新人物往来社。
浅井政高【あざいまさたか(15??~1615)】
羽柴秀吉家臣。浅井明政の男。別名田尾茂右衛門。羽柴秀頼に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で討死した。
浅野大炊助【あさのおおいのすけ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1594年、山城伏見城の石垣造営工事を分担した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
阿閉平右衛門【あつじへいえもん(15??~15??)】
羽柴秀次家臣。鉄炮隊を率いた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
穴沢盛秀【あなざわもりひで(15??~1615)】
羽柴秀頼家臣。官途は主殿助。薙刀指南役。長太刀や棒術にも長けた。越後国出身。1615年、「大坂夏の陣」では、長尾景勝勢と戦い、足軽衆7~8名を討取った。樋口兼続の家臣坂田采女、折下外記、渋谷弥兵衛らに囲まれ討たれた。
穴太駿河守【あのうするがのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。穴太衆のひとり。1593年、伏見城普請をめぐり穴太出雲守と対立した。後に協力して普請をするよう命じられた。
穴太三河守【あのうみまみかわ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。穴太衆のひとり。1593年、伏見城普請をめぐり穴太出雲守と対立した。後に協力して普請をするよう命じられた。
穴太出雲守【あのういずものかみ(15??~15??)】
羽柴秀次家臣。穴太衆のひとり。1593年、伏見城普請をめぐり穴太駿河守、穴太三河守と対立した。後に協力して普請をするよう命じられた。
阿部仙三郎【あべせんざぶろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
阿和善右衛門【あわぜんえもん(15??~15??)】
羽柴秀次家臣。通称隼人。1595年、「羽柴秀次事件」後、堀尾吉晴に仕え、後に前田利長に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
粟屋彦兵衛【あわやひこべい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
粟屋弥四郎【あわややしろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安西左伝次【あんざいさでんじ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
伊木遠雄【いきとおかつ(1567~1615)】
羽柴秀吉家臣。通称七郎右衛門。尾張衆で黄母衣衆のひとり。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」にも参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。役後、改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁の軍監となり、真田信繁とともに戦功を挙げた。1615年、「道明寺の戦い」に参陣した。「天王寺、岡山の戦い」で討死した。
安宅源八郎【あたかげんぱちろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
尼子三郎左衛門【あまごさぶろうざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城の羽柴秀吉本陣を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
尼子宗澄【あまこむねずみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は宮内少輔。馬廻衆のひとり。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
尼子六郎左衛門【あまころうろうざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆組頭のひとり。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安見甚吉【あみじんきち(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1598年、「朝鮮蔚山の戦い」に参陣中の浅野幸長に書状を送った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安見新五郎【あみしんごろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安見甚七【あみじんきち(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
雨森才次【あまもりさいじ(15??~15??)】
羽柴秀次家臣。馬廻衆組頭のひとり。1595年、「羽柴秀次事件」後、没落した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
荒川銀右衛門【あらかわぎんえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
荒川助八郎【あらかわすけはちろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。黄母衣衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
荒川忠兵衛【あらかわちゅうべい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。黄母衣衆のひとり。
荒木勘十郎【あらきかんじゅうろう(15??~1614)】
羽柴秀吉家臣。1599年、丹波国何鹿郡内で200石を領した。1614年、片桐且元が大坂城を退去する際、これを見送ったかどで自刃を命じられた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
荒木助右衛門【あらきすけえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1584年、播磨国三木郡内で250石を領した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
飯島太郎右衛門【いいじまたろうえもん(15??~1615)】
木村重成家臣。河内国高井田の農民出身。1615年、「若江の戦い」で討死した。
飯島三郎右衛門【いいじまさぶろうえもん(15??~1615)】
飯島太郎右衛門の男。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して木村重成勢に属した。中河内の先導役を務めた。幼年期より弓術や槍術を学んだ。1615年、「若江の戦い」で、山口重信と戦って討死した。
磯部大膳【いそべだいぜん(15??~15??)】
森高政家臣。
井口忠兵衛【いぐちちゅうざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。浅野長政ら奉行衆とともに下野国の太閤検地を行った。
生熊長勝【いくまながかつ(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。通称玄蕃頭。鉄炮組頭を務めた。「小牧、長久手の戦い」「小田原の役」などに参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備したが、羽柴秀吉の草津湯治の警護役を務めた。1597年、美濃国内で20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、尾張国犬山城主石川貞清が出陣したあと、同城を守備した。役後、改易処分を受け、常陸国松岡城に幽閉されて自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
石尾治一【いしおはるかず(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は下野守。黄母衣衆のひとり。
石川光元【いしかわみつもと(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は紀伊守。馬廻衆組頭を務めた。
伊丹甚大夫【いたみじんだいふ(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。弓衆組頭を務めた。
伊藤長弘【いとうながひろ(15??~16??)】
羽柴秀吉家臣。通称弥吉。鉄炮大将。1584年、「小牧、長久手の戦い」で戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」に参陣した。羽柴秀吉が草津湯で湯治した際、その警護役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して伏見城を攻撃した。
伊藤武蔵守【いとうむさしのかみ(15??~1615)】
伊藤長弘の次男。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼に殉じた。
伊藤秀盛【いとうひでもり(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は加賀守。通称太郎左衛門尉。1582年、山城国検地奉行を担当した。羽柴秀吉の直轄領代官職を務め、財務を担当した。京都三条の邸宅はしばしば、羽柴秀吉の仮宿として利用された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して討死した。
伊藤与左衛門【いとうゆざえもん(15??~15??)】
小西行長家臣。肥後国木山城代。1600年、「関ヶ原の役」後、開城後自刃した。
伊藤四郎兵衛【いとうしろえもん(15??~15??)】
伊藤与左衛門の男。1600年、「関ヶ原の役」で小西行長が斬頸処分に処されると、加藤清正に仕えた。
伊木遠雄【いきとおかつ(1567~1615)】
羽柴秀吉家臣。通称七良右衛門。黄母衣衆のひとり。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣するも、石田三成勢が敗退したため、改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して参陣した。真田信繁の軍監となり、真田信繁とともに戦功を挙げた。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
伊木尚重【いきなおしげ(15??~1643)】
伊木遠雄の男。通称庄次郎。1614年、「大坂冬の陣」では、父伊木遠雄とともに羽柴秀頼勢に属した。1615年、「大坂夏の陣」では、大坂城の落城後、落延びた。真田信之に仕えて350石を領した。参考文献:『戦国人名事典(コンパクト版)』by新人物往来社。
伊智地文大夫【いじちぶんだいふ(15??~1589)】
小西行長家臣。洗礼名「パウロ」。高山右近の内室の姉妹を娶った。1589年、「天草志岐の戦い」で討死した。
伊藤祐美【いとうすけみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称掃部助。1578年、「三木城の戦い」で築かれた附城を守備した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、松平元康勢の小牧山を包囲するため、山内一豊とともに八ヶ所の附城を守備した。
伊東祐時【いとうすけとき(15??~1586)】
羽柴秀吉家臣。官途は掃部助。別名伊東祐実。黄幌衆のひとり。1585年、「第二次紀州征伐」に参陣しがた討死した。
伊東長次【いとうながつぐ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は丹後守。1600年、石田三成ら奉行衆と対立して、伏見城に出奔した。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭を務めた。
石田鶴右衛門【いしだつるえもん(15??~15??)】
中川秀成家臣。1596年、三宅六郎兵衛、山岸金右衛門とともに豊後岡城改築の奉行職を務めた。
岩城信家【いわきのぶいえ(15??~15??)】
戸田勝隆家臣。通称小右衛門尉。
植木菖蒲ノ介【うえきしょうぶのすけ(15??~15??)】
小西行長家臣。奉行役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、宇土城に籠城して塩田口を守備した。
大井何右衛門【おおいかえもん(15??~1614)】
木村重成家臣。武者奉行を務めた。武勇も優れていた。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康勢と戦い重傷を負った。木村重成は負傷した大井何右衛門を助けるため、自ら殿となって退却した。大井何右衛門は退却後に死去した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大江実光【おおえさねみつ(15??~1637)】
小西行長家臣。通称源右衛門。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の侍大将を務めた。
大崎長行【おおさきながゆき(1560~1623)】
木村重茲家臣。通称玄蕃充。尾張国出身。木村重茲に仕え、木村重茲が羽柴秀次に連座して自刃した後に福島正則に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、清洲城に籠城した。石田三成勢が開城を迫ったが福島正則の許しがないと開城できないと頑なに城を守った。福島正則が、備後国広島の太守となると鞆城を任されたが三原城主に留まった。福島正則が改易になったのちに、松平秀忠の仲介で村上通清、真鍋貞成らとともに松平頼宣に寄合衆として仕えた。服部一忠の次男大崎勝長を養子とした。
太田一吉【おおたかずよし(15??~1617)】
羽柴秀吉家臣。太田宗清の男。官途は飛騨守。通称小源五。丹羽長秀の家臣であったがその病没後、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「晋州城の戦い」に参陣した。1593年、大友吉統が改易処分に処されると、その旧領の豊後国臼杵城65,000石を領した。1597年、「慶長の役」で軍目付を務め、「南原城の戦い」、「蔚山城の戦い」に参陣した。石田三成、福原長堯、熊谷直盛とともに吏僚派として、加藤清正、福島正則ら武断派と対立した。1600年、「関ヶ原の役」では、甥の太田政成を松平元康勢に、継嗣の太田一成を石田三成勢に属させ、自身は病と称して臼杵城に籠城した。松平元康勢に属した黒田孝高と中川秀成勢の攻撃を受け降伏した。石田三成勢が大敗したため、伊予国に落延びた。
太田一成【おおたかずなり(15??~15??)】
太田一吉の男。1600年、「関ヶ原の役」では、父太田一吉が病と称して臼杵城に籠城したが、自身は石田三成勢に属した。「佐賀関の戦い」で中川秀成勢を撃破した後、降伏した。
太田政成【おおたまさなり(15??~15??)】
太田一吉の甥
太田市兵衛【おおたいちべい(15??~15??)】
小西行長家臣。肥後国愛藤寺城代を務めた。
大塩正貞【おおしおまささだ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称金右衛門。黄幌衆のひとり。
大野治長【おおのはるなが(1569~1615)】
大野定長の男。官途は修理大夫。淀殿の乳母大蔵卿局の男。羽柴秀吉の馬廻衆として3,000石を領した。1598年、羽柴秀吉が病没後、羽柴秀頼の側近として仕えた。1599年、松平元康の謀殺を図った首謀者のひとりとして罪を問われ、流罪に処され下総国で蟄居した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に参陣して戦功を挙げ、罪を許され再び羽柴秀頼に仕え15,000石を領した。1614年、家老衆筆頭の片桐且元が追放処分に処されると、羽柴秀頼の筆頭家老にとなった。松平元康との開戦が迫ると、各地から浪人衆を召し抱えたが、大坂城内では消極的和平派形勢して、浪人衆の真田信繁、後藤基次などの主戦派と対立した。1615年、「大坂夏の陣」では、千姫を使者とし羽柴秀頼の助命を願うが失敗、羽柴秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大野治徳【おおのはるとく(15??~15??)】
大野治長の男。官途は信濃守。
大野治安【おおのはるやす(15??~15??)】
大野治長の次男。
大野治房【おおのはるふさ(15??~1615)】
大野定長の次男。弟大野治胤とともに主戦派の中心人物。1614年、「大坂冬の陣で」は、「郡山城の戦い」や「樫井の戦い」などの指揮を執ったがいずれも敗退した。1615年、「大坂夏の陣」後、羽柴国松とともに大坂城から落延びるが、松平元康勢に捕縛され斬頸に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大野治胤【おおのはるたね(15??~1615)】
大野定長の三男。別名「道犬斎」。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴家海賊衆5,000余りを率いて船倉を守備した。「野田、福島の戦い」で松平家海賊衆と戦い大敗した。その後、薄田兼相とともに「橙武者」と嘲られた。1615年、「大坂夏の陣」では、手勢を率いて堺を焼き討ちした。陣後、大坂城から落延びる途中、松平元康勢に捕縛され堺で火あぶりに処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大野治純【おおのはるずみ(15??~15??)】
大野定長の四男。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、羽柴秀吉と松平元康が和議を結ぶ際、人質として駿府城に送られ、そのまま松平元康に仕え2,000石を領した。1614年、「大坂夏の陣」では、松平元康の意向を受け、闇討ちを受け負傷した兄大野治長を大坂に見舞い、真田信繁、長宗我部盛親らの内応の噂を伝えた。羽柴秀頼の参陣が、淀殿の意向によって急遽取り止めになった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大藪国安【おおやぶくにやす(15??~16??)】
中村一氏家臣。通称新右衛門。1600年、「関ヶ原の役」では、大垣城を攻撃するため曽根城に参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
岡村椿之助【おかむらつばきのすけ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
小川下野守【おがわしもつけのかみ(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。羽柴秀長が大和国を領すると、大和国内で350,000を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小倉正能【おぐらまさよし(15??~16??)】
中村一氏家臣。小倉正勝の男。通称安右衛門。1600年、「関ヶ原の役」後、松平秀忠に仕え5,000石を領した。
小倉正次【おぐらまさつぐ(15??~16??)】
小倉正能の男。通称忠右衛門。室は冷泉為益の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、大垣城を攻撃するため、曽根城に参陣した。
落合安親【おちあいやすちか(15??~15??)】
落合勝正の男。上末城主。1584年、弟落合庄九郎とともに羽柴秀吉勢の先導役を務めた。
小野木重勝【おのぎしげかつ(1563~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は縫殿助。通称清次郎。別名小野木公郷。室は島清興の娘。黄母衣七人衆のひとり。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して、伊勢神戸城や山城淀城を守備した。1589年、石田三成らとともに美濃国の検地を務めた。1592年、「晋州城の戦い」に参陣した。1595年、丹波国福知山城40,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、大坂鰻谷町橋を守備した。但馬国や丹波国の諸将15,000余りを率いて細川藤孝が守る丹後田辺城を開城させた。石田三成勢が大敗すると、福知山城に撤退するが、細川忠興、木下延俊らに包囲され降伏した。井伊直政や前田茂勝を介して松平元康に助命を請うが、許されず自刃を命じられ、頸を晒された。内室の島清興の娘は、この知らせを聞き自害した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
------------------------------------------------------
【か】
垣見一直【かきみかずなお(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は和泉守。通称弥五郎。別名垣見家純。金切裂指物使番衆のひとり。1584年、「小牧、長久手の戦い」で大垣城普請役に任じられた。1589年、「小田原の役」に参陣した。「奥州仕置」では、羽柴秀吉が会津に赴いた際の普請奉行を務めた。1593年、大友義統が改易されると、豊後国富来城20,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、慰問使として渡海した。1597年、羽柴秀吉の意向を受け軍目付七人のひとりとして渡海した。1598年、「第一次蔚山の戦い」では、籠城して苦戦した加藤清正を救援した黒田長政、蜂須賀家政、軍目付では早川長政、竹中隆重、毛利高政らが協議して、戦闘後に戦線縮小論を羽柴秀吉に上申したが、逆にこれが叱責を受けた。それに反対した軍目付の垣見一直、福原長堯、熊谷直盛らは賞賛された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大垣城を守備していたが、石田三成勢が大敗すると、大垣城を守備をしていた相良頼房が家臣の犬童頼兄の策に従って松平元康勢に寝返り、秋月種長、高橋元種とともに熊谷直盛、木村由信、木村豊統らを謀殺した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
垣見理右衛門【かきみりえもん(15??~15??)】
垣見家純家臣。富来城代。1600年、「関ヶ原の役」では、黒田孝高勢の攻撃を受けたが、城主不在のなか富来城を守り抜いた。垣見家純が討死すると、垣見家臣団の黒田家仕官を条件に和議を結び開城した。垣見理右衛門は、黒田孝高には仕えず、筑前国青柳村で帰農した。
梯七太夫【かけはししちだいふ(15??~15??)】
小西行長家臣。1592年、「文禄の役」では、小西行長の意向を受け李氏朝鮮国内での鎮撫活動を行った。
神子田正治【かみこだまさはる(15??~1587)】
神子田肥前守の男。通称半左衛門。羽柴家四天王で黄母衣衆のひとり。1573年、羽柴秀吉に仕え近江国内で250貫文を領した。羽柴秀吉が織田信長の意向で中国方面総司令官に任命されると、「中国遠征」に参陣し、播磨国内で5,000石を領した。1582年、「本能寺の変」後も羽柴秀吉に従い、戦功を挙げ播磨国広瀬城12,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、日根野弘就らとともに二重堀砦を守備した。羽柴秀吉勢の主力が美濃国に撤退する際、日根野弘就、細川忠興、木村重茲、長谷川秀一らともに殿を努め、追撃を仕掛けてきた織田信雄勢と戦ったが、途中で戦線を離脱したため、責任を問われ所領を没収された。1587年、「九州征伐」に参陣して羽柴秀吉に帰参を願い出たが許されず自刃を命じられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
並河信吉【かわなみのぶよし(15??~15??)】
森高政家臣。
河村吉綱【かわむらよしつな(15??~15??)】
中村一氏家臣。通称兵右衛門。
河村秀久【かわむらひでひさ(15??~15??)】
河村吉綱の男。通称九郎右衛門。
木下家定【きのしたいえさだ(1543~1608)】
羽柴秀吉家臣。杉原定利の男。官途は肥後守。通称孫右衛門。室は杉原家次の娘(おあこ)。北政所の兄。1567年、「伊勢桑名城の戦い」に参陣した。1580年、「鳥取城の戦い」に参陣した。1587年、播磨国内で10,000石を領した。1595年、姫路城主に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、中立を保ち、妹の北政所の警護役を務めた。役後、備中国足守城2,5000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下勝俊【きのしたかつとし(1569~1649)】
木下家定の男。官途は式部大夫。室は森可成の娘(うめ)。羽柴秀吉に仕え、数少ない縁者として重用された。播磨国龍野城を領した。1589年、「小田原の役」に参陣した。後に若狭国後瀬山城80,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して鳥居元忠とともに伏見城の守備したが、石田三成勢に包囲される前に伏見城から退去した。それを知った内室のうめ(宝泉院)は木下勝俊の敵前逃亡に激怒し、離縁した。役後、その伏見城退去の責を問われて改易処分になった。1608年、父木下家定の病没すると、北政所の取成しにより、備中国足守城25,000石を安堵された。遺領を相続する予定だった弟木下利房が領国を得られなくなったため、再び木下勝俊は失領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下利房【きのしたとしふさ(1573~1637)】
木下家定の次男。官途は宮内少輔。室は織田信包の娘。羽柴秀吉に仕えて若狭国高浜城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、大聖寺城を攻撃した。役後、改易処分に処された。父木下家定の死後、兄木下勝俊と父の遺領、備中国足守城25,000石を巡って争った結果、木下勝俊も改易処分に処された。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げ、備中国足守城25,000石を回復した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下俊定【きのしたとしさだ(15??~1602)】
木下家定の三男。官途は信濃守。丹波国内で10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して「大津城の戦い」に参陣した。役後、改易処分に処された。その後は弟小早川秀秋に寄食して備前国内で5,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下延俊【きのしたのぶとし(1577~1642)】
木下家定の四男。通称右衛門大夫。室は細川藤孝の娘。羽柴秀吉に仕え500石を領した。父木下家定が城主を務める姫路城の城代を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、父木下家定の姫路城を守備した。家臣の一部が石田三成勢の属して「田辺城の戦い」に参陣したが、弟小早川秀秋の姫路城入城を拒んだ。石田三成勢が大敗すると、細川忠興とともに小野木重勝の福知山城を攻落し、役後豊後国日出城30,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。肥後国熊本城主加藤忠広が改易処分に処されると、稲葉一通とともに八代城の在番を務めた。1637年、「島原の乱」に参陣した。著書に『慶長日記』。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下弥右衛門【きのしたやえもん(15??~1543)】
羽柴秀吉の父。織田信秀家臣。足軽衆のひとり。戦で負傷したため、帰農した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村定重【きむらさだしげ(15??~1585)】
羽柴秀吉家臣。木村定成の男。官途は伊勢守。別名木村定詮。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、木村重茲とともに羽柴秀吉勢に属して、柴田勝家勢の降将山路正国の監視役を務めた。戦後、丹羽長秀が越前国に転封になると若狭国三方郡、遠敷郡内で佐柿城86,000石余りを領した。
木村重茲【きむらしげこれ(15??~1595)】
木村定重の男。官途は常陸介。通称隼人正。室は青木俊矩の娘(宮内卿局)。台子七人衆のひとり。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して、近江国堂木山砦の守将を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して戦功を挙げ、越前国府中城120,000石を領した。1585年、父木村定重の病没により家督を相続した。1587年、「九州征伐」に参戦した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢の先陣を務めた。「武蔵岩槻城の戦い」で戦功を挙げた。1590年、「奥州仕置」では、羽後国内の検地を担当した。1591年、「葛西大崎一揆」では、羽柴秀次勢に属して戦功を挙げた。以後、羽柴秀次の附家老となった。1592年、「文禄の役」では、3,500余りを率いて朝鮮に渡海した。山城国淀城180,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して自刃を命じられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村高成【きむらたかなり(15??~1615)】
木村重茲の男。官途は志摩守。1615年、「大坂夏の陣」後、捕縛され法花堂で自刃させられ梟頸にされた。娘も磔にかけられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村重成【きむらしげなり(15??~1615)】
木村重茲の次男。官途は長門守。室は真野頼包の娘。羽柴秀頼の信頼が厚く、羽柴秀頼の重要な会議などにも列席した。1614年、「大坂冬の陣」では、大野治長、渡辺糺らとともに開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追放した。後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る松平元康勢を撃退して戦功を挙げた。「真田丸の戦い」にも参陣した。和議の交渉では、羽柴秀頼の正使として松平秀忠の誓書を受けた。1615年、「大坂夏の陣」では、長宗我部盛親とともに八尾、若江方面に参陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には木村重成勢が展開した。「八尾、若江の戦い」では、藤堂高虎勢を撃破したが、井伊直孝勢の攻撃を受け壊滅、井伊直孝勢の安藤重勝に討取られた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村由信【きむらよしのぶ(15??~1600)】
木村重茲家臣。通称宗左衛門。別名木村重広。剣の達人。木村重茲の家老職を務め6,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して、木村重茲が自刃すると、羽柴秀吉に仕え美濃国北方城10,000石を領した。1598年、長束正家のもとで越前国の検地役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大垣城二の丸を守備した。石田三成勢が大敗すると、相良長毎、秋月種長、高橋元種らが内応、熊谷直盛、垣見一直、木村豊統らとともに謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村豊統【きむらとよむね(15??~1600)】
木村由信の男。通称伝蔵。1600年、「関ヶ原の役」では、父木村由信とともに石田三成勢に属して大垣城二の丸を守備した。石田三成勢が大敗すると、相良長毎、秋月種長、高橋元種らが内応、熊谷直盛、垣見一直、木村由信らとともに謀殺された。
木村金右衛門【きむらきんえもん(15??~15??)】
中村一氏家臣。
木村宗明【きむらむねあき(15??~15??)】
木村重成家臣。官途は主計頭。物頭を務め1,000石を領した。
草加五郎右衛門【くさかごろうえもん(15??~16??)】
木村重成家臣。1615年、「大坂夏の陣」後、池田輝政に仕えた。
宮内卿局【くないきょうのつぼね(15??~1615)】
青木俊矩の娘。羽柴秀頼の乳母。別名「右京太夫局」。木村重茲に嫁ぎ、木村重武、木村重成をもうけた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して夫木村重茲と嫡男木村重武が自刃した。宮内卿局は木村重成を連れ、近江国坂田郡馬渕村に落延びた。後に許され、羽柴秀頼の乳母となり、木村重成は羽柴秀頼の小姓となった。1615年、淀殿、羽柴秀頼に殉じて自害した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
熊谷直盛【くまがいなおもり(15??~1600)】
羽柴秀次家臣。通称内蔵介。室は石田正継の娘。後に羽柴秀吉に仕え豊後国安岐城18,000石と近江国塩津城17,000石を領した。1597年、「慶長の役」では、目付として朝鮮半島に渡り、全羅道、忠清道を転戦した。1598年、「慶長の役」後、加藤清正や黒田長政らの訴えにより、改易処分に処された。1600年、「関ヶ原の役」では、旧領安岐城に復帰、叔父熊谷外記を城代に任じ、継嗣熊谷勝兵衛とともに大垣城に籠城した。石田三成勢が大敗すると、相良頼房、秋月種長、高橋元種らが内応、垣見一直、木村由信、木村豊統らとともに謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
熊谷勝兵衛【くまがいかつべい(15??~1600)】
熊谷直盛の男。1600年、「関ヶ原の役」では、父熊谷直盛とともに大垣城に籠城するが、相良頼房、秋月種長、高橋元種らの内応により、熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統らとともに謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
熊谷外記【くまがいげき(15??~15??)】
熊谷直盛家臣。安岐城代を務めた。
桑原貞也【くわはらさだや(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称次右衛門尉。馬廻衆組頭を務めた。
小出秀政【こいでひでまさ(1540~1604)】
羽柴秀吉家臣。小出政重の男。官途は播磨守。通称甚左衛門。別名小出重政。室は栄松院(大政所の妹)。羽柴秀吉に仕え和泉国岸和田城30,000石を領した。1587年、羽柴秀吉が病没する直前、羽柴秀頼の補佐役に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、嫡男小出吉政とともに石田三成勢に属して細川藤孝の丹後国田辺城を攻撃した。役後、処罰を受けるところ、次男小出秀家が松平元康勢に属して戦功を挙げ、所領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小出吉政【こいでよしまさ(15??~15??)】
小出秀政の男。官途は信濃守。通称小才次。室は伊東治明の娘。1589年、「小田原の役」に参陣した。1593年、播磨国龍野城20,000石を領した。1595年、但馬国有子山城城主となった。1600年、「関ヶ原の役」では、父小出秀政とともに石田三成勢に属して、丹後国田辺城を攻撃した。弟小出秀家が松平元康勢に属して戦功を挙げたため、役後60,000石の所領を安堵された。1604年、小出秀政が病没すると、遺領である岸和田城に入っり、但馬国出石城には継嗣の小出吉英が入った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小出秀家【こいでひでいえ(1567~1603)】
小出秀政の次男。官途は遠江守。羽柴秀吉に仕え和泉国大鳥郡内で1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、父小出秀政の陣代として兵300余りを率いて松平元康勢に参陣した。小出秀政と兄小出吉政は、石田三成勢に参陣した。「関ヶ原の戦い」に戦功を挙げ、領国に帰還後、敗走中の長宗我部盛親勢を捕捉、撃破した。これらの戦功により、河内国錦部郡1,000石が加増され、石田三成勢に属した小出秀政と小出吉政も所領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小出三尹【こいでみつまさ(1589~1642)】
小出秀政の四男(小出秀家)。官途は大隅守。通称五郎助。室は生田宇庵の娘。羽柴秀頼に仕えた。1603年、兄小出秀家が病没したため、末期養子となって陶器小出家の家督を相続した。1604年、甥小出吉英から10,000石を分与されて諸侯となった。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属した。尾張国や遠江国で奉行職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
郡宗保【こうりむねやす(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。
小西行長【こにしゆきなが(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。小西隆佐の次男。宇喜多直家に仕えたが、後に羽柴秀吉に仕えた。た。1585年、「第二次紀州征伐」では、海賊衆を率いて雑賀海賊衆と戦った。1585年、小豆島10,000石を領した。1584年、高山友照の影響を受け切支丹となった。小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。1587年、「九州征伐」後、肥後国人一揆勢の鎮圧に戦功を挙げ、肥後国宇土、益城、八代の三郡200,000石を領した。1589年、「天草国人一揆」を加藤清正らとともに鎮圧して、天草10,000石も所領に加えた。1592年、「文禄の役」では、加藤清正とともに先陣を務め、「釜山城の戦い」、「釜山鎮の戦い」、「東莱城の戦い」、「尚州の戦い」、「忠州の戦い」、「漢城の戦い」、「大同江の戦い」などで李氏朝鮮勢を撃破した。「第二次平壌城の戦い」では、祖承訓が率いる明勢を撃退した。1593年、「第三次平壌城の戦い」では、明勢の李如松率いる40,000余りの攻撃を受け、漢城まで退却した。「碧蹄館の戦い」では、追撃した来た明勢を撃破した。明の代表沈惟敬との和議の交渉が始まると、石田三成と共謀し偽りの書状を作成して、使者の内藤如安を北京に送った。明は、羽柴秀吉を日本国王に封じるとともに金印を羽柴秀吉に送ったが、羽柴秀吉が求める内容と異なったため、和議の交渉は破たんした。1597年、「漆川梁の海戦」では、李氏朝鮮水軍を撃破した。「南原城の戦い」後、全羅道方面を制圧した。1598年、「順天倭城の戦い」では、明勢の包囲を受けるが島津義弘勢の支援により脱出することができた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢に属して、松平元康勢の田中吉政、筒井定次らと戦ったが、小早川秀秋らの内応で大谷吉継勢が壊滅すると、小西行長、宇喜多秀家勢も壊滅した。大坂城に落延びる途中、竹中重門の家臣伊藤源左衛門、山田杢之丞らに捕縛された。六条河原において石田三成、安国寺恵瓊とともに、市中引き回しの後、斬頸に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小西行景【こにしゆきかげ(1561~1600)】
小西隆佐の三男。通称隼人正。別名小西長元。小西行長が肥後国宇土城主となると宇土城代に任じられ5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、宇土城を守り、麦島城の小西行重、島津義久に援軍要請の使者を発し守り加藤清正勢と戦った。加藤清正ぼ家臣梶原助兵衛を海戦で討取る戦功を挙げた。加藤清正は宇土城の宣教師に小西行景を説得するよう書状を送るが、小西行景は石田三成勢が敗北まで城兵を見事に指揮し、その采配は高く評価された。加藤内匠、芳賀新伍が小西行長の書状を持って宇土に到着、石田三成勢の大敗を知ると、城兵の助命と引き替えに下河元宜の屋敷で自刃した。役後、加藤清正に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小西長統【こにしながむね(1565~1593)】
小西隆佐の四男。官途は主殿介。洗礼名「ペトロ」。小西行長が肥後国宇土城主となると隈庄城代に任じられた。1589年、天草五人衆の反乱では先陣を務め、家中最高の10,000石を領した。1592年、「梁山城の戦い」では、宗義智とともに梁山城を攻略する戦功を挙げた。1593年、「平壌城の戦い」では、明勢に敗戦して城外脱出する際、小西行長らを落とすために、数十名の手勢で殿を務め討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小西忠右衛門【こにしちゅざえもん(15??~15??)】
小西長統の男。
小西行重【こにしゆきしげ(15??~16??)】
小西行長家臣。官途は美作守。別名木戸作右衛門。洗礼名「ディエゴ」。小西三家老のひとり。肥後国古麓城代を務め2,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、薩摩国に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小西長貞【こにしながさだ(15??~1600)】
小西行長家臣。官途は若狭守。名護屋城普請の作事奉行を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、麦島城から宇土城への援軍を率いて向かう途中、加藤清正勢と戦い敗走した。後に自刃した。
小早川左兵衛【こばやかわさへい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
駒木根友房【こまぎねともふさ(15??~1638)】
小西行長家臣。通称八兵衛。射撃に優れ、糸に吊した針を鉄炮で打ち抜くことから「懸針金作」と称された。1600年、「関ヶ原の役」後、小西行長が自刃すると、猟師となった。1637年、「島原の乱」では一揆勢に属して参陣した。板倉重昌を討取る戦功を挙げたが、原城落城の際に討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
------------------------------------------------------
【さ】
佐治日向守【さじひゅうがのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。尾張国の農夫だったが羽柴秀吉の妹朝日姫を内室としていたため、羽柴秀吉に仕え、佐治家の名目を継いで佐治日向守と称した。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、羽柴秀吉が松平元康と和議を結ぶため、妹朝日姫と佐治日向守を離縁させ、朝日姫を松平元康に嫁がせた。その後自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
篠原重之【しのはらしげゆき(15??~16??)】
木村重茲の四男。優秀で勇敢。1615年、「大坂夏の陣」後、九州に落延びた。九州を転々と移り住み、肥後国海東郷に居を定めた。残党狩りを逃れるため、姓を木村から篠原に改めた。1637年、「島原の乱」に参陣した。
嶋津又助【しまつまたすけ(15??~16??)】
小西行長家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、宇土城に籠城した。
志村資良【しむらすけよし(1561~1600)】
中村一氏家臣。志村資則の男。通称加兵衛。室は中村一氏の姪。近江国新村城主。1571年、織田信長勢の攻撃を受け落城、中村一氏を頼って落延びた。中村一氏の推挙で松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げ近江国蒲生郡内で500石を領した。参考資料:「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」。
白井龍伯【しらいりゅうはく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。軍配者を務めた。1611年、松平元康と羽柴秀頼の二条城会見の際、不慮の事態を心配した淀殿は龍伯に吉凶を占わせた。七日間の精進潔斎をして香を焚き、煙気を三度見た。結果、三度とも大凶であった。これを片桐且元に伝えると、片桐且元は龍伯に結果を吉と偽るよう命じた。羽柴秀頼が会見に応じなければ大坂で合戦が起こると危惧したためだ。龍伯がこれを拒むと、責任は自分が負うとして偽の結果を書かせた。淀殿は吉という結果を喜び、二条城会見に応じた。羽柴秀頼が無事に帰城すると、淀殿は白井龍伯に白銀百枚などの褒美を与えた。
白江成定【しらえなりさだ(15??~1595)】
羽柴秀次家臣。官途は備後守。通称権太夫。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、水野勝成勢と戦い敗走した。羽柴秀次が関白に就任すると60,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」では、謀反の嫌疑がかかると弁明に奔走したが叶わず、羽柴秀次は高野山に追放され自刃を命じられた。白江成定は、四条の大雲院に事情を説明、自刃した。内室は白江成定の自刃の後、「心をも染めし衣のつまなればおなじはちすの上にならばん」と辞世の句を残し四条道場で後を追って自刃した。
杉浦七郎左衛門【すぎうらしちろうざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1582年、荒木平太夫とともに備中国冠山城代を務めた。
杉原家利【すぎはらいえとし(1530~1584)】
杉原隆盛の男。羽柴秀吉家臣。
杉原隆利【すぎはらたかとし(15??~15??)】
杉原隆盛の次男。通称孫七郎。
杉原定利【すぎはらさだとし(15??~1593)】
杉原隆利の男(杉原家利の養子)。通称助左衛門。別名木下定利。室は杉原家利の娘(朝日姫)。北政所の父。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
杉原家次【すぎはらいえつぐ(1531~1584)】
杉原家利の次男。通称七郎左衛門。別名杉原家継。羽柴秀吉の家老職を務めた。1572年、近江国長浜城の留守居役を一柳直次、木下昌利らと務めた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉勢が撤退する際は殿を務め、播磨国姫路城の留守居役を務めた。1582年、「山崎の戦い」後、丹波国福知山城主に任じられた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、32,000石を領して、京都所司代に任じられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
杉原長房【すぎはらながふさ(1574~1629)】
杉原家次の男。官途は伯耆守。通称弥兵衛。室は浅野長政の娘。1584年、父杉原家次の病没より杉原家の家督を相続して、近江国坂本城主となった。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に在陣した。1596年、羽柴秀吉の意向により坂本城から豊後国木付城へ転封した。1598年、但馬国豊岡城へ転封された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。役後、内室が浅野長政の娘であり、北政所の従兄弟にも当たるという縁戚関係から戦後は所領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
杉若無心【すぎわか むしん15??~16??)】
羽柴秀長家臣。官途は越後守。通称藤七。越前国の出身。1585年、「第二次紀州征伐」では、羽柴秀長勢に属して湯河直春勢の芳養泊城を攻落した。戦後は紀伊国田辺の領主となり、泊山城を居城に城下町の整備を行った。家督を杉若氏宗に譲った。羽柴秀保が病没すると、羽柴秀吉に仕え19,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、杉若氏宗の舟手組頭として兵650余りを率いた。1600年、「関ヶ原の役」では、杉若氏宗とともに石田三成勢に属して、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
杉若氏宗【すぎわかうじむね(15??~15??)】
杉若無心の男。主殿頭。通称伝三郎。紀伊国田辺城19,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、父杉若無心、堀内氏善らとともに海賊衆を率いて参陣した。1597年、「慶長の役」では、桑山一晴、桑山貞晴とともに加徳倭城の城番を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、杉若無心とともに石田三成勢に属して大坂玉造口を守備した。「大津城の戦い」に参陣するが、石田三成勢が敗退すると、松平元康勢に降伏した。「紀伊新宮城の戦い」では、松平元康勢に属して参陣するも役後、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
仙石秀久【せんごくひでひさ(1551~1614)】
仙石久盛の四男(荻原国満の養子)。官途は越前守。通称権兵衛。室は野々村幸成の娘。側室は竹村新兵衛の娘。荻原国満の養子となるが、斎藤義興が織田信長に敗れると、兄仙石久勝に仙石家の家督を譲られ、織田信長勢に属した。1564年、羽柴秀吉の寄騎衆として畿内各地を転戦した。1570年、「姉川の戦い」に参陣して、浅井長政勢の山崎新平を討取る戦功を挙げ、近江国野洲郡内で1,000石を領した。1579年、茶臼山城を領して、赤松峠を越える播磨街道の警護を務めた。1581年、黒田孝高らと淡路国岩屋城、由良城を攻略した。1582年、「山崎の戦い」後、淡路国内の明智光秀勢の豪族衆を討伐する戦功を挙げた。1583年、羽柴秀勝とともに淡路国に赴き長宗我部元親勢に備えた。菅達長を打ち破り小豆島を攻略した。「讃岐喜岡城の戦い」では、高松頼邑の反撃を受け引田城に撤退した。1583年、長宗我部元親勢の香川信景の攻撃を受け引田城が落城したため、淡路国に撤退した。淡路国洲本城50,000石を領した。石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の淡路海賊衆を統括した。1585年、「第二次紀州征伐」で戦功を挙げた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」後、十河存保領(20,000石)を除く讃岐国を領した。1587年、「九州征伐」では、十河存保、長宗我部元親、長宗我部信親らとともに先陣として派遣された。「戸次川の戦い」で島津家久勢の伏兵に遭い大敗、十河存保、長宗我部信親ら多くの将兵を失った。責任を問われ、所領没収の上で高野山追放の処分を受けた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
千束善右衛門【せんぞくぜんざえもん(15??~1637)】
小西行長家臣。供頭を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、小西行長の意向を受け、有馬晴信、大村喜前、松浦鎮信ら九州諸侯に石田三成勢への参陣を要請する使者を務めたが、失敗した。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の侍大将を務めた。
----------------------------
【た】
高木盛兼【たかぎもりかね(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称十郎左衛門。別名高木守之。1587年、「九州征伐」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、美濃国海西郡高須城10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して高須城に籠城した。松平元康勢の徳永寿昌の経略に嵌り、津屋城主高木正家のもとに退却した。津屋城とともに高木正家とともに松平元康勢と戦うが敗れ、大垣城に退却した。役後、改易処分に処され、堀尾吉晴の食将となった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
高田治忠【たかだはるただ(15??~16??)】
羽柴秀勝家臣。官途は豊後守。近江国の出身。1582年、「山崎の戦い」に参陣した。1585年、羽柴秀勝が病没後、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」に参陣した。丹波国何鹿郡上林城10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大坂高麗橋を守備した。「田辺城の戦い」に参陣した。役後、改易処分に処された。
多賀秀種【たがひでたね(15??~16??)】
羽柴秀長家臣。堀秀重の次男(多賀貞能の養子)。室は多賀貞能の娘。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢に属して改易処分になり、兄堀秀政に仕え佐和山城代を務め8,000石を領した。堀秀政の病没後、羽柴秀長に仕えた。「小牧、長久手の戦い」、「小田原の役」、「文禄、慶長の役」などに参陣した。大和国神楽岡城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣した。役後、改易処分に処された。甥堀秀治に仕えた。1610年、堀忠俊の代に堀家も改易され、再び浪人となった。1615年、「大坂夏の陣」では、前田利常勢に属して戦功を挙げ6,000石を領した。
多賀文蔵【たがぶんぞう(15??~1580)】
羽柴秀吉家臣。黄幌衆のひとり。1580年、「鳥取城の戦い」に参陣した。侍大将として吉岡定勝の拠る防己尾城を攻撃するが討死した。
高松憲重【たかまつのりしげ(15??~15??)】
小西行長家臣。讃岐国高松の出身。10,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、先陣を務め戦功を挙げた。
瀧重時【たきしげとき(15??~15??)】
小西行長家臣。通称七右衛門。1592年、「文禄の役」では、島津義久との取次役を務めた。
竹内吉兵衛【たけうちきちべい(15??~15??)】
小西行長家臣。洗礼名「アンブロジオ」。1585年、「第二次紀州征伐」で戦功を挙げた。朝鮮半島に参陣していた小西行重に代わり麦島城代を務めた。
竹田兵衛【たけだへいえい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
竹田五兵衛【たけだごへい(15??~15??)】
小西行長家臣。洗礼名「シモン」。1600年、「関ヶ原の役」で小西行長が斬頸に処されると、加藤清正に仕えた。1603年、切支丹禁制に違反したとして加藤清正勢に捕縛された、処刑された。
竹ノ内吉兵衛【たけのうちきちべい(15??~15??)】
小西行長家臣。1600年、「宇土城の戦い」では、籠城して日比左近、植木菖蒲之助らとともに塩田口を守備した。
垂井昌次【たるいまさつぐ(15??~15??)】
中村一氏家臣。
垂井延正【たるいのぶまさ(15??~1609)】
中村一忠家臣。通称勧解由。中村一忠の小姓を務めた。1609年、中村一忠が病没すると殉死した。
竹阿弥【ちくあみ(15??~15??)】
羽柴秀吉の母(なか)の継夫。実子羽柴秀吉、朝日姫。前妻が病没したため、なかと再婚した。1551年、竹阿弥と馬が合わなかった羽柴秀吉は、家を飛び出した。竹阿弥の晩年の詳細は不明。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
立木直治【ついきただはる(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称久左衛門。尾張国丹羽郡高屋郷の出身。1569年、羽柴秀吉が伊勢国参陣する際に寄騎衆として付属された。1572年、羽柴秀吉の意向により杉原家次、一柳直末らとともに旧浅井長政領三郡の検地を行い122,300石と算出した。
寺沢広政【てらざわひろたか(1525~1596)】
羽柴秀吉家臣。寺沢広政の男。官途は志摩守。通称藤右衛門。洗礼名「アゴスティニョ」。室は妻木貞徳の娘。父寺沢広政とともに羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城の普請を務め、諸将や九州諸侯への取次役を務めた。1594年、切支丹に改宗した。1597年、日本二十六聖人処刑を契機に棄教した。朝鮮半島に渡海した羽柴秀吉勢の補給や兵力輸送の任を務めた。小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、役後天草40,000石を加増された。唐津城123,000石を領した。唐津や天草の豪族を弾圧したが、唐津は安定し繁栄した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺沢忠晴【てらざわただはる(1600~1622)】
寺沢広高の男。官途は式部少輔。1620年、松平秀忠に謁見したが、家督を継ぐことなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺沢堅高【てらざわかたたか(1609~1647)】
寺沢広高の次男。官途は兵庫頭。室は岡部長盛の娘。継室:相馬利胤の娘。1622年、兄寺沢忠晴が早世したので継嗣となった。1633年、父寺沢広高の病没により寺沢家の家督を相続した。天草地方の切支丹を弾圧を厳しくした。1637年、「島原の乱」では、江戸から帰国して西国諸侯とともに乱の鎮圧にあたった。乱の終結後は失政の責を問われ、天草領40,000石を収公された。1647年、江戸の海禅寺で自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺田光吉【てらだみつよし(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。官途は播磨守。大和国内で15,000石を領した。1594年、羽柴秀保が病没すると、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。「伏見城の戦い」に参陣した。役後、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺西直次【てらにしなおつぐ(1557~1649)】
羽柴秀吉家臣。官途は備中守。通称勝兵衛。別名寺西定時。美濃国本巣郡本田城10,000石を領して、羽柴秀吉の蔵入地近江国長浜城100,000石の代官職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して関東の地にあったが、石田三成の挙兵を聞くと、松平元康に断りを入、氏家行広とともに桑名城に戻り籠城した。石田三成勢の大敗後、山岡景友、九鬼守隆らの攻撃を受け降伏した。後に前田利長に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺西新五郎【てらにししんごろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。寺西正勝の男。摂津国内で5,400石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、弟寺西是成勢に属した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺西是成【てらにしこれなり(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。寺西正勝の次男。別名寺西清行。伊勢国内で10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、北国口を守備した。前田利長に備えるため、兵500余りを率いて、丹羽長重の加賀国小松城に籠城した。石田三成勢が大敗すると逐電した。後に丹羽長重に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
戸倉織部【とくらおりべ(15??~15??)】
森高政家臣。
戸田勝隆【とだかつたか(15??~1594)】
羽柴秀吉家臣。官途は民部少輔。通称三郎四郎。羽柴家四天王のひとり。1573年、黄母衣衆として近江国長浜で250貫文を領した。1577年、羽柴秀吉が播磨姫路城主となると、5,000石に加増された。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して戦功を挙げた。戸田勝隆は、近江国内の検地奉行や、城割奉行なども務め、後には切支丹禁教令による教会の長崎の土地の没収を命じた書状にも浅野長政ともに連署した。千利休や津田宗及主催の茶会にも参列した。1585年、「四国討伐(天正の陣)」後、伊予国大洲城70,000石を領した。1588年、戸田勝隆の伊予支配は民衆の反撥を買い、圧政に対して大一揆が起こった。一揆勢は黒瀬城、丸串城を襲ったが、劣勢にたたされた、戸田勝隆は土居清良の支援を受け鎮圧したが、西園寺公広が一揆勢の首謀者と疑いこれを謀殺した。以後領内の諸将に人質を出させ、不穏な動きのあるものは謀殺した。寺社領は没収され、建物は破却され、貢物を収めさせるなど、苛政は極めた。織田信長の旧臣安見右近を3,000石、伊予国人衆の法華津前延は200石、喜多郡の豪族衆曾根宣高の嫡男曾根高房を300石を登用した。土居清良の登用も図ったが、失敗に終わった。1589年、「小田原の役」では、1,700余り軍役を負担した。1592年、「文禄の役」では、3,900を率いて朝鮮へ渡海。尚州の守備についた。「第二次晋州城の戦い」では、兵2,500を率いて参陣した。「巨済島海戦」では、福島正則とともに戦功を挙げた。巨済島に滞留して講和交渉に当たるが、在陣中に病没した。
戸田駿河守【とだするがのかみ(15??~1588)】
戸田勝隆家臣。1588年、戸田勝隆が西園寺公広を謀殺した際に討死した。
戸田信種【とだのぶたね(15??~15??)】
戸田勝隆家臣。通称左衛門。
富田知信【とみたとものぶ(15??~1599)】
羽柴秀吉家臣。富田助知の男。官途は左近将監。通称平右衛門尉。別名富田一白。室は黒田久綱の娘。秀次自刃後、秀吉は前田利家に起請文を提出させた。一白は増田長盛、長束正家、石田三成、前田玄以、宮部継潤とともに起請文を宛てられている。織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。以後、羽柴秀吉の外交使節として功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、松平元康、織田信雄との和議の使者を務め、後に羽柴秀吉の妹朝日姫と松平元康の婚儀をまとめた。1589年、「小田原の役」では、北条氏直への使者を務めた。その後、伊達政宗との取次役を務めた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1595年、「羽柴秀次事件」後、浅野長政が蟄居すると、五奉行の職務を代行した。1595年、伊勢国安濃津城30,000石、継嗣の富田信高が20,000石の計50,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
富田信高【とみたのぶたか(15??~1633)】
富田知信。室は宇喜多安信の娘。継室は宇喜多忠家の娘。1595年、父富田知信が伊勢国安濃津城30,000石を領すると、別家を立て20,000石を領した。1599年、富田知信が病死したため、遺領30,000石を併せて安濃津城主となった。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して兵500余りと下野国小山にあったが、伊勢国上野城主分部光嘉とともに伊勢国に帰国、松坂城主古田重勝の兵500余りを加え、1,700余りで安濃津城に籠城して石田三成勢(毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂ら)30,000余りを迎え撃った。分部光嘉は毛利輝元家臣の宍戸元次と双方重傷を負うほど奮闘し、富田信高も自ら槍を振るって戦ったが、群がる敵兵に囲まれたところへ、若武者(富田信高の内室)が救援に駆けつけ、富田信高の命を救った。富田信高勢は善戦したが衆寡敵せず、木食応其が仲介により和議が結ばれ、富田信高は剃髪して高野山にのぼった。役後、戦功を認められ、旧領の安堵のほか伊勢国内で20,000石の加増を受けた。1608年、伊予国宇和島城101,900石に転封された。1613年、坂崎直盛との間で争いが生じて、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
富田高定【とみたたかさだ(15??~1600)】
富田知信の次男。羽柴秀次家臣。通称蔵人。若江八人衆のひとり。羽柴秀次が三好康長の養子と入る際、羽柴秀次の近侍として仕えた。1590年、伊勢国内で2,292石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」では、追い腹を行おうとするが咎められ、京都西山に幽閉された。前田利家に仕え10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、前田利長勢の侍大将として参陣した。「加賀大聖寺城の戦い」で討死した。
豊田元勝【とよたもとかつ(15??~15??)】
森高政家臣。
------------------------------------------------------
【な】
内藤長秋【ないとうながあき(15??~15??)】
木村重成家臣。別名内藤新十郎。番頭を務め3,000石を領した。母は饗庭局。
中井平右衛門尉【なかいへいえもんのじょう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆組頭を務めた。
中江直澄【なかえなおずみ(15??~16??)】
羽柴秀吉家臣。官途は式部少輔。馬廻衆のひとり。1589年、「忍城の戦い」では、石田三成勢に属して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に在陣し、東二の丸御後備衆、本丸裏表御門番衆を務め10,000石を領した。1598年、「醍醐の花見」では警護役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、川口宗勝と大坂城から松平元康に従うために出陣したが、増田長盛、長束正家に留められ、心ならずも石田三成勢に属した。「安濃津城の戦い」などに参陣したため、役後所領を没収され、川口宗勝とともに伊達政宗に預けられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
中嶋氏種【なかじまうじたね(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。黄幌衆で羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。
中西弥五作【なかにしよごさく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称掃部助。1578年、「三木城の戦い」で築かれた附城を守備した。
中村一氏【なかむらかずうじ(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。中村一政の男。官途は式部少輔。通称孫平次。室は池田恒興の娘(安養院)。1573年、近江国長浜内200石を領した。1582年、「山崎の戦い」に参陣して鉄炮隊を率いて戦功を挙げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣し戦功を挙げ、和泉国岸和田城30,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、岸和田城を守備した。紀州勢の猛攻を受けたが寡兵ながら撃退した。1585年、近江国水口岡山城60,000石を領した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀次勢の先陣を務め、松田康長が守る山中城を攻落した。1591年、松平元康が関東に転封になると、駿河国駿府城140,000石を領した。1598年、三中老に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが、まもなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
中村一忠【なかむらかずただ(1590~1609)】
中村一氏の男。官途は伯耆守。室は松平康元の娘(松平元康の養女)。1600年、「関ヶ原の役」では、父中村一氏が病没したため、筆頭家老職の横田村詮の補佐を受け、松平元康勢に属した。役後、伯耆国米子城175,000石を領した。横田村詮は、幼年の中村一忠に代り中村家の家政を取り仕切った。これに反対する安井清一郎、天野宗杷らが、中村一忠を巻き込み横田村詮を謀殺した。横田村詮の嫡男横田主馬助、柳生宗章ら屋敷に籠城したが、堀尾吉晴の支援を受け鎮圧した。これを受け、松平元康は、首謀者の安井清一郎、天野宗杷らと側近の道上長兵衛、道上長衛門に自刃を命じたが、中村一忠は処分を受けなかった。1609年、急逝した。小姓の服部邦友、垂井延正が殉死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
中村一栄【なかむらかずしげ(15??~1604)】
中村一政の次男。通称彦右衛門。1590年、兄中村一氏が駿河国駿府城を領すると、沼津三枚橋城主に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが、病床にあった中村一氏の陣代を務めた。中村一栄は、桂市兵衛、織田四郎左エ門、鈴木勝元らと犬山城を攻め開城させた。「杭瀬川の戦い」では、石田三成の家臣島清興勢の罠にはまり、有馬豊氏とともに撃破され、野一色助義ら30余りが討取られた。「関ヶ原の戦い」では、南宮山に拠る毛利秀元を抑えとして、甥の中村一忠とともに垂井を守備した。役後、中村一忠が伯耆国米子城175,000石を領すると、八橋城30,000石を領した。家老職筆頭の横田村詮とともに中村一忠の後見役を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
中村栄忠【なかむらしげただ(15??~15??)】
中村一栄の男。官途は伊豆守。1605年、父中村一栄の菩提寺として大岳院を創建した。
西名兵部【にしなひょうぶ(15??~15??)】
森高政家臣。
沼隼人【ぬまはやと(15??~15??)】
森高政家臣。
野一色助義【のいっしきすけよし(1548~1600)】
中村一氏家臣。野一色行久の男。通称頼母。室は黒川盛治の娘。近江国坂田郡出身。家老職として8,000石を領した。1600年、「杭瀬川の戦い」では、中村一栄に従い島清興勢と戦い。敵を追撃しようと橋を渡ったところで伏兵に遭い、猛攻を受けた。騎馬で手強く奮戦するも深田に足をとられ宇喜多秀家の家臣浅賀三左衛門に討取られた。家臣の奮戦により、頸は奪われなかった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野一色助重【のいっしきすけしげ(1589~1615)】
野一色助義の次男。1612年、松平秀忠に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」では、青山忠俊勢に属した。「道明寺の戦い」で討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野一色義重【のいっしきすけしげ(15??~1654)】
野一色助義の三男。室は中川時宗の娘。松平忠輝に仕えた。1615年、「道明寺の戦い」で兄野一色助重助重が討死したため、松平秀忠から近江国蒲生郡内2,000石の馬廻衆として取立てられ、西城書院番を務めた。1636年、一柳直盛が伊予国西条城に転封した際、城引渡役の任を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野々村雅春【ののむらまさはる(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。
----------------------------
【は】
芳賀新五【はがしんご(15??~15??)】
小西行長家臣。1600年、加藤内匠とともに宇土城に入り、石田三成勢の敗北と小西行長の自刃を城兵に伝えた。
羽柴秀吉【はしばひでよし(1536~1598)】
織田信長家臣。木下弥右衛門の男。官途は筑前守。通称藤吉郎。別名豊臣秀吉。室は杉原定利の娘(禰々)。尾張国愛知郡中村出身。頭陀寺城主松下之綱に仕えたが、まもなく退去した。1554年、織田信長に足軽衆として仕えた。1561年、浅野長勝の養女で杉原定利の娘禰々と婚姻した。美濃国の斎藤龍興との戦いで、川並衆の蜂須賀正勝、前野長康、竹中重治、牧村利貞、丸毛兼利らとともに墨俣城を築城した。1568年、「観音寺城の戦い」で戦功を挙げた。明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。1570年、「第一次越前討伐」の撤退戦で戦功を挙げた。1573年、朝倉義景、浅井長政が滅亡すると、長浜城主に任じられた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討取られると、「山崎の戦い」で明智光秀を討取り、織田家で最大の戦功を挙げた。織田信忠の遺児織田信秀をを擁立して、柴田勝家を破り織田家内部で勢力争いに勝ち、織田信長の後継の地位を得た。関白、太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。1592年、「文禄の役」では、明の征服を図り朝鮮半島に出兵するが失敗した。1597年、「慶長の役」の最中、継嗣の羽柴秀頼を松平元康ら五大老に託して病没した。参考文献:コトバンク「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」。
羽柴秀長【はしばひでなが(1540~1591)】
羽柴秀吉家臣。竹阿弥の男。官途は美濃守。通称小一郎。別名豊臣秀長。室は智雲院。出陣中の羽柴秀吉に留守居役を務めることが多かった。1573年、羽柴秀吉が浅井長政の旧領を治め、長浜城主に任じられると城代を務めた。城代時代には藤堂高虎を登用した。羽柴秀吉が織田信長から「中国方面軍司令官」に任じられると、山陰道及び但馬国平定の指揮官に任じられた。1578年、別所長治が謀反を起こすと、羽柴秀吉とともに播磨国を転戦した。1579年、淡河城を攻撃するが、淡河定範の反撃により敗退したが、淡河定範が淡河城を焼いて撤退したため、三木城への補給路を断つことに成功した。1580年、三木城を攻落し、但馬国出石城、有子山城の山名祐豊を滅ぼし、出石城主となった。1581年、「鳥取城の戦い」で吉川経家を自刃させた。1582年、「備中高松城の戦い」では、水攻めを行い、城主清水宗治を自刃に追い込んだ。「本能寺の変」で織田信長が討死すると、毛利輝元と和議を結んで畿内に引き返し「山崎の戦い」で明智光秀勢を撃破した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、播磨国、但馬国の二ヶ国を領して姫路城主となった。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉の名代として和議の交渉を行った。1585年、「第二次紀州征伐」では、羽柴秀次とともに副将を務めた。この戦功により紀伊国、和泉国640,000石を領した。「四国討伐(天正の陣)」では、羽柴秀吉の陣代を務め、長宗我部元親を降伏に追い込んだ。戦後、大和国を加増され1,000,000石を領した。1587年、「九州征伐」では、日向国方面の総大将として島津義弘勢を降した。1591年、大和郡山城内で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴秀次【はしばひでつぐ(1568~1595)】
木下弥助の男(羽柴秀吉の養子)。官途は中納言。通称次兵衛尉。別名豊臣秀次。室は池田恒興の娘(若御前)。1571年、浅井長政から織田信長勢に寝返った宮部継潤へ養子(人質)に出された。1579年、織田信長勢に属した三好康長に父の木下弥助ともに養子に出された。三好吉房、羽柴秀次は三好孫七郎信吉と称した。1581年、「四国討伐」では、養父三好康長とともに先陣として阿波国に参陣した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、四国で孤立して堺に落延びた。1588年、後陽成天皇の行幸では叔父羽柴秀長、松平元康ら武家の公卿とともに天皇の行列に供奉しました。1591年、羽柴秀吉が、弟の羽柴秀長、実子鶴丸を失いうと、関白の座と聚楽第を羽柴秀次に譲った。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に在城した羽柴秀吉の代わりに、朝廷との取次役を務めた。1593年、羽柴秀吉の継嗣羽秀頼が生まれたことで、羽柴秀次の立場が微妙なものとなった。1595年、「羽柴秀次事件」で謀反の疑いで高野山で自刃させました。羽柴秀次の自刃後、聚楽第の破却した。羽柴秀次の子供と妻妾とその侍女三十四名は三条河原で処刑された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴秀勝【はしばひでかつ(1569~1592)】
木下弥助の次男(羽柴秀吉の養子)。官途は左近衛権少将。室は浅井長政の娘(於江)。1587年、「九州征伐」では、十一番隊5,000余りを率いて参陣した。「豊前岩石城の戦い」では、蒲生氏郷、前田利長らとともに岩石城を攻落した。戦後の論功行賞で、丹波国亀山城100,000石の加増では不足であると訴えたため、羽柴秀吉の怒りを買い所領を没収された。1589年、「小田原の役」後、松平元康が関東に転封になると、甲斐国24,000石を領した。1591年、美濃国岐阜城へと転封となり、甲斐国は加藤光泰が領した。1592年、「文禄の役」では、兵8,000余りを率いて、九番隊の大将として参陣した。細川忠興らを率いて、巨済島に渡ったが病を発して、病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴秀保【はしばひでやす(1579~1595)】
木下弥助の三男(羽柴秀長の養子)。官途は中納言。別名豊臣秀保。室は羽柴秀長の娘(おきく)。1591年、継嗣のない叔父羽柴秀長の娘と祝言をあげ、婿養子となった。羽柴秀長が病没後、大和羽柴家の家督を相続した。藤堂高虎と桑山重晴が羽柴秀保の後見役を務め、大和国、紀伊国二ヶ国を領した。1592年、「文禄の役」では、兵150,000余りを率いて肥前国名護屋城に参陣した。堀内氏善、藤堂高虎、桑山元晴、桑山一晴、杉若氏宗、杉若無心らは渡海して海賊衆として戦った。本多俊政は壱岐勝本城に兵500を率いて在番し、兵站物資の海上輸送と島内の治安維持を担当した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴鶴松【はしばつるまつ(1589~1591)】
羽柴秀吉の次男。通称八幡太郎。長寿を祈って「棄(捨)」と名付けた。傅役には、老臣の石川光重が任じられた。生後30日の祝には、禁中より産衣など祝儀の品々を賜り、公家や家臣、町人に至るまで、様々な祝賀、進物を受けた。羽柴秀吉は鶴松を後継者とするため、淀殿とともに大坂城に迎え入れた。出立に際して後陽成天皇が祝賀として太刀を贈り、公家や群臣も再び祝賀の品々を贈ったが、鶴松は輿に乗せられ、絢爛豪華な大行列を従えて淀城から大坂城へと行進して入城した。1589年、「小田原の役」後、病を得て病気がちになった。1591年、鶴松は病を得ると、羽柴秀吉は全国の神社仏閣に病気平癒の祈祷を命じ、再び春日神社に300石の寄進がされて祈祷が行われたが、まもなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴秀頼【はしばひでより(1593~1615)】
羽柴秀吉の三男。官途は近衛権中将。別名豊臣秀頼。室は松平秀忠の娘(千姫)。羽柴秀吉の晩年の継嗣。1591年、継嗣であった鶴松を失った羽柴秀吉は、羽柴秀次を養子に迎え関白に任じて自らの後継者とした。1596年、羽柴秀吉は、御掟、御掟追加などの基本法や五大老、五奉行などの職制を導入して羽柴秀頼を補佐する体制を整えた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、羽柴家の家督を相続して大坂城に移った。1600年、「関ヶ原の役」では、馬廻衆の一部を石田三成勢に参陣させた。役後、松平元康は、羽柴秀吉が全国の諸侯領に設置されていた1,550,000石余りを没収、摂津国、河内国、和泉国の直轄領650,000石の諸侯に没落した。1611年、「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正、浅野幸長の警護のもと、京都二条城で松平元康との会見を行った。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢は福島正則、加藤嘉明など諸侯に檄を飛ばしたが、羽柴秀頼勢に参陣したのは、真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登らなど浪人衆にとどまった。軍議は浪人衆と大野治長や淀殿らが対立し、最後まで相違は解けなかった。局地戦ではいくつかの勝利を掴んだが、最終的には松平元康勢との間で和議が結ばれた。1615年、「大坂夏の陣」では、「大和郡山城の戦い」、「八尾、若江の戦い」、「道明寺で戦い」、などので勝利を得るが、木村重成、後藤基次が討死に、撤退を余儀なくされた。「樫井の戦い」では、大野治房、塙直之勢が浅野長晟に敗れた。「天王寺、岡山の戦い」では、真田信繁勢が松平元康の本陣に突撃をするが、力尽き討死した。他の羽柴秀頼勢の諸将も次々に敗れ大坂城に撤退した。大野治長は千姫の身柄と引き換えに羽柴秀頼の助命を嘆願したが受け入れられず、淀殿や大野治長らとともに自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴国松【はしばくにまつ(1608~1615)】
羽柴秀頼の男(砥石屋弥左衛門の養子)。正室の千姫を憚って、砥石屋弥左衛門に養子に出された。1614年、「大坂冬の陣」では、常高院とともに大坂城に入城し、父羽柴秀頼と対面した。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼とに盃を交わし、田中六郎左衛門、乳母とともに城を落延びた。しかし、松平元康勢の捜索により京都所司代板倉勝重に捕縛され、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親とともに斬頸に処された。田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら殉死を志願して処刑された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴奈阿姫【はしばなあひめ(1609~1645)】
羽柴秀頼の娘。側室小石の方(成田助直の娘)。別名「天秀尼」。兄羽柴国松とは異腹。正室である千姫とは義理の親子関係だったが、仲がよかったとされる。成田甲斐姫が養育役を務めた。1615年、「大坂夏の陣」後、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために助命され、相模国鎌倉の東慶寺で出家した。1643年、会津若松城主加藤明成と家老職の堀主水が仲違いして堀主水が謀殺された際、、東慶寺に堀主水の妻子を匿った。加藤明成は妻子の引渡しを要求するが、天秀尼は男子禁制、女性保護を楯に断り、松平家光にその旨を訴えた。加藤明成は改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
長谷川式部大輔【はせがわしきびだいゆ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。小姓頭を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。
服部邦友【はっとりくにとも(15??~1609)】
中村一忠家臣。官途は若狭守。中村一忠の小姓を務めた。1609年、中村一忠が病没すると殉死した。
羽田正親【はねだまさちか(15??~1595)】
羽柴秀長家臣。近江国の出身。羽柴秀長が大和国を領すると48,000石を領した。戦でも内政でも活躍した。羽柴秀長の病没後、羽柴秀次に仕えたため、連座の罪を問われ死罪となった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
早川長政【はやかわながまさ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。早川幸憲の男。官途は主馬頭。通称喜八郎。別名武田長敏。馬廻衆を務め、「小牧、長久手の戦い」、「四国討伐」、「九州討伐」、「小田原の役」で戦功を挙げた。1587年、「九州征伐」では、生駒親正とともに箱崎に営舎を構築した。秋月種実降伏後、益富城の城番を務めた。1586年、京都方広寺大仏造営では作事奉行を務めた。聚楽第行幸では関白の行列の前駆左の列に供奉を務めた。1589年、「小田原の役」では、200余りを率いて参陣した。片桐且元とともに鎌倉、武蔵小机の地下人に鶴岡八幡宮の修復のために茅葺き資材と人足の動員を命じた。1591年、増田長盛らとともに近江国を検地を実施した。1592年、「文禄の役」では、高麗舟奉行を務め、後に漢城へ駐屯した。1597年、「慶長の役」では、軍監として参陣した。1593年、大友吉統が改易処分を受けると、大分郡府内城13,000石を領して、羽柴秀吉の蔵入地47,000石を預かった。1596年、「慶長豊後地震」では、別府湾の沖ノ浜が津波の後、水没するなど甚大を受けた。1597年、「蔚山城の戦い」で、落ち度があったとして改易処分を受け、豊後国杵築に蟄居した。1599年、福原直高が領民に過度な賦役を課したと裁定され、改易処分になると、府内城20,000石に復帰した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣した。「田辺城の戦い」では、毛利高政とともに安久口に布陣した。豊後国府内城は、城代早川内右衛門が松平元康勢の細川忠興に降伏した。役後改易処分を受けた。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁勢の寄騎衆として天王寺口で戦い行方不明となった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
早川九右衛門【はやかわきゅうえもん(15??~15??)】
早川長政の男。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が敗れると、府内城で降伏した。その後、細川忠興に仕えた。
尾藤重吉【びとうしげよし(15??~1570)】
小笠原長時家臣。小笠原長時が武田晴信に敗れ没落すると、今川義元に仕えた。1560年、今川義元が討死すると、嫡男宇多又八郎とともに森可成に仕えた。1570年、「宇佐山城の戦い」で討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
尾藤又八郎【びとうまたはちろう(15??~1570)】
尾藤重吉の男。1570年、「宇佐山城の戦い」で討死した。
尾藤知宣【びとうとものぶ(15??~1590)】
羽柴秀吉家臣。尾藤重吉の次男。官途は左衛門尉。通称甚右衛門。別名尾藤知重。神子田正治、宮田光次、戸田勝隆らと並び称された古参の家臣で黄母衣衆のひとり。1573年、近江国長浜で250貫を領した。1577年、播磨国内で5000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、小牧山攻めを提案した森長可の意見を承認し、軍監として参陣したが羽黒で酒井忠次、榊原康政らの奇襲を受けて敗走した。1585年、「四国征伐」では、羽柴秀長勢に属して、阿波国木津城を攻略する戦功を挙げ、讃岐国丸亀城50,000石を領した。1587年、「戸次川の戦い」で失態を犯し改易された仙石秀久の後継として軍監に就任した。羽柴秀長勢に属して、黒田孝高や小早川隆景などの諸将を差配した。日向国高城攻略中、宮部継潤の守る根白坂砦が島津義弘勢の攻撃を受けた際、援軍を派遣しなかったため、羽柴秀吉の勘気を蒙り所領を没収され追放された。1589年、「聚楽第落書き事件」に斯波義銀、細川信良とともに巻き込まれ捕縛された。1589年、「小田原の役」後、羽柴秀吉に帰参を願い出たが許されず謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
尾藤頼忠【びとうよりただ(15??~15??)】
尾藤重吉の三男。官途は下野守。通称久右衛門。別名宇多頼忠。父尾藤重吉が森可成に仕えた後も、宇多頼忠は引佐郡に残り、武田晴信に仕えた。1564年、武田晴信の家臣真田昌幸に長女を嫁がせた。1573年、「長篠の戦い」後、武田勝頼が勢力を失うと、兄尾藤知宣を頼り、その仲介で羽柴秀長に仕えた。羽柴秀長が大和国郡山城1,000,000石を領すると、藤堂高虎に次ぐ次席家老として13,000石を領した。石田三成に次女皎月院を嫁がせた。1587年、「九州征伐」で、兄藤尾知宣が羽柴秀吉の不興を買って改易後、謀殺されると、尾藤頼忠は宇多頼忠と称して石田三成のもとに身を寄せた。1600年、「関ヶ原の戦い」後、佐和山城は松平元康勢の攻撃を受け、宇多頼忠は嫡男宇多頼重、石田正継、石田正澄らとともに自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
尾藤頼重【びとうりしげ(15??~1600)】
尾藤頼忠の男。官途は河内守。別名宇多頼重。1600年、「関ヶ原の役」では、父宇多頼忠とともに佐和山城を守備した。石田三成勢が大敗すると、小早川秀秋ら内応組を中心とした松平元康勢の攻撃を受け、石田正継や石田正澄らとともに自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
日比左近【ひびさこん(15??~15??)】
小西行長家臣。鉄炮頭を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、宇土城に籠城して塩田口を守備した。
平塚為広【ひらつかためひろ(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。平塚入道無心の男。官途は因幡守。通称孫九郎。はじめ明智光秀に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉の馬廻衆として仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1595年、美濃国垂井城12,000石を領した。1598年、醍醐の花見にも羽柴秀吉の護衛役として参列した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成の挙兵を大谷吉継とともに反対するが、受け入れられず石田三成勢に属した。「関ヶ原の戦い」では、大谷吉継の意向を受け、戸田勝成とともに小早川秀秋勢に動きを監視した。小早川秀秋勢が松平元康に内応、大谷吉継勢は背後から攻撃を受けるが数度に渡り撃退した。脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らが相次いで内応、四方から攻撃を受け大谷吉継勢は壊滅した。平塚為広は孤軍奮闘したが、小川祐忠の家臣小川勘助の被官樫井太兵衛に討取られた。辞世の句は「名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
平塚久賀【ひらつかひさよし(15??~15??)】
平塚入道無心の次男。大剛の者。松平元康から招かれたが、と断り石田三成に仕えた。紀伊国の大福山本恵寺を再建した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して奮戦したが、石田三成勢の壊滅とともに捕縛されたたが、松平元康から許された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
平塚為景【ひらつかためかげ(15??~1615)】
平塚為広の男。官途は左馬助。1615年、「大坂夏の陣」に参陣したが、「若江の戦い」で討死した。
平塚庄兵衛【ひらつかしょうざえもん(15??~15??)】
平塚為広の次男。
福原長堯【ふくはらながたか(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。福原則高の男。官途は右馬助。別名福原直高。室は石田正継の娘。1587年、「根白坂の戦い」では、宮部継潤らとともに島津義弘勢の攻撃を受けるがこれを守り切った。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城後備衆として二の丸を守備した。1593年、蔵入地の播磨国三木郡の代官職を務めた。1594年、但馬国豊岡城20,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」で、羽柴秀次が高野山で自刃した際には、福島正則、池田秀氏とともに検死役を務めた。1597年、豊後府内大分郡、速水郡、玖珠郡内で120,000石を領した。「慶長の役」では、朝鮮に渡り軍目付を務め、、小早川秀秋、黒田長政、早川長政などの軍令違反を羽柴秀吉に報告した。1599年、石田三成の失脚後、「慶長の役」での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められ、松平元康ら五大老より府内領は没収されて臼杵城60,000石に減封された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、垣見一直、熊谷直盛、木村由信、木村豊統らとともに大垣城の守将を務めた。石田三成勢が大敗すると、相良頼房、秋月種長、高橋元種らの内応により垣見一直、熊谷直盛、木村由信、木村豊統らが謀殺されたため、松平元康勢の西尾光教の勧めで降伏したが、許されず自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
藤井六弥太【ふじいろくやた(15??~15??)】
小西行長家臣。1600年、「宇土城の戦い」では、籠城して廻江橋を守り奮戦した。
別所吉治【べっしょよしはる(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は豊後守。小姓頭を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。
堀田盛重【ほったもりしげ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は図書助。馬廻衆組頭を務めた。1600年、石田三成ら奉行衆と対立して、伏見城に出奔した。役後、羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭を務めた。
------------------------------------------------------
【ま】
蒔田広定【まきたひろさだ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称権佐。小姓頭を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。
蒔田広政【まきたひろまさ(15??~1607)】
蒔田広光の男。官途は主水正。別名蒔田政勝。金切裂指物使番のひとり。
牧野成里【まきのなりさと(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の後備を務めた。役後、松平元康に仕え3,000石を領した。
益田好次【ますだよしつぐ(15??~15??)】
高山右近家臣。祐筆を務めた。小西行長に仕え6,000石を領した。
益田主殿【ますだしゅでん(15??~15??)】
森高政家臣。
松下吉綱【まつしたよしつな(15??~15??)】
中村一氏家臣。1590年、駿河国を中村一氏が領すると、松下吉綱が久能山城主となった。
真野頼包【まのよりかね(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は左近丞。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。
南五郎左衛門【みなみごろうざえもん(15??~1603)】
小西行長家臣。1600年、「関ヶ原の役」で小西行長が斬頸に処されると、加藤清正に仕えた。1603年、切支丹禁制に違反したとして加藤清正勢に捕縛された、処刑された。
宮木右京亮【みやぎさきょうのじょう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。小姓頭を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。
三宅重徳【みやけしげとく(15??~1637)】
小西行長家臣。通称次郎右衛門。1637年、「島原の乱」では、一揆勢を指揮した。
宮田光次【みやたみつつぐ(15??~1578)】
羽柴秀吉家臣。通称喜八郎。羽柴家四天王で黄母衣衆のひとり。1573年、羽柴秀吉に仕え長浜近辺で250貫を領した。羽柴秀吉が織田信長の意向で中国方面総司令官に任命されると、「中国遠征」に参陣し、播磨国内で5,000石を領した。1578年、「三木城の戦い」で別所長治勢と戦い討死した。
三好若狭守【みよしわかさ(15??~15??)】
森高政家臣。
毛利隼人佐【もうりはやとのすけ(15??~15??)】
森高政家臣。豊後国日隈城代を務めた。1596年、毛利高政が日隈城20,000石を領して日隈城に入り、五重の天守を備えるなど城を改修した。1600年、「関ヶ原の役」では、黒田孝高勢の攻撃を受け開城した。役後、毛利高政は佐伯城20,000石に転封され、日隈城は蔵入地となり、引き続き蔵入地の管理を任され毛利隼人佐が代官として在地した。
森宗意軒【もりそういけん(15??~1538)】
小西行長家臣。西村孫兵衛の男。通称三左衛門。別名西村傅之丞。河内国石川郡の水分五社大明神の南木大明神で神司を務めた。1592年、「文禄の役」では、小西行長の荷物を運ぶ船宰領となって朝鮮へと渡航した。途中で難破し南蛮船に助けられ、南蛮に渡った。阿蘭陀に七年滞在した。その後、中国で入廟老という者に火術、外科治療の法、火攻めの方法などを伝授した。1600年、「関ヶ原の役」後に帰国した。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁勢に属して戦功を挙げた。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の目付兼兵糧奉行を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
森友重【もりともしげ(1528~1597)】
羽柴秀吉家臣。鯰江定秀の次男。通称九郎左衛門。別名森高次。室は瀬尾小太郎の娘。近江国愛知郡鯰江出身。1568年、鯰江定秀が六角義賢を匿い織田信長勢の攻撃を受け滅亡すると、織田信長に仕えた。
森重政【もうりしげまさ(1551~1597)】
森友重の男。官途は豊後守。別名毛利重政。室は大神親長の娘。1582年、「備中高松城の戦い」に参陣した。「本能寺の変」では、弟森高政とともに人質として毛利輝元のもとに送られた。1587年、「九州征伐」後、豊後国日出城主に任じられた。
森高政【もりたかまさ(1559~1624)】
森友重の男。官途は民部大輔。通称勘八郎。室は木曾義昌の娘。別名毛利高政。1580年、播磨明石郡松ノ郷内で3,000石を領した。1582年、「本能寺の変」後、兄毛利重政とともに人質として毛利輝元のもとに送られた。毛利輝元の許可を得て毛利高政と称した。1586年、方広寺建立の際には石材運搬の奉行を務めた。1587年、「九州征伐」では、舟奉行職を務めた。1589年、山城国の検地奉行を石川貞通とともに務めた。1589年、「小田原の役」では、兵600余りを率いて参陣した。1591年、対馬国に陣城普請に任じられ、清水山城、撃方山城、向ノ平砦を築城した。1592年、「文禄の役」では、舟奉行を務めた。「春川の戦い」で元豪を捕縛する戦功を挙げた。1595年、豊後国日田郡、玖珠郡内で日隈城20,000石を領した。1597年、「慶長の役」では、軍目付を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属するも、途中で松平元康に寝返えった。1601年、豊後国海部郡佐伯城20,000石に転封となった。江戸城、駿府城、名古屋城、大坂城と立続けに手伝普請を命じられ、また参勤交代、江戸の屋敷の造営、維持費用等も加わり、藩財政は極度に悪化した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
森吉安【もりよしやす(15??~16??)】
森友重の三男。通称九郎左衛門。別名毛利吉安。1587年、兄森高政の所領内2,000石を分与された。1601年、森高政が佐伯郡に転移した後も同地を領した。
森高明【もりたかあき(15??~15??)】
森高政家臣。別名毛利高明。
森兵庫【もりひょうご(15??~15??)】
森高政家臣。別名毛利兵庫。
----------------------------
【や】
八島増行【やじまますゆき(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称久右衛門。1589年、「小田原の役」の際、羽柴秀吉の意向で伊達政宗のもとに使者として赴き参陣を促した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
八島久兵衛【やじまきゅうべい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1591年、増田長盛らとともに近江国の検地奉行を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安井次右衛門【やすいじえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城の警備役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安井喜内【やすいきない(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。1595年、「羽柴秀次事件」後、石田三成に仕えた。
藪田伊賀守【やぶたいがのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城の本丸を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢部定政【やべさだまさ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。本郷泰茂の男(矢部家定の養子)。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城、二の丸を守備した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、役後改易処分を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野久三郎【やのきゅうざぶろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城で警備役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野九郎次郎【やのくろうじろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城で三の丸の警備役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野定満【やのさだみつ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1589年、山城祇園社の社領検地奉行を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野下野守【やのしもつけのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して行列に供奉した。1592年、「文禄の役」では、軍馬の徴発を担当した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野十左衛門尉【やのじゅうざえもんのじょう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城の三の丸を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
山口正弘【やまぐちまさひろ(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は玄蕃頭。別名山口宗永。検地の名人「玄蕃縄」と称された。1588年、「城井長房の乱」では、調停役を務めた。政治手腕を認められ小早川秀秋の後見人となるが、度重なる諫言を疎まれ羽柴秀吉に召し返され、加賀国大聖寺城60,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、前田利長勢の攻撃を受け自刃した。
山口修広【やまぐちまさひろ(15??~1600)】
山口正弘の男。別名山口修弘。1600年、「関ヶ原の役」では、父山口正弘とともに石田三成勢に属して大聖寺城に籠城した。前田利長勢の攻撃を受け山口正弘とともに自刃した。
山口弘定【やまぐちひろさだ(15??~1615)】
山口正弘の次男。詰番衆として羽柴秀頼の警護役に任じられた。1615年、「大坂夏の陣」で木村重成らとともに討死した。
山市左衛門【やまいちざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
山善左衛門【やまぜんざえもん(15??~1637)】
小西行長家臣。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の侍大将を務めた。
横田隼人【よこたはやと(15??~15??)】
中村一氏家臣。1590年、駿河国を中村一氏が領すると江尻城主となった。
横浜正勝【よこはままさかつ(1550~1596)】
羽柴秀長家臣。別名横浜良慶。室は藤堂高虎の娘。羽柴秀長の筆頭家老職を務め50,000石を領した。大和国郡山城で留守役を務め、小堀正次とともに内政に手腕を発揮した。1585年、和歌山城の築城では、藤堂高虎、羽田正親らとともに普請奉行を務めた。1587年、「九州討伐」では、大和郡山城で留守居役を務めた。1591年、羽柴秀長が病没すると、幼年の羽柴秀保を補佐した。1592年、「文禄の役」で羽柴秀保が肥前国名護屋城に参陣中も大和国郡山城で留守居役を務めた。1594年、羽柴秀保の病没後は羽柴秀吉に仕えた。1596年、「慶長伏見地震」により圧死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
吉田吉左衛門【よしだきちざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称掃部助。1578年、「三木城の戦い」で築かれた附城を守備した。
結城弥平次【ゆうきやへいじ(1543~15??)】
小西行長家臣。洗礼名は「ジョルジ」。美濃国出身。結城山城守の甥。南蛮寺建立に尽力し、後の基督教に入信した。1587年、宣教師追放令が発せられると、宣教師オルガンティノを瀬戸内海小豆島に匿った。1588年、小西行長が肥後国宇土城21,000石を領すると、益城郡矢部城代を太田市兵衛とともに務め、3,500石を領した。寄騎衆として土橋掃部(500石)、島澤市右衛門(300石)、平地源右衛門(300石)、中小路三右衛門(300石)、後藤三五兵衛門(300石)、田邊平右衛門(300石)、加賀山次郎作(300石)、岡兵右衛門(300石)、横田勘左衛門(300石)、天木庄太夫(300石)、小野田弥右衛門(300石)、吉田木工右衛門(300石)、速水七左衛門(300石)の十三人が付属された。城内に伝道所を設け布教に努め、信者数は4,000人を数え宣教師も招かれた。1593年、明使来日の際には世話役を任じられた。1600年、「関ヶ原の役」後、加藤清正に仕えるが、棄教を拒否したため、追放処分に処された。後に有馬晴信の自刃後、跡を継いだ有馬直純の禁教令により再び通報処分に処された。
渡辺糺【わたなべただす(15??~1615)】
羽柴秀吉家臣。渡辺昌の男。通称内蔵助。槍の名手で、羽柴秀頼の槍の指南役として仕えた。1614年、「鴫野の戦い」で長尾景勝と争うも敗退した。この際、長尾景勝勢の鉄炮の轟音を聞いただけで兵を退いたとされ、笑い者となった。1615年、「道明寺の戦い」では、真田信繁の寄騎衆として戦功を挙げるも、最後は大坂城千畳敷で自刃した。
渡辺守【わたなべまもる(1610~16??)】
渡辺糺の男。甲府松平綱重家臣。通称は権兵衛。1614年、「大坂冬の陣」では、父渡邊糺に連れられて大坂城へ入城した。1615年、「大坂夏の陣」で、父渡辺糺は討死したが、渡辺守は大坂城落城の折、乳母の手により城を落延びて京都の南禅寺で出家した。1628年頃、細川忠興らの仲介により還俗して、松平綱重に500石で仕えた。
渡辺内蔵助【わたなべくないのすけ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
----------------------------
【資料Ⅰ】
羽柴秀吉家臣団【はしばひでよしかしんだん】
羽柴秀吉は、足軽衆から身を起こした織田信長に仕え天下を獲った人物です。その能力、人柄は並はずれていたが、最大の弱点が戦国大名に必要な譜代衆や親類縁者がいなかったことにあります。身内で有能だったのは弟羽柴秀長ただひとりでしたが、羽柴秀吉が天下を把握すた後に病没してしまった。羽柴秀長にも実子がおらず、羽柴秀吉と同じように姉の子を養子としたが、羽柴秀保もまもなく病没した。また家臣団も羽柴秀吉が出世するとともに、召し抱えた家臣だったため、羽柴秀吉が病没後、武断派(加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政など)と官僚派(石田三成、増田長盛、長束正家など)家臣団同士の争いが大きくなった。武将派と官僚派の対立は、羽柴秀吉が天下を把握後顕著化した。大きな戦いがなくなると、治世が重要となり武将派が功を挙げる機会が減少し、官僚派の必要性が高まります。官僚派は規制や規則を作り、武将派は中央から遠隔地に転封されることになった。また羽柴秀吉政権は、羽柴秀吉2,200,000石、松平元康2,550,000石、毛利輝元1,200,000石、長尾景勝1,200,000石、前田利家830,000石、伊達政宗580,000石など、大封を持つ大名が多数存在したしたことも、羽柴秀吉の病没後大きな問題となった。片腕だった羽柴秀長は病没、後継者に指名した羽柴秀次は、謀反を疑いをかけ自刃を強いた。残された羽柴秀頼は幼少、羽柴秀頼を補佐するはずだった、前田利家はまもなく病没。加藤清正、福島正則らと石田三成、増田長盛がさらに対立した。
----------------------------
【資料Ⅱ】
羽柴秀吉家四天王【はしばひでよしけしてんのう】
神子田正治、尾藤知宣、戸田勝隆、宮田光次。
羽柴秀長家三家老【はしばひでながけさんかろう】
横浜良慶、羽田正親、小川下野守。
----------------------------
戦国人名辞典は1530~1600年の期間に活躍した国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。
※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。
※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。
※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。
※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全4巻)」文春文庫、「武田信玄(全3巻)」講談社、「武田勝頼(全3巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
----------------------------
【あ】
安威源秀【あいげんしゅう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安威藤治【あいとうじ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は兵部少輔。洗礼名「シモン」。もと室町幕府部屋衆で馬廻衆のひとり。基督教を信仰した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安威孫作【あいまごさく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安威守佐【あいもりすき(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は摂津守。通称五郎左衛門。1585年、羽柴秀吉の代官として摂津国豊島郡を治めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。のちに羽柴秀頼に仕え1,000石を領した。1611年、禁裏普請の奉行職を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木重矩【あおき しげのり(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。室は関兼定の娘(三女)。内室は羽柴秀吉の養父竹阿弥の縁者で大政所の義妹。
青木一矩【あおきかずのり(1541~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は紀伊守。通称勘兵衛。別名青木重治。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣した。1585年、「四国討伐」で戦功を挙げ、紀伊国入山城主となり10,000石を領した。1587年、「九州征伐」にも参陣して、播磨国立石城主となった。1598年、越前国北ノ庄城80,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、大谷吉継勢に属して、北陸の石田三成勢の諸将とともに松平元康勢の前田利長と浅井畷で戦ったが敗れて、北ノ庄城に籠城した。石田三成勢が、「関ヶ原の戦い」で大敗すると、土方雄久の仲介により嫡男青木俊矩を人質に差し出して前田利長に降伏した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木俊矩【あおきとしのり(15??~1608)】
青木一矩の男。官途は右衛門佐。通称善右衛門。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。1599年、青木秀頼に仕え、越前国金剛院城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して北陸路で戦うが敗北した。役後、改易処分に処せられ没落した。子孫は町人となり酒造業を営んだ。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木久矩【あおきひさのり(15??~1615)】
青木俊矩の男。通称四郎右衛門。1600年、「関ヶ原の役」では、父青木俊矩とともに石田三成勢に属して北陸路で戦った。役後、青木俊矩が改易処分に処されると、前田利長の客将となった。1614年、「大坂冬の陣」では、大坂城に入城し、甥木村重成のもとで戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」で討死した。弟青木善四郎は前田常利に仕え250石を領した。末弟青木荘左衛門は「平吹屋」という酒の醸造業を営んだ。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木重直【あおきしげなお(1529~1613)】
羽柴秀吉家臣。官途は刑部卿法印。通称加賀右衛門。1593年、摂津国豊島郡内で1,400石を領した。1595年、兎原郡内で360石を加増された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木直継【あおきなおつぐ(15??~1578)】
青木重直の三男。1578年、「播磨神吉城の戦い」に参陣して討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青木一重【あおやまかずしげ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。後に松平元康に仕えた。
蘆塚忠右衛門【あしづかちゅうえもん(15??~1614)】
小西行長家臣。通称平馬。室は皆吉続熊の娘。小西行長の三家老のひとりで2,000石を領した。1597年、「慶長の役」での撤退戦の際、小西行長を落延びさせるため、小西長統らと兵500余りで20,000の明勢と戦ったが、奇跡的に帰還した。「関ヶ原の戦い」では、小西行長勢の2,000余りを指揮したが敗走した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣したが討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
蘆塚忠右衛門【あしづかちゅうざえもん(15??~15??)】
蘆塚忠右衛門の男。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。後に有馬晴信に仕えた。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の侍大将を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
蘆塚貞春【あしづかさだはる(15??~15??)】
蘆塚忠右衛門の次男。通称忠太夫。別名蘆塚忠兵衛。1600年、「関ヶ原の役」に参陣した。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の指導者のひとりとなった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
蘆塚権右衛門【あしづかごんざえもん(15??~15??)】
蘆塚忠右衛門の三男。
青山雲宅【あおやまうんたく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。黄母衣衆のひとり。
青山新八郎【あおやましんぱちろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
青山助六【あおやますけろく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤座三右衛門【あかざさえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤座藤八郎【あかざとうはちろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
明石元知【あかしもととも(15??~1595)】
羽柴秀吉家臣。仙恵の男。官途は左近将監。通称与四郎。別名明石則春。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1585年、「四国討伐」に参陣して戦功を挙げ、但馬国豊岡城10,000石を領した。継いで播磨国明石城主となった。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、京城に参陣した。1595年、「羽柴秀次事件」連座して、小早川景隆に預けられ自刃した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤部長介【あかべちょうすけ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤松伊豆守【あかまついずのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
秋田助右衛門【あきたすけえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。旗奉行を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の属して、「伏見城の戦い」に参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
阿吉田新右衛門【あこだしえんもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1591年、美濃国黒坪城を領した。
浅井喜八郎【あざいきはちろう(15??~15??)】
羽柴秀勝家臣。1582年、「山崎の戦い」に参陣した。羽柴秀勝の病没後、佐々成政に仕えた。「肥後国人一揆」で戦功を挙げた。参考文献:『戦国人
名事典』by新人物往来社。
浅井政高【あざいまさたか(15??~1615)】
羽柴秀吉家臣。浅井明政の男。別名田尾茂右衛門。羽柴秀頼に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で討死した。
浅野大炊助【あさのおおいのすけ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1594年、山城伏見城の石垣造営工事を分担した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
阿閉平右衛門【あつじへいえもん(15??~15??)】
羽柴秀次家臣。鉄炮隊を率いた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
穴沢盛秀【あなざわもりひで(15??~1615)】
羽柴秀頼家臣。官途は主殿助。薙刀指南役。長太刀や棒術にも長けた。越後国出身。1615年、「大坂夏の陣」では、長尾景勝勢と戦い、足軽衆7~8名を討取った。樋口兼続の家臣坂田采女、折下外記、渋谷弥兵衛らに囲まれ討たれた。
穴太駿河守【あのうするがのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。穴太衆のひとり。1593年、伏見城普請をめぐり穴太出雲守と対立した。後に協力して普請をするよう命じられた。
穴太三河守【あのうみまみかわ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。穴太衆のひとり。1593年、伏見城普請をめぐり穴太出雲守と対立した。後に協力して普請をするよう命じられた。
穴太出雲守【あのういずものかみ(15??~15??)】
羽柴秀次家臣。穴太衆のひとり。1593年、伏見城普請をめぐり穴太駿河守、穴太三河守と対立した。後に協力して普請をするよう命じられた。
阿部仙三郎【あべせんざぶろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
阿和善右衛門【あわぜんえもん(15??~15??)】
羽柴秀次家臣。通称隼人。1595年、「羽柴秀次事件」後、堀尾吉晴に仕え、後に前田利長に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
粟屋彦兵衛【あわやひこべい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
粟屋弥四郎【あわややしろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安西左伝次【あんざいさでんじ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
伊木遠雄【いきとおかつ(1567~1615)】
羽柴秀吉家臣。通称七郎右衛門。尾張衆で黄母衣衆のひとり。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」にも参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。役後、改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁の軍監となり、真田信繁とともに戦功を挙げた。1615年、「道明寺の戦い」に参陣した。「天王寺、岡山の戦い」で討死した。
安宅源八郎【あたかげんぱちろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
尼子三郎左衛門【あまごさぶろうざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城の羽柴秀吉本陣を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
尼子宗澄【あまこむねずみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は宮内少輔。馬廻衆のひとり。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
尼子六郎左衛門【あまころうろうざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆組頭のひとり。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安見甚吉【あみじんきち(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1598年、「朝鮮蔚山の戦い」に参陣中の浅野幸長に書状を送った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安見新五郎【あみしんごろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安見甚七【あみじんきち(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
雨森才次【あまもりさいじ(15??~15??)】
羽柴秀次家臣。馬廻衆組頭のひとり。1595年、「羽柴秀次事件」後、没落した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
荒川銀右衛門【あらかわぎんえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
荒川助八郎【あらかわすけはちろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。黄母衣衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
荒川忠兵衛【あらかわちゅうべい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。黄母衣衆のひとり。
荒木勘十郎【あらきかんじゅうろう(15??~1614)】
羽柴秀吉家臣。1599年、丹波国何鹿郡内で200石を領した。1614年、片桐且元が大坂城を退去する際、これを見送ったかどで自刃を命じられた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
荒木助右衛門【あらきすけえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1584年、播磨国三木郡内で250石を領した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
飯島太郎右衛門【いいじまたろうえもん(15??~1615)】
木村重成家臣。河内国高井田の農民出身。1615年、「若江の戦い」で討死した。
飯島三郎右衛門【いいじまさぶろうえもん(15??~1615)】
飯島太郎右衛門の男。1614年、「大坂冬の陣」に参陣して木村重成勢に属した。中河内の先導役を務めた。幼年期より弓術や槍術を学んだ。1615年、「若江の戦い」で、山口重信と戦って討死した。
磯部大膳【いそべだいぜん(15??~15??)】
森高政家臣。
井口忠兵衛【いぐちちゅうざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。浅野長政ら奉行衆とともに下野国の太閤検地を行った。
生熊長勝【いくまながかつ(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。通称玄蕃頭。鉄炮組頭を務めた。「小牧、長久手の戦い」「小田原の役」などに参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備したが、羽柴秀吉の草津湯治の警護役を務めた。1597年、美濃国内で20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、尾張国犬山城主石川貞清が出陣したあと、同城を守備した。役後、改易処分を受け、常陸国松岡城に幽閉されて自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
石尾治一【いしおはるかず(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は下野守。黄母衣衆のひとり。
石川光元【いしかわみつもと(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は紀伊守。馬廻衆組頭を務めた。
伊丹甚大夫【いたみじんだいふ(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。弓衆組頭を務めた。
伊藤長弘【いとうながひろ(15??~16??)】
羽柴秀吉家臣。通称弥吉。鉄炮大将。1584年、「小牧、長久手の戦い」で戦功を挙げた。1589年、「小田原の役」に参陣した。羽柴秀吉が草津湯で湯治した際、その警護役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して伏見城を攻撃した。
伊藤武蔵守【いとうむさしのかみ(15??~1615)】
伊藤長弘の次男。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼に殉じた。
伊藤秀盛【いとうひでもり(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は加賀守。通称太郎左衛門尉。1582年、山城国検地奉行を担当した。羽柴秀吉の直轄領代官職を務め、財務を担当した。京都三条の邸宅はしばしば、羽柴秀吉の仮宿として利用された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して討死した。
伊藤与左衛門【いとうゆざえもん(15??~15??)】
小西行長家臣。肥後国木山城代。1600年、「関ヶ原の役」後、開城後自刃した。
伊藤四郎兵衛【いとうしろえもん(15??~15??)】
伊藤与左衛門の男。1600年、「関ヶ原の役」で小西行長が斬頸処分に処されると、加藤清正に仕えた。
伊木遠雄【いきとおかつ(1567~1615)】
羽柴秀吉家臣。通称七良右衛門。黄母衣衆のひとり。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣するも、石田三成勢が敗退したため、改易処分に処された。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して参陣した。真田信繁の軍監となり、真田信繁とともに戦功を挙げた。1615年、「天王寺、岡山の戦い」で討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
伊木尚重【いきなおしげ(15??~1643)】
伊木遠雄の男。通称庄次郎。1614年、「大坂冬の陣」では、父伊木遠雄とともに羽柴秀頼勢に属した。1615年、「大坂夏の陣」では、大坂城の落城後、落延びた。真田信之に仕えて350石を領した。参考文献:『戦国人名事典(コンパクト版)』by新人物往来社。
伊智地文大夫【いじちぶんだいふ(15??~1589)】
小西行長家臣。洗礼名「パウロ」。高山右近の内室の姉妹を娶った。1589年、「天草志岐の戦い」で討死した。
伊藤祐美【いとうすけみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称掃部助。1578年、「三木城の戦い」で築かれた附城を守備した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、松平元康勢の小牧山を包囲するため、山内一豊とともに八ヶ所の附城を守備した。
伊東祐時【いとうすけとき(15??~1586)】
羽柴秀吉家臣。官途は掃部助。別名伊東祐実。黄幌衆のひとり。1585年、「第二次紀州征伐」に参陣しがた討死した。
伊東長次【いとうながつぐ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は丹後守。1600年、石田三成ら奉行衆と対立して、伏見城に出奔した。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭を務めた。
石田鶴右衛門【いしだつるえもん(15??~15??)】
中川秀成家臣。1596年、三宅六郎兵衛、山岸金右衛門とともに豊後岡城改築の奉行職を務めた。
岩城信家【いわきのぶいえ(15??~15??)】
戸田勝隆家臣。通称小右衛門尉。
植木菖蒲ノ介【うえきしょうぶのすけ(15??~15??)】
小西行長家臣。奉行役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、宇土城に籠城して塩田口を守備した。
大井何右衛門【おおいかえもん(15??~1614)】
木村重成家臣。武者奉行を務めた。武勇も優れていた。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康勢と戦い重傷を負った。木村重成は負傷した大井何右衛門を助けるため、自ら殿となって退却した。大井何右衛門は退却後に死去した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大江実光【おおえさねみつ(15??~1637)】
小西行長家臣。通称源右衛門。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の侍大将を務めた。
大崎長行【おおさきながゆき(1560~1623)】
木村重茲家臣。通称玄蕃充。尾張国出身。木村重茲に仕え、木村重茲が羽柴秀次に連座して自刃した後に福島正則に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、清洲城に籠城した。石田三成勢が開城を迫ったが福島正則の許しがないと開城できないと頑なに城を守った。福島正則が、備後国広島の太守となると鞆城を任されたが三原城主に留まった。福島正則が改易になったのちに、松平秀忠の仲介で村上通清、真鍋貞成らとともに松平頼宣に寄合衆として仕えた。服部一忠の次男大崎勝長を養子とした。
太田一吉【おおたかずよし(15??~1617)】
羽柴秀吉家臣。太田宗清の男。官途は飛騨守。通称小源五。丹羽長秀の家臣であったがその病没後、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「晋州城の戦い」に参陣した。1593年、大友吉統が改易処分に処されると、その旧領の豊後国臼杵城65,000石を領した。1597年、「慶長の役」で軍目付を務め、「南原城の戦い」、「蔚山城の戦い」に参陣した。石田三成、福原長堯、熊谷直盛とともに吏僚派として、加藤清正、福島正則ら武断派と対立した。1600年、「関ヶ原の役」では、甥の太田政成を松平元康勢に、継嗣の太田一成を石田三成勢に属させ、自身は病と称して臼杵城に籠城した。松平元康勢に属した黒田孝高と中川秀成勢の攻撃を受け降伏した。石田三成勢が大敗したため、伊予国に落延びた。
太田一成【おおたかずなり(15??~15??)】
太田一吉の男。1600年、「関ヶ原の役」では、父太田一吉が病と称して臼杵城に籠城したが、自身は石田三成勢に属した。「佐賀関の戦い」で中川秀成勢を撃破した後、降伏した。
太田政成【おおたまさなり(15??~15??)】
太田一吉の甥
太田市兵衛【おおたいちべい(15??~15??)】
小西行長家臣。肥後国愛藤寺城代を務めた。
大塩正貞【おおしおまささだ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称金右衛門。黄幌衆のひとり。
大野治長【おおのはるなが(1569~1615)】
大野定長の男。官途は修理大夫。淀殿の乳母大蔵卿局の男。羽柴秀吉の馬廻衆として3,000石を領した。1598年、羽柴秀吉が病没後、羽柴秀頼の側近として仕えた。1599年、松平元康の謀殺を図った首謀者のひとりとして罪を問われ、流罪に処され下総国で蟄居した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に参陣して戦功を挙げ、罪を許され再び羽柴秀頼に仕え15,000石を領した。1614年、家老衆筆頭の片桐且元が追放処分に処されると、羽柴秀頼の筆頭家老にとなった。松平元康との開戦が迫ると、各地から浪人衆を召し抱えたが、大坂城内では消極的和平派形勢して、浪人衆の真田信繁、後藤基次などの主戦派と対立した。1615年、「大坂夏の陣」では、千姫を使者とし羽柴秀頼の助命を願うが失敗、羽柴秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大野治徳【おおのはるとく(15??~15??)】
大野治長の男。官途は信濃守。
大野治安【おおのはるやす(15??~15??)】
大野治長の次男。
大野治房【おおのはるふさ(15??~1615)】
大野定長の次男。弟大野治胤とともに主戦派の中心人物。1614年、「大坂冬の陣で」は、「郡山城の戦い」や「樫井の戦い」などの指揮を執ったがいずれも敗退した。1615年、「大坂夏の陣」後、羽柴国松とともに大坂城から落延びるが、松平元康勢に捕縛され斬頸に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大野治胤【おおのはるたね(15??~1615)】
大野定長の三男。別名「道犬斎」。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴家海賊衆5,000余りを率いて船倉を守備した。「野田、福島の戦い」で松平家海賊衆と戦い大敗した。その後、薄田兼相とともに「橙武者」と嘲られた。1615年、「大坂夏の陣」では、手勢を率いて堺を焼き討ちした。陣後、大坂城から落延びる途中、松平元康勢に捕縛され堺で火あぶりに処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大野治純【おおのはるずみ(15??~15??)】
大野定長の四男。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、羽柴秀吉と松平元康が和議を結ぶ際、人質として駿府城に送られ、そのまま松平元康に仕え2,000石を領した。1614年、「大坂夏の陣」では、松平元康の意向を受け、闇討ちを受け負傷した兄大野治長を大坂に見舞い、真田信繁、長宗我部盛親らの内応の噂を伝えた。羽柴秀頼の参陣が、淀殿の意向によって急遽取り止めになった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大藪国安【おおやぶくにやす(15??~16??)】
中村一氏家臣。通称新右衛門。1600年、「関ヶ原の役」では、大垣城を攻撃するため曽根城に参陣した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
岡村椿之助【おかむらつばきのすけ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
小川下野守【おがわしもつけのかみ(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。羽柴秀長が大和国を領すると、大和国内で350,000を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小倉正能【おぐらまさよし(15??~16??)】
中村一氏家臣。小倉正勝の男。通称安右衛門。1600年、「関ヶ原の役」後、松平秀忠に仕え5,000石を領した。
小倉正次【おぐらまさつぐ(15??~16??)】
小倉正能の男。通称忠右衛門。室は冷泉為益の娘。1600年、「関ヶ原の役」では、大垣城を攻撃するため、曽根城に参陣した。
落合安親【おちあいやすちか(15??~15??)】
落合勝正の男。上末城主。1584年、弟落合庄九郎とともに羽柴秀吉勢の先導役を務めた。
小野木重勝【おのぎしげかつ(1563~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は縫殿助。通称清次郎。別名小野木公郷。室は島清興の娘。黄母衣七人衆のひとり。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して、伊勢神戸城や山城淀城を守備した。1589年、石田三成らとともに美濃国の検地を務めた。1592年、「晋州城の戦い」に参陣した。1595年、丹波国福知山城40,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、大坂鰻谷町橋を守備した。但馬国や丹波国の諸将15,000余りを率いて細川藤孝が守る丹後田辺城を開城させた。石田三成勢が大敗すると、福知山城に撤退するが、細川忠興、木下延俊らに包囲され降伏した。井伊直政や前田茂勝を介して松平元康に助命を請うが、許されず自刃を命じられ、頸を晒された。内室の島清興の娘は、この知らせを聞き自害した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
------------------------------------------------------
【か】
垣見一直【かきみかずなお(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は和泉守。通称弥五郎。別名垣見家純。金切裂指物使番衆のひとり。1584年、「小牧、長久手の戦い」で大垣城普請役に任じられた。1589年、「小田原の役」に参陣した。「奥州仕置」では、羽柴秀吉が会津に赴いた際の普請奉行を務めた。1593年、大友義統が改易されると、豊後国富来城20,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、慰問使として渡海した。1597年、羽柴秀吉の意向を受け軍目付七人のひとりとして渡海した。1598年、「第一次蔚山の戦い」では、籠城して苦戦した加藤清正を救援した黒田長政、蜂須賀家政、軍目付では早川長政、竹中隆重、毛利高政らが協議して、戦闘後に戦線縮小論を羽柴秀吉に上申したが、逆にこれが叱責を受けた。それに反対した軍目付の垣見一直、福原長堯、熊谷直盛らは賞賛された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大垣城を守備していたが、石田三成勢が大敗すると、大垣城を守備をしていた相良頼房が家臣の犬童頼兄の策に従って松平元康勢に寝返り、秋月種長、高橋元種とともに熊谷直盛、木村由信、木村豊統らを謀殺した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
垣見理右衛門【かきみりえもん(15??~15??)】
垣見家純家臣。富来城代。1600年、「関ヶ原の役」では、黒田孝高勢の攻撃を受けたが、城主不在のなか富来城を守り抜いた。垣見家純が討死すると、垣見家臣団の黒田家仕官を条件に和議を結び開城した。垣見理右衛門は、黒田孝高には仕えず、筑前国青柳村で帰農した。
梯七太夫【かけはししちだいふ(15??~15??)】
小西行長家臣。1592年、「文禄の役」では、小西行長の意向を受け李氏朝鮮国内での鎮撫活動を行った。
神子田正治【かみこだまさはる(15??~1587)】
神子田肥前守の男。通称半左衛門。羽柴家四天王で黄母衣衆のひとり。1573年、羽柴秀吉に仕え近江国内で250貫文を領した。羽柴秀吉が織田信長の意向で中国方面総司令官に任命されると、「中国遠征」に参陣し、播磨国内で5,000石を領した。1582年、「本能寺の変」後も羽柴秀吉に従い、戦功を挙げ播磨国広瀬城12,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、日根野弘就らとともに二重堀砦を守備した。羽柴秀吉勢の主力が美濃国に撤退する際、日根野弘就、細川忠興、木村重茲、長谷川秀一らともに殿を努め、追撃を仕掛けてきた織田信雄勢と戦ったが、途中で戦線を離脱したため、責任を問われ所領を没収された。1587年、「九州征伐」に参陣して羽柴秀吉に帰参を願い出たが許されず自刃を命じられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
並河信吉【かわなみのぶよし(15??~15??)】
森高政家臣。
河村吉綱【かわむらよしつな(15??~15??)】
中村一氏家臣。通称兵右衛門。
河村秀久【かわむらひでひさ(15??~15??)】
河村吉綱の男。通称九郎右衛門。
木下家定【きのしたいえさだ(1543~1608)】
羽柴秀吉家臣。杉原定利の男。官途は肥後守。通称孫右衛門。室は杉原家次の娘(おあこ)。北政所の兄。1567年、「伊勢桑名城の戦い」に参陣した。1580年、「鳥取城の戦い」に参陣した。1587年、播磨国内で10,000石を領した。1595年、姫路城主に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、中立を保ち、妹の北政所の警護役を務めた。役後、備中国足守城2,5000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下勝俊【きのしたかつとし(1569~1649)】
木下家定の男。官途は式部大夫。室は森可成の娘(うめ)。羽柴秀吉に仕え、数少ない縁者として重用された。播磨国龍野城を領した。1589年、「小田原の役」に参陣した。後に若狭国後瀬山城80,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して鳥居元忠とともに伏見城の守備したが、石田三成勢に包囲される前に伏見城から退去した。それを知った内室のうめ(宝泉院)は木下勝俊の敵前逃亡に激怒し、離縁した。役後、その伏見城退去の責を問われて改易処分になった。1608年、父木下家定の病没すると、北政所の取成しにより、備中国足守城25,000石を安堵された。遺領を相続する予定だった弟木下利房が領国を得られなくなったため、再び木下勝俊は失領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下利房【きのしたとしふさ(1573~1637)】
木下家定の次男。官途は宮内少輔。室は織田信包の娘。羽柴秀吉に仕えて若狭国高浜城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、大聖寺城を攻撃した。役後、改易処分に処された。父木下家定の死後、兄木下勝俊と父の遺領、備中国足守城25,000石を巡って争った結果、木下勝俊も改易処分に処された。1615年、「大坂夏の陣」で戦功を挙げ、備中国足守城25,000石を回復した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下俊定【きのしたとしさだ(15??~1602)】
木下家定の三男。官途は信濃守。丹波国内で10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して「大津城の戦い」に参陣した。役後、改易処分に処された。その後は弟小早川秀秋に寄食して備前国内で5,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下延俊【きのしたのぶとし(1577~1642)】
木下家定の四男。通称右衛門大夫。室は細川藤孝の娘。羽柴秀吉に仕え500石を領した。父木下家定が城主を務める姫路城の城代を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、父木下家定の姫路城を守備した。家臣の一部が石田三成勢の属して「田辺城の戦い」に参陣したが、弟小早川秀秋の姫路城入城を拒んだ。石田三成勢が大敗すると、細川忠興とともに小野木重勝の福知山城を攻落し、役後豊後国日出城30,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」に参陣した。肥後国熊本城主加藤忠広が改易処分に処されると、稲葉一通とともに八代城の在番を務めた。1637年、「島原の乱」に参陣した。著書に『慶長日記』。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木下弥右衛門【きのしたやえもん(15??~1543)】
羽柴秀吉の父。織田信秀家臣。足軽衆のひとり。戦で負傷したため、帰農した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村定重【きむらさだしげ(15??~1585)】
羽柴秀吉家臣。木村定成の男。官途は伊勢守。別名木村定詮。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、木村重茲とともに羽柴秀吉勢に属して、柴田勝家勢の降将山路正国の監視役を務めた。戦後、丹羽長秀が越前国に転封になると若狭国三方郡、遠敷郡内で佐柿城86,000石余りを領した。
木村重茲【きむらしげこれ(15??~1595)】
木村定重の男。官途は常陸介。通称隼人正。室は青木俊矩の娘(宮内卿局)。台子七人衆のひとり。1583年、「賤ヶ岳の戦い」では、羽柴秀吉勢に属して、近江国堂木山砦の守将を務めた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して戦功を挙げ、越前国府中城120,000石を領した。1585年、父木村定重の病没により家督を相続した。1587年、「九州征伐」に参戦した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢の先陣を務めた。「武蔵岩槻城の戦い」で戦功を挙げた。1590年、「奥州仕置」では、羽後国内の検地を担当した。1591年、「葛西大崎一揆」では、羽柴秀次勢に属して戦功を挙げた。以後、羽柴秀次の附家老となった。1592年、「文禄の役」では、3,500余りを率いて朝鮮に渡海した。山城国淀城180,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して自刃を命じられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村高成【きむらたかなり(15??~1615)】
木村重茲の男。官途は志摩守。1615年、「大坂夏の陣」後、捕縛され法花堂で自刃させられ梟頸にされた。娘も磔にかけられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村重成【きむらしげなり(15??~1615)】
木村重茲の次男。官途は長門守。室は真野頼包の娘。羽柴秀頼の信頼が厚く、羽柴秀頼の重要な会議などにも列席した。1614年、「大坂冬の陣」では、大野治長、渡辺糺らとともに開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追放した。後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る松平元康勢を撃退して戦功を挙げた。「真田丸の戦い」にも参陣した。和議の交渉では、羽柴秀頼の正使として松平秀忠の誓書を受けた。1615年、「大坂夏の陣」では、長宗我部盛親とともに八尾、若江方面に参陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には木村重成勢が展開した。「八尾、若江の戦い」では、藤堂高虎勢を撃破したが、井伊直孝勢の攻撃を受け壊滅、井伊直孝勢の安藤重勝に討取られた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村由信【きむらよしのぶ(15??~1600)】
木村重茲家臣。通称宗左衛門。別名木村重広。剣の達人。木村重茲の家老職を務め6,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して、木村重茲が自刃すると、羽柴秀吉に仕え美濃国北方城10,000石を領した。1598年、長束正家のもとで越前国の検地役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大垣城二の丸を守備した。石田三成勢が大敗すると、相良長毎、秋月種長、高橋元種らが内応、熊谷直盛、垣見一直、木村豊統らとともに謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
木村豊統【きむらとよむね(15??~1600)】
木村由信の男。通称伝蔵。1600年、「関ヶ原の役」では、父木村由信とともに石田三成勢に属して大垣城二の丸を守備した。石田三成勢が大敗すると、相良長毎、秋月種長、高橋元種らが内応、熊谷直盛、垣見一直、木村由信らとともに謀殺された。
木村金右衛門【きむらきんえもん(15??~15??)】
中村一氏家臣。
木村宗明【きむらむねあき(15??~15??)】
木村重成家臣。官途は主計頭。物頭を務め1,000石を領した。
草加五郎右衛門【くさかごろうえもん(15??~16??)】
木村重成家臣。1615年、「大坂夏の陣」後、池田輝政に仕えた。
宮内卿局【くないきょうのつぼね(15??~1615)】
青木俊矩の娘。羽柴秀頼の乳母。別名「右京太夫局」。木村重茲に嫁ぎ、木村重武、木村重成をもうけた。1595年、「羽柴秀次事件」に連座して夫木村重茲と嫡男木村重武が自刃した。宮内卿局は木村重成を連れ、近江国坂田郡馬渕村に落延びた。後に許され、羽柴秀頼の乳母となり、木村重成は羽柴秀頼の小姓となった。1615年、淀殿、羽柴秀頼に殉じて自害した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
熊谷直盛【くまがいなおもり(15??~1600)】
羽柴秀次家臣。通称内蔵介。室は石田正継の娘。後に羽柴秀吉に仕え豊後国安岐城18,000石と近江国塩津城17,000石を領した。1597年、「慶長の役」では、目付として朝鮮半島に渡り、全羅道、忠清道を転戦した。1598年、「慶長の役」後、加藤清正や黒田長政らの訴えにより、改易処分に処された。1600年、「関ヶ原の役」では、旧領安岐城に復帰、叔父熊谷外記を城代に任じ、継嗣熊谷勝兵衛とともに大垣城に籠城した。石田三成勢が大敗すると、相良頼房、秋月種長、高橋元種らが内応、垣見一直、木村由信、木村豊統らとともに謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
熊谷勝兵衛【くまがいかつべい(15??~1600)】
熊谷直盛の男。1600年、「関ヶ原の役」では、父熊谷直盛とともに大垣城に籠城するが、相良頼房、秋月種長、高橋元種らの内応により、熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統らとともに謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
熊谷外記【くまがいげき(15??~15??)】
熊谷直盛家臣。安岐城代を務めた。
桑原貞也【くわはらさだや(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称次右衛門尉。馬廻衆組頭を務めた。
小出秀政【こいでひでまさ(1540~1604)】
羽柴秀吉家臣。小出政重の男。官途は播磨守。通称甚左衛門。別名小出重政。室は栄松院(大政所の妹)。羽柴秀吉に仕え和泉国岸和田城30,000石を領した。1587年、羽柴秀吉が病没する直前、羽柴秀頼の補佐役に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、嫡男小出吉政とともに石田三成勢に属して細川藤孝の丹後国田辺城を攻撃した。役後、処罰を受けるところ、次男小出秀家が松平元康勢に属して戦功を挙げ、所領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小出吉政【こいでよしまさ(15??~15??)】
小出秀政の男。官途は信濃守。通称小才次。室は伊東治明の娘。1589年、「小田原の役」に参陣した。1593年、播磨国龍野城20,000石を領した。1595年、但馬国有子山城城主となった。1600年、「関ヶ原の役」では、父小出秀政とともに石田三成勢に属して、丹後国田辺城を攻撃した。弟小出秀家が松平元康勢に属して戦功を挙げたため、役後60,000石の所領を安堵された。1604年、小出秀政が病没すると、遺領である岸和田城に入っり、但馬国出石城には継嗣の小出吉英が入った。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小出秀家【こいでひでいえ(1567~1603)】
小出秀政の次男。官途は遠江守。羽柴秀吉に仕え和泉国大鳥郡内で1,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、父小出秀政の陣代として兵300余りを率いて松平元康勢に参陣した。小出秀政と兄小出吉政は、石田三成勢に参陣した。「関ヶ原の戦い」に戦功を挙げ、領国に帰還後、敗走中の長宗我部盛親勢を捕捉、撃破した。これらの戦功により、河内国錦部郡1,000石が加増され、石田三成勢に属した小出秀政と小出吉政も所領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小出三尹【こいでみつまさ(1589~1642)】
小出秀政の四男(小出秀家)。官途は大隅守。通称五郎助。室は生田宇庵の娘。羽柴秀頼に仕えた。1603年、兄小出秀家が病没したため、末期養子となって陶器小出家の家督を相続した。1604年、甥小出吉英から10,000石を分与されて諸侯となった。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康勢に属した。尾張国や遠江国で奉行職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
郡宗保【こうりむねやす(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。
小西行長【こにしゆきなが(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。小西隆佐の次男。宇喜多直家に仕えたが、後に羽柴秀吉に仕えた。た。1585年、「第二次紀州征伐」では、海賊衆を率いて雑賀海賊衆と戦った。1585年、小豆島10,000石を領した。1584年、高山友照の影響を受け切支丹となった。小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。1587年、「九州征伐」後、肥後国人一揆勢の鎮圧に戦功を挙げ、肥後国宇土、益城、八代の三郡200,000石を領した。1589年、「天草国人一揆」を加藤清正らとともに鎮圧して、天草10,000石も所領に加えた。1592年、「文禄の役」では、加藤清正とともに先陣を務め、「釜山城の戦い」、「釜山鎮の戦い」、「東莱城の戦い」、「尚州の戦い」、「忠州の戦い」、「漢城の戦い」、「大同江の戦い」などで李氏朝鮮勢を撃破した。「第二次平壌城の戦い」では、祖承訓が率いる明勢を撃退した。1593年、「第三次平壌城の戦い」では、明勢の李如松率いる40,000余りの攻撃を受け、漢城まで退却した。「碧蹄館の戦い」では、追撃した来た明勢を撃破した。明の代表沈惟敬との和議の交渉が始まると、石田三成と共謀し偽りの書状を作成して、使者の内藤如安を北京に送った。明は、羽柴秀吉を日本国王に封じるとともに金印を羽柴秀吉に送ったが、羽柴秀吉が求める内容と異なったため、和議の交渉は破たんした。1597年、「漆川梁の海戦」では、李氏朝鮮水軍を撃破した。「南原城の戦い」後、全羅道方面を制圧した。1598年、「順天倭城の戦い」では、明勢の包囲を受けるが島津義弘勢の支援により脱出することができた。1600年、「関ヶ原の戦い」では、石田三成勢に属して、松平元康勢の田中吉政、筒井定次らと戦ったが、小早川秀秋らの内応で大谷吉継勢が壊滅すると、小西行長、宇喜多秀家勢も壊滅した。大坂城に落延びる途中、竹中重門の家臣伊藤源左衛門、山田杢之丞らに捕縛された。六条河原において石田三成、安国寺恵瓊とともに、市中引き回しの後、斬頸に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小西行景【こにしゆきかげ(1561~1600)】
小西隆佐の三男。通称隼人正。別名小西長元。小西行長が肥後国宇土城主となると宇土城代に任じられ5,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、宇土城を守り、麦島城の小西行重、島津義久に援軍要請の使者を発し守り加藤清正勢と戦った。加藤清正ぼ家臣梶原助兵衛を海戦で討取る戦功を挙げた。加藤清正は宇土城の宣教師に小西行景を説得するよう書状を送るが、小西行景は石田三成勢が敗北まで城兵を見事に指揮し、その采配は高く評価された。加藤内匠、芳賀新伍が小西行長の書状を持って宇土に到着、石田三成勢の大敗を知ると、城兵の助命と引き替えに下河元宜の屋敷で自刃した。役後、加藤清正に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小西長統【こにしながむね(1565~1593)】
小西隆佐の四男。官途は主殿介。洗礼名「ペトロ」。小西行長が肥後国宇土城主となると隈庄城代に任じられた。1589年、天草五人衆の反乱では先陣を務め、家中最高の10,000石を領した。1592年、「梁山城の戦い」では、宗義智とともに梁山城を攻略する戦功を挙げた。1593年、「平壌城の戦い」では、明勢に敗戦して城外脱出する際、小西行長らを落とすために、数十名の手勢で殿を務め討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小西忠右衛門【こにしちゅざえもん(15??~15??)】
小西長統の男。
小西行重【こにしゆきしげ(15??~16??)】
小西行長家臣。官途は美作守。別名木戸作右衛門。洗礼名「ディエゴ」。小西三家老のひとり。肥後国古麓城代を務め2,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、薩摩国に落延びた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小西長貞【こにしながさだ(15??~1600)】
小西行長家臣。官途は若狭守。名護屋城普請の作事奉行を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、麦島城から宇土城への援軍を率いて向かう途中、加藤清正勢と戦い敗走した。後に自刃した。
小早川左兵衛【こばやかわさへい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
駒木根友房【こまぎねともふさ(15??~1638)】
小西行長家臣。通称八兵衛。射撃に優れ、糸に吊した針を鉄炮で打ち抜くことから「懸針金作」と称された。1600年、「関ヶ原の役」後、小西行長が自刃すると、猟師となった。1637年、「島原の乱」では一揆勢に属して参陣した。板倉重昌を討取る戦功を挙げたが、原城落城の際に討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
------------------------------------------------------
【さ】
佐治日向守【さじひゅうがのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。尾張国の農夫だったが羽柴秀吉の妹朝日姫を内室としていたため、羽柴秀吉に仕え、佐治家の名目を継いで佐治日向守と称した。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、羽柴秀吉が松平元康と和議を結ぶため、妹朝日姫と佐治日向守を離縁させ、朝日姫を松平元康に嫁がせた。その後自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
篠原重之【しのはらしげゆき(15??~16??)】
木村重茲の四男。優秀で勇敢。1615年、「大坂夏の陣」後、九州に落延びた。九州を転々と移り住み、肥後国海東郷に居を定めた。残党狩りを逃れるため、姓を木村から篠原に改めた。1637年、「島原の乱」に参陣した。
嶋津又助【しまつまたすけ(15??~16??)】
小西行長家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、宇土城に籠城した。
志村資良【しむらすけよし(1561~1600)】
中村一氏家臣。志村資則の男。通称加兵衛。室は中村一氏の姪。近江国新村城主。1571年、織田信長勢の攻撃を受け落城、中村一氏を頼って落延びた。中村一氏の推挙で松平元康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で戦功を挙げ近江国蒲生郡内で500石を領した。参考資料:「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」。
白井龍伯【しらいりゅうはく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。軍配者を務めた。1611年、松平元康と羽柴秀頼の二条城会見の際、不慮の事態を心配した淀殿は龍伯に吉凶を占わせた。七日間の精進潔斎をして香を焚き、煙気を三度見た。結果、三度とも大凶であった。これを片桐且元に伝えると、片桐且元は龍伯に結果を吉と偽るよう命じた。羽柴秀頼が会見に応じなければ大坂で合戦が起こると危惧したためだ。龍伯がこれを拒むと、責任は自分が負うとして偽の結果を書かせた。淀殿は吉という結果を喜び、二条城会見に応じた。羽柴秀頼が無事に帰城すると、淀殿は白井龍伯に白銀百枚などの褒美を与えた。
白江成定【しらえなりさだ(15??~1595)】
羽柴秀次家臣。官途は備後守。通称権太夫。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、水野勝成勢と戦い敗走した。羽柴秀次が関白に就任すると60,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」では、謀反の嫌疑がかかると弁明に奔走したが叶わず、羽柴秀次は高野山に追放され自刃を命じられた。白江成定は、四条の大雲院に事情を説明、自刃した。内室は白江成定の自刃の後、「心をも染めし衣のつまなればおなじはちすの上にならばん」と辞世の句を残し四条道場で後を追って自刃した。
杉浦七郎左衛門【すぎうらしちろうざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1582年、荒木平太夫とともに備中国冠山城代を務めた。
杉原家利【すぎはらいえとし(1530~1584)】
杉原隆盛の男。羽柴秀吉家臣。
杉原隆利【すぎはらたかとし(15??~15??)】
杉原隆盛の次男。通称孫七郎。
杉原定利【すぎはらさだとし(15??~1593)】
杉原隆利の男(杉原家利の養子)。通称助左衛門。別名木下定利。室は杉原家利の娘(朝日姫)。北政所の父。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
杉原家次【すぎはらいえつぐ(1531~1584)】
杉原家利の次男。通称七郎左衛門。別名杉原家継。羽柴秀吉の家老職を務めた。1572年、近江国長浜城の留守居役を一柳直次、木下昌利らと務めた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉勢が撤退する際は殿を務め、播磨国姫路城の留守居役を務めた。1582年、「山崎の戦い」後、丹波国福知山城主に任じられた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、32,000石を領して、京都所司代に任じられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
杉原長房【すぎはらながふさ(1574~1629)】
杉原家次の男。官途は伯耆守。通称弥兵衛。室は浅野長政の娘。1584年、父杉原家次の病没より杉原家の家督を相続して、近江国坂本城主となった。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城に在陣した。1596年、羽柴秀吉の意向により坂本城から豊後国木付城へ転封した。1598年、但馬国豊岡城へ転封された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。役後、内室が浅野長政の娘であり、北政所の従兄弟にも当たるという縁戚関係から戦後は所領を安堵された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
杉若無心【すぎわか むしん15??~16??)】
羽柴秀長家臣。官途は越後守。通称藤七。越前国の出身。1585年、「第二次紀州征伐」では、羽柴秀長勢に属して湯河直春勢の芳養泊城を攻落した。戦後は紀伊国田辺の領主となり、泊山城を居城に城下町の整備を行った。家督を杉若氏宗に譲った。羽柴秀保が病没すると、羽柴秀吉に仕え19,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、杉若氏宗の舟手組頭として兵650余りを率いた。1600年、「関ヶ原の役」では、杉若氏宗とともに石田三成勢に属して、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
杉若氏宗【すぎわかうじむね(15??~15??)】
杉若無心の男。主殿頭。通称伝三郎。紀伊国田辺城19,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、父杉若無心、堀内氏善らとともに海賊衆を率いて参陣した。1597年、「慶長の役」では、桑山一晴、桑山貞晴とともに加徳倭城の城番を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、杉若無心とともに石田三成勢に属して大坂玉造口を守備した。「大津城の戦い」に参陣するが、石田三成勢が敗退すると、松平元康勢に降伏した。「紀伊新宮城の戦い」では、松平元康勢に属して参陣するも役後、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
仙石秀久【せんごくひでひさ(1551~1614)】
仙石久盛の四男(荻原国満の養子)。官途は越前守。通称権兵衛。室は野々村幸成の娘。側室は竹村新兵衛の娘。荻原国満の養子となるが、斎藤義興が織田信長に敗れると、兄仙石久勝に仙石家の家督を譲られ、織田信長勢に属した。1564年、羽柴秀吉の寄騎衆として畿内各地を転戦した。1570年、「姉川の戦い」に参陣して、浅井長政勢の山崎新平を討取る戦功を挙げ、近江国野洲郡内で1,000石を領した。1579年、茶臼山城を領して、赤松峠を越える播磨街道の警護を務めた。1581年、黒田孝高らと淡路国岩屋城、由良城を攻略した。1582年、「山崎の戦い」後、淡路国内の明智光秀勢の豪族衆を討伐する戦功を挙げた。1583年、羽柴秀勝とともに淡路国に赴き長宗我部元親勢に備えた。菅達長を打ち破り小豆島を攻略した。「讃岐喜岡城の戦い」では、高松頼邑の反撃を受け引田城に撤退した。1583年、長宗我部元親勢の香川信景の攻撃を受け引田城が落城したため、淡路国に撤退した。淡路国洲本城50,000石を領した。石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の淡路海賊衆を統括した。1585年、「第二次紀州征伐」で戦功を挙げた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」後、十河存保領(20,000石)を除く讃岐国を領した。1587年、「九州征伐」では、十河存保、長宗我部元親、長宗我部信親らとともに先陣として派遣された。「戸次川の戦い」で島津家久勢の伏兵に遭い大敗、十河存保、長宗我部信親ら多くの将兵を失った。責任を問われ、所領没収の上で高野山追放の処分を受けた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
千束善右衛門【せんぞくぜんざえもん(15??~1637)】
小西行長家臣。供頭を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、小西行長の意向を受け、有馬晴信、大村喜前、松浦鎮信ら九州諸侯に石田三成勢への参陣を要請する使者を務めたが、失敗した。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の侍大将を務めた。
----------------------------
【た】
高木盛兼【たかぎもりかね(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称十郎左衛門。別名高木守之。1587年、「九州征伐」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、美濃国海西郡高須城10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して高須城に籠城した。松平元康勢の徳永寿昌の経略に嵌り、津屋城主高木正家のもとに退却した。津屋城とともに高木正家とともに松平元康勢と戦うが敗れ、大垣城に退却した。役後、改易処分に処され、堀尾吉晴の食将となった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
高田治忠【たかだはるただ(15??~16??)】
羽柴秀勝家臣。官途は豊後守。近江国の出身。1582年、「山崎の戦い」に参陣した。1585年、羽柴秀勝が病没後、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」に参陣した。丹波国何鹿郡上林城10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して大坂高麗橋を守備した。「田辺城の戦い」に参陣した。役後、改易処分に処された。
多賀秀種【たがひでたね(15??~16??)】
羽柴秀長家臣。堀秀重の次男(多賀貞能の養子)。室は多賀貞能の娘。1582年、「本能寺の変」で明智光秀勢に属して改易処分になり、兄堀秀政に仕え佐和山城代を務め8,000石を領した。堀秀政の病没後、羽柴秀長に仕えた。「小牧、長久手の戦い」、「小田原の役」、「文禄、慶長の役」などに参陣した。大和国神楽岡城20,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣した。役後、改易処分に処された。甥堀秀治に仕えた。1610年、堀忠俊の代に堀家も改易され、再び浪人となった。1615年、「大坂夏の陣」では、前田利常勢に属して戦功を挙げ6,000石を領した。
多賀文蔵【たがぶんぞう(15??~1580)】
羽柴秀吉家臣。黄幌衆のひとり。1580年、「鳥取城の戦い」に参陣した。侍大将として吉岡定勝の拠る防己尾城を攻撃するが討死した。
高松憲重【たかまつのりしげ(15??~15??)】
小西行長家臣。讃岐国高松の出身。10,000石を領した。1592年、「文禄の役」では、先陣を務め戦功を挙げた。
瀧重時【たきしげとき(15??~15??)】
小西行長家臣。通称七右衛門。1592年、「文禄の役」では、島津義久との取次役を務めた。
竹内吉兵衛【たけうちきちべい(15??~15??)】
小西行長家臣。洗礼名「アンブロジオ」。1585年、「第二次紀州征伐」で戦功を挙げた。朝鮮半島に参陣していた小西行重に代わり麦島城代を務めた。
竹田兵衛【たけだへいえい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
竹田五兵衛【たけだごへい(15??~15??)】
小西行長家臣。洗礼名「シモン」。1600年、「関ヶ原の役」で小西行長が斬頸に処されると、加藤清正に仕えた。1603年、切支丹禁制に違反したとして加藤清正勢に捕縛された、処刑された。
竹ノ内吉兵衛【たけのうちきちべい(15??~15??)】
小西行長家臣。1600年、「宇土城の戦い」では、籠城して日比左近、植木菖蒲之助らとともに塩田口を守備した。
垂井昌次【たるいまさつぐ(15??~15??)】
中村一氏家臣。
垂井延正【たるいのぶまさ(15??~1609)】
中村一忠家臣。通称勧解由。中村一忠の小姓を務めた。1609年、中村一忠が病没すると殉死した。
竹阿弥【ちくあみ(15??~15??)】
羽柴秀吉の母(なか)の継夫。実子羽柴秀吉、朝日姫。前妻が病没したため、なかと再婚した。1551年、竹阿弥と馬が合わなかった羽柴秀吉は、家を飛び出した。竹阿弥の晩年の詳細は不明。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
立木直治【ついきただはる(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称久左衛門。尾張国丹羽郡高屋郷の出身。1569年、羽柴秀吉が伊勢国参陣する際に寄騎衆として付属された。1572年、羽柴秀吉の意向により杉原家次、一柳直末らとともに旧浅井長政領三郡の検地を行い122,300石と算出した。
寺沢広政【てらざわひろたか(1525~1596)】
羽柴秀吉家臣。寺沢広政の男。官途は志摩守。通称藤右衛門。洗礼名「アゴスティニョ」。室は妻木貞徳の娘。父寺沢広政とともに羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城の普請を務め、諸将や九州諸侯への取次役を務めた。1594年、切支丹に改宗した。1597年、日本二十六聖人処刑を契機に棄教した。朝鮮半島に渡海した羽柴秀吉勢の補給や兵力輸送の任を務めた。小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して、役後天草40,000石を加増された。唐津城123,000石を領した。唐津や天草の豪族を弾圧したが、唐津は安定し繁栄した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺沢忠晴【てらざわただはる(1600~1622)】
寺沢広高の男。官途は式部少輔。1620年、松平秀忠に謁見したが、家督を継ぐことなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺沢堅高【てらざわかたたか(1609~1647)】
寺沢広高の次男。官途は兵庫頭。室は岡部長盛の娘。継室:相馬利胤の娘。1622年、兄寺沢忠晴が早世したので継嗣となった。1633年、父寺沢広高の病没により寺沢家の家督を相続した。天草地方の切支丹を弾圧を厳しくした。1637年、「島原の乱」では、江戸から帰国して西国諸侯とともに乱の鎮圧にあたった。乱の終結後は失政の責を問われ、天草領40,000石を収公された。1647年、江戸の海禅寺で自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺田光吉【てらだみつよし(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。官途は播磨守。大和国内で15,000石を領した。1594年、羽柴秀保が病没すると、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属した。「伏見城の戦い」に参陣した。役後、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺西直次【てらにしなおつぐ(1557~1649)】
羽柴秀吉家臣。官途は備中守。通称勝兵衛。別名寺西定時。美濃国本巣郡本田城10,000石を領して、羽柴秀吉の蔵入地近江国長浜城100,000石の代官職を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して関東の地にあったが、石田三成の挙兵を聞くと、松平元康に断りを入、氏家行広とともに桑名城に戻り籠城した。石田三成勢の大敗後、山岡景友、九鬼守隆らの攻撃を受け降伏した。後に前田利長に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺西新五郎【てらにししんごろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。寺西正勝の男。摂津国内で5,400石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、弟寺西是成勢に属した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
寺西是成【てらにしこれなり(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。寺西正勝の次男。別名寺西清行。伊勢国内で10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、北国口を守備した。前田利長に備えるため、兵500余りを率いて、丹羽長重の加賀国小松城に籠城した。石田三成勢が大敗すると逐電した。後に丹羽長重に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
戸倉織部【とくらおりべ(15??~15??)】
森高政家臣。
戸田勝隆【とだかつたか(15??~1594)】
羽柴秀吉家臣。官途は民部少輔。通称三郎四郎。羽柴家四天王のひとり。1573年、黄母衣衆として近江国長浜で250貫文を領した。1577年、羽柴秀吉が播磨姫路城主となると、5,000石に加増された。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣して戦功を挙げた。戸田勝隆は、近江国内の検地奉行や、城割奉行なども務め、後には切支丹禁教令による教会の長崎の土地の没収を命じた書状にも浅野長政ともに連署した。千利休や津田宗及主催の茶会にも参列した。1585年、「四国討伐(天正の陣)」後、伊予国大洲城70,000石を領した。1588年、戸田勝隆の伊予支配は民衆の反撥を買い、圧政に対して大一揆が起こった。一揆勢は黒瀬城、丸串城を襲ったが、劣勢にたたされた、戸田勝隆は土居清良の支援を受け鎮圧したが、西園寺公広が一揆勢の首謀者と疑いこれを謀殺した。以後領内の諸将に人質を出させ、不穏な動きのあるものは謀殺した。寺社領は没収され、建物は破却され、貢物を収めさせるなど、苛政は極めた。織田信長の旧臣安見右近を3,000石、伊予国人衆の法華津前延は200石、喜多郡の豪族衆曾根宣高の嫡男曾根高房を300石を登用した。土居清良の登用も図ったが、失敗に終わった。1589年、「小田原の役」では、1,700余り軍役を負担した。1592年、「文禄の役」では、3,900を率いて朝鮮へ渡海。尚州の守備についた。「第二次晋州城の戦い」では、兵2,500を率いて参陣した。「巨済島海戦」では、福島正則とともに戦功を挙げた。巨済島に滞留して講和交渉に当たるが、在陣中に病没した。
戸田駿河守【とだするがのかみ(15??~1588)】
戸田勝隆家臣。1588年、戸田勝隆が西園寺公広を謀殺した際に討死した。
戸田信種【とだのぶたね(15??~15??)】
戸田勝隆家臣。通称左衛門。
富田知信【とみたとものぶ(15??~1599)】
羽柴秀吉家臣。富田助知の男。官途は左近将監。通称平右衛門尉。別名富田一白。室は黒田久綱の娘。秀次自刃後、秀吉は前田利家に起請文を提出させた。一白は増田長盛、長束正家、石田三成、前田玄以、宮部継潤とともに起請文を宛てられている。織田信長に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉に仕えた。以後、羽柴秀吉の外交使節として功を挙げた。1584年、「小牧、長久手の戦い」後、松平元康、織田信雄との和議の使者を務め、後に羽柴秀吉の妹朝日姫と松平元康の婚儀をまとめた。1589年、「小田原の役」では、北条氏直への使者を務めた。その後、伊達政宗との取次役を務めた。1592年、「文禄の役」に参陣した。1595年、「羽柴秀次事件」後、浅野長政が蟄居すると、五奉行の職務を代行した。1595年、伊勢国安濃津城30,000石、継嗣の富田信高が20,000石の計50,000石を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
富田信高【とみたのぶたか(15??~1633)】
富田知信。室は宇喜多安信の娘。継室は宇喜多忠家の娘。1595年、父富田知信が伊勢国安濃津城30,000石を領すると、別家を立て20,000石を領した。1599年、富田知信が病死したため、遺領30,000石を併せて安濃津城主となった。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して兵500余りと下野国小山にあったが、伊勢国上野城主分部光嘉とともに伊勢国に帰国、松坂城主古田重勝の兵500余りを加え、1,700余りで安濃津城に籠城して石田三成勢(毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂ら)30,000余りを迎え撃った。分部光嘉は毛利輝元家臣の宍戸元次と双方重傷を負うほど奮闘し、富田信高も自ら槍を振るって戦ったが、群がる敵兵に囲まれたところへ、若武者(富田信高の内室)が救援に駆けつけ、富田信高の命を救った。富田信高勢は善戦したが衆寡敵せず、木食応其が仲介により和議が結ばれ、富田信高は剃髪して高野山にのぼった。役後、戦功を認められ、旧領の安堵のほか伊勢国内で20,000石の加増を受けた。1608年、伊予国宇和島城101,900石に転封された。1613年、坂崎直盛との間で争いが生じて、改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
富田高定【とみたたかさだ(15??~1600)】
富田知信の次男。羽柴秀次家臣。通称蔵人。若江八人衆のひとり。羽柴秀次が三好康長の養子と入る際、羽柴秀次の近侍として仕えた。1590年、伊勢国内で2,292石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」では、追い腹を行おうとするが咎められ、京都西山に幽閉された。前田利家に仕え10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、前田利長勢の侍大将として参陣した。「加賀大聖寺城の戦い」で討死した。
豊田元勝【とよたもとかつ(15??~15??)】
森高政家臣。
------------------------------------------------------
【な】
内藤長秋【ないとうながあき(15??~15??)】
木村重成家臣。別名内藤新十郎。番頭を務め3,000石を領した。母は饗庭局。
中井平右衛門尉【なかいへいえもんのじょう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆組頭を務めた。
中江直澄【なかえなおずみ(15??~16??)】
羽柴秀吉家臣。官途は式部少輔。馬廻衆のひとり。1589年、「忍城の戦い」では、石田三成勢に属して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に在陣し、東二の丸御後備衆、本丸裏表御門番衆を務め10,000石を領した。1598年、「醍醐の花見」では警護役を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、川口宗勝と大坂城から松平元康に従うために出陣したが、増田長盛、長束正家に留められ、心ならずも石田三成勢に属した。「安濃津城の戦い」などに参陣したため、役後所領を没収され、川口宗勝とともに伊達政宗に預けられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
中嶋氏種【なかじまうじたね(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。黄幌衆で羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。
中西弥五作【なかにしよごさく(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称掃部助。1578年、「三木城の戦い」で築かれた附城を守備した。
中村一氏【なかむらかずうじ(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。中村一政の男。官途は式部少輔。通称孫平次。室は池田恒興の娘(安養院)。1573年、近江国長浜内200石を領した。1582年、「山崎の戦い」に参陣して鉄炮隊を率いて戦功を挙げた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」に参陣し戦功を挙げ、和泉国岸和田城30,000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、岸和田城を守備した。紀州勢の猛攻を受けたが寡兵ながら撃退した。1585年、近江国水口岡山城60,000石を領した。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀次勢の先陣を務め、松田康長が守る山中城を攻落した。1591年、松平元康が関東に転封になると、駿河国駿府城140,000石を領した。1598年、三中老に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが、まもなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
中村一忠【なかむらかずただ(1590~1609)】
中村一氏の男。官途は伯耆守。室は松平康元の娘(松平元康の養女)。1600年、「関ヶ原の役」では、父中村一氏が病没したため、筆頭家老職の横田村詮の補佐を受け、松平元康勢に属した。役後、伯耆国米子城175,000石を領した。横田村詮は、幼年の中村一忠に代り中村家の家政を取り仕切った。これに反対する安井清一郎、天野宗杷らが、中村一忠を巻き込み横田村詮を謀殺した。横田村詮の嫡男横田主馬助、柳生宗章ら屋敷に籠城したが、堀尾吉晴の支援を受け鎮圧した。これを受け、松平元康は、首謀者の安井清一郎、天野宗杷らと側近の道上長兵衛、道上長衛門に自刃を命じたが、中村一忠は処分を受けなかった。1609年、急逝した。小姓の服部邦友、垂井延正が殉死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
中村一栄【なかむらかずしげ(15??~1604)】
中村一政の次男。通称彦右衛門。1590年、兄中村一氏が駿河国駿府城を領すると、沼津三枚橋城主に任じられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属したが、病床にあった中村一氏の陣代を務めた。中村一栄は、桂市兵衛、織田四郎左エ門、鈴木勝元らと犬山城を攻め開城させた。「杭瀬川の戦い」では、石田三成の家臣島清興勢の罠にはまり、有馬豊氏とともに撃破され、野一色助義ら30余りが討取られた。「関ヶ原の戦い」では、南宮山に拠る毛利秀元を抑えとして、甥の中村一忠とともに垂井を守備した。役後、中村一忠が伯耆国米子城175,000石を領すると、八橋城30,000石を領した。家老職筆頭の横田村詮とともに中村一忠の後見役を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
中村栄忠【なかむらしげただ(15??~15??)】
中村一栄の男。官途は伊豆守。1605年、父中村一栄の菩提寺として大岳院を創建した。
西名兵部【にしなひょうぶ(15??~15??)】
森高政家臣。
沼隼人【ぬまはやと(15??~15??)】
森高政家臣。
野一色助義【のいっしきすけよし(1548~1600)】
中村一氏家臣。野一色行久の男。通称頼母。室は黒川盛治の娘。近江国坂田郡出身。家老職として8,000石を領した。1600年、「杭瀬川の戦い」では、中村一栄に従い島清興勢と戦い。敵を追撃しようと橋を渡ったところで伏兵に遭い、猛攻を受けた。騎馬で手強く奮戦するも深田に足をとられ宇喜多秀家の家臣浅賀三左衛門に討取られた。家臣の奮戦により、頸は奪われなかった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野一色助重【のいっしきすけしげ(1589~1615)】
野一色助義の次男。1612年、松平秀忠に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」では、青山忠俊勢に属した。「道明寺の戦い」で討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野一色義重【のいっしきすけしげ(15??~1654)】
野一色助義の三男。室は中川時宗の娘。松平忠輝に仕えた。1615年、「道明寺の戦い」で兄野一色助重助重が討死したため、松平秀忠から近江国蒲生郡内2,000石の馬廻衆として取立てられ、西城書院番を務めた。1636年、一柳直盛が伊予国西条城に転封した際、城引渡役の任を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野々村雅春【ののむらまさはる(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。
----------------------------
【は】
芳賀新五【はがしんご(15??~15??)】
小西行長家臣。1600年、加藤内匠とともに宇土城に入り、石田三成勢の敗北と小西行長の自刃を城兵に伝えた。
羽柴秀吉【はしばひでよし(1536~1598)】
織田信長家臣。木下弥右衛門の男。官途は筑前守。通称藤吉郎。別名豊臣秀吉。室は杉原定利の娘(禰々)。尾張国愛知郡中村出身。頭陀寺城主松下之綱に仕えたが、まもなく退去した。1554年、織田信長に足軽衆として仕えた。1561年、浅野長勝の養女で杉原定利の娘禰々と婚姻した。美濃国の斎藤龍興との戦いで、川並衆の蜂須賀正勝、前野長康、竹中重治、牧村利貞、丸毛兼利らとともに墨俣城を築城した。1568年、「観音寺城の戦い」で戦功を挙げた。明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。1570年、「第一次越前討伐」の撤退戦で戦功を挙げた。1573年、朝倉義景、浅井長政が滅亡すると、長浜城主に任じられた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討取られると、「山崎の戦い」で明智光秀を討取り、織田家で最大の戦功を挙げた。織田信忠の遺児織田信秀をを擁立して、柴田勝家を破り織田家内部で勢力争いに勝ち、織田信長の後継の地位を得た。関白、太政大臣に就任し、豊臣姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。1592年、「文禄の役」では、明の征服を図り朝鮮半島に出兵するが失敗した。1597年、「慶長の役」の最中、継嗣の羽柴秀頼を松平元康ら五大老に託して病没した。参考文献:コトバンク「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」。
羽柴秀長【はしばひでなが(1540~1591)】
羽柴秀吉家臣。竹阿弥の男。官途は美濃守。通称小一郎。別名豊臣秀長。室は智雲院。出陣中の羽柴秀吉に留守居役を務めることが多かった。1573年、羽柴秀吉が浅井長政の旧領を治め、長浜城主に任じられると城代を務めた。城代時代には藤堂高虎を登用した。羽柴秀吉が織田信長から「中国方面軍司令官」に任じられると、山陰道及び但馬国平定の指揮官に任じられた。1578年、別所長治が謀反を起こすと、羽柴秀吉とともに播磨国を転戦した。1579年、淡河城を攻撃するが、淡河定範の反撃により敗退したが、淡河定範が淡河城を焼いて撤退したため、三木城への補給路を断つことに成功した。1580年、三木城を攻落し、但馬国出石城、有子山城の山名祐豊を滅ぼし、出石城主となった。1581年、「鳥取城の戦い」で吉川経家を自刃させた。1582年、「備中高松城の戦い」では、水攻めを行い、城主清水宗治を自刃に追い込んだ。「本能寺の変」で織田信長が討死すると、毛利輝元と和議を結んで畿内に引き返し「山崎の戦い」で明智光秀勢を撃破した。1583年、「賤ヶ岳の戦い」後、播磨国、但馬国の二ヶ国を領して姫路城主となった。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、羽柴秀吉の名代として和議の交渉を行った。1585年、「第二次紀州征伐」では、羽柴秀次とともに副将を務めた。この戦功により紀伊国、和泉国640,000石を領した。「四国討伐(天正の陣)」では、羽柴秀吉の陣代を務め、長宗我部元親を降伏に追い込んだ。戦後、大和国を加増され1,000,000石を領した。1587年、「九州征伐」では、日向国方面の総大将として島津義弘勢を降した。1591年、大和郡山城内で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴秀次【はしばひでつぐ(1568~1595)】
木下弥助の男(羽柴秀吉の養子)。官途は中納言。通称次兵衛尉。別名豊臣秀次。室は池田恒興の娘(若御前)。1571年、浅井長政から織田信長勢に寝返った宮部継潤へ養子(人質)に出された。1579年、織田信長勢に属した三好康長に父の木下弥助ともに養子に出された。三好吉房、羽柴秀次は三好孫七郎信吉と称した。1581年、「四国討伐」では、養父三好康長とともに先陣として阿波国に参陣した。1582年、「本能寺の変」で織田信長が討死すると、四国で孤立して堺に落延びた。1588年、後陽成天皇の行幸では叔父羽柴秀長、松平元康ら武家の公卿とともに天皇の行列に供奉しました。1591年、羽柴秀吉が、弟の羽柴秀長、実子鶴丸を失いうと、関白の座と聚楽第を羽柴秀次に譲った。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に在城した羽柴秀吉の代わりに、朝廷との取次役を務めた。1593年、羽柴秀吉の継嗣羽秀頼が生まれたことで、羽柴秀次の立場が微妙なものとなった。1595年、「羽柴秀次事件」で謀反の疑いで高野山で自刃させました。羽柴秀次の自刃後、聚楽第の破却した。羽柴秀次の子供と妻妾とその侍女三十四名は三条河原で処刑された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴秀勝【はしばひでかつ(1569~1592)】
木下弥助の次男(羽柴秀吉の養子)。官途は左近衛権少将。室は浅井長政の娘(於江)。1587年、「九州征伐」では、十一番隊5,000余りを率いて参陣した。「豊前岩石城の戦い」では、蒲生氏郷、前田利長らとともに岩石城を攻落した。戦後の論功行賞で、丹波国亀山城100,000石の加増では不足であると訴えたため、羽柴秀吉の怒りを買い所領を没収された。1589年、「小田原の役」後、松平元康が関東に転封になると、甲斐国24,000石を領した。1591年、美濃国岐阜城へと転封となり、甲斐国は加藤光泰が領した。1592年、「文禄の役」では、兵8,000余りを率いて、九番隊の大将として参陣した。細川忠興らを率いて、巨済島に渡ったが病を発して、病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴秀保【はしばひでやす(1579~1595)】
木下弥助の三男(羽柴秀長の養子)。官途は中納言。別名豊臣秀保。室は羽柴秀長の娘(おきく)。1591年、継嗣のない叔父羽柴秀長の娘と祝言をあげ、婿養子となった。羽柴秀長が病没後、大和羽柴家の家督を相続した。藤堂高虎と桑山重晴が羽柴秀保の後見役を務め、大和国、紀伊国二ヶ国を領した。1592年、「文禄の役」では、兵150,000余りを率いて肥前国名護屋城に参陣した。堀内氏善、藤堂高虎、桑山元晴、桑山一晴、杉若氏宗、杉若無心らは渡海して海賊衆として戦った。本多俊政は壱岐勝本城に兵500を率いて在番し、兵站物資の海上輸送と島内の治安維持を担当した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴鶴松【はしばつるまつ(1589~1591)】
羽柴秀吉の次男。通称八幡太郎。長寿を祈って「棄(捨)」と名付けた。傅役には、老臣の石川光重が任じられた。生後30日の祝には、禁中より産衣など祝儀の品々を賜り、公家や家臣、町人に至るまで、様々な祝賀、進物を受けた。羽柴秀吉は鶴松を後継者とするため、淀殿とともに大坂城に迎え入れた。出立に際して後陽成天皇が祝賀として太刀を贈り、公家や群臣も再び祝賀の品々を贈ったが、鶴松は輿に乗せられ、絢爛豪華な大行列を従えて淀城から大坂城へと行進して入城した。1589年、「小田原の役」後、病を得て病気がちになった。1591年、鶴松は病を得ると、羽柴秀吉は全国の神社仏閣に病気平癒の祈祷を命じ、再び春日神社に300石の寄進がされて祈祷が行われたが、まもなく病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴秀頼【はしばひでより(1593~1615)】
羽柴秀吉の三男。官途は近衛権中将。別名豊臣秀頼。室は松平秀忠の娘(千姫)。羽柴秀吉の晩年の継嗣。1591年、継嗣であった鶴松を失った羽柴秀吉は、羽柴秀次を養子に迎え関白に任じて自らの後継者とした。1596年、羽柴秀吉は、御掟、御掟追加などの基本法や五大老、五奉行などの職制を導入して羽柴秀頼を補佐する体制を整えた。1598年、羽柴秀吉が病没すると、羽柴家の家督を相続して大坂城に移った。1600年、「関ヶ原の役」では、馬廻衆の一部を石田三成勢に参陣させた。役後、松平元康は、羽柴秀吉が全国の諸侯領に設置されていた1,550,000石余りを没収、摂津国、河内国、和泉国の直轄領650,000石の諸侯に没落した。1611年、「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正、浅野幸長の警護のもと、京都二条城で松平元康との会見を行った。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢は福島正則、加藤嘉明など諸侯に檄を飛ばしたが、羽柴秀頼勢に参陣したのは、真田信繁、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登らなど浪人衆にとどまった。軍議は浪人衆と大野治長や淀殿らが対立し、最後まで相違は解けなかった。局地戦ではいくつかの勝利を掴んだが、最終的には松平元康勢との間で和議が結ばれた。1615年、「大坂夏の陣」では、「大和郡山城の戦い」、「八尾、若江の戦い」、「道明寺で戦い」、などので勝利を得るが、木村重成、後藤基次が討死に、撤退を余儀なくされた。「樫井の戦い」では、大野治房、塙直之勢が浅野長晟に敗れた。「天王寺、岡山の戦い」では、真田信繁勢が松平元康の本陣に突撃をするが、力尽き討死した。他の羽柴秀頼勢の諸将も次々に敗れ大坂城に撤退した。大野治長は千姫の身柄と引き換えに羽柴秀頼の助命を嘆願したが受け入れられず、淀殿や大野治長らとともに自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴国松【はしばくにまつ(1608~1615)】
羽柴秀頼の男(砥石屋弥左衛門の養子)。正室の千姫を憚って、砥石屋弥左衛門に養子に出された。1614年、「大坂冬の陣」では、常高院とともに大坂城に入城し、父羽柴秀頼と対面した。1615年、「大坂夏の陣」では、羽柴秀頼とに盃を交わし、田中六郎左衛門、乳母とともに城を落延びた。しかし、松平元康勢の捜索により京都所司代板倉勝重に捕縛され、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親とともに斬頸に処された。田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら殉死を志願して処刑された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽柴奈阿姫【はしばなあひめ(1609~1645)】
羽柴秀頼の娘。側室小石の方(成田助直の娘)。別名「天秀尼」。兄羽柴国松とは異腹。正室である千姫とは義理の親子関係だったが、仲がよかったとされる。成田甲斐姫が養育役を務めた。1615年、「大坂夏の陣」後、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために助命され、相模国鎌倉の東慶寺で出家した。1643年、会津若松城主加藤明成と家老職の堀主水が仲違いして堀主水が謀殺された際、、東慶寺に堀主水の妻子を匿った。加藤明成は妻子の引渡しを要求するが、天秀尼は男子禁制、女性保護を楯に断り、松平家光にその旨を訴えた。加藤明成は改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
長谷川式部大輔【はせがわしきびだいゆ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。小姓頭を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。
服部邦友【はっとりくにとも(15??~1609)】
中村一忠家臣。官途は若狭守。中村一忠の小姓を務めた。1609年、中村一忠が病没すると殉死した。
羽田正親【はねだまさちか(15??~1595)】
羽柴秀長家臣。近江国の出身。羽柴秀長が大和国を領すると48,000石を領した。戦でも内政でも活躍した。羽柴秀長の病没後、羽柴秀次に仕えたため、連座の罪を問われ死罪となった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
早川長政【はやかわながまさ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。早川幸憲の男。官途は主馬頭。通称喜八郎。別名武田長敏。馬廻衆を務め、「小牧、長久手の戦い」、「四国討伐」、「九州討伐」、「小田原の役」で戦功を挙げた。1587年、「九州征伐」では、生駒親正とともに箱崎に営舎を構築した。秋月種実降伏後、益富城の城番を務めた。1586年、京都方広寺大仏造営では作事奉行を務めた。聚楽第行幸では関白の行列の前駆左の列に供奉を務めた。1589年、「小田原の役」では、200余りを率いて参陣した。片桐且元とともに鎌倉、武蔵小机の地下人に鶴岡八幡宮の修復のために茅葺き資材と人足の動員を命じた。1591年、増田長盛らとともに近江国を検地を実施した。1592年、「文禄の役」では、高麗舟奉行を務め、後に漢城へ駐屯した。1597年、「慶長の役」では、軍監として参陣した。1593年、大友吉統が改易処分を受けると、大分郡府内城13,000石を領して、羽柴秀吉の蔵入地47,000石を預かった。1596年、「慶長豊後地震」では、別府湾の沖ノ浜が津波の後、水没するなど甚大を受けた。1597年、「蔚山城の戦い」で、落ち度があったとして改易処分を受け、豊後国杵築に蟄居した。1599年、福原直高が領民に過度な賦役を課したと裁定され、改易処分になると、府内城20,000石に復帰した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して参陣した。「田辺城の戦い」では、毛利高政とともに安久口に布陣した。豊後国府内城は、城代早川内右衛門が松平元康勢の細川忠興に降伏した。役後改易処分を受けた。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、真田信繁勢の寄騎衆として天王寺口で戦い行方不明となった。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
早川九右衛門【はやかわきゅうえもん(15??~15??)】
早川長政の男。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成勢が敗れると、府内城で降伏した。その後、細川忠興に仕えた。
尾藤重吉【びとうしげよし(15??~1570)】
小笠原長時家臣。小笠原長時が武田晴信に敗れ没落すると、今川義元に仕えた。1560年、今川義元が討死すると、嫡男宇多又八郎とともに森可成に仕えた。1570年、「宇佐山城の戦い」で討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
尾藤又八郎【びとうまたはちろう(15??~1570)】
尾藤重吉の男。1570年、「宇佐山城の戦い」で討死した。
尾藤知宣【びとうとものぶ(15??~1590)】
羽柴秀吉家臣。尾藤重吉の次男。官途は左衛門尉。通称甚右衛門。別名尾藤知重。神子田正治、宮田光次、戸田勝隆らと並び称された古参の家臣で黄母衣衆のひとり。1573年、近江国長浜で250貫を領した。1577年、播磨国内で5000石を領した。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、小牧山攻めを提案した森長可の意見を承認し、軍監として参陣したが羽黒で酒井忠次、榊原康政らの奇襲を受けて敗走した。1585年、「四国征伐」では、羽柴秀長勢に属して、阿波国木津城を攻略する戦功を挙げ、讃岐国丸亀城50,000石を領した。1587年、「戸次川の戦い」で失態を犯し改易された仙石秀久の後継として軍監に就任した。羽柴秀長勢に属して、黒田孝高や小早川隆景などの諸将を差配した。日向国高城攻略中、宮部継潤の守る根白坂砦が島津義弘勢の攻撃を受けた際、援軍を派遣しなかったため、羽柴秀吉の勘気を蒙り所領を没収され追放された。1589年、「聚楽第落書き事件」に斯波義銀、細川信良とともに巻き込まれ捕縛された。1589年、「小田原の役」後、羽柴秀吉に帰参を願い出たが許されず謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
尾藤頼忠【びとうよりただ(15??~15??)】
尾藤重吉の三男。官途は下野守。通称久右衛門。別名宇多頼忠。父尾藤重吉が森可成に仕えた後も、宇多頼忠は引佐郡に残り、武田晴信に仕えた。1564年、武田晴信の家臣真田昌幸に長女を嫁がせた。1573年、「長篠の戦い」後、武田勝頼が勢力を失うと、兄尾藤知宣を頼り、その仲介で羽柴秀長に仕えた。羽柴秀長が大和国郡山城1,000,000石を領すると、藤堂高虎に次ぐ次席家老として13,000石を領した。石田三成に次女皎月院を嫁がせた。1587年、「九州征伐」で、兄藤尾知宣が羽柴秀吉の不興を買って改易後、謀殺されると、尾藤頼忠は宇多頼忠と称して石田三成のもとに身を寄せた。1600年、「関ヶ原の戦い」後、佐和山城は松平元康勢の攻撃を受け、宇多頼忠は嫡男宇多頼重、石田正継、石田正澄らとともに自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
尾藤頼重【びとうりしげ(15??~1600)】
尾藤頼忠の男。官途は河内守。別名宇多頼重。1600年、「関ヶ原の役」では、父宇多頼忠とともに佐和山城を守備した。石田三成勢が大敗すると、小早川秀秋ら内応組を中心とした松平元康勢の攻撃を受け、石田正継や石田正澄らとともに自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
日比左近【ひびさこん(15??~15??)】
小西行長家臣。鉄炮頭を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、宇土城に籠城して塩田口を守備した。
平塚為広【ひらつかためひろ(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。平塚入道無心の男。官途は因幡守。通称孫九郎。はじめ明智光秀に仕えた。1582年、「本能寺の変」後、羽柴秀吉の馬廻衆として仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣して戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。1595年、美濃国垂井城12,000石を領した。1598年、醍醐の花見にも羽柴秀吉の護衛役として参列した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成の挙兵を大谷吉継とともに反対するが、受け入れられず石田三成勢に属した。「関ヶ原の戦い」では、大谷吉継の意向を受け、戸田勝成とともに小早川秀秋勢に動きを監視した。小早川秀秋勢が松平元康に内応、大谷吉継勢は背後から攻撃を受けるが数度に渡り撃退した。脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らが相次いで内応、四方から攻撃を受け大谷吉継勢は壊滅した。平塚為広は孤軍奮闘したが、小川祐忠の家臣小川勘助の被官樫井太兵衛に討取られた。辞世の句は「名のために棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
平塚久賀【ひらつかひさよし(15??~15??)】
平塚入道無心の次男。大剛の者。松平元康から招かれたが、と断り石田三成に仕えた。紀伊国の大福山本恵寺を再建した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して奮戦したが、石田三成勢の壊滅とともに捕縛されたたが、松平元康から許された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
平塚為景【ひらつかためかげ(15??~1615)】
平塚為広の男。官途は左馬助。1615年、「大坂夏の陣」に参陣したが、「若江の戦い」で討死した。
平塚庄兵衛【ひらつかしょうざえもん(15??~15??)】
平塚為広の次男。
福原長堯【ふくはらながたか(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。福原則高の男。官途は右馬助。別名福原直高。室は石田正継の娘。1587年、「根白坂の戦い」では、宮部継潤らとともに島津義弘勢の攻撃を受けるがこれを守り切った。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城後備衆として二の丸を守備した。1593年、蔵入地の播磨国三木郡の代官職を務めた。1594年、但馬国豊岡城20,000石を領した。1595年、「羽柴秀次事件」で、羽柴秀次が高野山で自刃した際には、福島正則、池田秀氏とともに検死役を務めた。1597年、豊後府内大分郡、速水郡、玖珠郡内で120,000石を領した。「慶長の役」では、朝鮮に渡り軍目付を務め、、小早川秀秋、黒田長政、早川長政などの軍令違反を羽柴秀吉に報告した。1599年、石田三成の失脚後、「慶長の役」での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められ、松平元康ら五大老より府内領は没収されて臼杵城60,000石に減封された。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、垣見一直、熊谷直盛、木村由信、木村豊統らとともに大垣城の守将を務めた。石田三成勢が大敗すると、相良頼房、秋月種長、高橋元種らの内応により垣見一直、熊谷直盛、木村由信、木村豊統らが謀殺されたため、松平元康勢の西尾光教の勧めで降伏したが、許されず自刃した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
藤井六弥太【ふじいろくやた(15??~15??)】
小西行長家臣。1600年、「宇土城の戦い」では、籠城して廻江橋を守り奮戦した。
別所吉治【べっしょよしはる(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は豊後守。小姓頭を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。
堀田盛重【ほったもりしげ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は図書助。馬廻衆組頭を務めた。1600年、石田三成ら奉行衆と対立して、伏見城に出奔した。役後、羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭を務めた。
------------------------------------------------------
【ま】
蒔田広定【まきたひろさだ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称権佐。小姓頭を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。
蒔田広政【まきたひろまさ(15??~1607)】
蒔田広光の男。官途は主水正。別名蒔田政勝。金切裂指物使番のひとり。
牧野成里【まきのなりさと(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢の後備を務めた。役後、松平元康に仕え3,000石を領した。
益田好次【ますだよしつぐ(15??~15??)】
高山右近家臣。祐筆を務めた。小西行長に仕え6,000石を領した。
益田主殿【ますだしゅでん(15??~15??)】
森高政家臣。
松下吉綱【まつしたよしつな(15??~15??)】
中村一氏家臣。1590年、駿河国を中村一氏が領すると、松下吉綱が久能山城主となった。
真野頼包【まのよりかね(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。官途は左近丞。羽柴秀頼の馬廻衆七手組頭ひとり。1584年、「小牧、長久手の戦い」に参陣した。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城を守備した。
南五郎左衛門【みなみごろうざえもん(15??~1603)】
小西行長家臣。1600年、「関ヶ原の役」で小西行長が斬頸に処されると、加藤清正に仕えた。1603年、切支丹禁制に違反したとして加藤清正勢に捕縛された、処刑された。
宮木右京亮【みやぎさきょうのじょう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。小姓頭を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前国名護屋城に参陣した。
三宅重徳【みやけしげとく(15??~1637)】
小西行長家臣。通称次郎右衛門。1637年、「島原の乱」では、一揆勢を指揮した。
宮田光次【みやたみつつぐ(15??~1578)】
羽柴秀吉家臣。通称喜八郎。羽柴家四天王で黄母衣衆のひとり。1573年、羽柴秀吉に仕え長浜近辺で250貫を領した。羽柴秀吉が織田信長の意向で中国方面総司令官に任命されると、「中国遠征」に参陣し、播磨国内で5,000石を領した。1578年、「三木城の戦い」で別所長治勢と戦い討死した。
三好若狭守【みよしわかさ(15??~15??)】
森高政家臣。
毛利隼人佐【もうりはやとのすけ(15??~15??)】
森高政家臣。豊後国日隈城代を務めた。1596年、毛利高政が日隈城20,000石を領して日隈城に入り、五重の天守を備えるなど城を改修した。1600年、「関ヶ原の役」では、黒田孝高勢の攻撃を受け開城した。役後、毛利高政は佐伯城20,000石に転封され、日隈城は蔵入地となり、引き続き蔵入地の管理を任され毛利隼人佐が代官として在地した。
森宗意軒【もりそういけん(15??~1538)】
小西行長家臣。西村孫兵衛の男。通称三左衛門。別名西村傅之丞。河内国石川郡の水分五社大明神の南木大明神で神司を務めた。1592年、「文禄の役」では、小西行長の荷物を運ぶ船宰領となって朝鮮へと渡航した。途中で難破し南蛮船に助けられ、南蛮に渡った。阿蘭陀に七年滞在した。その後、中国で入廟老という者に火術、外科治療の法、火攻めの方法などを伝授した。1600年、「関ヶ原の役」後に帰国した。1614年、「大坂冬の陣」では、真田信繁勢に属して戦功を挙げた。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の目付兼兵糧奉行を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
森友重【もりともしげ(1528~1597)】
羽柴秀吉家臣。鯰江定秀の次男。通称九郎左衛門。別名森高次。室は瀬尾小太郎の娘。近江国愛知郡鯰江出身。1568年、鯰江定秀が六角義賢を匿い織田信長勢の攻撃を受け滅亡すると、織田信長に仕えた。
森重政【もうりしげまさ(1551~1597)】
森友重の男。官途は豊後守。別名毛利重政。室は大神親長の娘。1582年、「備中高松城の戦い」に参陣した。「本能寺の変」では、弟森高政とともに人質として毛利輝元のもとに送られた。1587年、「九州征伐」後、豊後国日出城主に任じられた。
森高政【もりたかまさ(1559~1624)】
森友重の男。官途は民部大輔。通称勘八郎。室は木曾義昌の娘。別名毛利高政。1580年、播磨明石郡松ノ郷内で3,000石を領した。1582年、「本能寺の変」後、兄毛利重政とともに人質として毛利輝元のもとに送られた。毛利輝元の許可を得て毛利高政と称した。1586年、方広寺建立の際には石材運搬の奉行を務めた。1587年、「九州征伐」では、舟奉行職を務めた。1589年、山城国の検地奉行を石川貞通とともに務めた。1589年、「小田原の役」では、兵600余りを率いて参陣した。1591年、対馬国に陣城普請に任じられ、清水山城、撃方山城、向ノ平砦を築城した。1592年、「文禄の役」では、舟奉行を務めた。「春川の戦い」で元豪を捕縛する戦功を挙げた。1595年、豊後国日田郡、玖珠郡内で日隈城20,000石を領した。1597年、「慶長の役」では、軍目付を務めた。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属するも、途中で松平元康に寝返えった。1601年、豊後国海部郡佐伯城20,000石に転封となった。江戸城、駿府城、名古屋城、大坂城と立続けに手伝普請を命じられ、また参勤交代、江戸の屋敷の造営、維持費用等も加わり、藩財政は極度に悪化した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
森吉安【もりよしやす(15??~16??)】
森友重の三男。通称九郎左衛門。別名毛利吉安。1587年、兄森高政の所領内2,000石を分与された。1601年、森高政が佐伯郡に転移した後も同地を領した。
森高明【もりたかあき(15??~15??)】
森高政家臣。別名毛利高明。
森兵庫【もりひょうご(15??~15??)】
森高政家臣。別名毛利兵庫。
----------------------------
【や】
八島増行【やじまますゆき(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称久右衛門。1589年、「小田原の役」の際、羽柴秀吉の意向で伊達政宗のもとに使者として赴き参陣を促した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
八島久兵衛【やじまきゅうべい(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1591年、増田長盛らとともに近江国の検地奉行を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安井次右衛門【やすいじえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆を務めた。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城の警備役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安井喜内【やすいきない(15??~15??)】
羽柴秀長家臣。1595年、「羽柴秀次事件」後、石田三成に仕えた。
藪田伊賀守【やぶたいがのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城の本丸を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢部定政【やべさだまさ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。本郷泰茂の男(矢部家定の養子)。1589年、「小田原の役」に参陣した。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城、二の丸を守備した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属して、役後改易処分を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野久三郎【やのきゅうざぶろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城で警備役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野九郎次郎【やのくろうじろう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城で三の丸の警備役を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野定満【やのさだみつ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1589年、山城祇園社の社領検地奉行を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野下野守【やのしもつけのかみ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して行列に供奉した。1592年、「文禄の役」では、軍馬の徴発を担当した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
矢野十左衛門尉【やのじゅうざえもんのじょう(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。馬廻衆のひとり。1592年、「文禄の役」では、肥前名護屋城の三の丸を守備した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
山口正弘【やまぐちまさひろ(15??~1600)】
羽柴秀吉家臣。官途は玄蕃頭。別名山口宗永。検地の名人「玄蕃縄」と称された。1588年、「城井長房の乱」では、調停役を務めた。政治手腕を認められ小早川秀秋の後見人となるが、度重なる諫言を疎まれ羽柴秀吉に召し返され、加賀国大聖寺城60,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」では、石田三成勢に属したため、前田利長勢の攻撃を受け自刃した。
山口修広【やまぐちまさひろ(15??~1600)】
山口正弘の男。別名山口修弘。1600年、「関ヶ原の役」では、父山口正弘とともに石田三成勢に属して大聖寺城に籠城した。前田利長勢の攻撃を受け山口正弘とともに自刃した。
山口弘定【やまぐちひろさだ(15??~1615)】
山口正弘の次男。詰番衆として羽柴秀頼の警護役に任じられた。1615年、「大坂夏の陣」で木村重成らとともに討死した。
山市左衛門【やまいちざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
山善左衛門【やまぜんざえもん(15??~1637)】
小西行長家臣。1637年、「島原の乱」では、一揆勢の侍大将を務めた。
横田隼人【よこたはやと(15??~15??)】
中村一氏家臣。1590年、駿河国を中村一氏が領すると江尻城主となった。
横浜正勝【よこはままさかつ(1550~1596)】
羽柴秀長家臣。別名横浜良慶。室は藤堂高虎の娘。羽柴秀長の筆頭家老職を務め50,000石を領した。大和国郡山城で留守役を務め、小堀正次とともに内政に手腕を発揮した。1585年、和歌山城の築城では、藤堂高虎、羽田正親らとともに普請奉行を務めた。1587年、「九州討伐」では、大和郡山城で留守居役を務めた。1591年、羽柴秀長が病没すると、幼年の羽柴秀保を補佐した。1592年、「文禄の役」で羽柴秀保が肥前国名護屋城に参陣中も大和国郡山城で留守居役を務めた。1594年、羽柴秀保の病没後は羽柴秀吉に仕えた。1596年、「慶長伏見地震」により圧死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
吉田吉左衛門【よしだきちざえもん(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。通称掃部助。1578年、「三木城の戦い」で築かれた附城を守備した。
結城弥平次【ゆうきやへいじ(1543~15??)】
小西行長家臣。洗礼名は「ジョルジ」。美濃国出身。結城山城守の甥。南蛮寺建立に尽力し、後の基督教に入信した。1587年、宣教師追放令が発せられると、宣教師オルガンティノを瀬戸内海小豆島に匿った。1588年、小西行長が肥後国宇土城21,000石を領すると、益城郡矢部城代を太田市兵衛とともに務め、3,500石を領した。寄騎衆として土橋掃部(500石)、島澤市右衛門(300石)、平地源右衛門(300石)、中小路三右衛門(300石)、後藤三五兵衛門(300石)、田邊平右衛門(300石)、加賀山次郎作(300石)、岡兵右衛門(300石)、横田勘左衛門(300石)、天木庄太夫(300石)、小野田弥右衛門(300石)、吉田木工右衛門(300石)、速水七左衛門(300石)の十三人が付属された。城内に伝道所を設け布教に努め、信者数は4,000人を数え宣教師も招かれた。1593年、明使来日の際には世話役を任じられた。1600年、「関ヶ原の役」後、加藤清正に仕えるが、棄教を拒否したため、追放処分に処された。後に有馬晴信の自刃後、跡を継いだ有馬直純の禁教令により再び通報処分に処された。
渡辺糺【わたなべただす(15??~1615)】
羽柴秀吉家臣。渡辺昌の男。通称内蔵助。槍の名手で、羽柴秀頼の槍の指南役として仕えた。1614年、「鴫野の戦い」で長尾景勝と争うも敗退した。この際、長尾景勝勢の鉄炮の轟音を聞いただけで兵を退いたとされ、笑い者となった。1615年、「道明寺の戦い」では、真田信繁の寄騎衆として戦功を挙げるも、最後は大坂城千畳敷で自刃した。
渡辺守【わたなべまもる(1610~16??)】
渡辺糺の男。甲府松平綱重家臣。通称は権兵衛。1614年、「大坂冬の陣」では、父渡邊糺に連れられて大坂城へ入城した。1615年、「大坂夏の陣」で、父渡辺糺は討死したが、渡辺守は大坂城落城の折、乳母の手により城を落延びて京都の南禅寺で出家した。1628年頃、細川忠興らの仲介により還俗して、松平綱重に500石で仕えた。
渡辺内蔵助【わたなべくないのすけ(15??~15??)】
羽柴秀吉家臣。1614年、「大坂冬の陣」で長尾景勝勢と戦った。
----------------------------
【資料Ⅰ】
羽柴秀吉家臣団【はしばひでよしかしんだん】
羽柴秀吉は、足軽衆から身を起こした織田信長に仕え天下を獲った人物です。その能力、人柄は並はずれていたが、最大の弱点が戦国大名に必要な譜代衆や親類縁者がいなかったことにあります。身内で有能だったのは弟羽柴秀長ただひとりでしたが、羽柴秀吉が天下を把握すた後に病没してしまった。羽柴秀長にも実子がおらず、羽柴秀吉と同じように姉の子を養子としたが、羽柴秀保もまもなく病没した。また家臣団も羽柴秀吉が出世するとともに、召し抱えた家臣だったため、羽柴秀吉が病没後、武断派(加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政など)と官僚派(石田三成、増田長盛、長束正家など)家臣団同士の争いが大きくなった。武将派と官僚派の対立は、羽柴秀吉が天下を把握後顕著化した。大きな戦いがなくなると、治世が重要となり武将派が功を挙げる機会が減少し、官僚派の必要性が高まります。官僚派は規制や規則を作り、武将派は中央から遠隔地に転封されることになった。また羽柴秀吉政権は、羽柴秀吉2,200,000石、松平元康2,550,000石、毛利輝元1,200,000石、長尾景勝1,200,000石、前田利家830,000石、伊達政宗580,000石など、大封を持つ大名が多数存在したしたことも、羽柴秀吉の病没後大きな問題となった。片腕だった羽柴秀長は病没、後継者に指名した羽柴秀次は、謀反を疑いをかけ自刃を強いた。残された羽柴秀頼は幼少、羽柴秀頼を補佐するはずだった、前田利家はまもなく病没。加藤清正、福島正則らと石田三成、増田長盛がさらに対立した。
----------------------------
【資料Ⅱ】
羽柴秀吉家四天王【はしばひでよしけしてんのう】
神子田正治、尾藤知宣、戸田勝隆、宮田光次。
羽柴秀長家三家老【はしばひでながけさんかろう】
横浜良慶、羽田正親、小川下野守。
----------------------------
戦国人名辞典は1530~1600年の期間に活躍した国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。本姓が変わる場合は(○×△)が変更後の本姓となっています。
※印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。
※あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。
※名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。
※参考文献:「戦国大名家臣団辞典(東国編)」新人物往来社、「戦国大名系譜人名辞典(東国編)」新人物往来社、「信長の野望【革新】マニアックス」株式会社コーエー、「戦国国取りガイド」新紀元社、「戦国人名辞典」新人物往来社、「戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「クロニック戦国全史」講談社、「天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)」角川書店、「戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)」新人物往来社、「歴史読本(戦国大名家370出自総覧)」新人物往来社、「戦国大名マニュアル」新紀元社、「戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)」秋田書店、「戦国武将ガイド」新紀元社、「戦国関東名将列伝」隋想社、「(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧」秋田書院、「武田信玄(全4巻)」文春文庫、「武田信玄(全3巻)」講談社、「武田勝頼(全3巻)」講談社、「甲州武田家臣団」新人物往来社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
----------------------------