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赤尾與四郎【あかおおきしろう(14??~15??)】
京極高清家臣。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
赤尾筑後守【あかおちくごのかみ(14??~15??)】
京極高清家臣。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
赤尾教政【あかおよしまさ(14??~1538)】
浅井賢政の男(赤尾新次郎の養子)。官途は駿河守。通称新二郎。別名浅井教政。1538年、「箕浦表の戦い」で浅井亮政に従い六角定頼勢と戦い討死した。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
赤尾清世【あかおせいせい(14??~15??)】
京極高清家臣。伊香郡赤尾館主。浅井亮政に仕えた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
赤尾清定【あかおきよさだ(14??~1573)】
赤尾清世の男。1549年、「打下館の戦い」で浅井政澄とともに浅井久政の意向を受け六角義賢の家臣佐々木義時の支援を受けた海津政義勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で井口経元、赤尾清定、千田釆女正、脇坂久右衛門とともに浅井久政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
赤尾清綱【あかおきよつな(1514~1573)】
赤尾清定の男。官途は美作守。通称孫二郎。海赤雨三将。1560年、浅井長政を擁立して浅井久政を隠居に追い込んだ。1561年、「太尾館の戦い」で浅井長政に従い六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政とともに織田信長勢と戦い捕縛され斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤尾清冬【あかおきよふゆ(15??~15??)】
赤尾清綱の男。通称新兵衛尉。1561年、「太尾館の戦い」で父の赤尾清綱とともに浅井長政に従い六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
赤尾伊豆守【あかおいずのかみ(1559~16??)】
赤尾清綱の次男。1573年、「小谷城の戦い」で父の赤尾清綱が織田信長勢と戦い捕縛され斬頸に処されたため、京極高次に仕えた。1600年、「大津城の戦い」で黒田伊予守、山田良利とともに京極高次に従い石田光成勢と戦い敗退した。京極高次に従い若狭小浜城に転封した。小浜城の作事奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
赤田隆【あかだたか(15??~15??)】
浅井久政家臣。犬上郡八町館主。通称隼人正。室は丹羽長秀の娘。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政とともに織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
赤田堅【あかだかた(15??~15??)】
赤田隆の男。通称隼人正。1573年、「小谷城の戦い」で父の赤田隆が浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死したため、羽柴秀吉に仕えた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
赤田信濃守【あかだしなののかみ(15??~15??)】
赤田隆の次男。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
赤田興【あかだおこる(15??~15??)】
赤田隆の三男。1561年、「太尾館の戦い」で浅井長政に従い六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
浅井亮政【あざいすけまさ(1491~1542)】
上坂家信家臣。浅井郡小谷城主。浅井直種の男(浅井直政の養子)。官途は備前守。通称新三郎。室は浅井直政の娘。1523年、「今浜館の戦い」で京極高延に従い京極高吉、上坂信光勢と戦い戦功を挙げた。1543年、「小谷城の戦い」で六角定頼勢と戦い越前国に落延びた。「小谷城の戦い」で朝倉孝景の支援を受け六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井久政【あざいひさまさ(15??~1573)】
浅井亮政の男。官途は下野守。通称新九郎。室は井口経元の娘(阿古御料人)。1542年、父の浅井亮政が病没したため、浅井家の家督を相続した。「田屋明政の乱」で京極高延の支援を受けた義兄の田屋明政勢と戦い戦功を挙げた。六角義賢に臣従して継嗣の浅井長政の内室に平井定武の娘を迎えた。1560年、「野良田の戦い」で浅井長政が六角義賢勢と戦い戦功を挙げたため、隠居に追い込まれた。朝倉義景との友好関係に固執し、織田信長との同盟に反対した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政とともに織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井長政【あざいながまさ(1545~1573)】
浅井久政の男。官途は備前守。通称新九郎。室の平井定武の娘。継室は織田信秀の娘(於市)。1560年、「野良田の戦い」で六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。父の浅井久政を隠居に追込み浅井家の家督を相続した。1568年、織田信長の上洛戦を支援した。1570年、「第一次越前討伐」で浅井久政の意向を受け朝倉義景を支援して織田信長勢と戦い戦功を挙げた。「姉川の戦い」で朝倉義景とともに織田信長、松平元康勢と戦い敗退した。「志賀の陣」で朝倉義景とともに織田信長の家臣森可成、織田信治、青地茂綱勢と戦い戦功を挙げた。1572年、「虎御前山砦の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井輝政【あざいてるまさ(1564~1573)】
浅井長政の男。別名万福丸。1573年、「小谷城の戦い」で父の浅井長政が織田信長の家臣羽柴秀吉勢と戦い討死したため、村喜内之介とともに落延びた。羽柴秀吉勢に捕縛され串刺しの刑に処せられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井直政【あざいなおまさ(15??~15??)】
浅井長政の次男。別名万寿丸。出家して坂田郡長沢村の副田寺の住職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井井頼【あざいいより(1570~1615)】
浅井長政の三男。官途は周防守。通称喜八郎。別名浅井政信。1573年、「小谷城の戦い」で父の浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、羽柴秀吉に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。羽柴秀次に仕えた。1595年、羽柴秀保が病没したため、増田長盛に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で増田長盛が松平元康勢と戦い改易処分に処されたため、生駒一正に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼に従い松平元康勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
浅井高政【あざいたかまさ(1548~1573)】
浅井久政の次男。官途は玄蕃頭。別名浅井政元。軍配者。1573年、「小谷城の戦い」で兄の浅井長政が織田信長の家臣羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井政弘【あざいまさひろ(15??~1570)】
浅井久政の三男。別名浅井政之。1570年、「姉川の戦い」で兄の浅井長政とともに織田信長、松平元康勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井秀政【あざいひでまさ(15??~1567)】
浅井久政の四男。官途は山城守。別名浅井治政。室は上木新兵衛の娘(八重姫)。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井直種【あざいなおたね(14??~15??)】
浅井直政家臣。通称は備後守。1496年、「美濃船田の戦い」で京極高清に従い土岐頼芸、斎藤利国勢を支援して石丸利光勢と戦い石丸利光を討取る戦功を挙げた。1523年、「今浜館の戦い」で京極材宗とともに京極政経を支援して京極高清、上坂家信勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井亮頼【あざいすけより(15??~15??)】
浅井久政家臣。通称新兵衛。1557年、竹生島小島権現の作事奉行職を務めた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
浅井清政【あざいきよまさ(15??~15??)】
浅井忠政の三男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井秀信【あざいひでのぶ(15??~1545)】
浅井清政の男。通称五郎兵衛。浅井亮政の祐筆を務めた。書に優れ、本願寺家からもしばしば贈答を受けた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井亮親【あざいすけちか(15??~1573)】
浅井秀信の男。官途は石見守。通称与次。父の浅井秀信とともに祐筆を務めた。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長への支援を支持した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、捕縛され斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井貞政【あざいさだまさ(15??~15??)】
浅井清政の次男。通称忠兵衛。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井盛政【あざいもりまさ(15??~15??)】
浅井久政家臣。浅井貞政の男。官途は越前守。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、藤堂高虎に仕えた。藤堂高虎のもとを退去して羽柴秀吉に仕えた。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井吉政【あざいよしまさ(15??~1583)】
浅井盛政の男(浅井亮親の養子)。通称吉兵衛。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、藤堂高虎に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で山路正国とともに柴田勝家に従い羽柴秀吉の家臣平野長泰、渡辺了、浅井井頼勢と戦い討死した。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井政信【あざいまさのぶ(15??~1543)】
浅井亮政家臣。官途は大和守。奏者役を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井政澄【あざいまさずみ(15??~1570)】
浅井政信の男。官途は玄蕃允。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長の家臣氏家直元勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井政成【あざいまさなり(15??~1570)】
浅井政信の次男。1570年、「姉川の戦い」で兄の浅井政澄とともに浅井長政に従い織田信長の家臣氏家直元勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井政連【あざいまさつら(15??~1570)】
浅井政信の三男。1570年、「姉川の戦い」で兄の浅井政澄とともに浅井長政に従い織田信長の家臣氏家直元勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井政重【あざいまさしげ(15??~1570)】
浅井政信の四男。1570年、「姉川の戦い」で兄の浅井政澄とともに浅井長政に従い織田信長の家臣氏家直元勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
浅井政重【あざいまさしげ(15??~15??)】
浅井政澄の男。通称新太郎。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、羽柴秀長に仕えた。1595年、羽柴秀保が病没したため、松平元康に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井井演【あざいいひろ(15??~15??)】
浅井亮政家臣。官途は越中守。1532年、横山城代職を務めた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
浅井斎宮助【あざいさいぐうのすけ(15??~15??)】
浅井井演の男。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
浅井井伴【あざいいとも(15??~15??)】
浅井井演の次男。官途は木工助。通称弥太郎。別名浅井井量。1542年、菅浦代官職を務めた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
浅井井規【あざいいのり(15??~1573)】
浅井井伴の男。1571年、「鎌刃館の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉の支援を受けた堀秀村、樋口直房勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で織田信長に内応したため、斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井雅楽助【あざいうたのすけ(15??~1570)】
浅井井伴家臣。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅井政重【あざいまさしげ(15??~15??)】
浅井政澄の男。通称新太郎。羽柴秀長に仕えた。1595年、羽柴秀保が病没したため、松平元康に仕えた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
浅井政高【あざいまさたか(15??~1615)】
浅井明政の男。通称茂左衛門。別名田尾茂左衛門。羽柴秀吉に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼に従い松平元康勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
浅井大和守【あさいやまとのこあみ(15??~15??)】
浅井亮政家臣。1546年、「海津館の戦い」で浅井亮政に従い京極高吉勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅見俊孝【あさみとしたか(14??~15??)】
京極高清家臣。浅井郡尾上館主。官途は対馬守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
浅見貞則【あさみさだのり(14??~15??)】
浅見俊孝の男。官途は対馬守。1517年、「山本山城の戦い」で京極高清が浅井亮政に幽閉されたため、浅井亮政勢と戦い敗退した。1523年、「今浜館の戦い」で六角定頼の支援を受け浅井亮政、上坂貞則、上坂信光、京極高清、京極高慶勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
浅見紀伊守【あさみきいのかみ(15??~15??)】
浅見貞則の男。1546年、「海津館の戦い」で京極高吉の支援を受け浅井亮政勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅見対馬守【あさみつしまのかみ(15??~15??)】
浅見貞則の次男。通称次郎。1523年、「今浜館の戦い」で上坂貞信とともに六角定頼の支援を受け京極高吉に従い京極高延、浅井亮政勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅見大学助【あさみだいがくのすけ(15??~15??)】
浅見対馬守の男。1573年、「小谷城の戦い」で織田信長に内応して浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。改易処分に処された。柴田勝家に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。「北ノ庄城の戦い」で柴田勝家が羽柴秀吉勢と戦い滅亡したため、蒲生氏郷に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅見新右衛門【あさみしんえもんのじょう(15??~15??)】
京極高延家臣。浅井亮政の奏者役を務めた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、宮部継潤に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
浅見藤右衛門【あさみとうえもん(15??~16??)】
羽柴秀次家臣。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃したため、京極高次に仕えた。1600年、「大津城の戦い」で京極高次に従い石田三成勢と戦い城外に取り残されたため、増田長盛の陣に逃げ込んだ。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
阿閉貞義【あつじさだよし(14??~15??)】
京極高清家臣。伊香郡山本山館主。官途は三河守。通称與八郎。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
阿閉貞征【あつじさだゆき(1528~1582)】
阿閉貞義の男。官途は淡路守。通称万五郎。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉に内応して浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。1581年、「第一次伊賀討伐」で織田信長に従い伊賀国衆と戦い戦功を挙げた。1582年、「武田家討伐」で織田信長に従い武田勝頼勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「長浜城の戦い」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い戦功を挙げた。「山城山崎の戦い」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い捕縛され斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
阿閉貞大【あつじさだひろ(15??~1582)】
阿閉貞征の男。通称孫五郎。1573年、「小谷城の戦い」で父の阿閉貞征とともに織田信長の家臣羽柴秀吉に内応して浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。1575年、「第二次越前討伐」で織田信長の家臣柴田勝家に従い越前一向一揆衆と戦い戦功を挙げた。1581年、「第一次伊賀討伐」で織田信雄に従い伊賀国衆と戦い敗退した。1582年、「長浜城の戦い」で阿閉貞征とともに羽柴秀吉勢と戦い戦功を挙げた。「山城山崎の戦い」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。宮部継潤、中村一氏勢に捕縛され斬頸に処された。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
雨森主計【あまのもりしゅけい(14??~15??)】
京極高清家臣。伊香郡雨森館主。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
雨森清貞【あめのもりきよさだ(1514~1573)】
雨森主計の男。通称弥兵衛尉。浅井久政に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
雨森清良【あめもりきよよし(15??~1570)】
雨森清貞の男。1570年、「姉川の戦い」に浅井長政に従い織田信長、松平元康勢と戦い討死した。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
雨森清広【あめもりきよひろ(15??~15??)】
雨森清貞の次男。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。阿閉貞征の寄騎衆を務めた。1582年、「山城山崎の戦い」で阿閉貞征が明智光秀従い羽柴秀吉勢と戦い滅亡したため、渡岸寺村で帰農した。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
雨森藤次【あまもりとうじ(15??~15??)】
伊香郡河合館主。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
雨森弥兵衛【あまもりよへい(14??~15??)】
京極高清家臣。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
荒尾三郎左衛門尉【あらおさぶろうさえもんのじょう(15??~15??)】
東浅井郡鳥羽上館主。1538年、「小谷城の戦い」で京極高延、浅井亮政に従い六角高頼の支援を受けた京極高吉勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
安養寺勝光【あんようじかつみつ(14??~15??)】
京極高清家臣。東浅井郡安養寺館主。官途は河内守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
安養寺氏久【あんようじうじひさ(15??~15??)】
安養寺勝光の男。通称三郎左衛門。官途は三河守。1560年、「野良田の戦い」で浅井長政に従い六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。竹生島寺に領知を寄進した。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
安養寺氏秀【あんようじうじひで(15??~15??)】
安養寺氏久の男。通称三郎左衛門。1560年、「野良田の戦い」で父の安養寺氏久とともに浅井長政に従い六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、阿閉貞征に仕えた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
安養寺氏種【あんようじうじたね(1538~1606)】
安養寺氏秀の男。通称三郎左衛門尉。別名安養寺経世。浅井長政と織田信秀の娘(於市)の縁組の仲介役を務めた。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い捕縛された。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、京極高次に仕えた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
安養寺甚八郎【あんようじじんぱちろう(15??~15??)】
安養寺氏秀の次男。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
安養寺彦六郎【あんようじひころくろう(15??~15??)】
安養寺氏秀の三男。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
安養寺猪之助【あんようじいのすけ(15??~15??)】
浅井久政家臣。海賊衆。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉の家臣桑山重晴に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『浅井長政のすべて』by新人物往来社。
岩脇秀次【いおぎひでつぐ(15??~15??)】
今井秀信家臣。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
岩脇定政【いおぎさだまさ(15??~1571)】
岩脇秀次の男。官途は筑前守。通称市介。1571年、「鎌刃館の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉の支援を受けた堀秀村、樋口直房勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
井口経元【いのくちつねもと(15??~1531)】
京極高清家臣。伊香郡井ノ口館主。官途は越前守。湖北四家。高時川の水利権を支配した。浅井亮政に従い成道寺館を領した。娘の阿古は浅井久政に嫁いだ。1531年、「箕浦館の戦い」で浅井亮政に従い六角定頼勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
井口経親【いのくちつねちか(1524~15??)】
井口経元の男。1531年、「箕浦館の戦い」で父の井口経元が浅井亮政に従い六角定頼勢と戦い討死したため、井口家の家督を相続した。1553年、三田村忠政との用水論争解決を赤尾清世に依頼した。1570年「姉川の戦い」で浅井長政の意向を受け小谷城留守居役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
井口経貞【いのくちつねさだ(15??~15??)】
井口経元の次男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
井口宮内少輔【いぐちくないしょうゆ(15??~15??)】
京極高清家臣。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
磯野員吉【いそのかじよし(14??~15??)】
京極高清家臣。伊香郡磯野山館主。官途は伊予守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。1510年、「鳥居本の戦い」で東野行信、井口宮内とともに京極高清に従い六角氏綱勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
磯野員栓【いそのかじあき(14??~15??)】
磯野員吉の男。通称右衛門大夫。1501年、「今井館の戦い」で父の磯野員吉とともに上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。1517年、「磯野山館の戦い」で浅井亮政が京極高清を小谷城に幽閉したため、浅井亮政勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
磯野為員【いそのためかじ(14??~1517)】
磯野員詮の男。官途は肥後守。通称源三郎。別名磯野忠吉。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。1517年、「山本山館の戦い」で父の磯野員栓とともに浅見貞則を支援して浅井亮政の家臣宮沢員宗勢と戦い討死した。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
磯野員宗【いそのかずむね(14??~15??)】
宮沢員村の男(磯野員吉の養子)。通称平八郎。1517年、「山本山館の戦い」で磯野為員が浅見貞則を支援して浅井亮政勢と戦い討死したため、磯野家の家督を相続した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
磯野員清【いそのかずきよ(15??~15??)】
磯野員吉の弟。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
磯野員昌【いそのかずまさ(15??~15??)】
磯野員宗の男。官途は丹波守。父の磯野員宗が病没したため、叔父の磯野員清が磯野家の家督を相続後した。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。浅井長政から謀反の嫌疑を受け兵糧を止められたため、織田信長に内応した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、高島郡新庄城を領した。津田信澄を養子に迎えた。1578年、織田信長の勘気を受け高野山に追放処分に処された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
磯野行尚【いそのゆきなお(15??~16??)】
磯野行信の男。通称平三郎。石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成が松平元康勢と戦い討死したため、藤堂高虎に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で増田盛次勢と戦い増田盛次を討取る戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
磯野行信【いそのゆきのぶ(15??~1619)】
磯野員昌の次男。通称右近。石田三成に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に従い松平元康勢と戦い敗退したため、藤堂高虎に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で藤堂高虎に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
井戸村清光【いどむらきよみつ(15??~15??)】
今井定清家臣。家老職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
井戸村光慶【いどむらみつよし(15??~15??)】
井戸村清光の男。官途は左京亮。通称小次郎。猛将。1561年、「太尾館の戦い」で磯野員昌とともに今井定清に従い六角定頼勢と戦い今井定清が討死したため、磯野員昌に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
伊吹三左衛門【いぶきさんざえもん(15??~16??)】
宮部長房家臣。家老職を務めた。1600年、「因幡鳥取城の戦い」で宮部長房が三河鳴海館で松平元康勢に捕縛されたため、松平元康の家臣亀井茲矩、斎村政広勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
伊部為利【いべためとし(14??~15??)】
京極高清家臣。通称清兵衛尉。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
今井秀遠【いまいひでとう(14??~15??)】
京極高清家臣。坂田郡箕浦館主。官途は肥前守。1472年、「鎌刃館の戦い」で京極持清の意向を受け堀次郎左衛門尉勢と戦い堀次郎左衛門尉を討取る戦功を挙げた。1487年、「国友河原の戦い」で京極高清に従い多賀宗直勢と戦い戦功を挙げた。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。
今井秀信【いまいひでのぶ(1492~1533)】
今井秀俊の男。官途は越前守。1523年、「今浜館の戦い」で浅見貞則、浅井亮政、三田村忠政とともに京極高延に従い京極高清、京極高吉、上坂信光、下坂秀隆勢と戦い戦功を挙げた。1531年、「箕浦館の戦い」で六角定頼、京極高吉に内応したため、京極高延、浅井亮政勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
今井定清【いまいさだきよ(15??~1561)】
今井秀俊の次男。官途は備中守。1531年、「箕浦館の戦い」で父の今井秀信が六角定頼、京極高吉に従い京極高延、浅井亮政勢と戦い討死したため、六角定頼に仕えた。1533年、「鎌刃館の戦い」で六角定頼の意向を受け堀秀基勢と戦い戦功を挙げた。1561年、「太尾館の戦い」で六角定頼勢と戦い磯野員昌に誤殺された。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
今井秀形【いまいひでかた(15??~1583)】
今井定清の男。1561年、「太尾館の戦い」で父の今井定清が六角定頼勢と戦い磯野員昌に誤殺されたため、今井家の家督を相続した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、羽柴秀吉に仕えた。1584年、「尾張蟹江城の戦い」で羽柴秀吉に従い滝川一益勢と戦い討死した。
入江小次郎【いりえこじろう(15??~15??)】
浅井久政家臣。湖北海賊衆。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で安養寺猪之助とともに羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
石崎若狭守【いわさきわかさのかみ(15??~16??)】
田中吉政家臣。家老職(3,650石)を務めた。1622年、田中忠政が改易処分に処されたため、生駒高俊に仕えた。家老職(3,000石)を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
内堀頼式【うちぼりいずよりしき(15??~1636)】
浅井長政家臣。官途は伊豆守。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、前田利家に仕えた。南部信直との取次役を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
榎津右衛門【えなつうえもん(15??~16??)】
田中吉政家臣。官途は加賀守。1602年、田中吉政に従い筑後柳河城(320,000石)に転封した。津村城代職(3,000石)を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
遠藤主膳【えんどうしゅぜん(15??~15??)】
浅井亮政家臣。坂田郡須川館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
遠藤直経【えんどうなおつね(15??~1570)】
遠藤主膳の男。通称喜右衛門。伊賀衆を束ね諜報を統括した。1561年、浅井長政の意向を受け横山城を修築した。1568年、小谷城を訪れた織田信長の謀殺を浅井長政に進言した。1570年、「近江姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長、松平元康勢と戦い敗退したため、織田信長の頸を狙い本陣に近づき竹中重矩に見破られ討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大塚益実【おおつかますざね(15??~15??)】
高島郡善積館主。官途は兵庫頭。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
大野木秀国【おおのぎひでくに(14??~15??)】
京極高清家臣。官途は土佐守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
大野木秀資【おおのぎひですけ(15??~15??)】
大野木秀国の男。官途は加賀守。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大野木秀俊【おおのぎひでとし(15??~1573)】
大野木秀資の男。官途は土佐守。別名大野木茂俊。1569年、野村直隆、三田村国貞とともに横山城を守備した。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政、朝倉義景が織田信長勢と戦い敗退したため、横山城から退去して小谷城に落延びた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、捕縛され謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
大橋秀元【おおはしへでもと(14??~15??)】
京極高清家臣。通称善次郎。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
岡部清六【おかべせいろく(15??~15??)】
坂田郡葛籠館主。興福寺領の荘官。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
小川正秀【おがわまさひで(15??~1570)】
高島高賢家臣。高島郡小川館主。官途は主膳。別名小川秀康。1570年、「小川館の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
尾山彦右衛門【おやまひこえもん(15??~15??)】
京極高清家臣。伊香郡尾山館主。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
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【か】
海津政元【かいづまさもと(15??~15??)】
京極高清家臣。高島郡海津館主。官途は長門守。浅井亮政に仕えた。1549年、「源氏浜の戦い」で浅井久政の家臣浅井政澄、赤尾清定とともに六角義賢の家臣佐々木義時の支援を受けた伯父の海津政義勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭探訪」byyamaziro。
海津政義【かいづまさよし(15??~15??)】
京極高清家臣。高島郡打下館主。1549年、「源氏浜の戦い」で甥の海津政元が浅井亮政の意向を受け海津家惣領職を相続したため、六角義賢の家臣佐々木義時の支援を受け海津政元、浅井政澄、赤尾清定勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「城郭探訪」byyamaziro。
海北綱親【かいほつなちか(1510~1535)】
浅井亮政家臣。通称善右衛門。浅井家三将(赤尾清綱、雨森清貞)。1535年、「多賀館の戦い」で浅井亮政に従い京極高清の家臣多賀貞隆勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
海北綱親【かいほうつなちか(1530~1573)】
海北綱親の男。智勇兼備。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
海北友松【かいほゆうしょう(1533~1615)】
海北綱親の五男。海北派の始祖。1535年、京の東福寺で修行した。狩野元信の教えを受けた。1573年、「小谷城の戦い」で父の海北綱親が浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死したため、還俗し海北家の再興をめざした。羽柴秀吉に画才を認められたことから画業に専念した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
片桐直重【かたぎりなおしげ(15??~15??)】
京極高清家臣。伊香郡高月館主。片桐為真の男。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
片桐直貞【かたぎりなおさだ(1522~1591)】
片桐直重の男。官途は肥後守。通称孫右衛門。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政の意向を受け小谷城留守居役を務めた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い討死したため、織田信長に仕えた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
片桐且元【かたぎりかつもと(1556~1615)】
片桐直貞の男。官途は東市正。室は片桐半右衛門の娘。別名「賤ヶ岳の七本槍」。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で福島正則、加藤清正とともに羽柴秀吉に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀吉に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「朝鮮晋州城の戦い」で細川忠興に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1598年、摂津茨木城(10,000石)を領した。羽柴秀頼の傅役を務めた。1600年、「近江大津城の戦い」で弟の片桐貞隆が石田三成に従い京極高次勢と戦い戦功を挙げた。羽柴秀頼と松平元康の取次役を務め、大和国内で28,000石を領した。1614年、「方広寺鐘銘事件」で大野治長、淀殿から松平元康との内通を疑われ、大坂城を退去した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。羽柴秀頼に従い殉死した。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
片桐孝利【かたぎりたかとし(1601~1638)】
片桐且元の次男。官途は出雲守。通称次郎助。別名片桐元包。室は伊奈忠政の娘。1615年、父の片桐貞隆が羽柴秀頼に従い殉死したため、片桐家の家督を相続した。松平元康に仕えた。高野山の造営奉行職を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
片桐為元【かたぎりためもと(1611~1654)】
片桐且元の四男。室は酒井忠重の娘。1638年、兄の片桐孝利が嗣子無くして病没したため、末期養子として片桐家の家督を相続した。減封処分(10,000石)に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
片桐貞隆【かたぎりさだたか(1560~1627)】
片桐直貞の次男。官途は主膳正。通称加兵衛。1590年、「小田原城の戦い」で兄の片桐且元とともに羽柴秀吉に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「朝鮮晋州城の戦い」で片桐且元とともに細川忠興に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1598年、片桐且元とともに羽柴秀頼に仕えた。1600年、「近江大津城の戦い」で片桐且元の意向を受け石田三成に従い京極高次勢と戦い戦功を挙げた。1614年、「方広寺鐘銘事件」で松平元康との内通を疑われ、片桐且元とともに大坂城を退去した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。大和小泉城(16,000石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
加藤備中守【かとうびっちゅうのかみ(15??~15??)】
伊香郡東阿閉館主。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
加藤佐渡守【かとうさどのかみ(15??~15??)】
加藤備中守の男。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
加藤孫六【かとうまごろく(15??~15??)】
加藤佐渡守の男。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
河瀬高房【かわせたかふさ(15??~15??)】
京極高光の次男。坂田郡蓮台寺館主。官途は壱岐守。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
河原林弾正【かわらばやしだんじょう(15??~1573)】
高島郡今津館主。1573年、「今津館の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
京極高清【きょうごくたかきよ(1460~1538)】
坂田郡上平寺城主。京極勝秀の男(京極政経の養子)。出雲国、隠岐国、近江国、飛騨国守護職。官途は中務少輔。通称六郎。別名京極秀綱。室は斎藤利国の娘。1471年、「上平寺城の戦い」で兄の京極孫童子丸が病没したため、叔父の京極政経勢と戦い越前敦賀に落延びた。1472年、「京極騒乱」で多賀宗直とともに六角高頼の支援を受け京極政経、多賀高忠勢と戦い戦功を挙げた。1475年、「観音寺城の戦い」で土岐成頼、斯波義廉の支援を受け京極政経、多賀高忠、延暦寺門徒衆と戦い戦功を挙げた。1486年、「多賀宗直の乱」で多賀宗直勢と戦い近江甲賀に落延びた。1487年、「国友河原の戦い」で多賀宗直勢と戦い多賀宗直を討取る戦功を挙げた。1488年、「松尾の戦い」で京極政経、多賀経家勢と戦い戦功を挙げた。1499年、上坂家信の支援を受け上平寺城に復帰した。1505年、京極経秀と和議を結び領国統一した。1523年、「今浜館の戦い」で京極高吉、上坂信光、下坂秀隆とともに継嗣の京極高延、浅見貞則、浅井亮政、三田村忠政勢と戦い敗退した。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
京極高延【きょうごくたかのぶ(15??~15??)】
京極高清の男。官途は武蔵守。通称六郎。別名京極高広。1523年、「今浜館の戦い」で浅見貞則、浅井亮政、堀元積とともに父の京極高清、弟の京極高吉勢と戦い戦功を挙げた。1525年、浅井亮政が京極高清と結び浅見貞則を追放処分に処された。1528年、上坂信光、京極高吉と対立した。1531年、「大物崩れ」で細川晴元を支援して細川高国、六角定頼勢と戦い敗退した。1538年、京極高清が病没したため、京極家の家督を相続した。1550年、「太尾館の戦い」で三好長慶、六角義賢勢と戦い敗退した。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
京極高弥【きょうごくたかや(15??~15??)】
京極高延の男。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
京極高成【きょうごくたかなり(15??~15??)】
京極高延の次男。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
京極高吉【きょうごくたかよし(1508~1581)】
京極高清の次男。官途は長門守。室は浅井亮政の娘(マリア)。1523年、「今浜館の戦い」で父の京極高清とともに兄の京極高延、浅井亮政、浅見定貞、三田村忠政勢と戦い尾張国に落延びた。1523年、「今浜館の戦い」で京極高延に従い京極高吉、上坂信光勢と戦い戦功を挙げた。1528年、「尾上館の戦い」で上坂信光とともに六角定頼の支援を受け浅井亮政勢と戦い敗退した。1538年、「小谷城の戦い」で六角高頼とともに浅井亮政勢と戦い敗退したため、足利義輝に仕えた。1570年、織田信長に足利義昭への内応嫌疑を受け上平寺館に蟄居した。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
京極高峯【きょうごくたかみね(15??~1546)】
京極高清の三男。通称三郎。別名「利角斎」。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
京極景重【きょうごくかげしげ(15??~15??)】
京極高清の四男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
京極実高【きょうごくさねたか(15??~15??)】
京極高清の五男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
京極高次【きょうごくたかつぐ(1563~1609)】
京極高吉の男。官途は若狭守。通称小兵衛。室は浅井長政の次女(於初)。1570年、父の京極高吉が隠居したため、京極高次が家督を相続した。1573年、「山城槙島城の戦い」で織田信長に従い足利義昭勢と戦い戦功を挙げた。1581年、「第一次伊賀討伐」で丹羽長秀に従い伊賀国衆と戦い戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い若狭国に落延びた。妹(松丸殿)を羽柴秀吉に差し出して許された。1600年、「近江大津城の戦い」で松平元康に従い石田三成勢と戦い敗退した。若狭小浜城(85,000石)を領した。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
京極高知【きょうごくたかとも(1572~1622)】
京極高吉の次男。官途は丹後守。1581年、「本能寺の変」で兄の京極高次とともに明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。1591年、羽柴秀吉に仕え蒲生郡内で5,000石を領した。1593年、義父の毛利秀頼が病没したため、信濃国伊奈郡飯田城(60,000石)を相続した。1600年、「近江大津城の戦い」で松平元康に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。丹後田辺城(123,000石)を領した。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
京極高広【きょうごくたかひろ(1599~1677)】
京極高知の男。官途は丹後守。室は池田輝政の娘。1622年、父の京極高知が病没したため、丹後国宮津城(78,000石)を相続した。京極高三が丹後国田辺城(35,000石)、京極高通が丹後国峰山城(13,000石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
京極忠高【きょうごくただたか(1593~1637)】
京極高次の男。官途は若狭守。室は松平秀忠の娘(初姫)。1609年、父の京極高次が病没したため、京極家の家督を相続した。1614年、「大坂冬の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い和議締結に尽力した。1615年、「大坂夏の陣」で松平元康に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。1634年、出雲松江城(264,000石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
京極政経【きょうごくまさつね(1453~1508)】
京極持清の三男。官途は大膳大夫。通称六郎。別名京極政高。1471年、「京極騒乱」で京極童子丸が病没したため、次兄の京極政光、京極高清、多賀清直、多賀宗直勢と戦い敗退した。1475年、「観音寺城の戦い」で京極高忠、小笠原家長、延暦寺門徒衆とともに京極高清、多賀清直、六角高頼、土岐成頼、斎藤妙椿勢と戦い敗退した。1486年、「多賀宗直の乱」で京極高清とともに京極政経の支援を受けた多賀宗直勢と戦い戦功を挙げた。1488年、「松尾の戦い」で多賀経家とともに京極高清勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
京極経秀【きょうごくつねひで(15??~1505)】
京極政経の男。官途は治部少輔。別名京極材宗。室は六角高頼の娘。1493年、「明応の政変」で足利義材が将軍職を追われたため、京極高清と戦い敗退した。1501年、「今浜館の戦い」で浅井直種とともに京極高清、上坂家信勢と戦い敗退した。1505年、京極高清に謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
京極高吉【きょうごくたかよし(15??~15??)】
京極経秀の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
国友興左衛門【くにともこうざえもん(15??~15??)】
宮部継潤家臣。宮部家七人衆。1600年、「関ヶ原の役」で三田村太郎右衛門、高坂清兵衛とともに宮部長房が石田三成に従うよう進言した。松平元康から自刃を命じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
近江熊谷直綱【くまがいなおつな(15??~15??)】
伊香郡塩津浜館主。官途は兵庫。通称平治郎。塩津浜は湖北の三津(塩津、今津、海津)で琵琶湖の最北端の湊街。1555年、「越前疋壇館の戦い」で疋壇景継勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
近江熊谷直朝【くまがいなおとも(15??~15??)】
熊谷直綱の男。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
黒田高政【くろだたかまさ(14??~15??)】
伊香郡黒田館主。1511年、「山城船岡山の戦い」で足利義稙、細川高国、大内義興に従い足利義澄、細川澄元、三好之長勢と戦い軍令違反を咎められ改易処分に処された。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
黒田伊予守【くろだいよのかみ(15??~15??)】
京極高次家臣。1600年、「大津城の戦い」で赤尾伊豆守、山田良利とともに京極高次に従い石田光成勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
上坂家信【こうさかいえのぶ(14??~1521)】
京極高清家臣。坂田郡今浜城主。官途は治部大輔。別名上坂泰貞。1499年、「京極騒乱」で京極高清を支援して京極政経、京極経秀勢と戦い戦功を挙げた。1505年、京極経秀と和議を結び、内乱を終結させた。京極高清の筆頭家老職を務めた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂信光【こうさかのぶみつ(1482~1533)】
上坂家信の男。官途は治部大輔。1523年、「今浜城の戦い」で下坂秀隆とともに京極高清の次男京極高吉を支援して浅井亮政、浅見貞則、三田村忠政、堀秀元勢と戦い京極高清のもとに落延びた。京極高清、京極高吉とともに尾張国へ追放された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂定信【こうざかさだのぶ(15??~15??)】
上坂信光の男。官途は治部大輔。1538年、「佐和山城の戦い」で六角定頼の支援を受け京極高慶とともに京極高延、浅井亮政勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂景信【こうざかけげのぶ(15??~15??)】
京極高清家臣。上坂貞信の男。官途は伊賀守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂意信【こうざかおきのぶ(15??~15??)】
上坂景信の男。官途は伊賀守。浅井亮政に仕えた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、失領した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂貞信【こうさかさだのぶ(15??~15??)】
上坂景信の次男。官途は信濃守。1538年、「佐和山城の戦い」で上坂定信に従い京極高慶を支援して京極高延、浅井亮政勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂正信【こうさかまさのぶ(15??~15??)】
上坂意信の男。官途は伊賀守。通称八右衛門。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、羽柴秀長に仕えた。1595年、羽柴秀保が病没したため、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に従い松平元康勢と戦い敗退したため、帰農した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂知信【こうざかとものぶ(15??~15??)】
上坂意信の男。1600年、「関ヶ原の役」で父の上坂意信が石田三成に従い松平元康勢と戦い敗退したため、井伊直政に仕えた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂重信【こうざかしげのぶ(15??~15??)】
上坂知信の男。通称八右衛門。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂辰信【こうざかたつのぶ(15??~15??)】
上坂知信の次男。通称太兵衛。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂幸信【こうざかゆきのぶ(15??~15??)】
京極高清家臣。通称兵庫助。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂信職【こうざかのぶおり(15??~15??)】
上坂幸信の男。通称兵庫助。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂孝信【こうざかたかのぶ(15??~15??)】
上坂信職の男。通称。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂兵庫助【こうざかひょうごのすけ(15??~15??)】
上坂孝信の男。通称。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
上坂掃部頭【こうざかかもんのかみ(15??~15??)】
上坂家信家臣。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
高坂清兵衛【こうさかせいべい(15??~1600)】
宮部継潤家臣。宮部家七人衆。1600年、「関ヶ原の役」で三田村太郎右衛門、国友興左衛門とともに宮部長房が石田三成に従うよう進言した。松平元康から自刃を命じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
小林家正【こばやしいえまさ(15??~15??)】
坂田郡茂賀山館主。通称左馬頭。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長、松平元康勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
朽木稙綱【くつきたねつな(1498~1546)】
高島郡朽木谷館主。朽木貞清の男。高島七頭衆。1525年、「小谷城の戦い」で六角定頼に従い浅井亮政勢と戦い敗退した。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
朽木成綱【くつきしげつな(15??~15??)】
朽木稙綱の男。官途は左兵衛尉。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
朽木藤綱【くつきふじつな(15??~15??)】
朽木稙綱の次男。官途は長門守。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
朽木輝孝【くつきてるたか(15??~15??)】
朽木稙綱の三男。1568年、足利義昭に仕えた。1573年、足利義昭が織田信長に追放処分に処されたため、朽木藤綱、朽木成綱とともに朽木元綱に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
朽木晴綱【くつきはるつな(1518~1550)】
朽木稙綱の四男。官途は宮内少輔。通称弥五郎。室は飛鳥井雅綱の娘。父の朽木稙綱とともに足利義晴に従い畿内各地を転戦して戦功を挙げた。1550年、「俵山の戦い」で高島越中守勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
朽木元綱【くつきもとつな(1549~1632)】
朽木晴綱の男。官途は信濃守。通称弥五郎。室は無量寿寺尭慧の娘。1568年、織田信長、足利義昭に仕えた。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長に従い朝倉義景勢と戦い敗退した。1582年、「本能寺の戦い」で織田信長が明智光秀勢と戦い討死したため、羽柴秀吉に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に属した大谷吉継に従い北陸各地を転戦した。「関ヶ原の戦い」で小早川秀秋が松平元康に内応したため、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保とともに松平元康に属して大谷吉継、平塚為広、戸田勝成勢を壊滅させた。減封処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
朽木宣綱【くつきのぶつな(1582~1662)】
朽木元綱の男。官途は兵部少輔。室は京極高吉の娘。1600年、松平元康の馬廻衆(6,470石)を務めた。1606年、内室の京極マグダレナが、京都八瀬館で病没したため、京極マリアが切支丹式の葬儀を行った。1616年、松平元康の配膳役を務めた。1662年、琵琶湖西岸地震で朽木谷屋敷が崩壊して圧死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
熊谷弥次郎【くまがいよじろう(14??~15??)】
京極高清家臣。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
熊谷新次郎【くまがいしんじろう(14??~15??)】
熊谷弥次郎家臣。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
小堀正房【こぼりまさふさ(15??~15??)】
磯野員宗家臣。坂田郡小堀館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小堀正次【こぼりまさつぐ(1540~1604)】
小堀正房の男。通称新助。室は磯野員昌の娘。磯野員昌が浅井長政から離反したため、羽柴秀長に仕えた。紀伊国、大和国の検地奉行職を務めた。1595年、羽柴秀保が病没したため、羽柴秀吉に仕えた。郡代職(大和国、和泉国、紀伊国)を務めた。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。備中松山城(14,000石)を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小堀政一【こぼりまさかず(1579~1647)】
小堀正次の男。官途は遠江守。通称作助。別名小堀遠州。室は藤堂嘉晴の娘(藤堂高虎の養女)。羽柴秀長に仕え山上宗二、千利休、春屋宗園と交遊を結んだ。1595年、羽柴秀保が病没したため、羽柴秀吉に仕え古田織部に茶道を学んだ。1598年、羽柴秀吉が病没したため、父の小堀正次とともに松平元康に仕えた。1604年、小堀正次が病没したため、小堀家の家督を相続した。1608年、駿府城の普請奉行を務めた。1622年、近江国奉行職を務めた。1624年、伏見奉行職を務め、豊後橋北詰に奉行屋敷を設けた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
小堀正行【こぼりまさゆき(1583~1615)】
小堀正次の次男。1600年、父の小堀正次のとともに備中松山城(14,000石)に転封した。1604年、小堀正次が病没したため、馬廻衆寄合席(3,000石)を務めた。1615年、兄の小堀政一の京都役宅で病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【さ】
坂本和泉守【さかもといずみのかみ(15??~16??)】
田中吉政家臣。1600年、「美濃長良川の戦い」で田中吉政に従い織田秀信勢と戦い戦功を挙げた。田中吉政に従い筑後柳河城に転封した。1604年、田中吉政が病没したため、田中則政に仕えた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
佐々木師綱【ささきもろつな(15??~15??)】
高島郡船木館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
七条安房守【しちじょうあわのかみ(15??~15??)】
坂田郡七条館主。1536年、伊吹神社の「奉加帳」に署名した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
地蔵兵太郎【じぞうへいたろう(15??~15??)】
坂田郡地蔵館主。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
島秀安【しまひでやす(1503~1580)】
今井秀信家臣。高島郡島館主。官途は若狭守。通称四郎左衛門。井戸村光慶とともに家老職を務めた。1538年、鎌刃城代職を務めた。1561年、「太尾館の戦い」で今井定清が六角定頼勢と戦い討死したため、浅井久政に仕えた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
島秀宣【しまひでのぶ(15??~15??)】
島秀安の男。通称四郎左衛門。磯野員昌の寄騎衆を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
島秀淳【しまひでじゅん(15??~15??)】
島秀安の次男。通称新右衛門。兄の島秀宣とともに磯野員昌の寄騎衆を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
新海源之丞【しんかいげんのじょう(15??~15??)】
坂田郡新海館主。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
新庄直寛【しまひでじゅん(14??~1538)】
京極高清家臣。坂田郡朝妻館主。官途は駿河守。別名新庄信家。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
新庄直昌【しんじょうなおまさ(1513~1549)】
新庄直寛の男。通称は蔵人。1538年、父の新庄直寛が病没したため、新庄家の家督を相続した。1549年、「摂津江口の戦い」で細川晴元の家臣三好政長に従い三好長慶勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
新庄直頼【しんじょうなおより(1538~1612)】
新庄直昌の男。官途は駿河守。通称新三郎。別名新庄直頼。室は前田利太の娘。1549年、「摂津江口の戦い」で父の新庄直昌が細川晴元の家臣三好政長に従い三好長慶勢と戦い討死したため、新庄家の家督を相続した。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。1571年、「朝妻館の戦い」で織田信長の家臣丹羽長秀勢と戦い敗退したため、羽柴秀吉に仕えた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀勢と戦い討死したため、羽柴秀吉に仕えた。1591年、大津城(12,000石)を領した。1600年、「伊賀上野城の戦い」で石田三成に従い筒井定次勢と戦い戦功を挙げた。改易処分に処された。1604年、常陸行方郡麻生城(27,000石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
新庄直忠【しんじょうなおただ(1542~1620)】
新庄直昌の次男。通称刑部左衛門。別名「東玉斎」。1582年、兄の新庄直頼とともに羽柴秀吉に仕えた。1591年、枯死した唐崎の松を植え替え景勝の保存に尽力した。1598年、羽柴秀吉が病没したため、京都に閑居した。1600年、「近江大津城の戦い」で石田三成に従い京極高次との取次役を務めた。改易処分に処された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
新庄直定【しんじょうなおさだ(1562~1618)】
新庄直頼の男。官途は越前守。通称新三郎。1600年、「伊賀上野城の戦い」で父の新庄直頼とともに筒井定次勢と戦い戦功を挙げた。新庄直頼が改易処分に処された。1604年、松平元康に仕えた。1612年、新庄直頼が病没したため、新庄家の家督を相続した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
新庄俊長【しんじょうとしなが(15??~1573)】
高島郡伊黒館主。饗庭弥太郎の三男。別名「法泉坊」。比叡山衆徒で僧兵。1573年、「伊黒館の戦い」で織田信長に内応したため、浅井長政勢と戦い討死した。
新庄実秀【しんじょうさねひで(15??~15??)】
高島郡新庄館主。官途は伊賀守。1542年、「蟹ヶ坂の戦い」で六角定頼の家臣高島高賢、山中秀国に従い北畠具教の家臣神戸丹後守、飯高三河守勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
千田有義【せんだありよし(14??~15??)】
京極高清家臣。官途は伯耆守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
千田帯刀【せんだたてわき(14??~15??)】
千田有義の男。1501年、「今井館の戦い」で父の千田有義とともに上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
千田采女正【せんだうねめのじょう(15??~15??)】
浅井久政家臣。伊香郡千田館主。1573年、「小谷城の戦い」で浅井久政に従い織田信長勢と戦い討死した参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
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【た】
田井重兵衛【たいじゅうべい(15??~15??)】
高島郡田井館主。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
高島高俊【たかしまたかとし(14??~1481)】
高島郡清水山館主。高島高兼の男。官途は近江守。高島七頭衆筆頭職。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
高島頼高【たかしまよりたか(14??~15??)】
高島高俊の男。通称四郎左衛門尉。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
高島孝俊【たかしまたかとし(15??~15??)】
高島頼高の男。官途は越中守。通称刑部大輔。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
高島高賢【たかしまたかよし(15??~15??)】
高島孝俊の男。官途は大蔵大輔。室は三淵晴員の娘。別名高島正国。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
高島正氏【たかしままさうじ(15??~15??)】
高島高賢の男。官途は日向守。1563年、「観音寺騒動」で六角義賢の勢力が弱まったため、浅井長政に仕えた。1570年、「近江姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
高島玄番亮【たかしまがんばのじょう(15??~15??)】
高島正氏の男。官途は越中守。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、帰農した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
高宮頼勝【たかみやよりかつ(15??~15??)】
坂田郡高宮館主。官途は三河守。五ヶ村(高宮、大堀、東沼波、西沼波、竹鼻)を領した。1559年、「高宮館の戦い」で六角義賢、久徳実時勢と戦い浅井久政のもとに落延びた。1560年、「高宮館の戦い」で浅井長政の支援を受け六角義賢勢と戦い高宮館を奪還した。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
高宮宗光【たかみやむねみつ(15??~15??)】
高宮頼勝の男。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と討死した。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
高宮宗久【たかみやむねひさ(15??~16??)】
高宮宗光の男。1573年、「小谷城の戦い」で父の高宮宗光が浅井長政に従い織田信長勢と討死したため、高宮館に火を放ち落延びた。高木盛兼に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で高木盛兼に従い松平元康勢と戦い敗退した。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
多賀清直【たがきよなお(14??~1479)】
京極持清家臣。浅井郡中野館主。多賀高直の男。官途は出雲守。通称四郎右衛門尉。1470年、「京極騒乱」で京極政光ととも六角高頼、斎藤妙椿の支援を受けた京極高清に従い京極政経、多賀高忠勢と戦い戦功を挙げた。1475年、「観音寺城の戦い」で土岐成頼、斯波義廉の支援を受けた多賀高忠勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
多賀宗直【たがむねなお(14??~1487)】
多賀清直の男。官途は出雲守。通称兵衛四郎。1475年、「京極騒乱」で父の多賀清直とともに京極政経、多賀高忠勢と戦い戦功を挙げた。1486年、「多賀宗直の乱」で京極政経、京極経秀の支援を受け京極高清勢と戦い戦功を挙げた。1487年、「国友河原の戦い」で京極高清、今井秀遠勢と戦い敗退した。「月ヶ瀬館の戦い」で京極高清の家臣今井秀遠勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田次右衛門尉【たつぎうえもんのじょう(15??~15??)】
田中吉政家臣。家老職を務めた。1615年、筑後江ノ浦館の破却した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中頼長【たなかよりなが(15??~15??)】
高島郡田中館主。通称四郎兵衛尉。高島七頭衆。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中重茂【たなかしげもり(15??~15??)】
飛鳥井雅綱の九男(田中頼長の養子)。官途は兵部大輔。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中重寛【たなかしげひろ(15??~15??)】
高島郡田中館主。田中重信の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中重政【たなかしげまさ(15??~1565)】
田中重寛の男。通称久兵衛。別名田中宗政。室は国友与左衛門の娘(竹姫)。1565年、「蒲生野の戦い」で六角義賢に従い浅井長政勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中吉政【たなかよしまさ(1548~1609)】
羽柴秀吉家臣。田中重政の男。官途は兵部大輔。通称久兵衛。室は国友与左衛門の娘(宮部継潤の養女)。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、宮部継潤に仕えた。1585年、羽柴秀次の家老職(5,000石)を務めた。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀次に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。三河岡崎城(57,400石)を領した。城下街の整備、矢作川の架橋、田中堀の掘削、岡崎城領内の内政を進めた。寺社領没収、強制移転も行い、松平元康の影響力を払拭することに務めた。1600年、「関ヶ原の役」で松平元康に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。筑後柳川城(320,000石)を領した。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
田中清政【たなかきよまさ(15??~1619)】
田中重政の次男。通称左馬介。1601年、兄の田中吉政に従い筑後柳川城に転封して御井郡赤司館(2,840石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中氏次【たなかうじつぐ(15??~16??)】
田中重政の三男。官途は兵庫助。通称主水正。1601年、兄の田中吉政に従い筑後柳川城に転封して山門郡江ノ浦館(3,860石)を領した。兄の田中吉政のもとを退去して細川忠興に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中吉次【たなかよしつぐ(15??~1617)】
田中吉政の男。官途は民部大輔。通称小十郎。1584年、「小牧、長久手の役」で羽柴秀吉に従い松平元康勢と戦い敗退した。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で父の田中吉政とともに織田秀信勢と戦い戦功を挙げた。田中吉政のもとを退去して京都で病没した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中吉勝【たなかよしかつ(15??~16??)】
田中吉次の男。官途は民部少輔。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中吉信【たなかよしのぶ(15??~1606)】
田中吉政の次男。官途は主膳正。別名田中則政。1601年、田中吉政に従い筑後柳川城に転封して御井郡久留米城(30,000石)を領した。1603年、柳川城から久留米城の街道を整備した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中康政【たなかやすまさ(15??~1629)】
田中吉政の三男。通称久兵衛。別名田中吉興。兄の田中吉次が廃嫡処分に処され、次兄の田中康政も分家していたが、病弱を理由として弟の田中忠政が継嗣とされた。1617年、上妻郡福島城(30,000石)を領した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中忠政【たなかただまさ(1585~1620)】
田中吉政の四男。室は松平元康の養女(久松定勝の娘)。官途は筑後守。1609年、松平元康の意向を受け田中家の家督を相続した。父の田中吉政が柳川、久留米、福島城の修復、街道、河川、干拓、潅漑などの普請、作事を進めたため、財政が圧迫された。1614年、「城島館の戦い」で宮川大炊守、宮川才兵衛を謀殺した。1617年、兄の田中康政に上妻郡福島城(30,000石)を分知した。1620年、無嗣のまま病没したため、田中家は断絶した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中庸政【たなかつねまさ(1588~1622)】
田中吉政の五男。長兄の田中吉次は追放処分、次兄の田中吉信は病没、三兄の田中康政は病弱、四兄の田中吉政が田中家の家督を相続した。1620年、田中吉政が病没したため、田中家は断絶した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中栄政【たなかひでまさ(16??~16??)】
田中庸政の男。1622年、父の田中庸政が病没したため、山城京都に転封した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中主馬【たなかしゅめい(15??~15??)】
田中吉政の甥。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中河内守【たなかかわちのかみ(15??~15??)】
田中吉政家臣。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田中彦左衛門【たなかひこざえもん(15??~15??)】
宮部継潤家臣。代官職を務めた。1600年、「因幡鳥取城の戦い」で亀井茲矩の意向を受け宮部継潤の家臣に対し、開城を促す使者を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田辺式部丞【たなべしきぶのじょう(15??~15??)】
今井定清家臣。坂田郡長沢館主。室は遠藤主膳の娘。1561年、「太尾館の戦い」で今井定清が六角義賢勢と戦い討死したため、責任を問われ改易処分に処された。遠藤直経に仕えた。1570年、「近江姉川の戦い」で遠藤直経が浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死したため、堀秀政に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
田部信頼【たべのぶより(15??~15??)】
浅井長政家臣。伊香郡田部山館主。官途は民部少輔。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
田屋明政【たやあきまさ(15??~15??)】
浅井亮政家臣。高島郡長法寺館主。田屋政清の男(浅井亮政の養子)。別名浅井新三郎。室は浅井亮政の娘(千代鶴)。1526年、浅井久政が生まれたため、実家に戻った。1542年、浅井亮政が病没したため、六角定頼に内応して浅井久政と対立した。1543年、「田屋明政の乱」で京極高延の支援を受け浅井久政勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
田屋重頼【たやしげより(15??~15??)】
田屋明政の男。官途は淡路守。1555年、長法寺を建立した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
月ヶ瀬播磨守【つきがせただきよ(15??~15??)】
浅井久政家臣。浅井郡月ヶ瀬館主。室は井口経元の娘。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
月ヶ瀬忠清【つきがせただきよ(15??~1573)】
月ヶ瀬播磨守の男。官途は若狭守。1560年、「野良田の戦い」で浅井長政に従い六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。1573年、「月ヶ瀬館の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
辻重勝【つじしげかつ(15??~16??)】
田中吉政家臣。通称勘兵衛。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で西脇五右衛門、松原善左衛門とともに田中吉政に従い石田三成の家臣杉江勘兵衛勢と戦い杉江勘兵衛を討取る戦功を挙げた。1600年、田中吉政に従い筑後柳河城に転封して上妻郡猫尾館(3,650石)を領した。1620年、田中忠政が改易処分に処されたため、浅野幸長に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
百々盛実【どどもりざね(15??~1561)】
浅井久政家臣。坂田郡百々館主。官途は隠岐守。1560年、「野良田の戦い」で浅井長政に従い六角義賢勢と戦い戦功を挙げた。1561年、「百々館の戦い」で斎藤義龍勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
富田才八【とみたさいはち(15??~1570)】
遠藤直経家臣。1570年、「近江姉川の戦い」で遠藤直経に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『浅井長政とお市の方』by近衛龍春。
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【な】
中島貞清【なかじまさだきよ(15??~15??)】
浅井久政家臣。浅井郡島館主。官途は備中守。通称八郎右衛門。1553年、浅井久政の奉行職を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
中島直頼【なかじまなおより(15??~15??)】
中島貞清の男。官途は日向守。通称宗左衛門。横山城を守備した。1570年、「坂本館の戦い」で浅井長政の意向を受け小谷城留守居役を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
中島直親【なかじまなおちか(15??~15??)】
中島直頼の男。通称宗左衛門。1573年、「丁野館の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
永田賢家【ながたよしいえ(15??~15??)】
高島郡永田館主。官途は刑部少輔。高島七頭衆。1525年、「小谷城の戦い」で六角定頼に従い浅井亮政勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
永田季家【ながたすえいえ(15??~15??)】
永田賢家の男。官途は伊豆守。1538年、「鎌刃館の戦い」で六角定頼に従い浅井亮政勢と戦い敗退した。15522年、「太尾山館の戦い」で佐治太郎左衛門を支援して京極高延の家臣岩脇秀次、今井定清勢と戦い敗退した。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
永田秀宗【ながたひでむね(15??~1573)】
永田季家の男。官途は左馬助。1570年、「志賀の陣」で朝倉義景、浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
西野家澄【にしのいえずみ(14??~15??)】
京極高清家臣。伊香郡西野館主。官途は丹波守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
西野氏常【にしのうじつね(14??~15??)】
西野家澄の男。通称與八郎。1501年、「今井館の戦い」で父の西野家澄とともに上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
西山且右衛門【にしやまたんえもん(15??~15??)】
浅井久政家臣。伊香郡西山館主。1573年、「小谷城の戦い」で浅井久政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
西脇五右衛門【にしわきごえもん(15??~16??)】
田中吉政家臣。通称勘兵衛。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で辻重勝、松原善左衛門とともに田中吉政に従い石田三成の家臣杉江勘兵衛勢と戦い杉江勘兵衛を討取る戦功を挙げた。1620年、田中忠政が改易処分に処されたため、松平忠昌に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
沼波俊盛【のなみとしもり(15??~15??)】
坂田郡沼波館主。通称三左衛門。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
沼波秀信【のなみひでのぶ(15??~15??)】
沼波俊盛の男。通称又次郎。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
野一色行久【のいつしきゆきひさ(14??~15??)】
京極高清家臣。坂田郡野一色館主。官途は河内守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
野一色助義【のいっしきすけよし(1548~1600)】
野一色行久の男。通称頼母。室は黒川盛治の娘。別名野一色長頼。猛将。1572年、「横山城の戦い」で羽柴秀吉に内応して中村一氏に仕えた。家老職(8,000石)を務めた。1600年、「美濃杭瀬川の戦い」で中村一栄に従い宇喜多秀家の家臣浅賀三左衛門勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。
野一色助重【のいっしきすけしげ(1589~1615)】
野一色助義の次男。1609年、 中村一忠が病没して改易処分に処されたため、松平元康の意向を受け松平秀忠に仕えた。近江国蒲生郡内で2,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」で青山忠俊に従い羽柴秀頼勢と戦い敗退した。1615年、「道明寺の戦い」で羽柴秀頼の家臣後藤基次勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野一色義重【のいっしきすけしげ(15??~1654)】
野一色助義の三男。室は中川時宗の娘。松平忠輝に仕えた。1615年、「摂津道明寺の戦い」で兄の野一色助重が青山忠俊に従い羽柴秀頼勢と戦い討死したため、松平秀忠に仕えた。西城書院番(2,000石)を務めた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野一色助忠【のいっしきすけただ(15??~15??)】
野一色助義の四男。池田忠雄に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野一色助政【のいっしきすけまさ(15??~15??)】
野一色助義の五男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野村直定【のむらなおさだ(14??~15??)】
京極高清家臣。浅井郡野村館主。官途は伯耆守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
野村定元【のむらさだもと(14??~15??)】
野村直定の男。官途は肥後守。1501年、「今井館の戦い」で父の野村直定とともに上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
野村伯耆守【のむらほうきのかみ(15??~15??)】
野村定元の男。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
野村直隆【のむらなおたか(15??~16??)】
野村伯耆守の男。官途は肥後守。通称藤左衛門。1570年、三田村国定、大野木秀俊とともに横山城を守備した。1571年、「国友館の戦い」で織田信長の家臣宮部継潤勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、羽柴秀吉に仕えた。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀吉に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「山城伏見城の戦い」で石田三成に従い松平元康の家臣鳥居元忠勢と戦い戦功を挙げた。改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
野村直俊【のむらなおとし(15??~16??)】
野村直隆の男。官途は兵庫頭。1600年、「山城伏見城の戦い」で父の野村直隆とともに石田三成に従い松平元康の家臣鳥居元忠勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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【は】
林員清【はやしかずきよ(15??~1575)】
高島郡大溝館主。通称與与次左衛門。海賊衆。1572年、琵琶海賊衆を率い竹生島を攻撃した。1573年、「大溝館の戦い」で織田信長勢と戦い敗退した。明智光秀に仕えた。1575年、謀反の嫌疑を受け明智光秀に謀殺された。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
林右京亮【はやしさきょうのじょう(15??~15??)】
林員清家臣。高島郡伊黒館主。1573年、「大溝館の戦い」で林員清に従い織田信長勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
速水實政【はやみずひろまさ(15??~15??)】
磯野員昌家臣。浅井郡速水館主。通称兵右衛門。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
速水時久【はやみずときひさ(1545~15??)】
速水實政の男。通称兵右衛門。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
速水守久【はやみもりひさ(15??~1615)】
速水時久の男。官途は甲斐守。七手組の筆頭を務めた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、浅井茶々姫に従い羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」で肥前名護屋城の六番組頭(40,000石)を務めた。1614年、「鴫野の戦い」で羽柴秀頼に従い長尾景勝勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「天王寺の戦い」で真田信繁とともに藤堂高虎勢を撃破した。大坂城に退却した。羽柴秀頼の介錯を務め、殉死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
速水守治【はやみずもりはる(15??~15??)】
速水守久の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
速水宗久【はやみずむねひさ(15??~15??)】
速水守久の次男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
速水保久【はやみずやすひさ(15??~15??)】
速水守久の三男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
速水貞久【はやみずさだひさ(15??~15??)】
速水守久の四男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
日置行近【ひおきゆきちか(15??~15??)】
朽木晴綱家臣。通称五郎衛門。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
日置貞忠【ひおきさだただ(15??~15??)】
日置行近の男。通称左門。1547年、朽木晴綱の代理として宮川貞頼、宮川頼忠とともに田地売券に連署した。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
東野行成【ひがしのゆきなり(14??~15??)】
京極高清家臣。伊香郡東野館主。官途は左馬助。別名東野行重。余語庄の地頭職。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
東野行信【ひがしのゆきのぶ(14??~1573)】
東野行成の男。官途は周防守。通称左馬助。1510年、「鳥居本の戦い」で磯野員吉、井口宮内とともに京極高清に従い六角氏綱勢と戦い戦功を挙げた。1544年、「加田口の戦い」で上坂定信、浅見新左衛門とともに京極高延に従い浅井亮政勢と戦い敗退したため、浅井亮政に仕えた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野政行【ひがしのまさゆき(15??~1573)】
東野行信の男。官途は左馬助。1573年、「小谷城の戦い」で浅井久政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野秀行【ひがしのひでゆき(15??~15??)】
東野政行の男。左京進。1573年、「小谷城の戦い」で父の東野政行が浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死したため、京で医術を学び開業した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行是【ひがしのゆきこれ(15??~15??)】
東野秀行の男。通称左京進。丹羽長秀重に仕えた。1585年、丹羽長重が減封処分に処されたため、失領した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行明【ひがしのゆきあき(15??~15??)】
東野行是の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行信【ひがしのゆきのぶ(15??~16??)】
東野秀行の次男。官途は左馬助。通称右近。1583年、山内一豊に仕えた。1602年、山内一豊に従い土佐浦戸城に転封した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行定【ひがしのゆきさだ(15??~15??)】
東野行成の次男。通称左兵衛。別名平野行定。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行春【ひがしのゆきはる(15??~15??)】
東野行成の三男。通称大学助。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行親【ひがしのゆきちか(15??~15??)】
東野行成の四男。通称次郎左衛門尉。別名布施行親。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行祐【ひがしのゆきすけ(15??~15??)】
東野行成の五男。官途は若狭守。別名土肥行祐。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行清【ひがしのゆききよ(15??~15??)】
東野行信の次男。通称蔵人。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
東野行昌【ひがしのゆきまさ(15??~15??)】
東野行信の三男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
樋口直房【ひぐちなおふさ(15??~1574)】
堀秀元家臣。通称三郎兵衛。堀秀村の後見役を務め、家中を取り仕切り経営手腕を発揮した。兵法、軍略に通じ、優れた民政家。1570年、「鎌田館の戦い」で堀秀元とともに織田信長に内応したため、浅井長政勢と戦い敗退した。「姉川の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い敗退したため、鎌刃館を奪還した。1573年、「小谷城の戦い」で羽柴秀吉に従い浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。1574年、「越前木目峠の戦い」で一揆衆と単独で和議を結び戦線を放棄した。「鎌田館の戦い」で織田信長の逆鱗に触れ羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
平井頼氏【ひらいよりうじ(15??~15??)】
高島郡平井館主。平井政綱の男。官途は河内守。高島七頭衆。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
平井秀名【ひらいひでめい(1529~15??)】
平井頼氏の男。官途は加賀守。通称孫三郎。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
平井昌綱【ひらいまさつな(15??~15??)】
平井秀名の男。官途は修理亮。通称孫三郎。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
平井宗綱【ひらいむねつな(15??~1657)】
平井昌綱の男。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
平田和泉守【ひらたいずみのかみ(15??~15??)】
坂田郡平田館主。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
福永弥五右衛門【ふくながよごえもん(15??~15??)】
宮部継潤家臣。宮部家七人衆。1600年、「関ヶ原の役」で去就を決めかねる宮部長房に石田三成に従ように進言した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
藤田佐渡守【ふじたさどのかみ(15??~15??)】
坂田郡彦富館主。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
堀江伝左衛門【ほりえでんざえもん(15??~15??)】
高島郡伊黒館主。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
堀氏政【ほりうじまさ(14??~1487)】
多賀宗直家臣。坂田郡鎌刃館主。通称次郎左衛門。1472年、「鎌刃館の戦い」で今井秀遠勢と戦い敗退した。1487年、「国友河原の戦い」で多賀宗直に従い京極高清、今井秀遠勢と戦い討死した。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
堀頼貞【ほりよりさだ(14??~15??)】
堀氏政の男。官途は能登守。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
堀秀元【ほりひでむら(14??~15??)】
堀頼貞の男。官途は能登守。通称次郎左衛門。別名堀元積。1523年、「今浜館の戦い」で京極高延、浅見貞則、浅井亮政、三田村忠政に従い京極高清、京極高吉、上坂信光勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
堀秀村【ほりひでむら(1557~1599)】
堀秀元の男。官途は遠江守。通称二郎。別名堀秀元。父の堀秀元が病没したため、樋口直房の後見を受け堀家の家督を相続した。1570年、「鎌刀館の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉に内応したため、浅井長政勢と戦い敗退した。「姉川の戦い」で羽柴秀吉に従い浅井長政、朝倉義景勢と戦い戦功を挙げた。1571年、「鎌刃館の戦い」で浅井長政勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1574年、樋口直房が一揆衆と和議を結び逐電したため、改易処分に処された。参考文献:『信長と消えた家臣たち―失脚、粛清、謀反』by谷口克広。
堀秀信【ほりひでのぶ(1587~1627)】
新庄直頼の男(堀存村の養子)。官途は因幡守。1594年、伏見城の屋敷に松平元康、松平秀忠の訪問を受け、松平元康から脇差、松平秀忠から太刀を拝領した。1606年、御書院番を務めた。1614年、「大坂冬の陣」で水野忠清に従い羽柴秀頼勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
本庄正玄【ほんじょうしょうげん(15??~15??)】
坂田郡本庄館主。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
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【ま】
松原貞信【まつばらさだのぶ(15??~15??)】
坂田郡松原館主。通称将次郎。興福寺の庄司。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
松原弥惣右衛門【まつばらよそうえもん(15??~15??)】
六角定頼家臣。坂田郡磯山館主。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
松原善左衛門【まつばらぜんざえもん(15??~16??)】
田中吉政家臣。通称勘兵衛。1600年、「岐阜岐阜城の戦い」で辻重勝 、西脇五右衛門とともに田中吉政に従い石田三成の家臣杉江勘兵衛勢と戦い杉江勘兵衛を討取る戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村定元【みたむらさだもと(14??~15??)】
京極高清家臣。東浅井郡三田村館主。通称左衛門大夫。室は今川定清の娘。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
三田村定頼【みたむらさだより(15??~1573)】
三田村定元の男。通称平兵衛。室は浅井亮政の娘(松市御前)。1525年、「小谷城の戦い」で浅井亮政に従い六角高頼勢と戦い戦功を挙げた。1531年、「箕浦城の戦い」で六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村国定【みたむらくにさだ(15??~1573)】
大野木秀俊の男(三田村定頼の養子)。通称左衛門尉。1570年、大野木秀国、野村直隆とともに横山城を守備した。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で織田信長の家臣羽柴秀吉に内応したが、許されず謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村忠政【みたむらただまさ(14??~15??)】
三田村定頼家臣。通称又四郎。1525年、「小谷城の戦い」で三田村定頼に従い六角高頼勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村直政【みたむらなおまさ(15??~15??)】
三田村忠政の男。通称又四郎。1525年、「小谷城の戦い」で父の三田村忠政とともに浅井亮政に従い六角高頼勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村伊賀守【みたむらいがのかみ(15??~15??)】
三田村定頼家臣。1525年、「小谷城の戦い」で三田村与次郎、三田村彦八、三田村帯刀左衛門、三田村五郎兵衛、三田村八郎兵衛、三田村七郎左衛門とともに六角高頼に内応して浅井亮政、三田村定頼勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村与次郎【みたむらよじろう(15??~15??)】
三田村定頼家臣。1525年、「小谷城の戦い」で三田村伊賀守、三田村彦八、三田村五郎兵衛、三田村八郎兵衛、三田村七郎左衛門とともに六角高頼に内応して浅井亮政、三田村定頼勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村帯刀左衛門【みたむらたてわきざえもん(15??~15??)】
三田村定頼家臣。1525年、「小谷城の戦い」で三田村伊賀守、三田村与次郎、三田村彦八、三田村五郎兵衛、三田村八郎兵衛、三田村七郎左衛門とともに六角高頼に内応して浅井亮政、三田村定頼勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村彦八【みたむらひこはち(15??~15??)】
三田村定頼家臣。1525年、「小谷城の戦い」で三田村伊賀守、三田村与次郎、三田村帯刀左衛門、三田村五郎兵衛、三田村八郎兵衛、三田村七郎左衛門とともに六角高頼に内応して浅井亮政、三田村定頼勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村五郎兵衛【みたむらごろうべい(15??~15??)】
三田村定頼家臣。1525年、「小谷城の戦い」で三田村伊賀守、三田村与次郎、三田村彦八、三田村帯刀左衛門、三田村八郎兵衛、三田村七郎左衛門とともに六角高頼に内応して浅井亮政、三田村定頼勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村八郎兵衛【みたむらはちろうべい(15??~15??)】
三田村定頼家臣。1525年、「小谷城の戦い」で三田村伊賀守、三田村与次郎、三田村彦八、三田村帯刀左衛門、三田村五郎兵衛、三田村七郎左衛門とともに六角高頼に内応して浅井亮政、三田村定頼勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村七郎左衛門【みたむらしちろうざえもん(15??~15??)】
三田村定頼家臣。1525年、「小谷城の戦い」で三田村伊賀守、三田村与次郎、三田村彦八、三田村帯刀左衛門、三田村五郎兵衛、三田村八郎兵衛とともに六角高頼に内応して浅井亮政、三田村定頼勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
三田村太郎右衛門【みたむらたろううえもん(15??~1600)】
宮部継潤家臣。宮部家七人衆。1600年、「関ヶ原の役」で去就を決めかねる宮部長房に石田三成に従うように高坂清兵衛とともに進言した。松平元康の意向を受け自刃した。
宮川右衛門尉【みやかわうえもんのじょう(15??~15??)】
朽木晴綱家臣。家老職を務めた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
宮川頼忠【みやかわよりだた(15??~15??)】
朽木晴綱家臣。1547年、朽木晴綱の代理として田地売券に宮川貞頼、日置貞忠とともに署書した。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
宮川貞頼【みやかわさだより(15??~15??)】
朽木晴綱家臣。1547年、朽木晴綱の代理として宮川頼忠、日置貞忠とともに田地売券に連署した。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
宮川土佐守【みやがわとさのかみ(15??~16??)】
田中吉政家臣。1600年、「美濃長良川の戦い」で田中吉政に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)。
宮川大炊守【みやかわおおいのかみ(15??~1614)】
田中吉政家臣。官途は讃岐守。室は田中重政の娘。筆頭家老職を務めた。1601年、田中吉政に従い筑後柳川城に転封して三潴郡城島館(6,800石)を領した。1614年、田中忠政に諌言を繰り返したため、謀殺された。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宮川才兵衛【みやかわさいべい(15??~16??)】
田中吉政家臣。1601年、田中吉政に従い筑後柳川城に転封して山門郡中島館(6,000石)を領した。1614年、「筑後城島館の戦い」で田中忠政が宮川大炊守を謀殺したため、田中忠政勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宮沢員村【みやざわかずむら(14??~15??)】
磯野員栓家臣。伊香郡宮沢館主。通称忠左衛門。1517年、「山本山館の戦い」で浅井亮政に内応して磯野員栓、磯野為員を討取る戦功を挙げた。継嗣の磯野員宗に磯野家を相続させた。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
宮沢右衛門【みやざわうえもん(15??~15??)】
磯野員昌家臣。参考文献:「お城の旅日記」by中西徹。
宮部継潤【みやべけいじゅん(1528~1599)】
浅井長政家臣。土肥真舜の男(宮部清潤の養子)。官途は中務卿。通称善祥坊。比叡山の僧兵。浅井長政に仕えた。1571年、羽柴秀吉に内応した。1578年、「播磨三木城の戦い」で羽柴秀吉の意向を受け別所長治の補給線を断ち切るため、法界寺山に砦を築い守備した。1580年、但馬豊岡城(20,000石)を領した。「第二次鳥取城の戦い」で羽柴秀吉が留守の間も包囲を続けた。1582年、因幡鳥取城(50,000石)を領した。1586年、「日向高城の戦い」で羽柴秀長の意向を受け島津家久勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1590年、「小田原城の戦い」で羽柴秀吉に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宮部長房【みやべがふさ(1581~1635)】
宮部継潤の男。官途は兵部少輔。別名宮部長煕。1596年、父の宮部継潤が隠居したため、宮部家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」で三河鳴海で去就を決められないまま、松平元康勢の捕縛された。「因幡鳥取城の戦い」で鳥取城留守居役の伊吹三左右衛門が亀井茲矩、斎村政広勢と戦い敗退した。田中吉政に預けられた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宮部宗治【みやべむねはる(15??~15??)】
土肥刑部少輔の男(宮部継潤の養子)。官途は肥前守。1571年、義父の宮部継潤とともに織田信長に内応した。1573年、「刀禰坂の戦い」で朝倉義景の家臣三段崎勘右衛門の頸実検役を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
宮部市兵衛【みやべいちべい(15??~16??)】
宮部継潤家臣。宮部家七人衆。1600年、「関ヶ原の役」で去就を決めかねる宮部長房に石田三成に従うよう進言した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
宮部采女【みやべうねめ(15??~16??)】
宮部継潤家臣。宮部家七人衆。1600年、「関ヶ原の役」で去就を決めかねる宮部長房に石田三成に従うよう進言した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
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【や】
八木元経【やぎもとつね(15??~15??)】
京極高延家臣。浅井郡八木館主。通称与藤次。1544年、「加田口の戦い」で京極高延に従い浅井亮政勢と戦い敗退したため、浅井政亮に仕えた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
柳ヶ瀬重介【やなぎせじゅうすけ(15??~15??)】
伊香郡柳ヶ瀬館主。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
山崎左馬介【やまざきさまのすけ(15??~15??)】
高島郡五番領館主。高島七頭。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、帰農した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
山田清氏【やまだきようじ 15??~15??)】
京極高清家臣。官途は越中守。1523年、「今浜館の戦い」で京極高清、京極高延に従い京極高吉、上坂信光勢と戦い敗退した。京極高清、京極高延に忠義を尽くした。参考資料:「続け!山城探訪」by現役65歳。
山田清頼【やまだきよより(15??~15??)】
山田清氏の男。官途上野介。父の上野清氏とともに京極高清、京極高延に忠義を尽くした。参考資料:「続け!山城探訪」by現役65歳。
山田清良【やまだきよよし(15??~15??)】
上野清頼の男。官途は阿波守。京極高延の家老職を務めた。参考資料:「続け!山城探訪」by現役65歳。
山田清信【やまだきよのぶ(15??~15??)】
上野清頼家臣。通称喜兵衛尉。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、明智光秀に仕えた。参考資料:「続け!山城探訪」by現役65歳。
山田直政【やまだなおまさ(15??~15??)】
上野清頼家臣。坂田郡村居田館主。通称平衛尉。参考資料:「続け!山城探訪」by現役65歳。
山田良利【やまだよしとし(15??~16??)】
京極高次家臣。通称大炊。1600年、「大津城の戦い」で赤尾伊豆守、黒田伊予守とともに京極高次に従い石田光成勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
山中秀国【やまなかひでくに(15??~15??)】
高島郡伊井館主。官途は丹後守。1542年、「蟹ヶ坂の戦い」で高島高賢、新庄実秀とともに六角定頼の意向を受け北畠具教の家臣神戸丹後守、飯高三河守勢と戦い戦功を挙げた。1570年、「伊井館の戦い」で織田信長勢と戦い敗退した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
弓削家澄【ゆげいえずみ(15??~1570)】
京極高延家臣。通称六郎左衛門。1541年、「当目田の戦い」で京極高延が浅井亮政、浅井久政勢と戦い敗退したため、浅井亮政に仕えた。1570年、「姉川の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
万木高成【ゆるぎたかなり(15??~15??)】
高島郡万木館主。官途は能登守。1571年、「比叡山の戦い」で延暦寺山門衆とともに織田信長勢と戦い敗退した。参考文献:『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。
万木貞次【ゆるぎさだつぐ(15??~15??)】
万木高成の孫。通称五郎右衛門。参考資料:『戦国人名事典』by新人物往来社。
横山肥後守【よこやまひごのかみ(14??~15??)】
京極高清家臣。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
横山三河守【よこやまみかわのかみ(14??~15??)】
京極高清家臣。横山高久の男。伊香郡横山館主。官途は掃部頭。高島七頭衆。別名横山家盛。1501年、「今井館の戦い」で上坂家信に従い六角定頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
横山三郎左衛門尉【よこやまさぶろうざえもんのじょう(15??~15??)】
横山三河守の男。官途は和泉守。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
横山久綱【よこやまひさつな(15??~15??)】
横山三郎左衛門尉の男。官途は伊予守。通称宮内少輔。参考文献:「日本列島人物誌」by登美ノ勝成。
横山高長【よこやまたかなが(15??~1572)】
横山久綱の男。官途は佐渡守。1561年、「横山館の戦い」で浅井長政勢と戦い敗退した。1572年、「横山館の戦い」で織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
吉武壱岐守【よしたけいきのかみ(15??~15??)】
饗庭弥太郎の男。高島郡吉武館主。饗庭三坊(西林坊、定林坊、宝光坊)。延暦寺山門領の代官職を務めた。1572年、「高島城の戦い」で織田信長勢と戦い敗退したため、高島三坊は没落した。1582年、「加賀一向一揆の戦い」で加賀一向一揆衆とともに鳥越城主を務めた。1593年、村上頼勝の筆頭家老職を務めた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
吉武法泉坊【よしたけほうぜんぼう(15??~15??)】
饗庭弥太郎の次男。高島郡五十川館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
蓮台寺房盛【れんだいじふさもり(15??~15??)】
浅井久政家臣。犬上郡蓮台時館主。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、没落した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。
若宮友興【わかみやともおき(15??~1566)】
坂田郡若宮館主。官途は左馬助。通称喜助。室は石川小四郎の娘。1566年、「野良田の戦い」で浅井長政に従い六角義賢勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
脇坂秀勝【わきさかひでかつ(15??~1573)】
浅井久政家臣。浅井郡脇坂館主。通称左介。奏者役。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
脇坂安明【わきざかやすあきら(15??~1568)】
脇坂秀勝の男。1568年、「観音寺城の戦い」で六角義賢に従い織田信長勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
渡辺任【わたなべのたもつ(15??~1573)】
阿閉貞征家臣。渡辺孝の男。官途は周防守。通称甚兵衛。1570年、「姉川の戦い」で阿閉貞征に従い織田信長勢と戦い敗退した。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政に従い織田信長勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
渡辺統【わたなべのすぶる(1519~1599)】
渡辺孝の次男。通称甚助。1564年、浅井長政に仕えた。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い滅亡したため、羽柴秀吉に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
渡辺了【わたなべのさとる(1562~1640)】
渡辺任の男。通称の勘兵衛。室は阿閉貞征の娘。1582年、「本能寺の変」で阿閉貞大が明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い滅亡したため、羽柴秀勝に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀勝に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。1586年、羽柴秀勝が病没したため、中村一氏に仕えた。1590年、「伊豆山中城の戦い」で中村一氏に従い北条氏直勢と戦い戦功を挙げた。中村一氏のもとから退去して増田長盛に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で増田長盛が石田三成に従い松平元康勢と戦い改易処分に処されたため、藤堂高虎に仕えた。1615年、「大坂夏の陣」で藤堂高虎に従い長宗我部盛親勢と戦い藤堂高虎勢が壊滅したため、不手際を叱責されて藤堂高虎もとを退去した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
渡辺守【わたなべのまもる(15??~1618)】
渡辺了の男。通称長兵衛。室は藤堂虎高の娘。1590年、父の渡辺了とともに増田長盛に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で増田長盛が松平元康勢と戦い滅亡したため、藤堂高虎に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で藤堂高虎に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「八尾の戦い」で藤堂高虎に従い長宗我部盛親勢を撃退する戦功を挙げた。渡辺了が藤堂高虎のもとから退去した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
渡辺半左衛門【わたなべはんざえもん(15??~15??)】
浅井長政家臣。湖北海賊衆。1573年、「小谷城の戦い」で浅井長政が織田信長勢と戦い討死したため、織田信長に仕えた。1583年、「賤ヶ岳の戦い」で入江小二郎、安用寺猪之助とともに丹羽長秀に従い柴田勝家勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
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【資料Ⅰ】
北近江国(4郡/238,000石)
高島郡:大溝城、朽木館、今津館。
伊香郡:磯野山城、本山城、雨森館、塩津湊。
浅井郡:小谷城。
坂田郡:上平寺城。横山城、佐和山館、今浜館、国友館。
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【資料Ⅱ】
浅井家の四翼【あざいけのよんよく】
磯野員昌、大野木国重、野村定元、三田村秀俊。
海赤雨の三将【かいせきうさんしょう】
海北綱親、赤尾清綱、雨森清貞。
高島七頭衆【たかしましちとうしゅう】
高島高賢、朽木元綱、永田秀宗、平井頼氏、横山高長、田中重政、山崎兵庫頭。
宮部家七人衆【みやべけななにんしゅう】
三田村太郎右衛門、高坂清兵衛、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門。
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【資料Ⅲ】
北近江国【きたおうみのくに】
琵琶湖を望む東山道の国。東は伊吹山地で美濃国、琵琶湖を挟んで南近江国、
坂田郡国友村【くにともむら】
堺と並び称される鉄炮の生産地。国友村では、鉄炮を生産するため、銃身などを作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と称される機関部や各種の金属部品それに銃身や地板等に施す装飾の象嵌等に専門職人が分業制が取られた。
伊香郡塩津湊【しおつみなと】
塩津は琵琶湖の最北端の湊で、古来より今津、海津とともに湖北の三津と並び称せられた。敦賀と大津その他琵琶湖の湊を結ぶ要湊として栄えた。
浅井郡徳勝寺【とくかつじ】
浅井郡徳勝寺。曹洞宗の寺院。1518年、、龍山株源を中興として浅井亮政が山麓に移し、浅井家の菩提寺とした。
湖北十ヶ寺【こほくじゅけじ】
長沢福田寺、箕浦誓願寺、戌亥福勝寺、十里金光寺、榎本浄願寺、上坂順慶寺、上坂授法寺、内保誓願寺、尊勝寺称名寺、益田真宗寺。
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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。
印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。
あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。
名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。
武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に名前を統一しました。
城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。
参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『戦国関東名将列伝』by隋想社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、『武田信玄(全4巻)』by新田次郎、『武田信玄(全2巻)』by津本陽、『武田勝頼(全3巻)』by、『国盗り物語(全4巻)』by新潮文庫、『兵は詭道なり 斎藤道三』by学研M文庫、『ふたり道三(全3巻)』by徳間文庫、『斎藤道三(戦国史記)』by光文社文庫、『浅井長政の決断―賢愚の岐路』by笹沢左保、『浅井長政―信長に反旗を翻した勇将』by星亮一、『浅井長政』by江宮隆之、『甲州武田家臣団』by新人物往来社、『江州佐々木南北諸士帳』by滋賀県教育委員会。「お城の旅日記」by中西徹、「戦国大名探究」by播磨屋、「くらのすけ屋敷」byくらのすけ(蔵屑斎)、「美須麻流之珠」by立花利康、「城郭放浪記」byPEI.、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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