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粟生幹実【あおうみきざね(15??~1558)】
鹿島郡粟生館主。鹿島宗幹の次男。別名鹿島幹実。南方三十三館衆。1558年、「粟生館の戦い」で石神幹安勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
青木治部【あおきじぶ(15??~15??)】
月岡播磨守家臣。1587年、「板橋館の戦い」で月岡播磨守に従い佐竹義重、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
青木和泉守【あおきいずみのかみ(15??~15??)】
福原朝広家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
青柳勝信【あおやぎかつのぶ(15??~15??)】
鹿島郡蕨館主。武田通信の次男。通称大膳。別名武田信家。南方三十三館衆。1591年、父の武田信房が太田城内で佐竹義宣に謀殺されたため、所領を失い帰農した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。
赤木大学【あかぎだいがく(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
赤松則定【あかまつのりさだ(15??~1556)】
小田氏治家臣。筑波郡手子生館主。別名「凝淵斎」。小田家四天王。1556年、「第一次山王堂の戦い」で小田氏治に従い長尾景虎、佐竹義昭、結城政勝の支援を受けた多賀谷政経勢と戦い討死した。参考文献:「戦国武将研究会」by高田哲也。
赤松三河守【あかまつみかわ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡和取館主。1573年、「小田城の戦い」で小田氏治に従い佐竹義重勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国武将研究会」by高田哲也。
秋葉義行【あきばよしゆき(15??~1532)】
小幡春信家臣。家老職。1532年、「小幡館の戦い」で小幡春信に従い江戸通泰勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
秋山政光【あきやままさみつ(15??~15??)】
稲田頼国家臣。通称源治。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
秋山彦太郎【あきやまひこたろう(15??~15??)】
秋山政光家臣。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、秋山政光とともに失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
秋山市郎左衛門【あきやまいちろうざえもん(15??~15??)】
秋山政光家臣。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、秋山政光とともに失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
秋山彦七郎【あきやまひこしちろう(15??~15??)】
秋山政光家臣。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、秋山政光とともに失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
秋山兵左衛門【あきやまへいざえもん(15??~15??)】
秋山政光家臣。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、秋山政光とともに失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
秋山源左衛門【あきやまげんざえもん(15??~15??)】
羽石政秀家臣。1583年、「田野城の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
浅野五郎佐衛門【あさのごろうさえもん(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡大曾根館主。1570年、「大曾根館の戦い」で小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅野藤右衛門【あさのとうえもん(15??~15??)】
浅野五郎佐衛門の男。1570年、「大曾根館の戦い」で父の浅野五郎佐衛門とともに小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
足高加賀守【あしたかかがのかみ(15??~15??)】
筑波郡足高館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
麻生之幹【あそうゆきもと(15??~15??)】
大掾清幹家臣。行方郡麻生館主。南方三十三館衆。別名麻生常安。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で小高貞幹を支援して玉造宗幹勢と戦い敗退した。1584年、「霞ヶ浦の海戦」で常陸土岐治綱の支援を受け島崎義幹勢と戦い敗退したため、土岐治綱のもとに落延びた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安達大膳亮【あだちだいぜん(15??~15??)】
羽石政秀家臣。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
安達兵部【あだちひょうぶ(15??~15??)】
安達大膳亮家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
安達弥左衛門【あだちよざえもん(15??~15??)】
安達大膳亮家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
安達内膳【あだちないぜん(15??~15??)】
稲田頼国家臣。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
安倍大学【あべだいがく(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
阿保良実【あほよしざね(15??~15??)】
笠間綱家家臣。茨城郡門毛館主。官途は遠江守。1583年、「田野城の戦い」で羽石政秀に従い水谷正村勢と戦い羽石政秀とともに門毛城に落延びた。「門毛城の戦い」で今井勘左衛門が密告したため、水谷正村勢と戦い益子宮内太夫に降伏して吉田周防守を養子として迎えた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
阿保良房【あほよしふさ(15??~15??)】
阿保良実の男。通称六右衛門。1583年、「羽黒山城の戦い」で飯田八郎左衛門、飯田光良、飯田十兵衛、高畑勘左衛門、真崎九郎兵衛、岩瀬十兵衛、柳厳兵衛らを率い今井勘左衛門勢と戦い結城晴朝の家臣片見晴信勢の反撃を受け敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
阿保良清【あほよしきよ(15??~15??)】
羽石政秀家臣。通称八郎左衛門。1583年、「田野城の戦い」で羽石政秀に従い羽石政秀が水谷正村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
天羽源鉄斎【あまのげんてつさい(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡手子丸館主。官途は三河守。軍配者。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
荒原五郎左衛門【あらはらごろうざえもん(15??~15??)】
林時国家臣。1589年、札村の渡し場で林時国を謀殺した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
安房幹連【あわみきつな(15??~15??)】
鹿島郡安房館主。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
飯笹源兵衛【いいざさげんべい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
飯島七郎【いいじましちろう(15??~15??)】
江戸通政家臣。茨城郡勝倉館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
飯島縫殿【いいじまぬいのすけ(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
飯島因幡守【いいじまいなばのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
飯塚重政【いいずかしげまさ(15??~1591)】
大掾清幹家臣。行方郡飯塚館主。通称多左衛門。南方三十三館衆。1591年、太田城内で佐竹義宣に謀殺された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
飯田八左衛門【いいだはちさえもん(15??~15??)】
羽石政秀家臣。笠間郡富岡砦主。1583年、「今井館の戦い」で阿保良房に従い今井勘左衛門勢と戦い戦功を挙げたが、結城晴朝の家臣片見晴信勢の反撃を受け敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
飯田光良【いいだみつよし(15??~15??)】
飯田八左衛門家臣。1583年、「今井館の戦い」で飯田八左衛門に従い今井勘左衛門勢と戦い戦功を挙げたが、結城晴朝の家臣片見晴信勢の反撃を受け敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
飯田十兵衛【いいだじゅうべい(15??~15??)】
飯田八左衛門家臣。1583年、「今井館の戦い」で飯田八左衛門に従い今井勘左衛門勢と戦い戦功を挙げた。結城晴朝の家臣片見晴信勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
飯田内膳正【いいだないぜんのじょう(15??~15??)】
飯田八左衛門家臣。1583年、「今井館の戦い」で飯田八左衛門に従い今井勘左衛門勢と戦い戦功を挙げたが、結城晴朝の家臣片見晴信勢の反撃を受け敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
飯田備前守【いいだびぜんのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡飯田館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
飯田源内【いいだかげんない(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
飯塚美濃守【いいづかみののかみ(15??~15??)】
鹿島義幹家臣。1524年、「高天ヶ原の戦い」で鹿島義幹に従い鹿島通幹勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
飯野秀正【いいのひでまさ(15??~15??)】
稲田頼国家臣。官途は信濃守。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
井坂将監【いさかしょうげん(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡本郷館主。通称右近。1573年、「本郷館の戦い」で佐竹義重勢と戦い土浦城に落延びた。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
井坂修理【いさjかしゅり(15??~1591)】
薗部兼基家臣。1591年、「小川館の戦い」で薗部兼基に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
石井重正【いしいしげまさ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。笠間郡石井館主。通称孫七郎。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
石神幹安【いしがみみきやす(15??~1558)】
玉造憲幹の三男。鹿島郡石神館主。通称八郎。別名玉造幹安。南方三十三館衆。1556年、「粟生館の戦い」で粟生幹実勢と戦い粟生幹実を討取る戦功を挙げた。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
石神弥左衛門【いしがみよざえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
石神弥次右衛門【いしがみよじうえもん(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
石崎近江守【いしざきおおみのかみ(15??~15??)】
江戸重通家臣。1587年、「烟田館の戦い」で額賀上野守とともに鹿島貞信に内応して田山市正勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
石津健之助【いしづけんのすけ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
井関舎人【いせきとねり(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
磯部隼人佐【いそべはやとのじょう(15??~15??)】
笠間綱家家臣。磯部稲村神社の神主。1539年、「磯部原の戦い」で那須政資を支援する佐竹義篤と那須高資勢が戦い戦火で磯部稲村神社が焼失した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
磯部忠光【いそべただみつ(15??~15??)】
磯部隼人佐の男。官途は越前守。1583年、「田野城の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
磯部祐貞【いそべすけさだ(15??~16??)】
磯部忠光の男。1609年、神社を修造した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
市原政義【いちはらまさよし(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。参考文献:『佐竹義重(伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名)』by近衛龍春。
糸賀四郎兵衛【いとがしろうびょうえ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
稲田頼定【いなだよりさだ(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。笠間郡稲田館主。通称新九郎。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
稲田新九郎【いなだしんくろう(15??~15??)】
稲田頼定の男。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
稲田頼国【いなださだくに(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。笠間郡稲田館主。通称新九郎。稲田と福原内で324貫文を領した。旗指物、馬印、控幕、長刀3、槍300、鉄砲20の軍役を負担した。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務め、羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
稲田頼胤【いなだよりたね(15??~15??)】
稲田頼国の男。通称新九郎。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
稲田遠江守【いなだとうとうみのかみ(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
猪瀬国五郎【いのせくにごろう(15??~15??)】
稲田頼国家臣。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
今井勘左衛門【いまいかんべい(15??~15??)】
笠間綱家家臣。笠間郡黒羽山館主。通称勘兵衛。1583年、「田野館の戦い」で水谷政村勢と戦い門毛館に落延びた羽石秀政を水谷政村に引き渡した。「今井館の戦い」で阿保良房勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
今井新左衛門【いまいしんざえもん(15??~15??)】
今井勘左衛門家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
今泉将監【いまいずみしょうげん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
今泉太郎左衛門【いまいずみたろうざえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
今泉源左衛門【いまいずみげんざえもん(15??~15??)】
今泉太郎左衛門の男。1591年、「大生台の戦い」で父の今泉太郎左衛門とともに従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
今泉五郎左衛門【いまいずみごろうざえもん(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡今泉館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
石倉弾正忠【いわくらだんじょうちゅう(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
岩田彦六【いわたひころく(15??~15??)】
信太範宗家臣。新治郡岩田館主。1554年、信太範宗が小田氏治の家臣菅谷勝貞に謀殺されたため、小田氏治に仕えた。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
岩瀬十兵衛【いわせじゅうべい(15??~15??)】
笠間綱家家臣。茨城郡岩瀬館主。1583年、「羽黒館の戦い」で今井勘左衛門勢と戦い戦功を挙げた。「橋本館の戦い」で結城晴朝の家臣片見晴信勢と戦い敗退した。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
植木大隅守【うえきおおすみのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
浮島弾正忠【うきしまだんじょうちゅう(15??~1591)】
河内郡浮島館主。1591年、「浮島館の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
臼田弥次郎【うすだよじろう(14??~15??)】
土岐治頼家臣。1507年、「江戸崎城の戦い」で臼田弥次郎とともに小田成治に内応して土岐治頼勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
臼田河内守【うすだかわちのかみ(14??~15??)】
土岐治頼家臣。1523年、「屋代館の戦い」で近藤勝秀とともに土岐治頼に従い小田政治勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
臼田勘解由左衛門尉【うすだかげゆさえもんのじょう(15??~15??)】
土岐治綱家臣。河内郡羽賀館主。家老職を務めた。1590年、「江戸崎城の戦い」で土岐治綱に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
打越左京亮【うちこしさきょうのじょう(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
内田主税【うちだしゅぜい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
宇津宗右衛門【うつそうえもん(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、帰農した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
宇部新右衛門【うべしんえもん(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、帰農した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
浦橋平衛門【うらはしへいえもん(15??~15??)】
島崎義幹家臣。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
浦橋次郎左衛門【うらはしじろざえもん(15??~15??)】
島崎義幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
江口三太郎【えぐちさんたろう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
枝川通衡【えだがわみちひら(15??~15??)】
江戸通泰家臣。茨城郡枝川館主。枝川通弘の男。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
枝川通清【えだがわみちきよ(15??~15??)】
枝川通衡の男。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
枝川通近【えだがわみちちか(15??~15??)】
枝川通清の男。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
枝川重氏【えだがわしげうじ(15??~1590)】
枝川通近の男。通称弥五郎。1591年、「那珂川の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「かわわだ」by河和田及び水戸郷土資料。
江寺式部【えでらしきぶ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
江戸通泰【えどみちやす(1486~1535)】
茨城郡江戸城主。江戸通雅の男。官途は但馬守。通称彦五郎。室は芳賀高経の娘。1510年、父の江戸通雅とともに、佐竹義舜と和議を結び南常陸国に勢力を広げた。1512年、「永正の乱」で佐竹義舜らとともに足利高基を古河公方に擁立して小田政治勢と戦い戦功を挙げた。1524年、「鹿島城の戦い」で大掾忠幹、松本政信と結んで鹿島義幹を下総国に追落とし、鹿島通幹を擁立して鹿島郡に勢力を拡大した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
江戸忠通【えどただみち(1507~1564)】
江戸通泰の男。官途は但馬守。通称彦五郎。室は佐竹義舜の娘。1535年、江戸家の家督を相続した。佐竹義篤に従い北関東各地を転戦した。1545年、佐竹義篤が病没したため、佐竹義昭から離反した。1548年、白河結城晴綱と結び佐竹義昭勢と戦い戦功を挙げたた。1551年、佐竹義昭と和議を結び、常陸国南部に勢力を拡大して大掾慶幹、宍戸義綱、小田氏治らと争い勢力を拡大した。鹿島神宮に鎧兜一式を奉納して江戸通政の健康回復を祈願した。孫の江戸重通を後継者したが、継嗣の江戸通政が江戸家の家督を相続した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
江戸通政【えどみちまさ(1538~1567)】
江戸忠通の男。室は大掾慶幹の娘。1564年、父の江戸忠通が病没したため、江戸家の家督を相続した。1566年、長尾景虎と佐竹義重の意見が対立したため、その仲裁を行った。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
江戸重通【えどしげみち(1555~1598)】
江戸通政の男。官途は但馬守。通称彦五郎。室は小山高朝の娘。1567年、父江戸通政が病死したため、江戸家の家督を相続した。1577年、「下野小山城の戦い」で佐竹義重らと結び北条氏政勢と戦った。1578年、北条氏政と和議を結び勢力の挽回を図った。1588年、「神生通朝の乱」で神生通朝が江戸道澄と対立して謀反を起こしたため、神生通朝勢と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。「常陸江戸城の戦い」で佐竹義重、佐竹義宣勢と戦い結城晴朝のもとに落延びた。娘は結城晴朝の養女として結城秀康に嫁いだ。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
江戸通升【えどみちみちます(15??~1588)】
江戸重通の男。1588年、「神生通朝の乱」で江戸道澄に従い神生通朝勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
江戸宣通【えどまさみち(15??~15??)】
江戸重通の次男。別名水戸実通。1590年、「常陸江戸城の戦い」で父の江戸重通とともに佐竹義重、佐竹義宣勢と戦い結城晴朝のもとに落延びた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
江戸通澄【えどみちずみ 15??~1588)】
江戸通泰の次男。別名御宿通澄。1588年、「神生通朝の乱」で神生通朝との対立して神生通朝に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
江戸兵庫【えどひょうご(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣の家臣長倉義輿勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
江戸山城守【えどえちごのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡作谷館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
江戸茂太夫【えどしげだいふ(15??~15??)】
江戸山城守の男。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
江戸崎監物【えどさきけんもつ(15??~1575)】
小田氏治家臣。猛将。1554年、「上条館の戦い」で大越政明勢と戦い戦功を挙げた。上条館を領した。1574年、「木原館の戦い」で佐竹義重に内応して土岐治英の家臣近藤義勝勢と戦い戦功を挙げた。1575年、「上条館の戦い」で土岐治英の家臣諸岡常成勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
海老ヶ島豊前守【えびがしまぶぜんのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
海老沢四郎右衛門【えびさわしろうえもん(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
海老原俊朝【えびはらとしとも(15??~15??)】
大掾清幹家臣。真壁郡海老ヶ島館主。海老原輝朝の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
海老原俊之【えびはらとしゆき(15??~1546)】
海老原俊朝の男。1546年、「海老ヶ島館の戦い」で多賀谷政隆勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
海老原俊元【えびはらとしもと(15??~15??)】
海老原俊之の男。1546年、「海老ヶ島館の戦い」で父の海老原俊之が多賀谷政隆勢と戦い討死したため、海老原家の家督を相続した。1568年、「海老ヶ島館の戦い」で宍戸義綱勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
海老原行政【えびはらゆきまさ(15??~15??)】
水谷治持家臣。別名谷田開行政。1539年、「武蔵吉見城の戦い」で水谷正村の後見役を務め、大串武成、大串重義勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大泉秀兼【おおいずみひでかね(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。笠間郡大泉館主。通称小太郎左衛門。1583年、「田野城の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大泉小次郎左衛門【おおいずみこじろうさえもん(15??~15??)】
大泉秀兼の弟。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大川市之亟【おおかわいちのじょう(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大川又五郎【おおかわまたごろう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大川七郎【おおかわしちろう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大越政明【おおこしまさあき(15??~15??)】
河内郡上条館主。官途は治部大輔。1554年、「上条館の戦い」で小田氏治の家臣江戸崎監物勢と戦い敗退したため、下総国に落延びた。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
大島内膳【おおしまないぜん(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。1583年、「田野城の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大高山城守【おおたかやましろのかみ(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
大高四郎左衛門【おおたかしえおうえもん(15??~1590)】
大高山城守の男。1590年、「常陸江戸城の戦い」で父の大高山城守とともに佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
大津長門之助【おおつながとのすけ(15??~1574)】
小田氏治家臣。新治郡花室館主。1570年、「平塚原の戦い」で小田氏治に従い結城晴朝、多賀谷重経勢と戦い戦功を挙げた。1574年、「土浦城の戦い」で小田氏治に従い佐竹義重の家臣車斯忠勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大津図書介【おおつづしょのすけ(15??~15??)】
大津長門之助の男。佐竹義宣に降伏した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大生利定【おおなまとしさだ(15??~15??)】
島崎利幹の次男。行方郡大生館主。官途は弾正忠。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大生市正【おおなまいちまさ(15??~15??)】
大生利定の男。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大生紀伊守【おおなまきいのかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大野與市【おおのよいち(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大畑越前守【おおはたえちぜんのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
大平主馬【おおひらしゅめい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。家老職。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大平内膳【おおひらないぜん(15??~15??)】
大平主馬の男。1569年、「鹿島義清の乱」で父の大平主馬とともに島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で土子伊賀守とともに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
大藤小太郎【おおふじこたろう(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
大嶺広基【おおみねひろもと(15??~15??)】
笠間朝貞家臣。笠間郡飯田館主。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大嶺広康【おおみねひろやす(15??~15??)】
大嶺広基の男。官途は民部太夫。1569年、三瓶神社を勧請し、飯田の鎮守とした。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大嶺広政【おおみねひろまさ(15??~15??)】
大嶺広康の男。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家が北条氏直に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退したため、改易処分に処された。1600年、安東実季に仕えた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大嶺宗八郎【おおみねそうはちろう(15??~15??)】
大嶺広政家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大嶺作左衛門【おおみねさくざえもん(15??~15??)】
大嶺広政家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大嶺瀬兵衛【おおみねせいべい(15??~15??)】
大嶺広政家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大嶺左右衛門【おおみねさえもん(15??~15??)】、
大嶺広政家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
大嶺惣八【おおみねそうはち(15??~15??)】
大嶺広政家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
尾上五郎左衛門【おがみごろうざえもん(15??~1586)】
岡見治資の次男。筑波郡東林寺館主。別名岡見治部少輔。1580年、「谷田部館の戦い」で岡見治広とともに多賀谷重経の家臣多賀谷経伯勢と戦い敗退した。1586年、「第三次谷田部館の戦い」で岡見治広とともに多賀谷重経勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
岡野宮内少輔【おかのくないしょうゆ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡岡野館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
岡見治資【おかみはるすけ(1532~1569)】
小田治孝の次男。筑波郡谷田部館主。官途は弾正忠。別名小田治資。1569年、「手這坂の戦い」で小田氏治に従い真壁久幹勢と戦い根来衆大蔵坊の鉄砲に胸板を撃ち抜かれ討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
岡見治広【おかみはるひろ(15??~1618)】
岡見治資の男。官途は治部大輔。通称治部。室は土岐治英の娘。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直が羽柴秀吉勢と戦い滅亡したため、江戸崎で蟄居した。結城秀康に仕えた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
岡見頼忠【おかみよりただ(15??~1586)】
岡見治氏家臣。官途は丹波守。1570年、「第一次谷田部館の戦い」で多賀谷政経勢と戦い落延びた。1578年、「木田余館の戦い」で小田氏治が滅亡したため、北条氏政と結び多賀谷政経勢と戦い戦功を挙げた。1580年、「第二次谷田部館の戦い」で北条氏照、北条氏邦、岡見治広、岡見宗治、只越善久、月岡広秀とともに多賀谷政伯勢と戦い戦功を挙げた。1586年、「第三次谷田部館の戦い」で多賀谷重経勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
岡見宗治【おかみむねはる(15??~1587)】
岡見頼忠の男。官途は中務大輔。筑波郡足高館を守備した。1586年、「第一次足高館の戦い」で多賀谷重経勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1587年、多賀谷重経が足高館と牛久城との間に泊崎館を築き両城の分断を図ったため、只越善久が城兵の助命を条件に自刃した。「第二次足高館の戦い」で多賀谷重経勢と戦い多賀谷為宗、窪谷能登守を討取る戦功を挙げた。岡見伝喜が多賀谷重経に内応したため、牛久城に落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
岡見治家【おかみはるいえ(15??~1587)】
岡見頼忠の次男。1587年、「牛久城の戦い」で岡見頼忠とともに多賀谷重経勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
岡見保完【おかみやすりょう(15??~15??)】
河内郡牛久城主。官途は中務少輔。1584年、「牛久城の戦い」で岡見頼忠に従い多賀谷重経勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
岡見助五郎【おかみすけごろう(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
岡見平六【おかみへいろく(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
岡見頼勝【おかみよりかつ(15??~15??)】
土岐治頼の次男。河内郡若柴館主。官途は越前守。別名「伝喜」。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
小神野経憲【おがみのつねのり(15??~15??)】
新治郡甲山館主。官途は越前守。1573年、「甲山館の戦い」で佐竹義重勢と戦い敗退したため、土浦城に落延びた。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
小坂岡見備中守【おかみびっちゅうのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。河内郡小坂館主。1548年、「小坂館の戦い」で東条重定勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小神野時義【おがみのときよし(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡甲山館主。別名小田時義。参考文献:「戦国武将研究会」by高田哲也。
小神野経憲【おがみのつねのり(15??~15??)】
小神野時義の男。官途は越前守。1573年、「甲山館の戦い」で佐竹義重勢と戦い土浦城に落延びた。参考文献:「戦国武将研究会」by高田哲也。
小川又五郎【おがわまたごろう(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
小沢平右衛門【おざわへいえもん(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
小宅尚時【おたくなおとき(15??~15??)】
宇都宮尚綱家臣。西茨城郡坂戸館主。通称三左衛門。1564年、「高森原の戦い」で小田氏治勢と戦い敗退したため、坂戸館に籠城した。「坂戸館の戦い」で宇都宮広綱の家臣塩谷朝定、仙波朝家勢の支援を受け小田氏治の家臣信太頼範勢と戦い小栗館に落延びた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小宅高春【おたくたかはる(15??~1600)】
小宅尚時の男。官途は越前守。1597年、宇都宮国朝が改易処分に処されたため、松平元康の家臣鳥居元忠に仕えた。1600年、「山城伏見城の戦い」で鳥居元忠に従い石田三成勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小宅景時【おたくかげとき(15??~15??)】
小宅尚時家臣。西茨城郡小栗館主。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小宅直時【おたくなおとき(15??~15??)】
小宅景時の男。1552年、「小栗館の戦い」で結城政勝勢と戦い落延びた。1560年、「小栗館の戦い」で宇都宮広綱の支援を受け結城政勝勢と戦い小栗館を奪還した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小宅高清【おたくたかきよ(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。官途は采女之助。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小田部式部【おだべしきぶ(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
小田成治【おだなりはる(15??~15??)】
筑波郡小田城主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田政治【おだまさはる(1492~1548)】
足利政知の男(小田成治の養子)。官途は左近衛中将。室は小田成治の娘。足利晴氏、佐竹義篤と和議を結び関係の改善に務めた。1531年、「石岡鹿子原の戦い」で江戸忠通勢と戦い戦功を挙げた。1537年、結城政勝に対抗するため、多賀谷政経と和議の締結交渉を行い失敗した。1546年、「武蔵河越城の戦い」で足利晴氏に従い先陣を務め、北条氏康勢と戦い大敗した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
小田朝治【おだともはる(1529~1582)】
小田政治の男。筑波郡鴉山館主。官途は左近少将。通称左馬頭。北条氏政のもとに落延びた。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田氏治【おだうじはる(1534~1601)】
小田政治の次男。官途は讃岐守。別名「小田天庵」。室は江戸忠通の娘(葉月姫)。1548年、父の小田政治が病没したため、小田家の家督を相続した。1555年、「結城城の戦い」で長尾景虎に従い結城政勝勢と戦い敗退した。1556年、「海老ヶ島館の戦い」で多賀谷政経、佐竹義昭勢と戦い土浦城に落延びた。1557年、「黒子の戦い」で多賀谷政経、佐竹義昭勢と戦い敗退した。1562年、北条氏康と和議を結び佐竹義昭勢に対抗した。1563年、「三村の戦い」で大掾貞国と戦い戦功を挙げた。1564年、「山王堂の戦い」で長尾景虎、宇都宮広綱、佐竹義重勢と戦い敗退した。1569年、「手這坂の戦い」で太田資正、梶原政景、真壁氏幹勢と戦い敗退した。1570年、「平塚原の戦い」で結城晴朝、多賀谷重経勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「藤沢館の戦い」で太田資正勢と戦い由良憲綱、戸崎長俊が討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
小田守治【おだもりはる(1557~1610)】
小田氏治の次男。通称彦太郎。兄の八田友治が八田家の家督を相続したため、小田家惣領職の家督を相続した。北条氏政と結び佐竹義重勢と対抗した。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直に従い羽柴秀吉勢と戦い改易処分に処された。結城秀康に仕えた。1601年、結城秀康に従い越前国に転封した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
小田朝家【おだともいえ(15??~16??)】
小田朝治の男。北条氏照に仕えた。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直が羽柴秀吉勢と戦い滅亡したため、松平忠吉に仕えた。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田五郎兵衛尉【おだごろうびょうえ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡男体館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田式部少輔【おだしくぶしょうゆ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡大崎館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田九郎【おだくろう(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡小河館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田伊予守【おだいよのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田美作守【おだみさくのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田安房守【おだあわのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
八田治郎左衛門尉【おだじろうさえもんのじょう(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田亀千代【おだかめちよ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田伊織【おだいより(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田左近右衛門【おださこんえもん(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田稲若丸【おだいねわかまる(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小田五郎左衛門【おだごろうざえもん(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
小高貞幹【おだかさだもと(15??~15??)】
大掾清幹家臣。行方郡小高館主。官途は治部少輔。南方三十三館衆。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で大掾慶幹、小田氏治の支援を受け玉造宗幹勢と戦い敗退した。次男の小高治部少輔が人質として芹沢秀幹のもとに赴き和議を結んだ。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
小高治部少輔【おだかじぶしょうゆ(15??~1591)】
小高貞幹の男。室は芹沢秀幹の娘。1591年、佐竹義宣に謀殺された。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
小高道元【おだかみちもと(15??~1591)】
園部清元家臣。行方郡小平砦主。通称隼人。1591年、「小平砦の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
小月輝正【おつぎてるまさ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡小高館主。別名大月弾正忠。1573年、「小高館の戦い」で佐竹義重勢と戦い土浦城に落延びた。参考文献:「戦国武将研究会」by高田哲也。
鬼沢勘左衛門【おにさわかんざえもん(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
小貫大蔵【おぬきおおくら(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
小貫助左衛門【おぬきすけざえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
小幡春信【おばたはるのぶ(14??~1532)】
小田氏治家臣。新治郡小幡館主。官途は中務少輔。小田家六家。1532年、「小幡館の戦い」で江戸通泰勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小幡義信【おばたよしのぶ(15??~15??)】
小幡春信の男。1532年、「小幡館の戦い」で父の小幡春信が江戸通泰勢と戦い討死したため、佐竹義篤のもとに落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小幡出雲守【おばたいずものかみ(15??~15??)】
茨城郡小幡館主。南方三十三館衆。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
小幡又兵衛【おばたまたべい(15??~1591)】
小幡出雲守の男。1591年、佐竹義宣から宴に招かれ太田城内で佐竹義宣に謀殺された。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
小幡十三郎【おばたじゅうさぶろう(15??~1591)】
小幡又兵衛の男。1591年、父の小幡又兵衛とともに太田城で佐竹義宣に謀殺された。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
小幡勘助【おばたかんすけ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
小山為蔵【おやまためぞう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
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【か】
貝原塚氏胤【かいはらづかうじたね(15??~1569)】
河内郡貝原塚館主。通称将監。1561年、「貝原塚館の戦い」で常陸土岐治英勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1569年、「貝原塚館の戦い」で常陸土岐治英勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
柿岡式部少輔【かきおかしきぶしょうゆ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡柿岡館主。小田一門六家。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
加倉井久光【かくらいひさみつ(15??~1590)】
江戸重通家臣。茨城郡加倉井館主。五家老衆。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
加倉井久国【かくらいくにひさ(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。官途は因幡守。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
掛馬治部左衛門【かけうまじぶざえもん(15??~15??)】
信太範宗家臣。河内郡掛馬館主。1554年、信太範宗が小田氏治の家臣菅谷勝貞に謀殺されたため、小田氏治に仕えた。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
掛札駿河守【かけふだするがのかみ(15??~1588)】
江戸重通家臣。茨城郡掛札館主。1588年、「神生右衛門大夫の乱」で佐竹義重を支援した江戸重通に従い小野崎照通勢と戦い敗退した。「飯田館の戦い」で神生通朝を支援する小野崎従通勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
掛札高房【かけふだたかふさ(15??~15??)】
掛札駿河守の男。1588年、「飯田館の戦い」で小野崎照道勢と戦い父掛札駿河守が討死した。戦火に巻き込まれて類焼した鷲神社を再建した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
片岡治部左衛門【かたおかじぶざえもん(15??~15??)】
筑波郡中館城主。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
桂左衛門【かつらさえもん(15??~15??)】
江戸崎監物家臣。1574年、「久野館の戦い」で江戸崎監物に従い野口式部勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
笠間高広【かさまたかひろ(15??~15??)】
宇都宮尚綱家臣。笠間綱広の男。茨城郡笠間城主。1549年、「下野五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に従い那須高資勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
笠間広直【かさまひろなお(15??~15??)】
笠間高広の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
笠間利長【かさまとしなが(15??~15??)】
笠間広直の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
笠間幹綱【かさまみきつな(15??~15??)】
笠間利長の男。官途は長門守。通称左衛門尉。別名笠間朝綱。1576年、「富谷館の戦い」で結城政勝に内応した益子重綱勢と戦い敗退した。1582年、「橋本館の戦い」で結城晴朝勢と戦い敗退した。1583年、「橋本館の戦い」で結城晴朝勢の戦い橋本館を奪還した。1584年、「富谷館の戦い」で益子重綱勢と戦い益子重綱を捕縛する戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
笠間綱家【かさまつないえ(15??~1590)】
笠間幹綱の男。通称孫三郎。1580年、「笠間左近大輔の乱」で弟の笠間左近大輔が宍戸義綱と結び謀反を起した。1583年、「下野野田城の戦い」で益子重綱、水谷勝俊、太田資正勢と戦い敗退した。1588年、「笠間城の戦い」で笠間左近大輔を討取る戦功を挙げた。1589年、「富谷館の戦い」で益子重綱を討取る戦功を挙げた。1590年、「笠間城の戦い」で宇都宮国綱勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
笠間左近大輔【かさまさこんだゆう(15??~1588)】
笠間幹綱の次男。1580年、「笠間左近大輔の乱」で宍戸義綱の支援を受け笠間綱家の家臣寺崎中務少輔勢と戦い敗退した。1588年、「笠間城の戦い」で笠間綱家勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
鹿島景幹【かしまかげもと(14??~1512)】
鹿島郡鹿島城主。鹿島親幹の男。南方三十三館衆。1512年、「下総米野井館の戦い」で木内右馬頭勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島義幹【かしまよしもと(14??~1524)】
鹿島親幹の次男。鹿島神宮大行事職。通称左衛門太夫。1512年、「下総米野井館の戦い」で兄の鹿島景幹が木内右馬頭勢と戦い討死したため、鹿島家の家督を相続した。1524年、「鹿島城の戦い」で寵臣の玉造源三が領内に重税を課したため、江戸通泰、大掾忠幹、島崎利幹の支援を受けた鹿島家四家老職(吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之勢)と戦い須賀山館に落延びた。1524年、「高天ヶ原の戦い」で鹿島通幹の家臣吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島通幹【かしまみちもと(15??~15??)】
大掾盛幹の次男(鹿島義幹の養子)。別名大掾通幹。室は江戸通泰の姪。1524年、「鹿島城の戦い」で江戸通泰、大掾忠幹、島崎利幹の支援を受けた吉川覚賢、松本政 信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之とともに兄の鹿島義幹を追落として鹿島家の家督を相続した。1524年、「高天ヶ原の戦い」で吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之とともに鹿島義幹勢と戦い鹿島義幹を討取る戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島治時【かしまうじとき(15??~1566)】
鹿島幹信の男。官途は左衛門大夫。1565年、烟田忠幹と武田通信の所領争いの仲裁を行ったが、不手際で烟田忠幹が三ヶ村を失った。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島幹光【かしまもとみつ(15??~15??)】
鹿島治時の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島氏幹【かしまきよふさ(15??~1569)】
鹿島治時の次男。1566年、鹿島治時が病没したため、鹿島家は再び内紛を引き起こした。1569年、「鹿島義清の乱」で千葉冨胤の支援を受け鹿島義清と対立した。鹿島氏幹が家臣に謀殺されたため、内紛は終息した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島義清【かしまよしきよ(15??~1579)】
鹿島治時の三男。室は江戸通政の娘。1566年、父の鹿島治時の意向を受け鉾田館を築城した。1569年、「鹿島義清の乱」で江戸重通の支援を受けた兄の鹿島氏幹と戦い敗退した。鹿島氏幹が家臣に謀殺されたため、鹿島家の家督を相続した。1579年、謀殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島貞信【かしまさだのぶ(15??~15??)】
鹿島治時の五男。1581年、「鹿島城の戦い」で鹿島義清を謀殺したため、江戸重通から攻撃を受け弟の鹿島清秀とともに下総国へ落延びた。1586年、「鹿島城の戦い」で弟の鹿島清秀とともに国分胤政の支援を受け鹿島通晴勢と戦い戦功を挙げた。鹿島家の家督を相続した。1587年、「烟田館の戦い」で江戸重通の家臣田山市正勢と戦い田山市正を討取る戦功を挙げた。1588年、鹿島清秀に謀殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島清秀【かしまきよひで(15??~1591)】
鹿島治時の六男。1581年、「鹿島城の戦い」で江戸重通勢と戦い敗退したため、兄の鹿島貞信とともに下総国へ落延びた。1586年、「鹿島城の戦い」で国分胤政の支援を受け鹿島通晴勢と戦い戦功を挙げた。1588年、鹿島貞信を謀殺して鹿島家の家督を相続した。1590年、「小田原城の戦い」で佐竹義宣に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1591年、佐竹義宣に太田城内で謀殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島通晴【かしまみちはる(15??~15??)】
鹿島治時の七男。1582年、江戸重通の支援を受け鹿島家の家督を相続した。1584年、「下野沼尻の戦い」で佐竹義重に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1586年、「鹿島城の戦い」で国分胤政の支援を受けた鹿島貞信、鹿島清秀勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
鹿島幹連【かしまふさつら(15??~1591)】
鹿島清秀の男。通称伊勢寿丸。1591年、「鹿島城の戦い」で父の鹿島清秀が佐竹義宣に謀殺されたため、佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
柏村吉長【かしむらよしなが(15??~15??)】
小田氏治家臣。茨城郡柏村館主。官途は越前守。1556年、「海老ヶ島の戦い」で小田氏治に従い結城政勝、北条氏康の家臣太田資正、遠山綱景勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
梶山掃部介【かじやまかもんのすけ(15??~15??)】
鹿島郡梶山館主。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
柏崎隼人【かしわざきはやと(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
柏崎六左衛門【かしわざきろくざえもん(15??~15??)】
柏崎隼人の男。1569年、「鹿島義清の乱」で父の柏崎隼人とともに島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で柏崎隼人とともに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
柏崎小五郎【かしわざきこごろう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
片岡文蔵【かたおかぶんぞう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
片岡久蔵【かたおかきゅうぞう(15??~15??)】
片岡文蔵の男。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
片庭将監【かたにわしょうげん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
片庭玄蕃【かたにわげんば(15??~15??)】
笠間綱家家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
片庭小左衛門【かたにわこざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
片庭茂右衛門【かたにわもえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
片庭市左衛門【かたにわいちざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
片見晴信【かたみはるのぶ(15??~15??)】
結城晴朝家臣。1583年、「橋本館の戦い」で笠間綱家の家臣岩瀬十兵衛勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「下野田野館の戦い」で水谷勝俊とともに結城晴朝、福原朝広勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
加藤安房守【かとうあわのかみ(15??~1575)】
茨城郡鷺内館主。1575年、「鷺内館の戦い」で佐竹義重の家臣宍戸義利勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
加藤大隅守【かとうおおすみのかみ(15??~1589)】
益子重綱家臣。茨城郡富谷館主。1582年、「橋本館の戦い」で益子重綱に従い笠間幹綱の家臣谷中高広勢と戦い谷中高広を討取る戦功を挙げた。1589年、「益子館の戦い」で宇都宮国綱勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
金上明直【かながみあけなお(15??~1590)】
江戸忠通家臣。茨城郡金上館主。官途は弾正忠。1590年、「武田原の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
金敷清久【かねしききよひで(15??~1583)】
結城晴朝家臣。1583年、「金敷館の戦い」で笠間綱家の家臣羽石政秀勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
神生通朝【かのうみもちとも(1549~1588)】
江戸忠通家臣。茨城郡大部館主。官途は遠江守。1587年、「神生通朝の乱」で家老衆の江戸通澄と対立して小野崎、伊達政宗の支援を受け謀反を起した。1588年、「大部館の戦い」で佐竹宣義、江戸忠通勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
加布藤美乃【かふとうみの(15??~15??)】
中居秀幹家臣。鹿島郡甲頭館主。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
鏑木藤十郎【かぶらぎとうじゅうろう(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
烟田秦幹【かまたやすもと(15??~15??)】
鹿島義幹家臣。鹿島郡烟田館主。南方三十三館衆。1530年、「烟田城の戦い」で江戸通泰勢と戦い巴川上流にある大和田館に落延びた。1536年、烟田城に復帰した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
烟田忠幹【かまたただもと(15??~1580)】
烟田秦幹の男。通称右衛門太夫。1566年、鹿島治時の不手際で所領の三ヶ村(新里、当間など)を武田通信に奪われた。1569年、「鹿島義清の乱」で鹿島義清に従い鹿島氏幹勢と戦い敗退したため、家臣の烟田中務大輔、井川信濃守を人質に降伏した。1571年、武田通信に奪われた所領三ヶ村を分割して武田通信の継嗣武田信房と和議を結んだ。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
烟田通幹【かまたみちもと(15??~15??)】
烟田忠幹の男。室は江戸通政の娘。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
烟田幹経【かまたもとつね(15??~15??)】
烟田秦幹の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
烟田通幹【かまたみちもと(15??~1591)】
烟田忠幹の男。通称左衛門太夫。室は江戸通政の娘。1584年、「下野小山城の戦い」で佐竹義重に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原城の戦い」で佐竹義宣に従い真壁氏幹らとともに羽柴秀吉に参候して太刀、馬、金を献上して所領を安堵された。1591年、太田城内で佐竹義宣に謀殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
烟田中務大輔【かまたかがみしょうゆ(15??~15??)】
烟田秦幹家臣。1569年、烟田秦幹が鹿島氏幹と和議を結んだため、井川信濃守とともに人質として、鹿島氏幹のもとに送られた。参考文献:「茨城見聞録」bywata。
神立雅楽介【かみだてうたのすけ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
上曾越前守【かみそえちぜんのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。河内郡根古屋館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
軽部源左衛門【かるべげんざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。参考文献:『下野戦国争乱記』by上澤光綱。
軽部治郎右衛門【かるべじろううえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
川井肥前守【かわいひぜんのかみ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。河内郡草場館主。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱の家臣玉生高宗に仕えた。1590年、「金沢の戦い」で玉生高宗に従い江戸重通勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
木村肥前守【きむらひぜんのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
栗林左京亮【くりばやしさきょうのじょう(15??~15??)】
岡見治資家臣。筑波郡栗林館主。参考文献:「茨城見聞録」bywata。
栗林義長【くりばやしよしなが(15??~1587)】
栗林左京亮家臣。官途は下総守。別名柳水軒義長。室は栗林左京亮の娘。軍配者。京都で柳水軒白雲斎から兵法を学び、栗林左京亮に仕えた。1583年、「小貝川の戦い」で北条氏堯の意向を受け総大将を務め、火計を持ちいて多賀谷重経勢を撃退する戦功を挙げた。佐竹義重と小田氏治が岡見治資を挟撃しようとしたが、それを見抜き、先制攻撃をかけ各個に撃破する戦功を挙げた。参考文献:「茨城見聞録」bywata。
菊池隼人【きくちはやと(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡君島館主。1570年、「君島館の戦い」で小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
菊地河内守【きくちかわちのかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
木村次郎左衛門【きむらじろうざえもん(15??~15??)】
龍ヶ崎治英家臣。増塩源太左衛門、森田市左衛門らとともに羽原を治めた。参考文献:「城跡ほっつき歩記」by小頭@和平。
樹村孫左衛門【きむらまござえもん(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
窪谷八左衛門【くぼたにはちざえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
窪谷四方之助【くぼたにしほうのすけ(15??~15??)】
窪谷八左衛門の男。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
倉持左京【くらもちさきょう(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
栗原大塚右衛門【くりはらおおつかうえもん(15??~15??)】
信太範宗家臣。河内郡長石館主。1554年、信太範宗が小田氏治の家臣菅谷勝貞に謀殺されたため、小田氏治に仕えた。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
来栖三河守【くるすみかわのかみ(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。1569年、「手信坂の戦い」で佐竹義重の家臣太田資正、梶原政景とともに真壁氏幹に従い先陣を務める小田氏治の家臣岡見治資勢と戦い岡見治資を討取る戦功を挙げた。参考文献:『佐竹義重(伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名)』by近衛龍春。
軍司政光【ぐんじまさみつ(15??~15??)】
江戸重通家臣。官途は土佐守。1590年、「常陸江戸城の戦い」で佐竹義宣勢に従い江戸重通勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
小泉秀秋【こいずみひであき(15??~15??)】
笠間綱家家臣。笠間郡小泉館主。通称次郎兵衛。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小泉七郎【こいずみしちろう(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小泉与兵衛【こいざみよへい(15??~15??)】
笠間綱家家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
鯉淵通賢【こいぶちみちかた(15??~16??)】
江戸重通家臣。茨城郡堀内館主。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通が佐竹義宣勢と戦い結城晴朝のもとに落延びたため、佐竹義宣に仕えた。1602年、佐竹義宣に従い羽後久保田城に転封した。参考文献:「日本の武将」by伊達政宗。
小浦勘助【こうらかんすけ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
小島勘解由左衛門【こじまかげゆさえもん(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
小浪源兵衛【こなみげんべい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
小浪勘助【こなみかんすけ(15??~15??)】
島崎義幹家臣。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
近衛光寿【このえこうじゅう(15??~1542)】
河内郡竹内館主。官途は甲斐守。別名金剛寺光寿。1542年、「竹内館の戦い」で土岐治頼勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
小林政房【こばやしまさふさ(15??~15??)】
稲田頼国家臣。通称四郎兵衛。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小林九郎【こばやしくろう(15??~15??)】
稲田頼国家臣。1583年、「田野城の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務め、羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小松崎久本【こまつざきひさもと(15??~15??)】
笠間綱家家臣。通称内匠之助。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
小橋大和守【こばしやまとのかみ(15??~15??)】
芹沢国幹家臣。行方郡小橋館主。南方三十三館衆。1591年、「芹沢原の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
小美川越中守【こみかわえっちゅうのかみ(15??~15??)】
筑波郡小美川館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
近藤勝秀【こんどうかつひで(14??~15??)】
土岐治頼家臣。河内郡伊佐部館主。通称八郎三郎。1504年、伊佐部館が焼失したため、木原館に転封した。1523年、「屋代館の戦い」で臼田河内守とともに土岐治頼に従い小田政治勢と戦い戦功を挙げた。1525年、土岐原治頼とともに久野の観音寺観音堂を再建した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
近藤利勝【こんどうとしかつ(15??~15??)】
近藤勝秀の男。官途は丹後守。通称式部大輔。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
近藤義勝【こんどうよしかつ(15??~15??)】
近藤利勝の男。官途は薩摩守。1562年、土岐治英の意向を受け木原城を守備した。1575年、「木原館の戦い」で佐竹義重の家臣江戸崎監物勢と戦い敗退したため、落延びた。1589年、木原楯縫神社を再建した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
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【さ】
榊原弥次右衛門【さかきばらよじうえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
榊原喜左衛門【さかきばらきざえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
榊原重兵衛【さかきばらじゅうべい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
坂隼人【さかはやと(15??~1589)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1589年、「小高城の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
坂源三郎【さかげんざぶろう(15??~1589)】
坂隼人の弟。1589年、「小高城の戦い」で兄の坂隼人とともに島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
坂大学介【さかだいがくのすけ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡坂館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
酒寄備前守【さかよりびぜんのかみ(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。1569年、「手信坂の戦い」で佐竹義重の家臣太田資正、梶原政景とともに真壁氏幹に従い小田氏治の家臣岡見治資勢と戦い岡見治資を討取る戦功を挙げた。参考文献:『佐竹義重(伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名)』by近衛龍春。
桜井吉勝【さくらいよしかつ(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。真壁郡桜井館主。官途は大隈守。参考文献:『小説真壁氏幹鬼の』by高妻秀樹。
桜井実吉【さくらいよしかつ(15??~16??)】
桜井吉勝の男。官途は大炊介。通称久左衛門。1618年、戸田氏鉄に仕えた。参考文献:『小説真壁氏幹鬼の』by高妻秀樹。
桜井重勝【さくらいかつしげ(15??~1627)】
桜井吉勝の次男。通称霞之助。1619年、戸田氏鉄に仕えた。参考文献:『小説真壁氏幹鬼の』by高妻秀樹。
桜井尊房【さくらいたかふさ(15??~15??)】
江戸重通家臣。茨城郡飯沼館主。1590年、「常陸江戸城の戦い」で佐竹義宣勢と戦い飯沼館に落延びた。「飯沼館の戦い」で佐竹義宣勢と戦い降伏した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
笹島小四郎【ささじまこしろう(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
佐藤弥左衛門【さとうよざえもん(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡若柴館主。1570年、「若柴館の戦い」で父の浅野五郎佐衛門とともに小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
佐藤勘兵衛【さとうかんべい(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡玉取館主。1570年、「玉取館の戦い」で父の浅野五郎佐衛門とともに小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
佐藤甚七郎【さとうかんしちろう(15??~15??)】
佐藤勘兵衛の男。1570年、「玉取館の戦い」で父の佐藤勘兵衛とともに小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
佐藤豊後守【さとうぶんごのかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
佐藤伝内【さとうでんない(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
佐藤玄蕃頭【さとうげんばのかみ(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
佐野帯刀【さのたてわき(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
柴崎四郎【しばざきしろう(15??~1591)】
茨城郡柴崎館主。1591年、「柴崎館の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
猿田新四郎【さるたしんしろう(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
常陸宍戸政家【ししどまさいえ(15??~15??)】
茨城郡宍戸城主。宍戸持久の男。官途は安芸守。小田六家。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸宍戸義綱【ししどよしつな(15??~15??)】
宍戸政家の男。官途は安芸守。通称四郎。別名宍戸道胤。1556年、「山王堂の戦い」で平塚自省、菅谷政貞、信太治房、赤松凝淵斎とともに小田氏治に従い長尾景虎勢と戦い敗退した。1561年、「海老ヶ島館の戦い」で多賀谷政経の家臣佐野出羽守勢と戦い撃退する専攻を挙げた。「古沢の戦い」で多賀谷政経勢と戦い敗退した。1591年、「常陸水戸城の戦い」で江戸重通とともに佐竹義宣勢と戦い鹿島郡に落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸宍戸義長【ししどよしなが(15??~16??)】
宍戸義綱の男。1591年、「常陸水戸城の戦い」で父の宍戸義綱とともに江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い鹿島郡に落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸宍戸義利【ししどよしとし(15??~1595)】
宍戸義綱の次男。官途は安芸守。通称中務少輔。1591年、「常陸水戸城の戦い」で佐竹義宣に内応して江戸重通、父の宍戸義綱、兄の宍戸義長勢と戦い戦功を挙げた。常陸宍戸家の家督を相続した。1594年、宍戸城から海老ヶ島館(6,700石)に減封に処された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸宍戸義長【ししどよしなが(15??~16??)】
宍戸義綱の男。1595年、父の宍戸義利が病没したため、宍戸家の家督を相続した。1602年、佐竹義宣の羽後久保田城転封には従わず海老ヶ島で帰農した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸宍戸秀知【ししどひでとも(15??~16??)】
宍戸義綱家臣。通称源左衛門。1602年、宍戸義綱とともに佐竹義宣に従い羽後久保田城に転封した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸宍戸久辰【ししどよしたつ(15??~16??)】
宍戸義綱。通称四郎兵衛。1602年、宍戸義綱とともに佐竹義宣に従い羽後久保田城に転封した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸宍戸五郎左衛門【ししどごろうざえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
信太家範【しだのいえのり(14??~15??)】
小田政治家臣。新治郡木田余館主。信太頼春の男。官途は信濃守。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
信太輔範【しだのやすのり(14??~15??)】
信太家範の男。官途は治部少輔。1516年、「土浦城の戦い」で小田政治、菅谷勝貞とともに若泉五郎左衛門勢と戦い戦功を挙げた。土浦城を領した。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
信太頼範【しのだよりのり(15??~1564)】
信太輔範の男。官途は掃部助。1543年、田土部館から坂戸館に転封した。1545年、「坂戸館の戦い」で宇都宮尚綱の家臣小宅尚時勢と戦い戦功を挙げた。1564年、「坂戸館の戦い」で宇都宮広綱、小宅尚時勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
信太範宗【しだのりむね(1515~1554)】
信太家範の次男。官途は伊勢守。1554年、小田氏治と対立して土浦城内で菅谷勝貞に謀殺された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
信太範貞【しのだのりさだ(14??~1524)】
信太家範の次男。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
信太晴範【しだのはるのり(15??~15??)】
信太輔範の三男。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
信太範勝【しだののりかつ(15??~15??)】
信太頼範の男。官途は掃部助。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
信太範国【しだののりくに(15??~15??)】
信太範宗の男。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
信太利重【しだのとししげ(15??~15??)】
信太範宗の次男。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
信太重成【しだしげなり(15??~1562)】
信太範宗の三男。官途は和泉守。1557年、「海老ヶ島館の戦い」で小田氏治に従い結城政勝と戦い敗退したため、土浦城に落延びた。1564年、「常陸山王堂の戦い」で小田氏治に従い長尾景虎勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
雫左近太夫【しづくさこんだいふ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡雫館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
篠原通知【しのはらみちとも(15??~15??)】
江戸忠通家臣。官途は和泉守。江戸家四天王。参考文献:「春の夜の夢」byアテンザ23Z。
篠原蔵人【しのはらくらうど(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
島崎国幹【しまざきくにもと(14??~1478)】
行方郡島崎城主。島崎成幹の男。官途は駿河守。通称太郎左衛門尉。南方三十三館衆。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
島崎吉幹【しまざきよしもと(14??~15??)】
島崎国幹の男。別名島崎利宗。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
島崎長国【しまざきながくに(1450~1515)】
島崎吉幹の男。官途は播磨守。通称太郎左衛門尉。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
島崎忠幹【しまざきただもと(14??~1524)】
島崎長国の男。通称次郎左衛門尉。別名島崎安国。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
島崎利幹【しまざきとしもと(15??~1557)】
島崎忠幹の男。官途は大炊介。通称太郎左衛門尉。別名島崎安国。1522年、「長山館の戦い」で長山幹綱勢と戦い長山幹綱を討取る戦功を挙げた。1525年、「鹿島城の戦い」で鹿島義幹勢と戦い戦功を挙げた。1536年、「玉造城の戦い」で玉造宗幹勢と戦い戦功を挙げた。古河公方足利晴氏に対抗して佐竹義篤と結んだ。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で小高貞幹を支援して玉造宗幹勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
島崎氏幹【しまざきうじもと(15??~1585)】
島崎利幹の男。官途は大炊介。通称太郎左衛門尉。1562年、「長者原に戦い」で小田氏治勢と戦い戦功を挙げた。1570年、烟田忠幹を攻撃した。1581年、江戸重通とともに鹿島氏幹を攻撃した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
島崎義幹【しまざきよしもと(15??~1591)】
島崎氏幹の男。室は小川大和守の娘(於里姫)。1584年、「霞ヶ浦の海戦」で常陸土岐治綱の支援を受けた麻生之幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で佐竹義宣勢と戦い家臣の坂隼人、坂源三郎が討死した。1590年、「小田原城の戦い」で佐竹義宣に従い真壁氏幹とともに羽柴秀吉に参候して太刀、馬、金を献上した。1591年、太田城内で佐竹義宣に誘殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
島崎定守【しまざきさだもり(15??~15??)】
島崎利幹の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
島崎徳市丸【しまざきとくいちかみ(15??~1591)】
島崎義幹の男。1591年、「大生台の戦い」で島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣勢と戦い敗退した。頃藤館に落延びた。祖父の小川大和守の家臣清水信濃守に謀殺された。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
島崎吉晴【しまざきよしはる(15??~15??)】
島崎義幹の次男。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐藤豊後守とともに多賀郡小豆洗に落延びた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
島並幹家【しまなみしげいえ(15??~1591)】
島崎利幹家臣。行方郡島並館主。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で小高貞幹を支援して玉造宗幹勢と戦い敗退した。1591年、太田城内で島崎儀幹とともに佐竹義宣に誘殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
島並幹国【しまなみみきくに(15??~15??)】
島並幹家の男。1591年、父の島並幹家が佐竹義宣に謀殺されたため、佐竹義宣に仕えた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
下河辺義忠【しもかわべよしさだ(15??~15??)】
行方郡船子館主。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で小高貞幹を支援して玉造宗幹勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
下河辺義広【しもかわべよしひろ(15??~15??)】
下河辺義忠の男。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
下河辺左近【しもかわべさこん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
下河辺監物【しもかわべけんもつ(15??~15??)】
下河辺左近の男。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
白井幹継【しろいみきつぐ(15??~15??)】
玉造憲幹の三男。参考文献:「春の夜の夢」byアテンザ23Z。
新橋道問【しんばしどうもん(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
新橋五郎右衛門【しんばしごろうえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
新橋作助【しばしさくすけ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
新橋道斎【しんばしどうさい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
新橋道之助【しんばしみちのすけ(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
菅野甲斐守【すがのかいのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
菅野豊前守【すがのぶぜんのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
須賀隼人正【すがはやとのじょう(15??~1591)】
玉造宗幹家臣。1591年、中田貞利とともに玉造重幹に従い佐竹義宣のもとに赴き大久保の正伝寺まで落延びたが謀殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
菅谷晴範【すがやはるのり(14??~15??)】
小田政治家臣。新治郡宍倉館主。官途は隠岐守。別名菅谷貞次。1516年、「永正の乱」で小田政治の陣代を務め、古河公方足利高基を支援して北関東各地を転戦して古河公方足利政氏勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
菅谷勝貞【すがやかつさだ1493~1575)】
菅谷晴範の次男(信太範貞の養子)。官途は尾張守。別名信太勝貞。勇猛知将。1516年、「土浦城の戦い」で小田政治の意向を受け土岐治頼の家臣若泉五郎左衛門勢と戦い若泉五郎左衛門を討取る戦功を挙げた。1545年、「河越城の戦い」で山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏に従い北条氏康勢と戦い敗退した。1556年、「海老ヶ島城の戦い」で北条氏康、結城政勝勢と戦い敗退した。1564年、「山王堂の戦い」で小田氏治に従い長尾景虎、宇都宮広綱、佐竹義昭勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
菅谷政貞【すがやまささだ(1518~1592)】
菅谷勝貞の男。官途は摂津守。1558年、「小田城の戦い」で長尾景虎、佐竹義昭勢と戦い落延びた小田氏治を藤沢館に迎え小田城奪還に尽力した。1559年、「小田城の戦い」で信太頼範とともに小田氏治に従い太田資正勢と戦い小田城を奪還する戦功を挙げた。1563年、「三村の戦い」で小田氏治に従い大掾貞国勢と戦い戦功を挙げた。1564年、「山王堂の戦い」で小田氏治に従い長尾景虎、宇都宮広綱、佐竹義重勢と戦い敗退した。1569年、「手這坂の戦い」で小田氏治に従い太田資正、梶原政景、真壁氏幹勢と戦い敗退した。1570年、「平塚原の戦い」で小田氏治に従い結城晴朝、多賀谷重経勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
菅谷範政【すがやのりまさ(1558~1612)】
菅谷政貞の男。官途は左衛門大夫。小田氏治が小田城を追われるたびに土浦城に匿って小田城奪還戦に協力した。1590年、「小田原城の戦い」で小田氏治が北条氏直に従い羽柴秀吉勢と戦い改易処分に処された。菅谷範政も土浦城を退去して真壁郡に蟄居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
菅谷範貞【すがやのりさだ(1580~1618)】
菅谷範政の男。1600年、「第二次上田城の戦い」で松平秀忠に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」で松平秀忠に従い二条城留守居役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
菅谷政頼【すがやまさより(1527~1559)】
菅谷勝貞の男(菅谷政貞の養子)。娘が菅谷範政に嫁いだ。1559年、「小田城の戦い」で信太頼範とともに小田氏治に従い太田資正勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
菅谷利助【すがやとしすけ(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
菅谷半平【すがやへんぺい(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
杉浦外記【すぎうらげき(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
鈴木淡路守【すずきあわじのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。河内郡大島館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
鈴木主計助【すずきしゅけいのすけ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
鈴木治房【すずきはるふさ(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。参考文献:『佐竹義重(伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名)』by近衛龍春。
鈴木主水【すずきもんど(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
関刑部【せきぎょうぶ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡青田館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
関戸玄蕃頭【せきどげんばのかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。行方郡弁天山館主。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
瀬能茂兵衛【せのうもへい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
芹沢範幹【せりざわのりもと(14??~15??)】
行方郡芹沢館主。芹沢俊幹の男。官途は土佐守。室は小高兵武大輔の娘。南方三十三館衆。娘を島崎大炊助に嫁がせた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
芹沢秀幹【せりざわひでもと(14??~15??)】
芹沢範幹の男。官途は土佐守。室は大掾清幹の娘。1509年、「永正の乱」で古河公方足利政氏、古河公方足利高基に従い小弓公方足利義明勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
芹沢定幹【せりざわさだもと(15??~15??)】
芹沢秀幹の男。官途は土佐守。室は土岐治頼の娘。1546年、「武蔵河越城の戦い」で古河公方足利晴氏、山内上杉憲政、扇谷上杉朝興に従い北条氏康勢と戦い敗退した。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で玉造宗幹に従い大掾慶幹、小田氏治の支援を受けた小高貞幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
芹沢守定【せりざわもりさだ(15??~15??)】
芹沢秀幹の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
芹沢国幹【せりざわくにもと(15??~15??)】
芹沢定幹の男。官途は土佐守。1591年、南方三十三館衆が佐竹義宣に謀殺されたため、那須資晴のもとに落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
芹沢通幹【せりざわみちもと(15??~16??)】
芹沢国幹の男。1591年、父の芹沢国幹とともに那須資晴のもとに落延びた。安東実季に仕えた。1602年、安東実季に従い常陸宍戸城に転封した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
芹沢将幹【せりざわしょうもと(15??~16??)】
芹沢通幹の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
芹沢高幹【せりざわたかもと(15??~16??)】
芹沢通幹の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
仙波藤十郎【せんなみとうじゅうろう(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
仙波勘三郎【せんなみかんざぶろう(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
仙波伝之丞【せんなみでんのじょう(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
仙波弥市【せんなみよいち(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
相賀詮秀【そうがあきひで(15??~15??)】
行方郡相賀館主。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
薗部兼泰【そのべかねやす(14??~15??)】
小田政治家臣。茨城郡小川館主。官途は豊後守。別名小川兼泰。小川館(5,000石)を領した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
薗部兼彦【そのべかねひこ(15??~15??)】
薗部兼泰の男。通称宮内。別名小川兼彦。大掾慶幹に内応したため、小田政治から小川館を追われた。1546年、「小川館の戦い」で江戸重通の支援を受け小田政治勢と戦い戦功を挙げた。1571年、「小川館の戦い」で小田氏治勢と戦い結城晴朝のもとに落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
薗部兼基【そのべかねもと(15??~1588)】
薗部兼彦の男。通称宮内大輔。別名小川兼基。1588年、「小川館の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
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【た】
大生定守【だいおうさだもり(15??~1614)】
行方郡大生城館。通称弾正忠。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
大掾常幹【だいじょうじときもと(14??~15??)】
茨城郡府中城主。大掾高幹の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大掾慶幹【だいじょうじよしとも(1515~1562)】
大掾常幹の男。1531年、「石岡鹿子原の戦い」で江戸忠通とともに小田政治勢と戦い戦功を挙げた。1546年、「長者原の戦い」で小田政治、小鷹直幹勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で小田氏治とともに小高貞幹を支援して玉造宗幹勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大掾貞国【だいじょうじさだくに(15??~1577)】
大掾慶幹の男。1562年、父の大掾慶幹が病没したため、大掾家の家督を相続した。1563年、「三村の戦い」で小田氏治勢と戦い敗退した。1564年、佐竹義篤の八男大掾昌幹を養子に迎え大掾家の家督を譲った。1565年、佐竹義昭が病没したため、大掾昌幹を追放して大掾家の家督を相続した。1569年、「手這坂の戦い」で太田資正、梶原政景、真壁久幹とともに小田氏治勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国大名辞典』by新人物往来社。
大掾昌幹【だいじょうじまさもと(15??~15??)】
佐竹義篤の八男(大掾貞国の養子)。通称三郎。別名小野崎義昌。1564年、大掾貞国の養子に迎えられ、大掾家の家督を相続した。1565年、佐竹義昭が病没したため、大掾貞国に大掾家を追われた。参考文献:『戦国大名辞典』by新人物往来社。
大掾清幹【だいじょうじきよとも(1573~1591)】
大掾貞国の男。室は真壁久幹の娘。1577年、大掾貞国が病没したため、叔父の竹原義国の後見役を受け大掾家の家督を相続した。1585年、「第一次府中の戦い」で真壁氏幹とともに江戸重通、鹿島清秀、烟田通幹勢と戦い敗退した。1587年、「第二次府中の戦い」で佐竹義宣勢と戦い敗退した。1591年、「常陸府中城の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名辞典』by新人物往来社。
大掾幹継【だいじょうじもとつぐ(15??~1591)】
大掾貞国の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大掾貞宗【だいじょうじさだむね(15??~1591)】
大掾貞国の三男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大掾常春【だいじょうじつねはる(15??~15??)】
大掾慶幹の三男。茨城郡三村館主。別名三村常春。1563年、「三村館の戦い」で小田氏治勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
田内重春【たうちしげはる(15??~1591)】
芹沢国幹家臣。行方郡井之上館主。通称刑部。弓の名人。1571年、「小川館の戦い」で小多加山城守勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1591年、「井之上館の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。辞世の句『南を照らす日の出のうたてさよ我は冥土の燈火とせん』。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
高塩宇左衛門【たかしおうざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
高塩三右衛門【たかしおさんうえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
高田治部【たかだじぶ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
高戸伊予守【たかといよのかみ(15??~1569)】
小田氏治家臣。筑波郡高崎館主。1569年、「手這坂の戦い」で三田喜三郎とともに小田氏治に従い佐竹義重勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
多賀野伊豆守【たがのいずのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡片野館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
高橋喜四郎【たかはしきしろう(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
高幡五郎左衛門【たかはたごろうざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
高畑勘左衛門【たかはたかんざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「橋本館の戦い」で岩瀬十兵衛に従い結城晴朝の家臣片見晴信勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
高浜藤内【たかはまとうない(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
田口弥八郎【たぐちよはちろう(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。1569年、「手信坂の戦い」で佐竹義重の家臣太田資正、梶原政景とともに真壁氏幹に従い小田氏治の家臣岡見治資勢と戦い岡見治資を討取る戦功を挙げた。参考文献:『佐竹義重(伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名)』by近衛龍春。
常陸武田信治【たけだのぶはる(15??~15??)】
行方郡神明館主。武田信親の男。官途は大膳大夫。南方三十三館衆。1533年、木崎館に転封した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。
常陸武田通信【たけだつうのぶ(15??~15??)】
武田信治の男。官途は民部大輔。別名木崎通信。1540年、「鉾田館の戦い」で鹿島治時勢と戦い戦功を挙げた。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で小高貞幹を支援して玉造宗幹勢と戦い敗退した。1571年、鹿島治時と和議を結んだ。1566年、烟田通幹と争い新里、当間など所領三ヶ村を奪った。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。
常陸武田信房【たけだのぶふさ(15??~1591)】
武田通信の男。官途は淡路守。1571年、鹿島義清、烟田忠幹と係争地を分割させ和議を結んだ。1587年、大掾清幹、山田幹国と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原城の戦い」で佐竹義宣に従い羽柴秀吉から所領を安堵された。1591年、佐竹義宣に太田城で謀殺された。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。
常陸武田輔信【たけだすけのぶ(15??~15??)】
武田信房の男。1591年、父の武田信房が佐竹義宣に謀殺されたため、松平元康のもとで師範代を務め、家伝剣術、北辰一刀流剣術、鹿島新当流、天真正伝香取神道流を継嗣の武田輔長に伝承した。参考文献:「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼。
那珂武田俊房【たけだとしふさ(15??~15??)】
鹿島郡武田館主。武田信親の弟。通称次郎左衛門尉。1534年、稲荷神社を再建し武田郷九ヶ村の郷社とした。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
那珂武田就利【たけだなりとし(15??~15??)】
武田俊房の男。官途は但馬守。通称次郎右衛門尉。佐竹義宣に仕えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
那珂武田信忠【たけだのぶただ(15??~15??)】
武田就利の男。通称次郎右衛門。内田若狭守に仕えた。1591年、「武田館の戦い」で佐竹義宣勢と戦い敗退したため、帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
竹原義国【たけはらよしくに(15??~1591)】
大掾慶幹の次男。鹿島郡竹原館主。通称四郎。別名大掾義国。1591年、「竹原館の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
只越全久【ただみぜんきゅう(15??~1586)】
岡見頼忠家臣。筑波郡小張館主。1586年、「小張館の戦い」で只越善久、岡見頼房、月岡広秀とともに多賀谷重経、佐竹義重の家臣梶原景国勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
只越善久【ただみおわりのかみ(15??~1587)】
岡見頼忠家臣。筑波郡岩崎館主。官途は尾張守。1586年、「小張館の戦い」で只越全久、岡見頼房、月岡広秀とともに多賀谷重経勢と戦い敗退した。1587年、「岩崎館の戦い」で多賀谷重経勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
館原大炊助【たてはらおおいのすけ(15??~15??)】
江戸忠通家臣。1560年、江戸忠通から離反して佐竹義昭に仕えた。東義堅から篠の沢(17貫)を与えられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
舘民部少輔【たてみんぶしょうゆ(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
舘主殿助【たてぬいどのすけ(15??~1590)】
舘民部少輔の男。1590年、「常陸江戸城の戦い」で父の舘民部少輔とともに佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
谷田部宮司【たにたべぐうじ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
谷田部壽教【たにたべひろよし(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡谷田部館主。通称三郎左衛門。小田六家。1570年、「谷田部館の戦い」で多賀谷政経勢と戦い家臣平井手伊賀守が内応したため、小田氏治のもとに落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
谷田部壽宣【たにたべひろのぶ(15??~15??)】
谷田部壽教の男。通称三平。1570年、「谷田部館の戦い」で父の谷田部壽教とともに多賀谷政経勢と戦い小田氏治のもとに落延びた。1578年、「木田余館の戦い」で小田氏治、菅谷範政に従い佐竹義重の家臣梶原政景勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
谷田部壽幸【たにたべひろゆき(15??~15??)】
谷田部壽宣の男。官途は志摩守。別名沼尻壽幸。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
谷田部通種【たにたべみちたね(15??~1582)】
江戸重通家臣。谷田部雅胤の男。官途は越後守。吉田神社に篠原通知とともに連署状を出した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
谷田部重種【たにたべしげたね(15??~1590)】
谷田部通種の男。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
谷中将国【たになかしょうこく(15??~15??)】
益子家宗家臣。茨城郡橋本館主。通称大学。1522年、「磯部原の戦い」で益子家宗に従い戦功を挙げた。吉所館(800石)を領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
谷中高広【たになかたかひろ(15??~1582)】
笠間幹綱家臣。通称玄蕃允。別名「月山坊」。1582年、「橋本館の戦」で結城晴朝の家臣片見晴信の支援を受け益子重綱、福原朝広、加藤大隈守勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
谷中孫八郎【たになかまごはちろう(15??~15??)】
谷中高広の男。1582年、「橋本館の戦」で父の谷中高広が益子重綱勢と戦い討死したため、谷中家の家督を相続した。1583年、「富谷館の戦い」で笠間幹綱の意向を受け江戸美濃守とともに益子重綱勢と戦い益子重綱を捕縛する戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
田野辺胤幹【たのべたねもと(15??~15??)】
鹿島郡田野辺館主。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
田伏次郎大夫【たぶせじろうたいふ(15??~1591)】
小田氏治家臣。筑波郡田伏館主。1573年、「君島川の戦い」で小田氏治に従い梶原景国、北条治高、真壁久幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「田伏館の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
玉尾忠右衛門【たまおちゅうえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1582年、「橋本館の戦い」で谷中淡路守とともに益子重綱の家臣加藤大隈守を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
玉造憲幹【たまづくりのりもと(14??~15??)】
行方郡玉造館主。玉造助幹の男。南方三十三館衆。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
玉造宗幹【たまづくりむねもと(14??~15??)】
玉造憲幹の男。1526年、「玉造城の戦い」で島崎利幹勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で大掾慶幹、小田氏治の支援を受けた小高貞幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
玉造定幹【たまづくりさだもと(14??~15??)】
玉造助幹の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
玉造重幹【たまづくりしげもと(15??~1591)】
玉造宗幹の男。通称与一太郎。1590年、「玉造城の戦い」で大掾清幹勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1591年、南方三十三館主とともに太田城内で佐竹義宣に謀殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
玉造明幹【たまづくりあきもと(15??~15??)】
玉造重幹の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
玉造源三【たまづくりげんぞう(15??~15??)】
鹿島義幹家臣。浪人衆。鹿島義幹に重用され領内に重税を課したため、鹿島家四家老職(吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之)と対立した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
玉生玄馬【たまきげんば(15??~15??)】
稲田頼国家臣。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
玉内宮内少輔【たまくないしょうゆ(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
玉生高昌【たままさたかまさ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。官途は美濃守。1590年、「笠間城の戦い」で長谷川信綱、長谷川綱重が江戸重通の家臣鹿尾遠江守、江戸織部を討取る戦功を挙げた。笠間城代職を務めた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
田山市正【たやまいちまさ(15??~1587)】
江戸重通家臣。1587年、「烟田館の戦い」で鹿島貞信勢と戦い額賀上野守、石崎近江守が内応したため、討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
塚原安幹【つかはらやすもと(15??~15??)】
鹿島義幹家臣。鹿島郡塚原館主。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
塚原高幹【つかはらたかもと(1490~1572)】
吉川覚賢の次男(塚原安幹の養子)。通称「ト伝」。鹿島家四家老職。実父の吉川覚賢から鹿島中古流の剣法を学び、養父の塚原安幹からは香取神道流を学び、松本政信から鹿島神陰流を学んだ。弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)、諸岡常成、真壁氏幹、斎藤勝秀。足利義輝、北畠具教の剣術指南役を務めた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
塚原内記【つかはらないき(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡籾館主。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
津賀政勝【つがまさかつ(15??~15??)】
鹿島治時家臣。鹿島郡津賀館主。通称大吹介。1579年、鹿島義清が謀殺されたため、江戸重通のもとに落延びた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
津賀政信【つがまさのぶ(15??~1600)】
津賀政勝の男。官途は豊前守。1600年、「常陸津賀館の戦い」で松平元康に意向を受け津賀館を守備したが佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
津賀彦七【つがひこしち(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
月岡播磨守【つきおかはりまのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡板橋館主。通称玄蕃允。1587年、「板橋館の戦い」で佐竹義重、多賀谷政経勢と戦い落延びた。1589年、東光山永寿院を建立した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
筑波源八郎【つくばげんぱちろう(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡筑波館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
月岡広秀【つきおかひろひで(15??~15??)】
岡見頼忠家臣。筑波郡常陸板橋館主。官途は玄蕃允。1580年、「矢田部館の戦い」で只越全久とともに岡見頼忠に従い多賀谷重経勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
柘植豊後守【つげぶんごのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
土子美濃守【つちこみののかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。行方郡矢幡館主。家老職。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
土子伊賀守【つちこいがのかみ(15??~15??)】
土子美濃守の男。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳とともに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
土子彦兵衛【つちこひこべい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
土子越前守【つちこえちぜんのかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
手賀景幹【てがかげみき(15??~15??)】
玉造宗幹家臣。行方郡手賀館主。南方三十三館衆。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で玉造宗幹に従い大掾慶幹、小田氏治の支援を受けた小高貞幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
手賀高幹【てがかかみき(15??~1591)】
手賀景幹の男。通称与一郎。1591年、玉造重幹とともに太田城内で佐竹義宣に謀殺された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
出沢大隈守【でざわおおすみのかみ(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
寺崎出羽守【てらさきでわのかみ(15??~15??)】
笠間幹綱家臣。新治郡寺崎館主。官途は中務少輔。1580年、「笠間左近大輔の乱」で笠間綱家に従い笠間左近大輔勢と戦い戦功を挙げた。1582年、笠間綱家から大綱郷を加増された。1584年、「路川大和守の乱」で笠間綱家に従い路川大和守勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
寺崎広良【てらさきひろよし(15??~1590)】
寺崎出羽守の男。官途は中務少輔。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、佐竹義重に仕えた。1602年、佐竹義宣に従い羽後久保田城に転封した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
寺田与兵衛【てらだよへい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
寺田茂兵衛【てらだもへい(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
東条英幹【とうじょうえいかん(15??~15??)】
常陸土岐治頼家臣。河内郡東条館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
東条五郎左衛門尉【とうじょうごろうえもん(15??~15??)】
東条英幹の男。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
東条重定【とうじょうしげさだ(15??~1548)】
常陸土岐治頼家臣。河内郡泉館主。1548年、「小坂館の戦い」で岡見備中守勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
東条英重【とうじょうひでしげ(15??~15??)】
東条重定の男。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
鴇田兵庫介【ときたひょうごのすけ(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
鴇田伊賀守【ときたいがのかみ(15??~15??)】
鴇田兵庫介の男。1569年、「鹿島義清の乱」で父の鴇田兵庫介とともに島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で鴇田兵庫介とともに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
鴇田美濃守【ときたみののかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
常陸土岐治頼【ときはらはるより(1502~1557)】
信太郡江戸崎城主。美濃常陸土岐政房の三男(常陸土岐景成の養子)。官途は美濃守。室は常陸土岐景成の娘。1523年、「屋代館の戦い」で近藤勝秀、臼田河内守とともに山内上杉憲房の支援を受け小田政治勢と戦い戦功を挙げた。1542年、兄の常陸土岐頼芸が長井秀規に美濃国を追われたため、常陸土岐家惣領職を相続した。小田氏治が北条氏康と結ぶと劣勢に立たされた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸土岐治英【ときはらはるふさ(15??~1585)】
原治頼の男(常陸土岐治頼の養子)。官途は大膳大夫。別名常陸土岐治秀。1551年、「神流川の戦い」で長野業正、太田資正とともに山内上杉憲政に従い北条氏康勢と戦い敗退した。1561年、「小田城の戦い」で小田氏治とともに佐竹義昭、多賀谷重経勢と戦い敗退した。龍ヶ崎城に次男の龍ヶ崎胤倫を入れ領国の安定化を図った。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
常陸土岐治綱【ときはらはるつな(15??~1599)】
常陸土岐治英の次男。官途は美作守。1583年、「龍ヶ崎城の戦い」で佐竹義重勢と戦い敗退した。1584年、「霞ヶ浦の海戦」で麻生之幹を支援して島崎義幹勢と戦い敗退した。1590年、「江戸崎城の戦い」で北条氏直氏直に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。参考文献:Weblio辞書。
常陸土岐頼英【ときはらよりふさ(15??~15??)】
常陸土岐治綱の男。1590年、「江戸崎城の戦い」で父の常陸土岐治綱が羽柴秀吉勢と戦い改易処分に処されたため、叔父の龍ヶ崎胤倫に養育された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
徳宿道幹【とくしゅくみちもと(14??~1486)】
鹿島郡徳宿館主。通称三郎。南方三十三館衆。1486年、「徳宿館の戦い」で江戸適雅勢と戦い討死した。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
徳宿道春【とくしゅくみちはる(14??~15??)】
徳宿道幹の男。1486年、「徳宿館の戦い」で父の徳宿道幹が江戸適雅勢と戦い討死したため、磯部兼長とともに那珂郡岩船村に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
戸崎長俊【とざきながとし(15??~1573)】
小田氏治家臣。新治郡戸崎館主。通称大膳亮。別名「道閑斎」。1573年、「戸崎館の戦い」で由良憲綱とともに佐竹義重勢と戦い小田氏治のもとに落延びた。1578年、「戸崎館の戦い」で佐竹義重勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
豊島日向守【としまひゅうがのかみ(15??~15??)】
月岡播磨守家臣。1587年、「板橋館の戦い」で月岡播磨守に従い佐竹義重、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
戸塚源左衛門【とつかげんざえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
鳥名木時長【となぎときなが(15??~15??)】
手賀景幹家臣。行方郡鳥名木館主。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で玉造宗幹に従い大掾慶幹、小田氏治の支援を受けた小高貞幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
鳥名木出雲守【となぎいずものかみ(15??~1591)】
鳥名木時長の男。1591年、佐竹義宣に謀殺された。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
富田吉幹【とみたよしもと(15??~1536)】
島崎利幹家臣。行方郡富田館主。南方三十三館衆。1536年、「玉造城の戦い」で島崎利幹に従い玉造宗幹勢と戦い討死した。参考文献:「さくらとおしろ」byさくら。
富田昌幹【とみたまさもと(15??~15??)】
富田吉幹の男。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
友部上総介【ともべかずさのすけ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡猪子山館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
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【な】
中居秀幹【なかいひでもと(15??~1591)】
鹿島治時家臣。鹿島郡中居館主。鹿島郡内の24ヶ村を領した。1591年、太田城内で佐竹義宣に謀殺された。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
中居時幹【なかいときもと(15??~15??)】
中居秀幹の男。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
長岡織部【ながおかおりべ(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。1569年、「手信坂の戦い」で佐竹義重の家臣太田資正、梶原政景とともに真壁氏幹に従い小田氏治の家臣岡見治資勢と戦い岡見治資を討取る戦功を挙げた。参考文献:『佐竹義重(伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名)』by近衛龍春。
中島右近【なかじまうこん(15??~15??)】
稲田頼国家臣。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
中田貞利【なかたさだとし(15??~1591)】
玉造宗幹家臣。1591年、須賀隼人正とともに玉造重幹に従い佐竹義宣のもとに赴き正伝寺で謀殺された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
中田馬之助【なかたうまのすけ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
長田主膳【ながたしゅぜん(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡田中館主。1570年、「田中館の戦い」で小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
永田勇祐【ながたゆうすけ(15??~15??)】
稲田頼国家臣。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
中原左近将監【なかはらさこんのしょううげん(15??~15??)】
小田氏治家臣。1560年、「下総結城城の戦い」で小田氏治に従い長尾景虎勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
中条左近太夫【なかじょうさこんだいふ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
中原将監【なかはらしょうげん(15??~15??)】
中原左近将監の男。1582年、「橋本館の戦い」で谷中淡路とともに結城晴朝の支援を受けた益子重綱の家臣加藤大隈勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
中原正勝【なかはらまさかつ(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。真壁家忍衆の頭領。参考文献:『小説真壁氏幹鬼の義』by高妻秀樹。
中原庄左衛門【なかはらしょうざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。笠間郡木植館主。1583年、「田野館の戦い」で笠間綱家の家臣羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
中根主膳万太夫【なかねしゅぜんまんだいふ(15??~15??)】
小田氏治家臣。筑波郡手野館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
長堀松光【ながぼりしょうみつ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。笠間郡大月館主。別名「律師」。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
長堀国師【ながぼりこくし(15??~15??)】
長堀松光家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
中村源七郎【なかむらげんしちろう(15??~15??)】
加藤大隈守家臣。1582年、「橋本館の戦い」で加藤大隈守に従い笠間幹綱の家臣谷中高広勢と戦い谷中高広を討取る戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
中村弥太郎【なかむらよたろう(15??~15??)】
鹿島郡中村館主。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
中山広利【なかやまひろとし(15??~15??)】
稲田頼国家臣。通称綱之進。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
長山幹綱【ながやまもとつな(14??~1522)】
行方郡長山館主。南方三十三館衆。1522年、「長山館の戦い」で島崎利幹勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
長山政幹【ながやままさもと(15??~15??)】
長山幹綱の男。官途は勘解由。1522年、「長山館の戦い」で父の長山幹綱が島崎利幹勢と戦い討死したため、佐竹義篤のもとに落延びた。1543年、「陸奥関山の戦い」で佐竹義篤に従い相馬顕胤勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
長山幹氏【ながやままさもと(15??~15??)】
長山政幹の男。別名永山知幹。1578年、「陸奥亀山館の戦い」で小野崎義昌に従い駒木根信重勢と戦い負傷した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
奈志原広助【なしはらひろすけ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
行方貞久【なめかたさだひさ(15??~15??)】
行方郡行方館主。官途は刑部少輔。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
成田遠江守【なりたとうとみのかみ(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。1569年、「手信坂の戦い」で佐竹義重の家臣太田資正、梶原政景とともに真壁氏幹に従い小田氏治の家臣岡見治資勢と戦い岡見治資を討取る戦功を挙げた。参考文献:『佐竹義重(伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名)』by近衛龍春。
蜷川全宗【にながわぜんそう(15??~15??)】
北条氏高家臣。全宗寺を再興した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
仁平大膳【にひらだいぜん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
仁平永馬【にひらえいま(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
額賀上野守【ぬがかうずのかみ(15??~15??)】
江戸重通家臣。1587年、「烟田館の戦い」で石崎近江守とともに鹿島貞信に内応して田山市正勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
沼尾行幹【ぬまおゆきもと(15??~15??)】
鹿島郡沼尾館主。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
沼尾幹茂【ぬまおもとしげ(15??~15??)】
沼尾行幹の男。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
沼崎宗幹【ぬまさきむねもと(15??~15??)】
筑波郡沼崎館主。官途は備前守。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
沼崎播磨守【ぬまさきはりまのかみ(15??~15??)】
沼崎宗幹の男。通称五郎。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
沼尻家忠【ぬまじりいえただ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡金田館主。通称又五郎。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
沼尻信秀【ぬまじりのぶひで(15??~15??)】
沼尻家忠の男。通称又五郎。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
沼尻志摩守【ぬまじりしまのかみ(15??~15??)】
只越全久家臣。1586年、「小張館の戦い」で只越全久に従い多賀谷重経、佐竹義重の家臣梶原景国勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
根本与四郎【ねもとよしろう(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
野口右京【のぐちうきょう(15??~15??)】
芹沢国幹家臣。行方郡下吉影館主。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
野口右兵衛【のぐちうへい(15??~15??)】
野口右兵衛の男。1591年、「芹沢原の戦い」で佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
野口式部【のぐちしきぶ(15??~15??)】
岡見治資家臣。河内郡久野館主。1574年、「久野館の戦い」で江戸崎監物の家臣桂左衛門勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
野尻掃部【のじりかもん(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
野中瀬備後守【のなかせびんごのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡苅間館主。通称左衛門。別名「鈍斉」。1570年、「平塚原の戦い」で小田氏治に従い結城晴朝、多賀谷重経勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【は】
芳賀貞道【はがさだみち(15??~15??)】
笠間綱家家臣。通称十郎。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
萩原大学【はぎわらだいがくのかみ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1590年、「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、宇都宮国綱に仕えた。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、所領を失った。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
萩原半兵衛【はぎわらはんべい(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
橋田豊後守【はしだぶんごのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
橋田平六【はしだへいろく(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
蓮沼庄司【はすぬましょうじ(15??~1570)】
小田氏治家臣。新治郡蓮沼館主。1570年、「蓮沼館の戦い」で父の浅野五郎佐衛門とともに小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
長谷川信綱【はせがわのぶつな(15??~15??)】
玉生高昌家臣。官途は豊前守。1590年、「常陸江戸城の戦い」で佐竹義宣に属した玉生高昌に従い江戸重通の家臣鹿尾遠江守、江戸織部勢と戦い戦功を挙げた。「笠間城の戦い」で笠間綱家が宇都宮国綱勢と戦い滅亡したため、玉生高昌に従い笠間城を守備した。1597年、宇都宮国綱が改易処分に処されたため、失領した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
長谷川綱重【はせがわつなしげ(15??~15??)】
長谷川信綱の弟。官途は豊後守。1590年、「常陸江戸城の戦い」で兄の長谷川信綱とともに佐竹義宣に従い江戸重通の家臣鹿尾遠江守、江戸織部勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
常陸波多野宗治【はたのむねはる(15??~1586)】
土岐治頼家臣。河内郡大谷館主。別名秦野刑部少輔。1556年、信太庄大檀那を務め、一の宮楯縫神社に大般若経を奉納した。1562年、土岐治英の意向を受け根古屋館に転封した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
八田友治【はったともはる(1548~1604)】
小田氏治の男。官途は左近。通称小太郎。室は芳賀伯耆守の娘。人質として北条氏康のもとに赴いた。1590年、「小田原城の戦い」で小田治政とともに北条氏直に従い羽柴秀吉勢と戦い改易処分に処された。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉の舟奉行職を務めた。1598年、堀尾吉晴の仲介で結城秀康に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で結城秀康に抜け駆けを薦めたことが松平元康の逆鱗に触れ、結城秀康のもとを退去した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
八田義治【はったよしはる(15??~1616)】
八田友治の男。官途は左京亮。別名小田義治。1604年、父の八田友治が病没したため、八田家の家督を相続した。速水守久にの推挙により羽柴秀頼に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で旧領回復の約束を取り付け、常陸国から小田家旧臣を多数集め、羽柴秀頼勢に属した。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼に従い松平元康勢と戦い敗退した。福島正則に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
八田友重【はったともしげ(1586~1638)】
八田友治の次男(宇都宮為明の養子)。通称太郎左衛門。別名小田友重。1600年、「関ヶ原の役」で徳永寿昌に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。その後、松平定勝に仕え小田家の再興を図ったが失敗に終わった。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
羽生式部少輔【はにゅうしきぶしょうゆ(15??~15??)】
筑波郡横曾根館主。参考文献:「蔵のスキンヘッドおじさんのブログ」byペタ。
塙政俊【はにわまさとし(15??~15??)】
烟田秦幹家臣。鹿島郡母貝館主。烟田八館衆。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
塙政頼【はにわまさより(15??~1591)】
塙政俊の男。1591年、太田城内で佐竹義宣に謀殺された。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
塙外記【はなわげき(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
塙織部丞【はなわいりべのじょう(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
塙介左衛門【ばにわすけざえもん(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
塙甚五郎【はにわじんごろう(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
羽石政秀【はねいしまさひで(15??~1583)】
笠間綱家家臣。1583年、「田野館の戦い」で水谷政村勢と戦い門毛館に落延びた。「門毛館の戦い」で今井勘左衛門が水谷政村に内応したため、討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
羽石時義【はねいしときよし(15??~15??)】
羽石政秀の弟。通称左衛門尉。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
濱野隼人【はまのはやと(15??~15??)】
小神野経憲家臣。1573年、「甲山館の戦い」で小神野経憲に従い佐竹義重勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
濱野太郎次郎【はまのたろうじろう(15??~15??)】
濱野隼人の男。1573年、「甲山館の戦い」で父の濱野隼人とともに佐竹義重勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
浜野大蔵【はまのおおくら(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
浜野但馬守【はまのたじまのかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
林左京亮【はやしさきょうのじょう(14??~15??)】
鹿島義幹家臣。鹿島郡林館主。南方三十三館衆。1524年、「鹿島城の戦い」で鹿島義幹に従い江戸通泰、大掾忠幹、島崎利幹の支援を受けた吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之勢と戦い須賀山館に落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
林時国【はやしときくに(15??~1589)】
鹿島治時家臣。鹿島郡林館主。官途は弾正忠。1589年、荒原五郎左衛門に謀殺された。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
林兵部【はやしひょうぶ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
原内匠助【はらたくみのすけ(14??~15??)】
近藤勝秀家臣。1507年、「江戸崎城の戦い」で臼田弥次郎とともに小田成治に内応して土岐治頼勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
原田徳太郎【はらだとくたろう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
原目徳兵衛【はらめとくべい(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
原弥兵衛【はらよへい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
原徳大夫【はらとくだいふ(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
春秋道富【はるあきみちとみ(14??~15??)】
江戸通房の八男(春秋幹勝の養子)。茨城郡河和田館主。官途は上野守。別名平通式。室は春秋幹勝の娘。1506年、上大野極楽橋の勧進を行った。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
春秋道光【はるあきみちみつ(15??~15??)】
春秋道富の男。官途は因幡守。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
春秋道宗【はるあきみちむね(15??~15??)】
春秋道光の男。官途は能登守。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
春秋道晃【はるあきみちあき(15??~15??)】
春秋道宗の男。別名河和田林光。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
春秋八郎【はるあきはちろう(15??~1590)】
江戸重通家臣。官途は上野守。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
台渡春秋駿河守【はるあきするがのかみ(15??~15??)】
江戸通長家臣。江戸通長から小野崎越前守への使者を務めた。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
田野春秋重元【はるあきしげもと(15??~16??)】
江戸重通家臣。通称兵庫助。1584年、田野の鹿島大明神再興の旦那を務めた。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通が佐竹義宣勢と戦い討死したため、結城晴朝のもとに落延びた。1614年、「大坂冬の陣」で結城秀康に従い羽柴秀頼勢と戦い敗退した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
見川春秋幹光【はるあきみきみつ(14??~15??)】
春秋幹安の次男。茨城郡見川館主。官途は石見守。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
東右衛門大輔【ひがしさえもんだいいゆ(15??~15??)】
鹿島義幹家臣。1524年、「鹿島城の戦い」で鹿島義幹に従い江戸通泰、大掾忠幹、島崎利幹の支援を受けた吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之勢と戦い須賀山館に落延びた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
人見久兵衛【ひとみきゅうべい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
広沢大学助【ひろさわだいがくのすけ(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
平沢知義【ひらさわともよし(15??~15??)】
水谷勝俊家臣。通称五郎。1583年、「門毛館の戦い」で水谷勝俊に従い羽石政秀勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
平戸五郎右衛門【ひらどごろうえもん(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考資料:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
平戸左馬【ひらどさまのすけ(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
平塚長信【ひらつかながのぶ(15??~1559)】
海老原俊之家臣。1546年、「第一次海老ヶ島城の戦い」で海老ヶ島俊之が宍戸通綱勢と戦い討死したため、海老ヶ島城主を務めた。1556年、「第二次海老ヶ島城の戦い」で小田氏治が北条氏康の支援を受けた結城政勝勢と戦い敗退した。1559年、「下総結城城の戦い」で小田氏治に従い結城晴朝勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
平塚自省【ひらつかじしょう(15??~1564)】
平塚長信の男。官途は山城守。通称大輔。1559年、「下総結城城の戦い」で父の平塚長信が小田氏治に従い結城晴朝勢と戦い討死したため、平塚家の家督を相続した。1560年、「下総結城城の戦い」で小田氏治、佐竹義昭、宇都宮広綱勢と戦い敗退した。1564年、「海老ヶ島城の戦い」で佐竹義昭、宇都宮広綱勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
平井手伊賀守【ひらいでいがのかみ(15??~15??)】
谷田部壽教家臣。新治郡面野井館主。別名平出伊賀守。1570年、「谷田部館の戦い」で多賀谷政経に内応して谷田部壽教勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
内野平左衛門【ひらのへいざえもん(15??~15??)】
鹿島義幹家臣。1524年、「高天ヶ原の戦い」で鹿島義幹に従い鹿島通幹勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
平山藤蔵【ひらやふじぞう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
平山雅楽之正【ひらやまうたのじょう(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
平山管内【ひらやまかんない(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
福田有光【ふくだありみつ(15??~15??)】
笠間綱親家臣。笠間郡福田館主。官途は尾張守。通称六郎。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
福田家広【ふくだいえひろ(15??~1591)】
福田有光の男。官途は大炊頭。通称太郎次郎。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家が北条氏直勢に属したため、宇都宮国綱勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
福原善九郎【ふくはらぜんくろう(15??~15??)】
笠間綱親家臣。笠間郡福原館主。1556年、鳳台院の蟠龍育和尚に帰依し堂宇を建立した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
福原朝広【ふくはらともひろ(15??~15??)】
笠間利長の次男(福原善九郎の養子)。官途は美濃守。通称主膳正。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
福原内蔵【ふくはらくらのすけ(15??~15??)】
福原朝広家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
福原雅楽【ふくはらうらく(15??~15??)】
福原朝広家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
藤崎権右衛門【ふじさきごんうえもん(15??~15??)】
島並幹家家臣。1591年、島並幹家が佐竹義宣に謀殺されたため、帰農した。島並幹家の菩提を弔うため、是心院を建立した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
藤田友重【ふじたもとしげ(15??~15??)】
真壁氏幹家臣。参考文献:『佐竹義重(伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名)』by近衛龍春。
藤谷半助【ふじたにはんすけ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
礼幹高【ふだもとたが(15??~15??)】
鹿島郡礼館主。馬場繁幹の男。別名馬場幹高。南方三十三館衆。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
礼幹繁【ふだもとしげ(15??~1591)】
礼幹高の孫。官途は治部大輔。別名馬場幹繁。1591年、佐竹義宣に謀殺された。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
古尾谷治貞【ふるおたにはるさだ(15??~15??)】
筑波郡大増館主。官途は隠岐守。1559年、大増山正法寺を創建した。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
古徳義優【ふるとくよしやす(14??~1514)】
江戸通泰家臣。茨城郡古徳館主。1514年、「古徳館の戦い」で江戸通泰勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
古徳致正【ふるとくよしまさ(15??~15??)】
古徳義優の男。佐竹義昭に仕えた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
法恩寺平太郎【ほうおんじへいたろう(15??~15??)】
筑波郡法恩寺館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
法恩寺相模守【ほうおんじさがみのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
北条氏高【ほうじょううじたか(15??~1574)】
小田政治家臣。筑波郡北条館主。官途は出雲守。別名北条治高。1573年、「手這坂の戦い」で小田政治が佐竹義重勢と戦い敗退したため、佐竹義重に仕えた。「田土部川の戦いで」で梶原景国、真壁久幹とともに小田政治勢と戦い敗退した。1574年、「土浦城の戦い」で菅谷政貞勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
鉾田友右衛門【ほこたともえもんn(15??~15??)】
稲田頼国家臣。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
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【ま】
前島次衛門【まえじまじえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
前野七郎大夫【まえのしちろうだいふ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡永井館主。1573年、「長井館の戦い」で佐竹義重勢と戦い土浦城に落延びた。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
真壁宗幹【まかべむねもと(1496~1563)】
真壁郡真壁城主。真壁治幹の男。足利基頼を擁立して足利高基、小田政治と争い、足利基頼が足利義明のもとに落延びたため、小田政治と大掾忠幹に和議を結ばせ足利晴氏を擁立した。連歌に優れて連歌師として名高い宗牧とも親交があった。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
真壁久幹【まかべひさもと(1522~1589)】
真壁宗幹の男。官途は安芸守。1548年、水谷正村と結び小田氏治から離反した。1560年、大掾慶幹と戦い古河公方足利義氏の仲介で和議を結んだ。1561年、「結城城の戦い」で佐竹義昭、太田資正、梶原政景とともに小田氏政勢と戦い戦功を挙げた。1569年、「手這坂の戦い」で佐竹義昭に従い小田氏治勢と戦い戦功を挙げた。1573年、小田氏治と佐竹義重の和議の仲介役を務めた。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
真壁氏幹【まかべうじもと(1550~1622)】
真壁久幹の男。官途は安房守。通称小次郎。別名「鬼真壁」。塚原高幹に剣を学び大力無双といわれた猛将。父の真壁久幹から家督を譲られてからは、佐竹義重に従い北関東を転戦した。継嗣には恵まれず、弟の真壁義幹の継嗣真壁房幹に家督を譲った。1602年、佐竹義宣が羽後久保田城に転封したため、常林寺で隠居した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
真壁義幹【まかべよしもと(1552~1630)】
真壁久幹の次男。官途は式部大輔。通称善九郎。1569年、「手這坂の戦い」で佐竹義重に従い小田氏治勢と戦い高戸伊予守、三田喜三郎を討取る戦功を挙げた。戦功を挙げた。兄の真壁氏幹から筑波郡柿岡館を割譲され別家を創設した。継嗣の真壁房幹が兄の真壁氏幹の養子となったため、次男の真壁重幹に家督を譲った。真壁氏幹、真壁房幹とともに病没したため、真壁重幹が真壁家を相続した。1602年、佐竹義宣に従い羽後久保田城に転封した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
真壁房幹【まかべふさもと(1569~1612)】
真壁義幹の男(真壁氏幹の養子)。官途は右衛門佐。通称善九郎。1592年、「文禄の役」で養父の真壁氏幹の陣代を務め李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1596年、真壁氏幹が隠居したため、真壁家の家督を相続した。1602年、佐竹義宣に従い羽後久保田城に転封した。1612年、継嗣をもうけず病没したため、弟の真壁重幹が真壁家の家督を相続した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
真壁重幹【まかべしげもと(15??~15??)】
真壁義幹の次男。1592年、兄の真壁房幹が真壁家の家督を相続したため、父の真壁義幹の所領を相続した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
真崎九郎左衛門【まさきくろうざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「今井館の戦い」で阿保良房に従い今井勘左衛門勢と戦い戦功を挙げた。結城晴朝の家臣片見晴信勢の反撃を受け敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
益田四郎左衛門【ますだしろうざえもん(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
増塩源太左衛門【ますしよげんざえもん(15??~15??)】
龍ヶ崎治英家臣。森田市左衛門、木村次郎左衛門とともに羽原を治めた。参考文献:「城跡ほっつき歩記」by小頭@和平。
松本政信【まつもとまさのぶ(1486~1524)】
鹿島義幹家臣。松本与助兵部の男。官途は備前守。別名松本尚勝。鹿島神宮祝部四宿老。鹿島神宮の神職。飯篠長威斎に剣をまなび鹿島神陰流の開祖。鹿島神流は飯篠の兵法を基にしながらも陣鎌、薙刀、十文字、片鎌などにおける術技は合戦用の総合武術。敵と槍を交わすこと23回、高名の頸級25、並みの頸76を挙げた。1524年、「高天ヶ原の戦い」で鹿島通幹に従い鹿島義幹の家臣津賀大膳勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
松本政元【まつもとまさもと(15??~15??)】
松元政信の男。官途は大炊助。1524年、「高天ヶ原の戦い」で父の松本政信が鹿島通幹に従い鹿島義幹の家臣津賀大膳勢と戦い討死したため、松本家の家督を相続した。参考文献:『戦国人名辞典』by新人物往来社。
水谷勝吉【みずたにかつよし(15??~1568)】
結城政勝家臣。真壁郡下館城主。水谷勝之の男。官途は兵部少輔。娘は結城政勝に嫁いだ。1514年、「那須高林の戦い」で父の水谷勝之とともに結城政朝に従い佐竹義舜、岩城由隆、那須資房勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「水無瀬の部屋」by水無瀬優。
水谷治持【みずたにはるもち(15??~1571)】
水谷勝之の次男。別名水谷勝持。1537年、「下妻城の戦い」で結城政勝勢の先陣を務め、多賀谷家重勢と戦い戦功を挙げた。1544年、「下野猿山の戦い」で宇都宮俊綱の家臣中村玄角を討取る功を挙げ中村6郷を領した。1548年、「下妻城の戦い」で真壁氏幹をとともに多賀谷重政勢と戦い戦功を挙げた。1556年、「海老ヶ島城の戦い」で結城政勝に従い小田政治勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「水無瀬の部屋」by水無瀬優。
水谷正村【みずたにまさむら(1521~1596)】
水谷治持の男。官途は伊勢守。通称「蟠龍斎」。別名水谷勝村。室は結城政勝の娘(小藤姫)。1539年、「武蔵吉見城の戦い」で谷田開行政の補佐を受け海老原行政、多賀谷家重らとともに大串武成、大串重義、大串重元、田谷右兵衛尉勢と戦い大串重元を討取る戦功を挙げた。1546年、「久下田館の戦い」で芳賀高定の家臣八木岡貞家を討取る戦功を挙げた。1547年、「石島ヶ原の戦い」で武田信隆勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1556年、「海老ヶ島城の戦い」で結城政勝に従い父の水谷勝持とともに小田政治を海老ヶ島城から追落す戦功を挙げた。1569年、弟の水谷勝俊に家督を譲って隠退した。1584年、「下野田野城の戦い」で笠間綱家の家臣羽石時政を討取る戦功を挙げた。参考文献:「水無瀬の部屋」by水無瀬優。
水谷勝俊【みずたにかつとし(1542~1606)】
水谷治持の次男(水谷正村の養子)。官途は伊勢守。室は堀田正吉の娘。1566年、「下総臼井城の戦い」で兄の水谷正村とともに長尾景虎に属した結城晴朝に従い北条氏康勢と戦い戦功を挙げた。1569年、水谷正村が隠居したため、水谷家の家督を相続した。1584年、「下野田野館の戦い」で羽石時政勢と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀吉に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。下館城(32,000石)を安堵された。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に従い肥前名護屋城を守備した。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い佐竹義宣勢を牽制した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
水谷勝基【みずたにかつもと(1567~1615)】
水谷治持の三男。1584年、「下野田野館の戦い」で兄の水谷勝村ととに羽石時政勢と戦い戦功を挙げた。1586年、「板敷山の戦い」で水谷勝村に従い結城晴朝の家臣片見晴信勢と戦い戦功を挙げた。1587年、「佐夫良峠の戦い」で水谷勝村に従い茂木治良勢と戦い敗退した。1615年、「大坂夏の陣」で甥の水谷勝隆に従い羽柴秀頼勢と戦い討死した。参考文献:「水無瀬の部屋」by水無瀬優。
水谷勝隆【みずのやかつたか(1597~1664)】
水谷勝俊の男。官途は伊勢守。室は酒井家次の娘。継室は寺沢広高の娘。1606年、父の水谷勝俊が病没したため、水谷家の家督を相続した。1639年、備中成羽城(50,000石)に転封した。交通路や水路の整備、玉島新田などの新田開発や検地政策、砂鉄採取による鉄産業の奨励と振興、寺社仏閣の造営などに務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
水守六郎【みずもりろくろう(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡水守館主。1570年、「水守館の戦い」で小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
満川忠親【みつかわただちか(15??~1549)】
笠間高広家臣。官途は民部少輔。1549年、「下野五月女坂の戦い」で宇都宮尚綱に属した笠間高広に従い那須高資勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
満川宗安【みつかわむねやす(15??~15??)】
笠間綱家家臣。茨城郡黒羽館主。通称勘左衛門尉。1583年、「富谷城の戦い」で益子重綱の家臣加藤大隈守勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
路川大和守【みちかわやまとのかみ(15??~1583)】
笠間綱家家臣。笠間郡市原館主。1577年、長坂山昌泉院を建立した。1583年、「市原館の戦い」で笠間綱家の家臣寺崎出羽守勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
道川摂津守【みちかわせっつのかみ(15??~15??)】
筑波郡氏江館主。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
南指原兵庫【みなみさしはらひょうご(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
宮ヶ崎幹顕【みやざきもとあき(15??~15??)】
鹿島郡宮ヶ崎館主。南方三十三館衆。参考文献:「北浦武田戦記」byさくらさく武田。
三村三郎大夫【みむらさぶろうだいふ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡口ノ堀館主。1570年、「口ノ堀館の戦い」で小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宮本市左衛門【みやもといちざえもん(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
宮本弥右衛門【みやもとようえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
宮本弥次衛門【みやもとよじえもん(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
真家中務【もうけなかむ(15??~1591)】
芹沢国幹家臣。行方郡飯岡館主。南方三十三館衆。1591年、「芹沢原の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
茂木九太夫【もぎくだいふ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
茂木半蔵【もぎはんぞう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
茂木半之助【もぎはんのすけ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
茂木倉之助【もぎくらのすけ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
茂木平助【もぎへいすけ(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
茂手木利之助【もてぎとしのすけ(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
茂手木判蔵【もてぎはんぞう(15??~15??)】
島崎義幹家臣。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
森田市左衛門【もりたいちざえもん(15??~15??)】
龍ヶ崎治英家臣。増塩源太左衛門、木村次郎左衛門とともに羽原を治めた。参考文献:「城跡ほっつき歩記」by小頭@和平。
森隼人【もりはやと(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
森伊左衛門【もりいさえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
諸岡常成【もろおかつねなり(1533~1593)】
土岐治綱家臣。通称平五郎。別名師岡一羽。兵法家。1590年、「江戸崎城の戦い」で土岐治綱に従い佐竹義重勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
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【や】
矢口新五郎【やぐちしんごろう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
矢口新太郎【やぐちしんたろう(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、「保内山の戦い」で島崎義幹に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
八代右京【やしろうきょう(15??~1574)】
河内郡八代館主。1574年、「八代館の戦い」で江戸崎監物勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
矢代左近【やだいさこん(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
谷田部宣幹【やたべのぶやす(15??~15??)】
江戸忠通家臣。茨城郡谷田部館主。別名谷田部宣胤。江戸家四宿老職。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
谷田部雅胤【やたべまさたね(15??~15??)】
谷田部宣幹の養子(江戸通雅の三男)。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
谷田部通胤【やたべみちたね(1551~1590)】
谷田部雅胤の男。官途は越後守中。1557年、「宇都宮城の戦い」で江戸通政の意向を受け宇都宮国綱を支援して壬生綱雄勢と戦い戦功を挙げた。1559年、「柄ヶ崎の戦い」でで江戸通政の意向を受け小田氏治に内応した小高貞幹を麻生之幹、島崎義幹、山田治広、武田通信とともに支援して大掾貞国、玉造宗幹、手賀景幹勢と戦い戦功を挙げた。1576年、江戸重通の後見役を務めた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
谷田部通直【やたべみちなお(15??~1590)】
谷田部通胤の男。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
谷田部通明【やたべみちあき(15??~1590)】
谷田部通直の男。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
谷田部重元【やたべしげもと(15??~1590)】
谷田部通直の次男。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
谷田部弘胤【やたべひろたね(15??~1590)】
谷田部通直の三男。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
柳厳兵衛【やなぎげんべい(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「今井館の戦い」で阿保良房に従い結城晴朝の家臣片見晴信勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
柳田新左衛門【やなぎだしんざえもん(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
柳橋通高【やなきばしみちたか(15??~15??)】
稲田頼国家臣。官途は大炊亮。1590年、「小田原城の戦い」で笠間綱家の陣代を務めた稲田頼国に従い羽柴秀吉のもとに赴いた。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
柳橋十左衛門【やなぎばしじゅうざえもん(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
矢幡刑部【やはたぎょうぶ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
山木七郎【やまきしちろう(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡山木館主。1570年、「山木館の戦い」で小田氏治、菅谷政貞に従い結城晴朝、宇都宮国綱、多賀谷政経勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
山口三太郎【やまぐちさんたろう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
山口三郎兵衛【やまぐちさぶろうびょうえ(15??~15??)】
島崎義幹家臣。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
山口和泉守【やまぐちいずみのかみ(15??~1552)】
手賀景幹家臣。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で手賀景幹に従い小高貞幹勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
山田勝治【やまだかつはる(15??~15??)】
行方郡山田館主。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で小高貞幹を支援して玉造宗幹勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
山田治広【やまだはるひろ(15??~1591)】
山田勝治の男。通称太郎。1591年、「高田館の戦い」で玉造重幹、武田通信とともに大掾清幹勢と戦い討死した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
山野讃岐守【やまのさぬきのかみ(15??~15??)】
芹沢国幹家臣。行方郡山野館主。南方三十三館衆。1588年、「小川館の戦い」で小多加山城守勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1591年、「芹沢原の戦い」で佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
山野仁兵衛【やまのにへい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
山野治兵衛【やまのじへい(15??~15??)】
島崎氏幹家臣。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
山本帯刀【やまもとたてわき(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
山本玄蕃頭【やまもとがんばのがしら(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1588年、「小高城の戦い」で大平内膳に従いに島崎義幹の意向を受け小田氏治を支援して佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
山本治兵衛【やももとじへい(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
弓削為宗【ゆげためむね(15??~15??)】
大掾慶幹家臣。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で大掾慶幹の意向を受け小田氏治、菅谷貞次、下河辺義忠、麻生之幹、島並幹家、島崎利幹、山田勝治、武田通信とともに小高貞幹を支援して玉造宗幹、手賀景幹、鳥名木時長、芹沢定幹、薗部兼彦勢と戦い敗退した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
吉岡貞臣【よしおかさだとみ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。通称十郎。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
吉川覚賢【よしかわあきかた(15??~15??)】
鹿島義幹家臣。鹿島郡吉川館主。通称左京。別名ト部覚賢。鹿島神宮祝部。鹿島神宮神官家には鹿島七流と呼ばれる剣技が伝承されており、吉川家には神妙剣が伝えられていた。直心影流の神伝「一の太刀」は鹿島の神官から代々伝えられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
吉川半蔵【よしかわはんぞう(15??~1552)】
小高貞幹家臣。1552年、「唐ヶ崎の戦い」で小高貞幹に従い玉造宗幹勢と戦い討死した。参考文献:「美浦村お散歩団」byひづめ。
吉川刑部【よしかわぎょうぶ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
吉田周防守【よしだすぼうのかみ(15??~15??)】
笠間綱家家臣。1583年、「田野館の戦い」で羽石政秀に従い水谷政村勢と戦い敗退した。参考文献:「下野戦国争乱記」by上澤光綱。
吉原孫四郎【よしわらまごしろう(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡上ノ室館主。1570年、「平塚原の戦い」で小田氏治に従い結城晴朝、多賀谷重経勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
吉原越前守【よしわらえちぜんのかみ(15??~15??)】
小田氏治家臣。新治郡吉村館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
龍ヶ崎胤倫【りゅうがさきたねとも(15??~1599)】
常陸土岐治英の男。河内郡龍ヶ崎城主。別名常陸土岐胤倫。1568年、父の常陸土岐治英の意向を受け龍ヶ崎城を改修して居城とした。1590年、「小田原城の戦い」で北条氏直に従い羽柴秀吉勢と戦い改易処分に処された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
龍ヶ崎頼房【りゅうがさきよりひさ(1593~1649)】
龍ヶ崎胤倫の男。別名豊島朝房。1590年、「小田原城の戦い」で父の龍ヶ崎胤倫が北条氏直に従い羽柴秀吉勢と戦い改易処分に処されたため、失領した。松平元康に仕え駿河国内で所領(200石)を領した。1614年、「大坂冬の陣」で紀伊松平頼宣に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
横山五右衛門【よこやまごうえもん(15??~15??)】
小田氏治家臣。参考文献:「小田家風記」by作者不明。
若泉五郎左衛門【わかいずみごろうざえもん(15??~1516)】
土岐治頼家臣。筑波郡土浦城主。1516年、「土浦城の戦い」で小田政治の家臣菅谷勝貞勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名研究」by播磨屋。
若巻勘解由左衛門【わかまきかげゆざえもん(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
和田三郎四郎【わださぶろうしろう(15??~1590)】
江戸重通家臣。1590年、「常陸江戸城の戦い」で江戸重通に従い佐竹義宣勢と戦い討死した。参考文献:『新編常陸国史』by中山信名。
横山近江守【よこやまおうみのかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
横山戸内【よこやまとない(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
横山孫四郎【よこやままごしろう(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
吉田刑部【よしだぎょうぶ(15??~15??)】
島崎義幹家臣。1591年、「大生台の戦い」で島崎徳市丸に従い佐竹義宣勢と戦い敗退した。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
米川佐渡守【よねかわさどのかみ(15??~15??)】
島崎利幹家臣。1569年、「鹿島義清の乱」で島崎利幹に従い鹿島氏幹を支援して鹿島義清、烟田忠幹勢と戦い戦功を挙げた。1591年、島崎義幹が佐竹義宣に誘殺されたため、佐竹義宣の家臣小貫頼久に仕えた。参考文献:「島崎城跡を守る会」by鹿行文化財保護連絡協議会。
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【資料Ⅰ】
南常陸国(7郡/240,000石)
茨城郡:江戸城、笠間城、宍戸城、高久館、那珂西館、河和田館、佛性寺。
鹿島郡:鹿島城、粟生館、立原館、龍会館、林館、鉾田館、神栖街、鹿島神宮。
行方郡:玉造城、島崎城、麻生館、鳥名木館、行方街、長勝寺。
新治郡:土浦城、石岡館、片野館、戸崎館、木田余館、小栗街、稲田寺。
真壁郡:真壁城、多賀谷城、下館、伊佐館、久下田館、下妻街、羽黒神社。
筑波郡:小田城、足高城、谷田部館、筒戸館、多気館、筑波街、筑波山。
信太郡:江戸崎城、上条館、阿波崎館、木原館、信太街、蔵福寺、智心院。
河内郡:龍ヶ崎城、牛久城、岡見城、東林寺館、馴馬館、河内街、逢善寺。
南常陸国という国は存在しません。個人的趣味として常陸国を北常陸国と南常陸国に分割しました。
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【資料Ⅱ】
江戸家四家老職【えどけよんかろう】
谷田部通胤、篠原和泉守通知、神生遠江守通朝、江戸(御宿)信濃守通澄。
海老ヶ島七騎衆【えびがしまななきしゅう】
星野後藤太、大木修理、比企駿河守、遠藤対馬守、稲葉肥前守、赤木大学。
大島四天王【おおしましてんのう】
鈴木因幡守、横山丹後守、柴播磨守、仁平対馬守。
小田家四天王【おだけしてんのう】
菅谷左衛門大夫、平塚石見守、赤松疑淵斎、飯塚美濃守。
小田家六騎衆【おだけろっきしゅう】
江戸山城守、野中瀬人道、関刑部、友部主膳、沼尻又五郎。
烟田八館【かまたはちたて)】
馬場館、冨士山館、塙館、母貝館、勧請地館、大樋上館、龍ヶ谷館、金敷館の烟田城周辺の八館。
鹿島家四家老【かしまけよんかろう】
吉川覚賢、松本政信、小鹿野幹匠、額賀大炊助之。
南方三十三館衆【なんぽうさんじゅさんやかたしゅう】
行方郡武田城主武田信房、行方郡玉造館主玉造重幹、行方郡手賀館主手賀高幹、行方郡永山館主永山知幹、行方郡小高館主小高治部刑部少輔、行方郡富田館主富田昌幹、行方郡島崎城主島崎安定、行方郡大生城館大生弾正忠、行方郡麻生館主麻生之幹、行方郡芹沢館主芹沢国幹、行方郡相賀館主相賀詮秀、鹿島郡蕨館主武田信家、鹿島郡鉾田城主鹿島三郎、鹿島郡鹿島館主鹿島治時、鹿島郡宮ヶ崎館主宮ヶ崎幹顕、鹿島郡徳宿館主徳宿矩幹、 鹿島郡沼尾館主沼尾行幹、鹿島郡安房館主安房幹連、鹿島郡粟生館主安生幹実、鹿島郡烟田館主烟田通幹、鹿島郡札館主札幹繁、鹿島郡下吉影館主野口右兵衛、鹿島郡林館主林時国、鹿島郡田野辺館主田野辺胤幹、鹿島郡梶山館主梶山掃部介、鹿島郡石神館主石神二郎、鹿島郡中村館主中村弥太郎。
真壁家七騎衆【まかべけななきしゅう】
真壁氏幹、真壁義幹、酒寄備前守、来栖三河守、成田遠江守、長岡織部、田口弥八郎。
結城家四天王【ゆうきけしてんのう】
岩上朝堅、多賀谷政広、水谷正村、 山川氏重。
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【資料Ⅲ】
常陸国【ひたちのくに】
関東の東端に位置する東海道の国。北は阿武隈山地で磐城国、岩代国に接し、南は利根川を境に下総国と国境を隔てる。西は八溝山地が下野国との国境を作り、東は長い海岸線で鹿島灘に臨む。国内は阿武隈山地、八溝山地のある北部の高地と、常陸台地から関東平野に続く南部の低地とに二分される。全般的に気候は温暖っで作物は豊かであるが、国の中心は南部の中心にあり、広い平野部と利根川、霞ヶ浦、北浦などの恵まれた水利によって農業生産が盛んである。この地域では古代から、農地開発が進んでおり、田地の面積は広い。さらに鹿島浦を中心に漁業も盛んで、山海幸に恵まれた良国である。関東地方の上野国、下野国の両国が険峻な山地でしか東北地方と連絡出来ないのに対して、常陸国では鹿島灘に面した海岸の平地沿いに街道が開けている。このため、古代には東北地方の開発の根拠地となった。東北地方との常陸国との国境に勿来関が設けられた。
鹿島神宮【かしまじんぐう】
鹿島郡にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大社。約600社ある鹿島神社の総本社。常陸国息栖神社、下総国香取神宮と合わせて東国三社と称された。
霞ヶ浦【かすみがうら】
常陸国南東部に広がる湖。西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)、北利根川、鰐川、常陸川の各水域の総体。香取神宮文書や鹿島神宮文書の海夫が神祭物を納める代替として漁業や水運などの特権が認められていた。
霞ヶ浦四十八津【かすみがうらしじゅうはっつ】
霞ヶ浦の漁民の自治組織。霞ヶ浦などの諸津を拠点とする海夫らは、下総国一宮の香取神宮に供祭料を貢進し、これらの水域での漁労や交通上での特権を保証されていた。戦国期には浦の入会を前提とする自治組織が形成された。
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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。
印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。
あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。
名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。
武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉に名前を統一しました。
城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。
参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『房総戦国土豪の終焉』by崙書房、『戦国房総人名事典』by崙書房出版、『戦国大名里見氏』by崙書房、『里見義堯』byPHP文庫、『新編常陸国史』by中山信名。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋、「四郎勝頼の京都祇園日記」by四郎勝頼、「戦国武将研究会」by高田哲也、「美須麻流之珠」by立花利康、「春の夜の夢」byアテンザ23Z、「下野戦国争乱記」by上澤光綱、「美浦村お散歩団」bykopyto、「北浦武田戦記」byさくらさく武田、「戦国武将研究会」by高田哲也、「水無瀬の部屋」by水無瀬優、「城跡ほっつき歩記」by小頭@和平、「小田家風記」by作者不明、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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