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戦国山城国人名辞典

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【あ】

安威藤治【あいとうじ(15??~15??)】

足利義昭家臣。官途は兵部少輔。洗礼名「シモン」。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭が敗退したため、羽柴秀吉に仕え馬廻衆を務めた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

赤塚新右衛門尉【あかつかしんざえもんのじょう(15??~15??)】

寺本直勝家臣。1569年、「本圀寺の戦い」で寺本直勝に従い三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

赤塚家清【あかつかいえきよ(15??~15??)】

宇治郡赤塚館主。1558年、「赤塚館の戦い」で三好長慶に従い足利義輝勢と戦い戦功を挙げた。松永久秀に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

朝日新三郎【あさひしんざぶろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義澄【あしかがよしずみ(1479~1511)】

葛野郡二条城主。足利政知の男(足利義政の養子)。官途は征夷大将軍。通称右馬頭。別名「阿波御所」。1493年、「明応の政変」で細川政元、日野富子、伊勢貞宗が足利義材を将軍職から追落として将軍職に就任した。1507年、「永正の錯乱」で細川高国、大内義興、畠山尚順勢と戦い六角高頼のもとに落延びた。1511年、「船岡山の戦い」で足利義尹、細川高国、大内義興勢と戦い敗退したため、水茎岡山館に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義晴【あしかがよしはる(1511~1550)】

足利義澄の男。官途は左馬頭。室は近衛尚通の娘(慶寿院)。側室は大舘常興の娘。1507年、「永正の錯乱」で父の足利義澄が大内義興勢と戦い落延びた。1521年、細川高国に将軍職に擁立された。1528年、足利義維を擁する三好元長に将軍職を追われて朽木稙綱のもとに落延びた。1542年、「河内大平寺の戦い」で木沢長政勢と戦い戦功を挙げた。1546年、細川晴元と対立して家督を足利義輝に足利家の家督を譲った。1546年、細川家綱に内応して細川晴元に対抗した。六角定頼、池田長正が足利義晴勢から離反したため、近江国坂本へ落延びた。細川晴元と和議を結び帰京した。1549年、三好長慶に京都を追われ細川晴元、足利義輝とともに近江国に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義維【あしかがよしつな(1509~1573)】

足利義澄の次男(足利義稙の猶子)。官途は左馬頭。1527年、三好元長と結び足利義晴を追放したが将軍職を継承を果たせず和泉堺に滞在した。六角定頼との対立して堺で奉書を発給した。1531年、細川晴元が三好元長を謀殺したため、堺から淡路国に落延びた。1534年、細川持隆の支援を受け阿波平島館(2,000石)を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義輝【あしかがよしてる(1536~1565)】

足利義晴の男(近衛尚通の猶子)。官途は左馬頭。別名「剣豪将軍」。室は近衛稙家の娘。1546年、将軍職に擁立された。1549年、「摂津江口の戦い」で細川晴元とともに三好長慶勢と戦い近江国に落延びた。1550年、「中尾館の戦い」で細川晴元、六角定頼とともに三好長慶勢と戦い近江国に落延びた。1552年、三好長慶と和議を結び帰京した。1553年、「霊山館の戦い」で細川晴元とともに三好長慶勢と戦い朽木元綱のもとに落延びた。1558年、「北白川の戦い」で細川晴元とともに三好長慶、三好長逸、松永久秀勢と戦い敗退した。三好長慶と和議を結び帰京した。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。辞世の句は「五月雨は 露か涙か時鳥 わが名をあげよ雲の上まで」。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義昭【あしかがよしあき(1537~1597)】

足利義晴の次男。官途は左馬頭。別名「乗院覚慶」。1565年、「永禄の変」で兄の足利義輝が松永久秀、三好三人衆と戦い討死したため、足利義昭も幽閉された。細川藤孝、和田惟政らに救出され越前国に落延びた。1568年、織田信長の支援を受け足利義栄を追い落として征夷大将軍職を務めた。1570年、「御内書」を各地の諸大名に送り、反織田信長勢力の結集を図った。1573年、武田晴信が病没したため、畿内の反織田信長勢力の中心であった浅井長政、朝倉義景も苦境に陥り包囲網は崩壊した。「槙島城の戦い」で織田信長勢と戦い滅亡した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利周暠【あしかがしゅうこう(15??~1565)】

足利義晴の三男。相国寺の塔頭鹿苑院の院主を務めた。1565年、「永禄の変」で兄の足利義輝が三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死したため、平田和泉守に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義高【あしかがよしたか(1563~1624)】

足利義輝の男。1565年、「永禄の変」で父の足利義輝が1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死したため、丹波国に落延びた。波多野秀治の保護を受け京都で修行を積み、丹波国篠山で誓願寺を建立した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

足利義尋【あしかがぎじん(1572~1605)】

足利義昭の男。別名「大乗院義尋」。室は古市胤栄の娘(胤子)。1573年、「槇島城の戦い」で父の足利義昭が織田信長勢と戦い敗退したため、人質として織田信長のもとに赴いた。興福寺の大僧正(大乗院門跡)を務めた。古市胤子を内室に迎えた。実相院門跡、円満院門跡をもうけた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

粟津甚三郎【あわつじんざぶろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒川澄宣【あらかわすみのぶ(1481~1511)】

足利義澄家臣。奉公衆。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒川晴宣【あらかわはるのぶ(1511~1565)】

荒川澄宣の男。官途は治部少輔。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒川輝宗【あらかわてるむね(1536~1565)】

荒川晴宣の男。官途は刑部少輔。1565年、「永禄の変」で父の荒川晴宣とともに足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒川珍国【あらかわうずくに(1509~1573)】

足利義維家臣。通称民部。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

荒木遠江守【あらきとうとうみのかみ(14??~1486)】

椿井政里家臣。1486年、「大和椿井館の戦い」で椿井政里に従い筒井順尊の家臣島友保勢と戦い討死した。参考文献:「城旅人」by高田哲哉。

有馬源二郎【ありまげんじろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

飯尾貞遥【いいおさだはる(15??~15??)】

足利義昭家臣。官途は右馬助。別名飯尾昭連。幕府奉行衆。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、備後鞆津浦に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

飯尾為忠【いいおためただ(15??~15??)】

足利義昭家臣。奉行衆。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、備後鞆津に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

飯河信堅【いいかわのぶかた(15??~1565)】

足利義輝家臣。官途は肥後守。室は沼田光兼の娘(次女)。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死したため、足利義昭に仕えた。細川藤孝、一色藤長とともに京都清水寺に禁制を発した。1573年、織田信長、足利義昭が和議の誓紙に連署した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

飯田左吉【いいださきち(15??~1565)】 

足利義輝家臣。通称右兵衛尉。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

尾池義辰【いけおよしたつ(15??~15??)】

足利義輝の男(池尾光永の養子)。官途は玄蕃。1565年、「永禄の変」で足利義輝が三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死したため、小早川外記、吉川斎宮とともに尾池光永のもとに落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊勢貞忠【いせさだただ(1483~1535)】

足利義澄家臣。伊勢貞陸の男。官途は伊勢守。通称七郎。1498年、幕府政所執事職を務めた。1508年、足利義稙の御供衆を務めた。1521年、足利義晴に仕えた。幕府の勘定奉行職と公事奉行職を務めた。著書に『伊勢守貞忠亭御成記』。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊勢貞孝【いせさだたか(15??~1562)】

伊勢貞辰の男(伊勢貞忠の養子)。通称又三郎。1535年、幕府政所執事職を務めた。1546年、足利義輝を補佐した。1549年、「摂津江口の戦い」で足利義輝、細川晴元が三好長慶勢と戦い近江国に落延びたため、三好長慶に仕えた。松永久秀とともに洛中を掌握した。1558年、「北白川の戦い」で足利義輝、細川晴元が三好長慶、三好長逸、松永久秀勢と戦い敗退した。1562年、「河内教興寺の戦い」で畠山高政に従い松永久秀、三好義興勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊勢貞良【いせさだよし(15??~1562)】

伊勢貞孝の男。1562年、「河内教興寺の戦い」で父の伊勢貞孝とともに畠山高政に従い松永久秀、三好義興勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

伊勢貞為【いせさだため(1559~1609)】

伊勢貞良の男。官途は兵庫頭。1562年、「河内教興寺の戦い」で祖父の伊勢貞孝、父の伊勢貞良が畠山高政に従い三好長慶勢と戦い討死したため、若狭小浜城で養育された。足利義昭に仕えた。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、織田信長に仕えた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

伊勢貞興【いせさだおき(1561~1582)】

伊勢貞良の次男。官途は伊勢守。通称与三郎。室は明智光秀の娘。1568年、足利義昭に仕えた。足利義昭と織田信長が対立したため、三淵藤英とともに二条城を守備した。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、織田信長に仕えた。1582年、「山城山崎の戦い」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い討死した。著書に『伊勢貞興返答書』。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

一色晴具【いっしきはるとも(15??~1549)】

足利義政家臣。一色政具の男。官途は播磨守。娘が足利義晴に嫁いだ。1549年、喧嘩に撒きこまれ負傷した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一色藤長【いっしきふじなが(15??~1596)】

一色晴具の男。官途は式部少輔。通称七郎。室は彦部晴直の姉。1565年、「永禄の変」で足利義輝が松永久秀、三好三人衆と戦い討死したため、細川藤孝とともに足利義昭に仕えた。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、備後鞆津浦に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一色範勝【いっしきのりかつ(15??~16??)】

一色藤長の男。官途は式部少輔。通称左兵衛。1611年、細川藤孝に寄食した。松平元康に仕えた。1616年、駿河駿府城で天皇の勅使の饗応役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一色秀勝【いっしきひでかつ(15??~15??)】

一色晴具の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一色在通【いつしきありみち(15??~1615)】

足利義昭家臣。唐橋在数の次男。官途は駿河守。別名一色昭孝。1573年、「槙島城の戦い」で足利義昭が織田信長勢と戦い敗退したため、松平元康に仕えた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

一色民部大輔【いつしきみんぶだゆう(15??~15??)】

足利義昭家臣。1573年、「槙島城の戦い」で足利義昭が織田信長勢と戦い敗退したため、羽柴秀吉に仕えた。1597年、河内国錦部郡内で312石を領した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

一色輝喜【いっしきてるよし(15??~1565)】 

足利義輝家臣。官途は淡路守。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

一色秋成【いっしきあきなり(15??~1565)】

足利義輝家臣。通称又三郎。御部屋衆。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い松永久秀、三好三人衆と戦い討死した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

今中光安【いまなかみつやす(15??~16??)】

足利義昭家臣。綴喜郡普賢寺館主。通称勘右衛門。1573年、「普賢寺館の戦い」で織田信長勢と戦い敗退した。1577年、浅野長政に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で浅野長政に従い石田三成勢と戦い戦功を挙げた。1614年、「大坂冬の陣」で浅野長晟の意向を受け和歌山城留守居役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

今村浄久【いまむらきよひさ(15??~15??)】

細川高国家臣。山城国の流通問屋。渋谷越を支配した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

今村慶満【いまむらよしみつ(15??~1562)】 

今村浄久の男。官途は紀伊守。通称源介。津田経長、小泉秀清とともに細川国慶に仕えた。1547年、「大将軍の戦い」で細川国慶が細川晴元勢と戦い討死したため、細川氏綱に仕えた。1550年、「摂津伊丹城の戦い」で小泉秀清とともに三好長慶に従い細川晴元勢と戦い戦功を挙げた。1553年、「東山霊山館の戦い」で三好長慶に従い足利義輝、細川晴元、松田監物、磯貝久次、内藤彦七勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

今村政次【いまむらまさつぐ(15??~1545)】

今村浄久の次男。波多野秀忠に仕えた。1545年、兄の今村慶満に内応したため、波多野秀忠に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

今村一慶【いまむらかずよし(15??~1566)】

今村慶満の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上野輝清【うえのてるきよ(15??~1565)】

足利義輝家臣。官途は兵部少輔。御伴衆。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上野与八郎【うえのよはちろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上野信孝【うえののぶたか(15??~1563)】

足利義稙家臣。上野尚長の男。官途は民部大輔。足利義稙の意向を受け備中鬼邑山城主を務めた。二階堂政行、伊勢貞信とともに足利義稙を支援した。上野高直が鬼邑山城を領した。上野頼久が備中松山城を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

上野清信【うえのきよのぶ(15??~15??)】

上野信孝の男。官途は中務少輔。1568年、足利義昭に仕えた。1573年、「槙島城の戦い」で足利義昭が織田信長勢と戦い敗退したため、織田信長に仕えた。織田信長、武田晴信の和平交渉に赴いた。1582年、羽柴秀吉に仕えた。1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に従い肥前名護屋城を守備した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

梅津隼人【うめつはやと(15??~15??)】 

葛野郡梅津館主。1561年、「桂川の戦い」で三好長慶に従い籾井教業勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

海老名頼雄【えびなよりたか(15??~15??)】

摂津元造の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大住民部【おおずみみんぶ(14??~1486)】

椿井政里家臣。1486年、「大和椿井館の戦い」で椿井政里に従い筒井順尊の家臣島友保勢と戦い討死した。参考文献:「城旅人」by高田哲哉。

大館尚氏【おおだてひさうじ(1454~1546)】

足利義政家臣。大館教氏の男。官途は伊予守。通称は十郎。室は山名豊之の娘。1463年、父の大館教氏が病没したため、大館家の家督を相続した。祖父の大舘持房の後見を受け足利義政に仕えた。1469年、二階堂政行、結城政胤とともに足利義尚の御供衆、申次衆を務めた。1489年、「六角家征伐」で足利義尚が陣中で病没したため、殿を務め六角定頼勢の反撃を食い止めた。二階堂政行、結城政胤とともに連座して失脚した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大館晴光【おおだてはるみつ(15??~1565)】

大館尚氏の男。官途は陸奥守。取次役を務めた。1540年、足利義晴の書状を大友義鎮に送付した。長尾景虎、武田晴信、北条氏康の和議をまとめ、長尾景虎のもとに赴いた。1550年、足利義晴が病没したため、出家した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

大館岩千代丸【おおだていわちよまる(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小笠原種盛【おがさわらたねもり(15??~1565)】

足利義輝家臣。官途は備前守。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小笠原秀清【おがさわらひできよ(15??~1600)】

小笠原種盛の男。官途は備前守。別名小笠原少斎。室は北野天満宮祠官の娘。1565年、「永禄の変」で父の小笠原種盛が足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死したため、細川藤孝に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で細川忠興が松平元康に従い関東に赴いたため、河北一成、稲富祐直とともに大坂屋敷留守役を務めた。石田三成勢に屋敷を囲まれ、珠子(細川忠興の室)が自害しため、屋敷に火をかけ河北一成とともに自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

奥田景弘【おくだかげひろ(15??~1582)】

宇治郡宇治館主。通称清三郎。別名奥田景広。1582年、「山崎の戦い」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

御牧益景【おまきますかげ(15??~15??)】

久世郡御牧館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

御牧景重【おまきかげしげ(15??~1582)】

御牧益景の男。通称三左衛門。別名御牧兼重。1577年、「大和片岡館の戦い」で細川藤孝に従い松永久秀の家臣森秀光、海老名勝正勢と戦い森秀光を討取る戦功を挙げた。1582年、「山城山崎の戦い」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

御牧景則【おまきかげのり(15??~1600)】

御牧益景の次男。通称勘兵衛。1582年、「山城山崎の戦い」で兄の御牧景重とともに明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。羽柴秀吉に仕えた。検地奉行職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。

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【か】

鶏冠井雅盛【かいでまさもり(14??~15??)】 

乙訓郡鶏冠井館主。西岡被官衆。1487年、物集女光重、神足友善、野田泰忠とともに乙訓惣国一揆を結び細川政元に対抗した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

鶏冠井政益【かいでまさます(15??~15??)】 

鶏冠井雅盛の男。1527年、「桂川原の戦い」で竹内為信、竹田仲広とともに細川晴元に従い細川高国、神足友善、高橋俊長、物集女光重勢と戦い戦功を挙げた。1565年、「革島館の戦い」で岩成友通に従い革島一宣を丹波国に追落した。革島館を領した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

鶏冠井孫六【かいでまごろく(15??~15??)】 

鶏冠井政益の男。1568年、「革島館の戦い」で織田信長、足利義昭、革島一宣勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

神足友善【かみあしともよし(14??~15??)】 

乙訓郡神足館主。西岡被官衆。1487年、鶏冠井雅盛、物集女光重、神足友善、野田泰忠とともに乙訓惣国一揆を結び細川政元に対抗した。1527年、「桂川原の戦い」で高橋俊長、物集女光重とともに細川高国に従い細川晴元、鶏冠井政益、竹内為信、竹田仲広勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

神足春治【かみあしはるじ(15??~15??)】 

神足友善の男。通称孫左衛門尉。1568年、織田信長の家臣細川藤孝に従い寄騎衆を務めた。1571年、神足館が勝龍寺城の北西の曲輪として組み込まれた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

革島就宣【かわしまなりのぶ(14??~1534)】

葛野郡革島館主。西岡被官衆。参考文献:『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書。

革島一宣【かわしまかずのぶ(1509~1581)】

革島就宣の男。官途は越前守。通称新五郎。1534年、父の革島就宣が病没したため、革島家の家督を相続した。1565年、「革島館の戦い」で岩成友通、鶏冠井政益勢と戦い丹波国に落延びた。1568年、「革島館の戦い」で織田信長に従い鶏冠井孫六勢と戦い戦功を挙げた。1572年、細川藤孝の寄騎衆を務めた。1573年、「淀城の戦い」で細川藤孝に従い岩成友通勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書。

革島秀存【かわしまひでまさ(1528~1582)】

革島一宣の男。通称市介。室は滝川一益の娘。1574年、父の革島一宣が隠居したため、革島家の家督を相続した。織田信長に所領を安堵された。参考文献:『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書。

革島忠宣【かわしまただのぶ(15??~1618)】

革島一宣の次男。官途は刑部丞。1570年、「第一次越前討伐」で織田信長に従い朝倉義景勢と戦い敗退した。1573年、「近江木戸館の戦い」で明智光秀に従い朝倉義景勢と戦い左足に銃撃を受けて負傷した。1582年、兄の革島秀存が病没したため、革島家の家督を相続した。参考文献:『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書。

木澤因幡守【きざわいなばのかみ(14??~15??)】

椿井政里家臣。1486年、「大和椿井館の戦い」で椿井政里に従い筒井順尊の家臣島友保勢と戦い島友保を討取る戦功を挙げた。参考文献:「城旅人」by高田哲哉。

木村小四郎【きむらこしろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

楠木正虎【くすのきまさとら(1520~1596)】

足利義輝家臣。官途は河内守。別名大饗長左衛門。書を飯尾常房に学び、世尊寺流の当代一流の書家。足利義輝の右筆を務めた。1559年、正親町天皇の勅免を受け楠木正虎と称した。1575年、松井友閑とともに佐久間信盛の目付役を務めた。1592年、「文禄の役」で石田正継とともに肥前名護屋城で羽柴秀吉の右筆を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

久世弘成【くぜひろなり(14??~15??)】 

久世郡下久世館主。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

久世弘之【くぜひろゆき(14??~15??)】 

久世弘成の男。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

久世弘文【くぜひろふみ(14??~15??)】 

久世弘之の男。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

小泉秀清【こいずみひできよ(15??~15??)】 

葛野郡小泉館主。通称三郎兵衛。西岡被官衆。1549年、「摂津江口の戦い」で三好長慶に従い細川晴元勢と戦い戦功を挙げた。1553年、「小泉館の戦い」で三好長慶勢の支援を受け足利義輝勢を撃退する戦功を挙げた。1564年、三好長慶が病没したため、松永久秀に仕えた。1566年、「小泉館の戦い」で中路修理とともに三好三人衆と戦い近江大津に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小泉島介【こいずみしますけ(15??~15??)】 

小泉秀清の男。1568年、「小泉館の戦い」で三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い敗退した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

高師宣【こうのもろのぶ(15??~1565)】 

高師繁の養子。官途は伊予守。御小袖御番衆。1565年、「永禄の変」で父の小笠原種盛が足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

郡山越中守【こうりやまえっちゅうのかみ(14??~15??)】

椿井政里家臣。1486年、「大和椿井館の戦い」で椿井政里に従い筒井順尊の家臣島友保勢と戦い島友保を討取る戦功を挙げた。参考文献:「城旅人」by高田哲哉。

小林左京亮【こばやしさきょうのじょう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

小林家孝【こばやしいえたか(15??~15??)】

足利義昭家臣。1576年、足利義昭の意向を受け荒木村重との取次役を務めた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

狛秀道【こまひでみち(15??~15??)】

相楽郡狛館主。狛賢武の男。官途は治部大輔。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

狛元綱【こまもとつな(15??~15??)】

狛秀道の男。官途は修理進。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

狛易綱【こまへきつな(15??~15??)】

狛秀道の次男。通称孫市。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

狛綱吉【こまつなよし(15??~15??)】

狛元綱の男。官途は左京亮。別名狛秀綱。1572年、織田信長に従い所領を安堵された。1574年、織田信長の家臣塙直政に仕えた。1582年、「本能寺の変」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

狛実綱【こまさねつな(15??~15??)】

狛元綱の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

巨勢兵庫【こまひょうご(14??~1486)】

椿井政里家臣。1486年、「大和椿井館の戦い」で椿井政里に従い筒井順尊の家臣島友保勢と戦い討死した。参考文献:「城旅人」by高田哲哉。

小森左京進【こもりさきょうのしん(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

近藤半助【こんどうはんすけ(15??~1582)】

伊勢貞興家臣。鉄炮大将を務めた。1582年、「山城山崎の戦い」でい明智光秀に属した伊勢貞興に従い羽柴秀吉の家臣加藤清正勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【さ】

佐竹宗実【さたけむねざね(15??~1590)】

愛宕郡高野館主。官途は出羽守。室は吉田兼見夫人の妹。1579年、「丹波八上城の戦い」で明智光秀に従い波多野秀治勢と戦い負傷した。1582年、「本能寺の変」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い捕縛された。丹羽長秀に仕えた。1587年、「九州征伐」で羽柴秀吉に従い島津義久勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
佐竹近充【さたけちかとし(15??~15??)】

佐竹宗実の次弟。1579年、「丹波八上城の戦い」で明智光秀に従い波多野秀治勢と戦い負傷した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

佐竹称吉【さたけむねよし(15??~15??)】

佐竹宗実の三弟。1582年、挨拶のため坂本城を訪れた吉田兼見を歓待した。明智光秀との取次役を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

四手井家保【していいえやす(15??~15??)】

宇治郡四手井館主。官途は伊賀守。通称左衛門尉。1558年、「四手井館の戦い」で三好長慶に従い足利義輝勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

四手井家武【していいえたけ(15??~1582)】

四手井家保家臣。1582年、「山城山崎の戦い」でい明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

治部藤通【じぶふじみち(15??~1565)】 

足利義輝家臣。通称三郎左衛門。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

下津一通【しもづかずみち(15??~1577)】

葛野郡下津館主。通称権内。西岡被官衆の筆頭。1573年、「淀城の戦い」で細川藤孝に従い岩成友通勢と戦い岩成友通を討取る戦功を挙げた。1577年、「和泉淡輪館の戦い」で細川藤孝に従い一向一揆衆と戦い一番槍の戦功を挙げた。「大和片岡館の戦い」で細川藤孝に従い松永久秀の家臣森秀光、海老名勝正勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

白神果春【しらがかしゅん(15??~1576)】

白神友芳の男。官途は右京亮。北面武士。天皇家を守護した。1509年、足利義稙の意向を受け上野信孝とともに備中国に遣わされ、上野信孝は鬼邑山館主、白神果春は馬入堂山館主を務めた。1540年、石清水八幡宮を勧請した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

白神帯刀【しらがみたてわき(15??~1609)】

白神果春の男。官途は右京進。1583年、羽柴秀吉の家臣伊東長実に仕えた。1607年、伊東長実の家臣千石定盛に仕えた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

白神盛吉【しらがみもりよし(15??~15??)】

白神帯刀の男。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

荘村安芸守【しょうむらあきのかみ(15??~1578)】

足利義昭家臣。相楽郡木津館主。1575年、「第二次越前討伐」で織田信長に従い朝倉義景勢と戦い戦功を挙げた。1578年、「木津館の戦い」で織田信長勢と戦い滅亡した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

進士賢光【しんしたかみつ(15??~1551)】

足利義輝家臣。通称九郎。1546年、足利義輝の元服式の台所奉行職を務めた。1549年、「摂津江口の戦い」で足利義輝、細川晴元が三好長慶勢と戦い近江国に落延びたため、伊勢貞孝とともに三好長慶に仕えた。1551年、三好長慶の謀殺に失敗して自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

進士晴舎【しんしはるいえ(15??~1565)】

足利義輝家臣。官途は美作守。御走衆。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い松永久秀、三好三人衆と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

進士藤延【しんしふじのぶ(15??~1565)】

進士晴舎の男。官途は主馬頭。1565年、「永禄の変」で父の進士晴舎とともに足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

杉原長盛【すぎはらながもり(15??~1569)】

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死したため、足利義昭に仕えた。1569年、自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

杉原晴盛【すぎはらはるもえり(15??~1565)】 

足利義輝家臣。官途は兵庫助。御走衆。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

諏訪俊秀【すわとしひで(15??~15??)】

足利義昭家臣。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

摂津元造【せっつもとぞう(15??~1562)】

足利義晴家臣。別名摂津元親。娘の春日局(日野晴光の室)が足利義輝の乳母を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

摂津晴門【せっつはるかど(15??~15??)】

摂津元造の男。官途は中務大輔。1562年、父の摂津元造が病没したため、摂津家の家督を相続した。1564年、伊勢貞孝、伊勢貞良が松永久秀に謀殺されたため、政所執事職を務めた。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い敗退した。1568年、足利義昭の政所執事を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

摂津糸千代丸【せっついとちよまる(1540~1556)】

摂津晴門の男。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

曾我元助【そがもとすけ(15??~15??)】

足利義晴家臣。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

曾我助乗【そがすけのり(15??~15??)】

曾我元助の男。官途は兵庫頭。通称又次郎。室は沼田常陸介の娘。1569年、足利義昭に仕えた。1573年。「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、備後国鞆津浦に落延びた。羽柴秀吉に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

曾我尚助【そがなおすけ(1558~1626)】

曾我助乗の男。官途は兵庫頭。通称又六郎。室は滝川雄利の娘。1573年。「槇島城の戦い」で父の曾我助乗が足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、織田信雄に仕えた。1590年、織田信雄が改易処分に処されたため、羽柴秀次に仕えた。1595年、「羽柴秀次事件」で羽柴秀次が自刃したため、近江土山で蟄居した。伊勢飯野郡で400石を領した。1600年、松平元康に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

曾我古祐【そがひさすけ(1586~1658)】

曾我尚助の男。官途は丹波守。通称又左衛門。室は小笠原長房の娘。父の曾我尚祐とともに松平秀忠に仕えた。1614年、「大坂冬の陣」で松平秀忠に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。1626年、父の曾我尚助が病没したため、曾我家の家督を相続した。1634年、久貝正俊とともに坂西町奉行職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

曾我俊助【そがとしすけ(15??~15??)】

曾我尚助の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

曾我包助【そがのりすけ(15??~15??)】

曾我尚助の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

曾我晴助【そがはるすけ(15??~15??)】

足利義昭家臣。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【た】

高木右近【たかぎうこん(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

高橋俊長【たかはしとしなが(14??~15??)】 

西岡被官衆。通称勘解由左衛門。1483年、妙見宮に棟札を奉納した。1527年、「桂川原の戦い」で神足友善、物集女光重とともに細川高国に従い細川晴元、鶏冠井政益、竹内為信、竹田仲広勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

若狭武田信景【たけだのぶかげ(15??~1582)】

足利義昭家臣。武田信豊の次男。官途は右衛門佐。1566年、兄の武田義統の意向を受け足利義昭に仕えた。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭が織田信長勢と戦い敗退したため、備後国鞆津浦に落延びた。1582年、「武田家討伐」で六角義定とともに織田信長、松平元康勢と戦い恵林寺で討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

若狭武田輝信【たけだてるのぶ(15??~1565)】 

足利義輝家臣。官途は左兵衛尉。別名武田藤信。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹内為信【たけうちためのぶ(15??~15??)】 

西岡被官衆。1527年、「桂川原の戦い」で鶏冠井政益、竹田仲広とともに細川晴元に従い細川高国、神足友善、高橋俊長、物集女光重勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

竹田仲重【たけたなかしげ(14??~15??)】

乙訓郡竹田館主。西岡被官衆。1487年、鶏冠井雅盛、物集女光重、神足友善、野田泰忠とともに乙訓惣国一揆を結び細川政元に対抗した。参考文献:『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書。

竹田仲広【たけたなかひろ(15??~15??)】

竹田仲重家臣。1527年、「桂川原の戦い」で鶏冠井政益、竹内為信とともに細川晴元に従い細川高国、神足友善、高橋俊長、物集女光重勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書。

竹田孫七【たけだまごしち(15??~15??)】

竹田仲重家臣。細川政元を謀殺した。参考文献:『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書。

竹田又六【たけたまろく(15??~15??)】

竹田仲重家臣。参考文献:『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書。

山城伊達弘季【だてひろすえ(15??~15??)】

足利義晴家臣。葛野郡嵐山館主。伊達弘忠の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山城伊達正隆【だてまさたか(15??~15??)】

伊達弘季の男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

谷田民部丞【たにたみんぶのじょう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村刑部大輔【たむらぎょうぶだいふ(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

田村勘三郎【たむらかんざぶろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

調子武吉【ちょうふたけよし(15??~15??)】

相楽郡調子館主。通称式部丞。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

築山市正【つきやまいちのじょう(15??~15??)】

乙訓郡水垂館主。西岡被官衆。1568年、「勝龍寺城の戦い」で細川藤孝に従い岩成友通勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『織田信長家臣人名辞典』by吉川弘文館。

築山俊方【つきやまとしかた(15??~15??)】

築山市正の男。通称弥十郎。1573年、「淀城の戦い」で細川藤孝に従い下津一通とともに岩成友通を討取る戦功を挙げた。蔵米(30石)を給された。参考文献:『織田信長家臣人名辞典』by吉川弘文館。

椿井政里【つばいまさざと(14??~1486)】

相楽郡椿井館主。官途は越前守。別名「懐専」。1486年、「大和椿井館の戦い」で筒井順尊の家臣島友保勢と戦い討死した。参考文献:「城旅人」by高田哲哉。

椿井政勝【つばいまさかつ(14??~1568)】

官途は三河守。通称又六郎。参考文献:『織田信長家臣人名辞典』by吉川弘文館。

椿井定房【つばいさだふさ(1529~1615)】

椿井政勝の男。官途は三河守。通称一郎。別名椿井政定。1568年、織田信長に仕えた。1584年、「小牧、長久手の戦い」で甥の椿井政長とともに織田信雄に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退した。参考文献:『織田信長家臣人名辞典』by吉川弘文館。

椿井政勝【つばいまさかつ(15??~1568)】

椿井政勝(同名)の次男。参考文献:『織田信長家臣人名辞典』by吉川弘文館。

椿井政吉【つばいまさよし(15??~1612)】

椿井政勝の三男。官途は越前守。1562年、「河内教興寺の戦い」で三好義興に従い畠山高政勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

椿井政長【つばいまさなが(1548~1631)】

椿井定房の男。通称喜右衛門。1567年、織田信長に仕えた。1584年、「小牧、長久手の役」で織田信雄に従い椿井館を守備した。羽柴秀吉に椿井館を追われた。参考文献:『織田信長家臣人名辞典』by吉川弘文館。

椿井政次【つばいまさつぐ(15??~16??)】

椿井政長の男。松平秀長に仕えた。参考文献:『織田信長家臣人名辞典』by吉川弘文館。

寺本直勝【てらもとなおかつ(15??~1569)】

足利義輝家臣。1568年、足利義昭に仕えた。1569年、「本圀寺の戦い」で足利義昭に従い三好三人衆と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

寺本忠時【てらもとただとき(15??~15??)】

寺本直勝の男。通称内蔵助。別名寺本忠吉。浅野長吉に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

寺本政久【てらもとまさひさ(15??~15??)】

寺本直勝の次男。1569年、「本圀寺の戦い」で父の寺本直勝が足利義昭に従い三好三人衆と戦い討死したため、浅野長政に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

寺元直寿【てらもとなおひさ(15??~15??)】

寺本直勝の弟。1569年、「本圀寺の戦い」で兄の寺本直勝が足利義昭に従い三好三人衆と戦い討死したため、浅野長政に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

友岡彦右衛門【ともおかひこざえもん(15??~15??)】

相楽郡友岡館主。西岡被官衆。1591年、神足助四郎から書状を受け取った。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

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【な】

中井助左衛門尉【なかいすけざえもんのじょう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中小路宗数【なかこうじむねかず(14??~15??)】

乙訓郡開田館主。西岡被官衆。長岡天満宮司職を務めた。1470年、「開田館の戦い」で山名政豊勢と戦い敗退した。1498年、開田天満宮の社殿を造立した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

中小路宗綱【なかこうじむねつな(14??~15??)】

中小路宗数の男。官途は山城守。1538年、開田天満宮に『太政威徳天縁起絵巻』を奉納した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

中小路宗房【なかこうじむねふさ(15??~15??)】

中小路宗綱の男。官途は山城守。1552年、「開田館の戦い」で三好長慶勢と戦い敗退した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

中小路宗俊【なかこうじむねとし(15??~15??)】

中小路宗房の男。1598年、「慶長地震」で倒壊した長岡天満宮の造営に尽力した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

長沢市介【ながさわいちすけ(15??~1573)】

大原野神社社務。足利義昭に仕えた。1573年、織田信長に内応したため、足利義昭に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中沢光俊【ながざわみつとし(15??~15??)】

足利義昭家臣。官途は備前守。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中沢元綱【ながざわもとつな(14??~1508)】

足利義稙家臣。1508年、「福徳貴寺の戦い」で波多野稙通に内応した波々伯部大和守、波々伯部民部丞勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

中路光降【なかじみつたか(15??~15??)】 

葛野郡桂館主。官途は壱岐守。1549年、極楽寺を建立した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

中路修理【なかじしゅり(15??~15??)】 

葛野郡郡館主。1566年、「郡館の戦い」で小泉秀清とともに三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い近江大津に落延びた。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

長洲兵庫【ながすひょうご(15??~15??)】

西岡被官衆。1573年、「淀城の戦い」で細川藤孝に従い岩成友通勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

仁木輝綱【にきてるつな(15??~1565)】 

足利義輝家臣。官途は兵部丞。別名河端輝綱。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

西面左馬允【にしおもてさまのじょう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

西川新右衛門尉【にしかわしんうえもんのじょう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

二宮弥三郎【にのみやよさぶろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

沼田光長【ぬまたみつなが(15??~1565)】 

足利義輝家臣。官途は上野介。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

今里能勢頼弘【のせよりひろ(14??~1467)】 

足利義政家臣。乙訓郡今里館主。奉公衆。通称源左衛門尉。1467年、「油小路の戦い」で細川勝元に従い山名持豊勢と戦い討死した。参考文献:『戦国時代と物集女城』by図書出版 文理閣。

今里能勢頼満【のせよりみつ(14??~1467)】 

能勢頼弘の男。1467年、「油小路の戦い」で父の能勢頼弘とともに細川勝元に従い山名持豊勢と戦い討死した。参考文献:『戦国時代と物集女城』by図書出版 文理閣。

今里能勢頼弘【のせよりひろ(14??~15??)】 

能勢頼弘の次男(父と同名)。通称新右衛門。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

今里能勢賢頼【のせよりひろ(15??~15??)】 

能勢頼弘の男。通称三郎左衛門尉。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

今里能勢頼行【のせよりゆき(15??~15??)】 

能勢賢頼の男。通称但馬守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

今里能勢頼実【のせよりざね(15??~15??)】

能勢頼行の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

今里能勢頼広【のせよりひろ(15??~1573)】 

能勢光頼の次男。官途は美作守。1573年、「二条城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:『戦国時代と物集女城』by図書出版 文理閣。

今里能勢頼直【のせよりなお(15??~15??)】 

能勢頼広の男。通称右衛門尉。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

野田泰忠【のだやすただ(14??~15??)】 

乙訓郡寺戸館主。1468年、「鶏冠井館の戦い」で西岡衆とともに細川勝元、畠山義就勢と戦い丹波国に落延びた。1487年、鶏冠井雅盛、物集女光重、神足友善、竹田仲重とともに乙訓惣国一揆を結び細川政元に対抗した。著書『野田泰忠軍忠状』。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

野村定常【のむらさだつね(15??~1574)】

足利義輝家臣。官途は越中守。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い松永久秀、三好三人衆勢と戦い敗退した。1569年、「本圀寺の戦い」で足利義昭に従い三好三人衆と戦い戦功を挙げた。1573年、足利義昭が織田信長に追放処分に処されたため、織田信長に仕えた。本願寺顕如に銀100枚の懸賞を懸けられた。1574年、「摂津春日井堤の戦い」で織田信長に従い本願寺顕如勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

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【は】

畠山昭賢【はたけやまあきよし(15??~15??)】

足利義輝家臣。1576年、細川輝経、上野秀政、畠山昭賢、真木島昭光、曾我晴助、小林家孝、柳沢元政、武田信景とともに足利義昭に従い備後鞆館に落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

畠山九郎【はたけやまくろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

八田十右衛門尉【はったじゅううえもんのじょう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

馬場弥次郎【ばばよじろう(15??~15??)】

相楽郡馬場館主。西岡被官衆。馬場館(420石)を領した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

林与五郎【はやしよごろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

疋田弥四郎【ひきたよしろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

彦部国直【ひこべはるなお(15??~15??)】

足利義政家臣。官途は伊豆守。室は近衛政家の娘。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

彦部晴直【ひこべはるなお(15??~15??)】

彦部国直の男。官途は雅楽頭。通称又四郎。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

彦部輝信【ひこべてるのぶ(15??~15??)】

彦部晴直の男。通称孫三郎。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

彦部信勝【ひこべのぶかつ(15??~15??)】

彦部晴直の次男。1560年、「小田原城の戦い」で近衛前嗣とともに山内上杉憲政、長尾景虎に従い北条氏康勢と戦い敗退した。広沢館を領した。1600年、「関ヶ原の役」で竹竿三百八十本と旗絹を松平元康に献納した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

古市修理進【ふるいちしゅりのしん(14??~15??)】

相楽郡古市館主。西岡被官衆。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

奥州細川晴経【ほそかわはるつね(15??~15??)】

足利義晴家臣。細川尹隆の男。官途は中務大輔。通称三郎四郎。1538年、大舘晴光とともに足利義晴に従い参内した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

奥州細川輝経【ほそかわてるつね(15??~1600)】

細川晴経の男。室は松井正之の娘(清光院)。1564年、観修寺尹豊とともに足利義輝に随伴し摂津国有馬湯山に赴いた。1565年、「永禄の変」で足利義輝が三好義継、松永久秀に謀殺されため、足利義昭に仕えた。細川藤孝の家臣松井康之に仕えた。1600年、「丹後久美浜館」で石田三成に内応して松井興長勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

奥州細川昭経【ほそかわあきつね(15??~16??)】

細川輝経の男。通称久左衛門。1600年、「丹後久美浜館」で父の細川輝経とともに石田三成に内応して松井興長勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

玄蕃細川元治【ほそかわもとはる(14??~1531)】 

細川政元家臣。細川持益の次男。官途は玄蕃頭。別名「箕踞軒一雲」。1486年、薬師堂内の倉から60貫を強奪した。1504年、「淀城の戦い」で細川政元に従い細川澄元、薬師寺元一勢と戦い戦功を挙げた。1507年、「永正の錯乱」で細川高国に従い細川澄之勢と戦い戦功を挙げた。1523年、養子の細川元全が病没したため、細川国慶を養育した。1531年、「大物崩れ」で細川高国に従い細川晴勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

玄蕃細川元全【ほそかわもとよし(1486~1523)】 

細川勝益の三男(細川元治の養子)。官途は玄蕃頭。通称源五郎。別名細川元慶。細川玄蕃家。叔父の細川元治(玄蕃頭家)の養子を務めた。1504年、「淀城の戦い」で細川元治とともに細川政元に従い細川澄元、薬師寺元一勢と戦い戦功を挙げた。1507年、「永正の錯乱」で細川元治とともに細川高国に従い細川澄之勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

玄蕃細川国慶【ほそかわくによし(1511~1547)】 

細川元全の男。官途は玄蕃頭。通称源五郎。1523年、父の細川元全が病没したため、祖父の細川元治の後見を受け玄蕃頭家の家督を相続した。1532年、「高雄館の戦い」で細川晴国に従い細川晴元の家臣薬師寺国長勢と戦い敗退した。1536年、三宅国村が細川晴元に内応したため、細川晴国が摂津天王寺で自刃した。細川氏綱に仕えた。1538年、「山崎宇治の戦い」で内藤国貞とともに細川氏綱に従い細川晴元勢と戦い敗退した。1545年、「宇治槙島の戦い」で内藤国貞とともに細川氏綱に従い細川晴元勢と戦い敗退した。1546年、「嵯峨の戦い」で遊佐長教とともに細川氏綱に従い細川晴元、三好長慶勢と戦い戦功を挙げた。1547年、「大将軍の戦い」で細川晴元勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

玄蕃細川左馬助【ほそかわさまのすけ(15??~1547)】 

細川元全の次男。1547年、「大将軍の戦い」で兄の細川国慶とともに細川晴元勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

宮内細川隆是【ほそかわたかこれ(15??~1565)】

足利義輝家臣。通称宮内少輔。御部屋衆。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

古河久五郎【ふるかわきゅうごろう(15??~1600)】

乙訓郡古川館主。西岡被官衆。1600年、「伊勢安濃津城の戦い」で毛利秀元に従い富田信高、分部光嘉勢と戦い討死した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

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【ま】

槇島昭光【まきしまあきみつ(15??~15??)】

宇治郡槇島城主。一色輝元の男。官途は玄蕃頭。通称孫六郎。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、備後鞆津に落延びた。毛利輝元、武田勝頼との取次役を務めた。1615年、細川忠興、加藤嘉明の嘆願を受け赦免された。細川忠利に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

真板慶貞【まさかよしさだ(14??~15??)】 

乙訓郡真坂館主。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。

真板信貞【まさかのぶさだ(14??~15??)】 

真板慶貞の男。参考文献:『戦国大名家辞典』by森岡浩。

松井長之【まついながゆき(15??~1563)】

足利義政家臣。綴喜郡松井館主。松井宗富の男。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松井正之【まついまさゆき(15??~1563)】

松井長之の男。官途は山城守。室は荒川澄宣の娘。足利義晴に仕えた。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松井友閑【まついゆうかん(15??~15??)】

松井長之の次男。官途は宮内卿法印。1568年、村井貞勝、武井夕庵とともに織田信長の意向を受け勘定奉行職を務めた。1574年、相国寺茶会で織田信長の茶頭を務めた。1575年、堺の代官職を務めた。長尾景虎、三好康長、荒木村重、松永久秀、伊達輝宗、大友義鑑の取次役を務めた。1582年、「本能寺の変」で織田信長が明智光秀勢と戦い討死したため、羽柴秀吉に仕えた。堺奉行職を務めた。1586年、不正を理由に罷免された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松井新三郎【まつい しんさぶろう(15??~15??)】

松井長之の三男。1565年、「永禄の変」で兄の松井勝之が足利義輝、荒川治部少輔、細川宮内少輔、武田信景とともに松永久秀、三好三人衆勢と戦い討死した。松井家の家督を次男松井康之が相続した。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭が織田信長勢と戦い滅亡したため、織田信長に仕えた。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で丹後海賊衆を率い毛利家海賊衆と戦い鹿足元忠を討取る戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松井勝之【まついかつゆき(15??~1565)】

松井正之の男。足利義輝に仕えた。1565年、「永禄の変」で松井新三郎とともに足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆勢と戦い討死した。参考資料:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松井康之【まついやすゆき(1550~1612)】

松井正之の次男。官途は佐渡守。通称新助。1565年、「永禄の変」で父の松井正之、兄の松井勝之が足利義輝に従い松永久秀、三好三人衆勢と戦い討死したため、松井家の家督を相続した。1579年、「丹後平定戦」で細川藤孝に従い戦功を挙げた。1581年、「第二次鳥取城の戦い」で細川藤孝に従い毛利家海賊衆と戦い戦功を挙げた。1595年、「羽柴秀次事件」で連座の処分を受けた細川忠興の処分取り消しに奔走した。1599年、豊後杵築城代職を務めた。1600年、「豊後石垣原の戦い」で細川藤孝の意向を受け黒田孝高とともに大友義統勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松井興長【まついおきなが(1582~1661)】

松井康之の次男。官途は佐渡守。通称与五郎。別名長岡佐渡守。室は細川忠興の娘。兄に与八郎がいたが早世したため、松井家の家督を相続した。1632年、肥後熊本城主加藤忠広が改易処分に処されると、細川忠利が肥後国を領した。1638年、「島原の乱」で陣代として細川忠利勢を率い島原一揆衆と戦い戦功を挙げた。1646年、球磨川口の干拓事業を進め、新田開発にも尽力した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松井新三郎【まついしんざぶろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松田頼隆【まつだゆおりたか(15??~15??)】

足利義昭家臣。官途は豊前守。1573年、織田信長と足利義昭との起請文に署名した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松田監物【まつだけんもつ(15??~1552)】

足利義輝家臣。1552年、「霊山館の戦い」で磯谷豊後守、醍醐三宝院門徒衆とともに三好長慶勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松原小三郎【まつばらこさぶろう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

松室重頼【まつむろしげより(15??~15??)】

足利義昭家臣。通称左衛門佐。1568年、足利義昭から松室領を安堵された。1573年、山城西岡を領した細川藤孝から、社領を安堵された。1575年、「松室館の戦い」で織田信長の意向を受けた革島秀存勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

水取盛長【みずとりもりなが(15??~15??)】

相楽郡水取館主。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

水取盛武【みずとりもりたけ(15??~1573)】

水取盛長の男。官途は佐渡守。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い討死した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

村田弥助【むらたよすけ(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

物集女光重【もずめみつしげ(14??~15??)】 

乙訓郡物集女館主。1487年、鶏冠井雅盛、神足友善、野田泰忠とともに乙訓惣国一揆を結び細川政元に対抗した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

物集女忠重【もずめただしげ(15??~1575)】 

物集女光重の孫。官途は縫殿助。通称四郎右衛門尉。1568年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、西岡は細川藤孝が領した。1575年、細川藤孝の意向を受けた米田求政に誘殺された。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

森田新左衛門尉【もりたしんざえもんのじょう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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【や】

薬師寺元一【やくしじもとかず(14??~1504)】

細川政元家臣。紀伊郡淀城主。薬師寺元長の養子。通称与一。1500年、細川政元の意向を受け、河内国の畠山義英を支援して畠山尚順を撃破る戦功を挙げた。1501年、父薬師寺元長の病没により、薬師寺家の家督と摂津国守護代職を相続した。1503年、細川政元の意向を受け、細川澄元を養子に迎える交渉役を務めた。1504年、「淀城の戦い」で細川澄元を擁立して細川政元を裏切り淀城に籠城したが、弟の薬師寺長忠らの攻撃を受け自刀した。辞世の句「地獄には よき我が主(若衆)の あるやとて 今日おもひたつ 旅衣かな」。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

薬師寺長忠【やくしじながただ(14??~1508)】

薬師寺元長の次男。1504年、「淀城の戦い」で兄の薬師寺元一が細川澄元を擁して謀反を起こすと、これを鎮定した。摂津国守護代職と薬師寺家の家督を相続した。1507年、「永正の錯乱」で対立する三好之長を排除するため、香西元長、竹田孫七らとともに細川政元を謀殺して、細川澄之を擁立した。1508年、「淀城の戦い」で、細川高国勢の薬師寺国長と戦い、細川澄之や香西元長らとともに討死した。戦功を挙げ摂津国守護代に任じられた。1508年、細川政元を謀殺して細川澄之を擁立したが、細川澄元、細川高国勢の攻撃を受け討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

薬師寺国長【やくしじくになが(15??~1533)】

薬師寺元一の男。摂津国守護代職。官途は備後守。通称与次。1507年、細川政元が謀殺されたため、細川高国に仕えた。1508年、「摂津茨木城の戦い」で細川澄之、薬師寺長忠、香西元長勢と戦い香西元長を討取る戦功を挙げた。薬師寺家の家督を相続した。1527年、山城山崎館を領した。細川晴元の家臣波多野稙通の攻撃を受け降伏した。細川晴元に仕えた。1533年、「高雄城の戦い」で細川晴国勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

柳沢元政【やなぎさわもとまさ(1536~1613)】

足利義晴家臣。柳原新右衛門の男。官途は讃岐守。通称新右衛門。足利義輝が謀殺されると足利義昭を擁護した。1569年、「本圀寺の戦い」で足利義昭に従い三好三人衆と戦い戦功を挙げた。1573年、上野秀政、真木島昭光、武田信景、六角藤堯とともに足利義昭に従い備後鞆津浦に落延びた。毛利元就に仕えた。龍造寺隆信、島津義久の取次役を務めた。1592年、1592年、「文禄の役」で羽柴秀吉に仕えた。1598年、毛利輝元に仕えた。1600年、毛利輝元に従い防長に転封した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柳本賢治【やなぎもとかたはる(15??~1530)】

波多野秀長の次男。官途は弾正忠。1526年、弟の香西元盛が細川尹賢に謀殺されたため、細川晴元、三好元長、波多野稙通とともに細川高国に謀反を起こした。「神尾山館の戦い」で細川高国勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1527年、「桂川原の戦い」で細川晴元、三好元長とともに足利義晴、細川高国勢と戦い戦功を挙げた。1528年、三好元長を阿波国に追落した。1530年、「播磨依藤城の戦い」で別所就治を支援して浦上村宗の家臣依藤太郎左衛門勢と戦い東条谷の玉蓮寺の陣中で病没した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柳本甚次郎【やなぎもとじんじろう(15??~1532)】

柳本賢治の男。1532年、「京都三条城の戦い」で三好元長勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柳沢景祐【やなぎさわかげすけ(15??~15??)】

柳本賢治の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柳沢元吉【やなぎさわもとよし15??~15??)】

柳本賢治の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山口秀景【やまぐちひでかげ(15??~1583)】

足利義昭家臣。官途は玄蕃。公家衆との取次役を務めた。1569年、織田信長への使者として美濃国に派遣された。1573年、「槇島城の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、織田信長に仕えた。山城宇治田原館を領した。1576年、津田宗及の茶会に参列した。1582年、「本能寺の変」で三河国に落延びる松平元康を宇治田原館に迎えた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

山村正次【やまむらまさつぐ(15??~15??)】

柳本賢治家臣。1532年、「京都三条城の戦い」で柳本甚次郎が三好元長勢と戦い討死したため、細川晴元に仕えた。1533年、「享禄、天文の乱」で細川晴元、三好元長に従い細川高国勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

山本尚利【やまもとなおとし(15??~15??)】

愛宕郡岩倉山本館主。山本資幹の男。別名山本尚貞。西岡十六党。1527年、「桂川原の戦い」で三好元長、波多野稙通、柳本賢治に従い細川高国勢と戦い戦功を挙げた。1531年、「大物崩れ」で細川晴元、三好元長、法華門徒衆とともに細川高国、浦上村宗勢と戦い戦功を挙げた。1536年、「天文法華の乱」で比叡山門徒衆とともに法華門徒衆と戦い三好元長勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山本則尚【やまもとのりなお(15??~1570)】

山本尚利の男。1545年、「上薗館の戦い」で細川晴元に従い足利義晴の家臣細川玄蕃允と戦い戦功を挙げた。1551年、「相国寺の戦い」で佐竹宗実とともに三好長慶に従い細川晴元、三好政勝、香西元成勢と戦い戦功を挙げた。1564年、「永禄の変」で三好三人衆、松永久秀とともに足利義輝、三淵藤英と戦い戦功を挙げた。1569年、「本圀寺の変」で三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)に従い織田信長勢と戦い敗退した。1570年、継嗣の山本俊尚が足利義昭に内応したため、自刃に追い込まれた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山本俊尚【やまもととしなお(15??~15??)】

山本則尚の男。官途は対馬守。1573年、「一乗寺館の戦い」で足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退したため、改易処分に処された。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。

山本尚治【やまもとなおはる(15??~15??)】

山本俊尚の男。1570年、「志賀の陣」で佐竹宗実、渡辺昌とともに織田信長に従い浅井長政、朝倉義景勢と戦い戦功を挙げた。1573年、「一乗寺館の戦い」で父の山本俊尚、磯谷久次、渡辺昌とともに足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退した。「淀城の戦い」で細川藤孝に従い岩成友通勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by吉川弘文館。

山本昌尚【やまもとまさなお(15??~15??)】

山本尚利の次男。官途は監物。1570年、兄の山本則尚が自刃したため、山本家の家督を相続した。1582年、「山城山崎の戦い」で明智光秀に従い羽柴秀吉勢と戦い敗退したため、改易処分に処された。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山本秀勝【やまもとひでかつ(15??~1573)】

足利義輝家臣。愛宕郡静館主。官途は対馬守。1573年、「槇島城の戦い」で磯貝久次、渡辺昌とともに足利義昭に従い織田信長の家臣明智光秀勢と戦い討死した。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山本勝則【やまもとかつのり(15??~16??)】

山本秀勝の男。官途は対馬守。通称源太夫。松井康之に仕えた。参考文献:『戦国大名家辞典』by東京堂出版。

山本実尚【やまもとさねひさ(15??~1573)】

山本秀勝の次男。官途は佐渡守。1568年、「芥川山城の戦い」で三好長逸に従い織田信長、足利義昭の家臣三淵藤英勢と戦い敗退した。1559年、「本圀寺の戦い」で三好三人衆に従い足利義昭勢と戦い敗退した。1570年、「比叡山の戦い」で明智光秀に従い比叡山門徒衆と戦い戦功を挙げた。1573年、「槇島城の戦い」で渡辺昌、磯谷久次とともに足利義昭に従い明智光秀勢と戦い討死した。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

結城主膳正【ゆうきしぜんのじょう(15??~1565)】 

足利義輝家臣。1565年、「永禄の変」で足利義輝に従い三好義継、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

弓削牛之助【ゆげうしのすけ(15??~15??)】

乙訓郡田中館主。西岡被官衆。1573年、「淀城の戦い」で細川藤孝に従い岩成友通勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:『織田信長家臣人名事典』by吉川弘文館。

弓削守親【ゆげもりちか(15??~15??)】

弓削牛之助の男。官途は越前守。明智光秀に仕えた。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

弓削吉長【ゆげよしなが(15??~15??)】

弓削守親の男。通称太郎左衛門。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

弓削伝左衛門【ゆげでんざえもん(15??~15??)】

弓削吉長の男。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

米田求政【よねだもとまさ(1526~1590)】

足利義晴家臣。官途は壱岐守。通称源三郎。別名米田宗堅。御相伴衆を務めた。1565年、「永禄の変」で足利義輝が三好三人衆、松永久秀勢と戦い討死したため、細川藤孝、三淵藤英、和田惟政、一色藤長、仁木義政とともに興福寺に幽閉されていた足利義昭を救い出した。1569年、足利義昭と対立して細川藤孝に仕えた。1571年、勝龍寺城の普請奉行職を務めた。1577年、「第一次紀州討伐」で細川藤孝に従い雑賀衆と戦い戦功を挙げた。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

米田是政【よねだこれまさ(1558~1600)】

米田求政の男。通称助右衛門。1569年、足利義昭と対立して父の米田求政とともに細川藤孝に仕えた。1570年、「近江姉川の戦い」で織田信長の家臣細川藤孝に従い朝倉義景、浅井長政勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「本能寺の変」で明智光秀の娘(珠子)と細川忠興の離別を建言した。宮津城内で一色義定を謀殺した。1584年、「小牧、長久手の戦い」で細川藤孝に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で細川忠興に従い織田秀信勢と戦い討死した。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。

米田是季【よねだこれすえ(1586~1658)】

米田是政の男。官途は監物。通称与七郎。別名米田興季。弓の名手。1600年、「美濃岐阜城の戦い」で父の米田是政が細川忠興に従い石田三成勢と戦い討死したため、米田家の家督を相続した。1607年、細川忠興のもとを退去した。1614年、「大坂冬の陣」で羽柴秀頼の家臣大野治房に仕えた。1623年、細川忠興のもとに帰参した。1638年、「島原の乱」で松井興長、有吉英貴とともに触状を出した。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説。

渡辺告【わたなべこく(15??~15??)】

愛宕郡一乗寺館主。官途は出雲守。松永久秀に仕えた。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

渡辺重【わたなべしげ(15??~15??)】

渡辺告の男。官途は左馬助。1573年、「一乗寺館の戦い」で磯貝新右衛門とともに足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退した。参考文献:「古城址探訪」by綺陽堂。

渡辺昌【わたなべまさ(15??~15??)】

渡辺告の次男。官途は宮内少輔。1573年、「槇島城の戦い」で山本尚治、磯谷久次とともに足利義昭に従い織田信長勢と戦い敗退した。1582年、羽柴秀吉に仕えた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

渡辺糺【わたなべ ただす(15??~1615)】

渡辺昌の男。通称は内蔵助。槍の名手。羽柴秀頼の槍指南役を務めた。1614年、「摂津鴫野の戦い」で長尾景勝勢と戦い鉄炮の轟音を聞いただけで退却した。1615年、「摂津道明寺の戦い」で真田信繁に従い松平元康勢と戦い敗退した。大坂城千畳敷で自刃した。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

渡辺守【わたなべまもる(1610~16??)】

渡辺糺の男。通称権兵衛。1614年、「大坂冬の陣」で父の渡邊糺が羽柴秀頼に従い松平元康勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」で渡辺糺が松平元康勢と戦い討死したため、大坂城から落延び京都の南禅寺で出家した。1628年、松平綱重に仕えた。参考文献:『戦国人名事典(高柳光壽編)』by吉川弘文館。

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【資料Ⅰ】

山城国(8郡/240,000石)

乙訓郡(24,000石):勝龍寺城、山崎城、物集女館、神足館、鶏冠井館。
葛野郡(34,000石):二条城、嵐山城、下京街、嵯峨寺。
愛宕郡(26,000石):船岡山城、六波羅館、岩倉館、上京街、祇園街、加茂神社。
紀伊郡(26,000石):伏見城、白河館、宇治街、山科寺、醍醐寺、東福寺。
宇治郡(14,000石):槇島城。
久世郡(28,000石):淀城。
綴喜郡(24,000石):普賢寺館。
相楽郡(36,000石):木津城、笠置館、狛館。

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【資料Ⅱ】

西岡十六衆【にしおかじゅうろくにんしゅう】

長洲兵庫、小泉秀清、築山俊方、竹田仲広、竹内為信、高橋俊長、革島就宣、山本主殿、弓削牛之助、鶏冠井政益、神足春治、物集女忠重。

横大路被官衆【よこおおじひかんしゅう】

小川丹波守。

藤原五摂家【ふじわらごせっけ】

藤原北家の藤原良房が摂政を務めた。藤原北家が摂政職、関白職の要職を独占した。藤原基房の近衛藤原家、藤原兼平の鷹司藤原家、藤原兼実の九条藤原家、藤原教実の一条家、藤原良実の二条家の五家。

法華宗十五本山【ほっけしゅうじゅうごほんざん】

妙覚寺、妙顕寺、立本寺、本国寺、本満寺、頂妙寺、妙伝寺、妙満寺、本法寺、妙蓮寺、本隆寺、本禅寺、要法寺、妙泉寺、本能寺。

深草四人衆【ぐかくさよにんしゅう】

赤塚新右衛門尉、寺内、藪、寺本直勝。

瓶原七人衆【みかのはらななにんしゅう】

津越連任、和田元清。

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【資料Ⅲ】

管領【かんれい】

将軍職を補佐し内外の政務を統轄する室町幕府の職名。1362年、斯波義将が任命されたときから管領となった。その後再び執事と呼ばれたこともあったが、三代将軍足利義満のときに管領職がおかれ、足利家枝連衆、斯波、細川、畠山の三家が交代で就任したのでこの三家を三管領と称した。

公家侍【くげざむらい】

公家衆の家政機関に奉仕した。六位層は位袍の色が青系の縹であったことから、「青侍」と称された。中世後期に入ると、公家の家臣層も諸大夫と青侍を中心とする家僕に再編成されることになるが、諸大夫を持てない中下層公家では青侍のみで家僕が構成されて公家の家政を運営するようになった。

西面武士【さいめんのぶし】

上皇警備を目的に後鳥羽上皇が創設した武士団。関東や在京の御家人を中心に構成さた。北面武士とともに院の軍事力の中枢を担った。1221年、「承久の乱」で後鳥羽上皇勢に従い北条義時勢と戦い敗退した。

侍所【さむらいどころ】

守護、地頭を支配し、武士の進退や、罪人の処罰、宿衛扈従の武士の選挙、宮中の警備、洛中の雑事の管理、公武の所領および寺社領、軍務をつかさどった。

守護職【しゅごしょく】

治安維持、武家統制を目的とする国単位に設置すり役職。職務権限は「大犯三箇条」。大番催促、謀反人の捕縛、検断権の権限を持つ。

守護代【しゅごだい】

守護職の代官職。守護職の意向を受け代官職を務めた。守護大名が領国支配を強化するため、有力被官を在国守護代として領国内に配置した。

滝口武士【たきぐちのぶし】

内裏の警護役を務めた武士団。摂関家や公家が家人の中から射芸に長じた者を滝口武士に任じた。

西岡十六衆【にしおかじゅうろくにんしゅう】

西岡地域は桂川を灌漑して古くから農業が発達し、経済力も高く小領主が乱立していた。西岡衆(長洲兵庫、小泉秀清、築山俊方、竹田仲広、竹内為信、高橋俊長、革島就宣、山本主殿、弓削牛之助、鶏冠井政益、神足春治、物集女忠重)は室町幕府に仕えた。中西部(乙訓郡、葛野郡の桂、川島付近)は、西岡(上六ヶ郷に属する徳大寺、上桂、下桂、川島、下津林、寺戸、下五ヶ郷に属する牛ヶ瀬、上久世、下久世、大薮、築山の上下十一ヶ郷)。

評定衆【ひょうじょうしゅう】

評定衆は訴訟審理役を務めた。政所執事、問注所執事は評定衆から選任された。評定衆の名は室町中期以降、実質的には衰退した。

北面武士【ほくめんぶし】

御所の警護役を務めた武士団。組大将クラスの貴族衆。

政所【まんどころ】

幕府御料所の管理、京都の酒屋、土倉の統制や幕府の勘定奉行役を務めた。

問注所【もんちゅうじょ】

執事のもとに寄人が訴訟一般を取り扱った。

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戦国人名辞典は、1467年、「応仁の乱」から1637年、「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明します。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。

印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

名が不明場合は書籍等で採用されている便宜上の名を使用します。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、徳川家康は松平元康、木下藤吉郎は羽柴秀吉、豊臣秀頼は羽柴秀頼に名前を統一しました。

城と館の違いは、城は10,000石以上の領主の居城。館、砦は9,999石以下の領主の居城としました。館と砦の違いは平地にある場合は館、山岳地帯、諸島にある場合は砦としてました。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(東国編)』by新人物往来社、『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『徳川、松平一族の辞典』by東京堂出版、『徳川家康家臣団の辞典』by東京堂出版、『全国国衆ガイド(戦国の”地元の殿様”たち)』by星海社新書、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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