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【あ】
相伴伊豆守【あいともいずのかみ(15??~15??)】
北之川親安家臣。宇和郡相伴館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
秋山三右衛門【あきやまさんえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
芥川将吉【あくたがわまさよし(15??~1579)】
櫛部兼氏家臣。桑村郡兵庫山館主。官途は兵庫。通称源兵衛尉。1579年、「象ヶ森館の戦い」で櫛部兼氏に従い金子元宅勢と戦い討死した。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
浅井重太郎【あさいしげたろう(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡大森館の在番を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
浅海和泉守【あさうみいずみのかみ(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
浅川十次郎【あさかわじゅじろう(15??~15??)】
荒川武光家臣。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
浅川六助【あさかわろくすけ(15??~16??)】
来島村上通康家臣。船奉行職を務めた。1600年、大林多兵衛とともに改易処分に処された来島村上長親を支えた。来島村上通春と不和になり失脚した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
東右近助【あずまさこんのすけ(15??~16??)】
能島村上武吉家臣。家老職(100石)を務めた。1600年、「伊予松山城の戦い」で毛利輝元勢に属した能島村上武吉に従い加藤嘉明の家臣佃十成勢と戦い敗退した。能島村上武吉が減封の処分に処されたため、失領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
東権之助【あづまごんのすけ(15??~1574)】
東佐兵衛の男。小姓衆を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
東但馬守【あずまたじまのかみ(15??~15??)】
久枝宣盛家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
東直勝【あずまなおかつ(15??~1574)】
浮穴郡藤森館主。大野利直の四男。官途は筑前守。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
東左近太夫【あずうこんだいふ(15??~15??)】
今岡伯耆守家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
明日丹後守【あけひたんごのかみ(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡明日館主。官途は丹後守。1585年、「明日館の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
阿部半助【あべはんすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
安部伊勢守【あべいせのかみ(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡大森館の在番を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
荒井考宣【あらいなりあき(15??~1593)】
黒川通博家臣。通称藤四郎。黒川家八人衆。1531年、「三谷館の戦い」で黒川通堯に従い渡部満綱勢と戦い戦功を挙げた。三谷館を領した。1585年、「丸山館の戦い」で黒川広隆が小早川隆景勢と戦い敗退したため、帰農した。1593年、「道前一揆」で一色右馬三郎勢と戦い討死した。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
荒川武光【あらかわたけみつ(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡森館主。別名「大覚」。侍大将を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
荒木喜八【あらききはち(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
有岡左京進【ありおかさきょうのしゅん(15??~15??)】
和田通興家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
有馬十介【ありまじゅうすけ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
安藤次右衛門【あんどうじえもん(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡玉之江館主。家老職。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
安藤甚三郎【あんどうじんざぶろう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
家藤信種【いえふじのぶたね(15??~15??)】
西園寺公家家臣。宇和郡板島丸串館主。通称監物。別名「板島殿」。1580年、板島丸串館を領した。道免館に転封した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
池田伊予守【いけだいよのかみ(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
池原通吉【いけはらみちよし(15??~1579)】
野間郡池原館主。河野明生の男。官途は近江守。別名河野通吉。知勇兼備。継嗣の河野通直を河野通宣の養子に送り込み河野家惣領職を相続させた。外戚として家政に介入して河野惣領家と予州河野家との和議に尽力した。1572年、「三津浜の戦い」で河野通直に従い毛利輝元の家臣苫西津高勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1573年、「地蔵ヶ嶽館の戦い」で二神通範とともに長宗我元親に内応した大野直之を地蔵ヶ嶽館から追落す戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
池原通成【いけはらみちなり(15??~1585)】
池原通吉の次男。官途は兵部丞。兄の河野通直が河野家惣領職を相続したため、池原家の家督を相続した。1579年、「高仙山館の戦い」で村上通総勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1581年、「浅海原の戦い」で二神重直、来島村上通総勢と戦い敗退した。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
池原左近太夫【いけはらさこんだいふ(15??~15??)】
来島村上通康家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
伊予石川道清【いしかわみちきよ(15??~15??)】
新居郡高峠城主。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
伊予石川道清【いしかわみちきよ(1535~1587)】
石川道清の男。官途は伊予守。室は三好長慶の娘。伊予七人衆。1572年、「高峠城の戦い」で三好長治の支援を受け河野通吉勢と戦い敗退した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
伊予石川通清【いしかわみちきよ(1535~1584)】
石川道清の男。官途は備中守。1582年、「高尾城の戦い」で長宗我部元親勢と戦い敗退した。金子元宅、妻鳥友春と結び河野通直と対抗した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
伊予石川勝重【いしかわかつしげ(1578~1585)】
石川通清の男。官途は備中守。通称弥四郎。1584年、父の石川通清が病没したため、近藤尚盛の支援を受け石川家の家督を相続した。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅とともに小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
伊予石川虎竹丸【いしかわとらたけまる(15??~15??)】
石川勝重の男。1585年、「高尾城の戦い」で父の石川勝重が小早川隆景勢と戦い討死したため、近藤尚盛の後見を受け石川家の家督を相続した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
伊予石川源太夫【いしかわげんだいふ(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡高尾館主。己の剛勇を誇り石川道清を蔑ろにした。1555年、「木曳野の戦い」で石川道清の意向を受けた近藤尚盛勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
伊予石川越後守【いしかわえちごのかみ(15??~1572)】
石川源太夫の男。1555年、父の石川源太夫が石川道清に謀殺されたため、石川道清に仕えた。1572年、「高尾館の戦い」で毛利輝元勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
伊予石川越前守【いしかわえちぜんのかみ(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡八堂山館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
伊予石川美濃守【いしかわみののかみ(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡天神山館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
石田光賛【いしだみつえい(15??~1574)】
大野直昌家臣。通称武兵衛。鉄砲小番頭を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
石丸能登守【いしまるのとのかみ(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
石山九郎介【いしやまくろうのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
伊崎又次郎【いせざきまたしろう(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
一色与三右衛門【いっしきよぞうえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
一色但馬守【いっしきたじまのかみ(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡中山館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
井出若狭守【いでわかさのかみ(15??~15??)】
松末通為家臣。作事奉行職。湯山から三町までの市乃井出用水路を建設した。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
伊藤家定【いとういえさだ(15??~15??)】
金子元宅家臣。新居郡荻生館主。通称嘉右衛門。家老職を務めた。1585年、「氷見原の戦い」で金子元宅が小早川隆景勢と戦い敗退したため、金子元宅とともに高尾城に落延びた。参考文献:「金子備後守元宅と天正の陣」bytoshi。
伊藤助三郎【いとうすけさぶろう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
伊藤祐晴【いとうすけはる(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡西後館主。官途は近江守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
稲葉帯刀【いなばたてわき(15??~15??)】
得能通賢家臣。伊予郡烏帽子岳館主。1582年、「烏帽子岳館の戦い」で得能通賢に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
井上重秀【いのうえしげひで(15??~15??)】
宇都宮房綱家臣。喜多郡中尾館主。通称善兵衛。1568年、「鳥坂峠の戦い」で宇都宮豊綱に従い小早川隆景勢と戦い敗退した。1582年、「中尾館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い敗退したため、豊前国に落延びた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
井上経盛【いのうえつねもり(15??~15??)】
温泉郡飯野山館主。官途は備後守。1576年、「飯野山館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
井上治部大夫【いのうえじぶだいふ(15??~15??)】
井上経盛の男。穴井浦庄屋職を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
井上五介【いのうえごすけ(15??~15??)】
井上経盛の次男。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
井上庄右衛門【いのうえしょうざえもん(15??~15??)】
井上五介の次男。大島開拓を開発した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
井上三与右衛門尉【いのうえさんようえもんのじょう(15??~15??)】
大内信泰家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
井上兵吉郎【いのうえへいきちろう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
今井玄蕃【いまいげんば(15??~15??)】
黒川通博家臣。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
今井三郎左衛門【いまいさぶろうざえもん(15??~15??)】
大頭鹿花館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
今井飛弾正左衛門【いまいひだんじょうさえもん(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡八ノ川館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
今井作右衛門【いまいさくえもん(15??~1574)】
大野直昌家臣。小姓衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
今岡伯耆守【いまおかほうきのかみ(15??~1563)】
村上義益家臣。越智郡甘崎館主。官途は民部太夫。1541年、「甘崎館の戦い」で大内義隆の家臣白井房胤勢と戦い撃退する戦功を挙げた。能島村上家が惣領職の村上義益(反大内義隆派)と能島村上武吉、村上隆重(親大内義隆派)が対立したため、村上義益に従い大内義隆勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
今岡治郎之亟【いまおかじぶのじょう(15??~15??)】
今岡伯耆守家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
今城能親【いましろよしちか(15??~15??)】
宇和郡金山館主。官途は肥前守。別名有馬能親。西園寺十五将。金山館(4,700石)を領した。1537年、近衛稙家の連歌会に列席した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
今城能信【いましろよしのぶ(15??~15??)】
今城能親の男。1546年、「金山館の戦い」で土居清貞、竹林院真清、中野通宗とともに大友義鎮勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
井門義安【いもんよしやす(15??~15??)】
河野通直家臣。通称宗左衛門尉。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
井門九郎左衛門尉【いもんくろうざえもん(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
井門大和守【いもんやまとのかみ(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
井門九郎左衛門尉【いもんくろうざえもん(15??~15??)】
岩城左衛門太夫【いわきさえもんだいふ(15??~15??)】
今岡伯耆守家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
岩本将監【いわもとしょうげん(15??~15??)】
北之川親安家臣。宇和郡猿瀧館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
岩藤繁昌【いわふじしげまさ(15??~15??)】
津島通孝家臣。通称與左衛門尉。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
因島村上吉高【いんのしまよしたか(15??~15??)】
風早郡葛籠屑館主。通称内蔵太夫。別名村上吉高。河野家十八将。1565年、大友宗麟の軍勢に攻められているが、これを撃退した。1572年、「葛籠屑館の戦い」で織田信長の支援を受けた三好長治勢と戦い敗退した。1580年、「葛籠屑館の戦い」で来島村上通総と結び河野通直勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
上野兵庫介【うえのひょうごのすけ(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
上村利信【うえむらとしのぶ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。官途は修理進。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
魚成通親【うおなしみちちか(15??~15??)】
宇和郡龍ヶ森館主。魚成玄親の男。官途は豊後守。西園寺十五将。龍ヶ森館(1,000石)を領した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
魚成親能【うおなしちかよし(15??~1573)】
魚成通親の男。官途は上総守。通称弥五郎。1573年、「龍ヶ森館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
宇佐美籐三【うさみとうぞう(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
臼坂三郎兵衛尉【うすさかぶろうびょうえ(15??~15??)】
黒川通堯家臣。周布郡臼坂館主。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
臼坂弾正忠【うすさかだんじょうちゅう(15??~1585)】
黒川通博家臣。周布郡駒頭館主。1585年、「文台館の戦い」で小早川景隆勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
宇多津九兵衛【うたつきゅうべい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
宇佐美主水正【うさみもんどのしょう(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
臼杵修理亮【うすきしりのじょう(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
伊予宇都宮清綱【うつのみきよつな(1478~1540)】
喜多郡大洲城主。宇都宮宣綱の男。次男の宇都宮房綱とともに萩森館(100石)に隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
伊予宇都宮豊綱【うつのみやとよつな(1519~1585)】
宇都宮清綱の男。室は大野直之の娘。1556年、「飛鳥館の戦い」で西園寺実充の継嗣西園寺公高勢と戦い西園寺公高を討取る戦功を挙げた。1560年、一条兼定と結んで勢力の拡大したが、河野通直と対立した。1568年、「鳥坂峠の戦い」で一条兼定とともに毛利元就の支援を受けた小早川隆景、河野通直勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
伊予宇都宮豊治【うつのみやとよはる(15??~15??)】
宇都宮豊綱の男。別名萩野与右衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
伊予宇都宮房綱【うつのみやふさつな(15??~15??)】
宇都宮清綱の三男。通称彦右衛門尉。別名萩森房綱。1540年、父の宇都宮清綱とともに地蔵獄城を築城した。1549年、「天神山館の戦い」で摂津親宣勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
喜多宇都宮乗綱【うつのみやのりつな(15??~15??)】
西園寺公家家臣。喜多郡鎌田館主。官途は左近尉。別名野村乗綱。西園寺十五将。鎌田館(2,000石)を領した。1581年、宇都宮直綱が長宗我部元親に内応したため、西園寺公家から蟄居を命じられた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
喜多宇都宮重綱【うつのみやしげつな(15??~1634)】
宇都宮乗綱の男。喜多郡萩森館主。別名萩森重綱。1574年、「萩森館の戦い」で
長宗我部元親に内応した大野直之勢と戦い敗退した。1587年、戸田勝隆に仕えた。1596年、藤堂高虎に仕えた。1615年、「河内八尾、若江の戦い」で藤堂良勝に従い長宗我部盛親勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「大坂の陣絵巻」byTikugonokami。
喜多宇都宮直綱【うつのみやなおつな(15??~15??)】
宇都宮乗綱家臣。1581年、「鎌田館の戦い」で宇都宮乗綱が長宗我部元親に内応したため、西園寺公家勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
宇都宮越前守【うつのみやえちぜんのかみ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
宇都宮左近之亟【うつのみやさこんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
宇都宮善右衛門尉【うつのみやぜんえもんじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
宇都宮朝綱【うつのみやもとつな(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。亀ヶ森館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
宇都宮関兵衛【うつのみやかんべい(15??~15??)】
宇和郡護摩ヶ森館主。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
鵜木新左衛門【うのきしんざえもん(15??~15??)】
壬生川通光家臣。1543年、「鷺森館の戦い」で壬生川通に従い黒川道俊、首藤金重勢と戦い討死した。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
宇野又八郎【うのまたはちろう(15??~15??)】
河野通直家臣。1600年、「関ヶ原の役」で加藤嘉明に従い毛利輝元勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
宇野隼人【うのはやと(15??~15??)】
周布郡獅子鼻館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
祖母井之重【うばがいゆきしげ(1503~1562)】
宇都宮豊綱家臣。喜多郡祖母井館主。通称右衛門尉。1544年、「祖母井館の戦い」で大野直家勢と戦い水沼館に落延びた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
祖母井之泰【うばがいゆきやす(15??~15??)】
祖母井之重の男。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
祖母井之照【うばがいゆきてる(1535~1585)】
祖母井之泰の男。通称右衛門尉。猛将。1585年、「祖母井館の戦い」で大野直守勢と戦い愛馬の頸を刎ね討死した。以来、命日に東門寺に頸なし馬が走るという伝承が残る。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
梅木爲政【うめきためまさ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡天神森館主。官途は但馬守。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
梅木政倫【うめきまさみち(15??~15??)】
大野直昌臣。浮穴郡石本館主。官途は馬之介。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
梅木弥九郎丸【うめきいくろうまる(15??~15??)】
梅木政倫の男。御小姓を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
梅本宗信【うめもとむねのぶ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。別名「無心」。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
宇和川伝右衛門尉【うわがわでんうえもんのじょう(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
宇和川堯定【うわがわたかさだ(15??~15??)】
戎能通郷家臣。通称仁左衛門。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
枝松光栄【えだまつこうえい(15??~15??)】
河野通直家臣。通称太郎。1585年、「湯築城の戦い」で河野通直に従い小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
江戸平太【えどへいた(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
遠藤三右衛門【えんどうさんえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
大内信泰【おおうちのぶやす(15??~15??)】
河野通直家臣。和気郡塩森館主。官途は伊賀守。1572年、「姫原郷の戦い」で平岡通資、大野直昌、土居清良、栗上五郎、久枝通信、中原石見守、重松豊後守とともに三好長治勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「宅並山」by有田晋作。
大熊刑部之允【おおくまぎょうぶのじょう(15??~15??)】
平岡通房家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
大沢新太郎【おおさわしんたろう(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
大角隈源助【おおすみげんすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
太田市良兵衛尉【おおたいちよへいのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
大谷八郎兵衛【おおたにはちべい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
大塚嵐之助【おおつかあらしのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
大塚助兵衛【おおつかすけひょうえ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。喜多郡高森館主。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
大塚新兵衛【おおつかしんべい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
大塚源十郎【おおつかげんしろう(15??~15??)】
北之川親安家臣。喜多郡白石館主。白石館代職を務めた。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
大津賀政通【おおつがまさみち(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。宇和郡尾中館主。官途は石見守。参考文献:「南予の古城」bytack7。
大津賀政勝【おおつがまさかつ(15??~15??)】
大津賀政通の男。参考文献:「南予の古城」bytack7。
大富海次良【おおとのみつぐよし(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
大西元武【おおにしもとたけ(15??~15??)】
石川道清家臣。宇摩郡轟館主。官途は備中守。別名「道誉」。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
大西杢之亟【おおにしじょうのじょう(15??~15??)】
和田通興家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
大野朝直【おおのともなお(14??~15??)】
河野通直家臣。浮穴郡大除城主。官途は安芸守。御家老衆五人衆の筆頭職。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大野利直【おおのとしなお(1493~1580)】
官途は紀伊守。1544年、隠居した。大野友直が病没したため、大野家の家督を相続した。1553年、「花山館の戦い」で黒川通俊とともに平岡房実の家臣戒能通運勢と戦い戦功を挙げた。1553年、大野直昌に家督を譲って隠居した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大野友直【おおのなおしげ(15??~15??)】
大野利直の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大野直秀【おおのなおひで(15??~15??)】
大野利直の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大野直澄【おおのなおずみ(15??~15??)】
大野利直の三男。官途は上総介。別名橘直澄。室は富永和泉守の娘。義父の富永和泉守の意向を受け浮穴郡惣津館主を務めた。1573年、「惣津館の戦い」で長宗我部元親に内応したため、河野通直勢と戦い敗退した。1574年、大野直昌の謀殺に失敗した。1583年、長宗我部元親に降伏した。1585年、「四国征伐(天正の陣)」で河野通直に従い小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大野直昌【おおのなおしげ(15??~15??)】
大野利直の四男。官途は山城守。1553年、兄の大野友直が病没したため、大野家の家督を相続した。1568年、「久万山の戦い」で一条兼定勢と戦い戦功を挙げた。1572年、「井門郷の戦い」で毛利輝元勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「四国征伐(天正の陣)」で河野通直とともに小早川隆景勢と戦い敗退した。河野通直に従い安芸竹原城に転封した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大野直光【おおのなおみつ(15??~1544)】
大野利直の五男。1544年、「第一次祖母井館の戦い」で大野直家に従い祖母井之重勢と戦い戦功を挙げた。「第二次祖母井館の戦い」で祖母井之重の家臣水沼左京勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
大野直之【おおのなおゆき(15??~1579)】
大野利直の六男。官途は上総介。室は宇都宮豊綱の娘。宇都宮豊綱に仕え喜多郡菅田館を領した。1573年、「鳥坂峠の戦い」で長宗我部元親と内応して宇都宮豊綱を討取った。1579年、「地蔵ヶ嶽城の戦い」で河野通直勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大野直勝【おおのなおかつ(15??~1574)】
大野利直の七男。浮穴郡赤岩館主。官途は筑前守。別名東直勝。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
大野直周【おおのなおちか(15??~1574)】
大野直利の八男(大野直澄の養子)。通称九郎兵衛。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
大野隆直【おおのたかなお(15??~15??)】
大野利直の三男。能島村上武吉に仕えた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大野直範【おおのなおのり(15??~15??)】
大野直澄の男。1587年、帰農した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
大野直幸【おおのなおゆき(15??~1574)】
大野利直家臣。浮穴郡尾首館主。官途は加賀守。別名大野直義。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
大野直年【おおのなおとし(15??~1574)】
大野直幸の男。浮穴郡尾首館主。通称織部。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で父の大野直幸に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
大野直知【おおのなおとも(15??~1574)】
大野直幸の次男。通称左馬。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で父の大野直幸に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
大野近江守【おおのおうみのかみ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡小田戸井館主。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
大野右近【おおのうこん(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
大野正直【おおのまさなお(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。通称隼人。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
大浜吉智【おおはまよしとも(15??~15??)】
来島村上通康家臣。別名村上吉智。1524年、越智郡日吉郷の大浜八幡宮の遷宮式を行った。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
大浜吉任【おおはまよしこれ(15??~15??)】
大浜吉智の男。別名村上吉任。通称左京進。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
大林多兵衛【おおばやしたへい(15??~16??)】
来島村上通康家臣。1600年、大林多兵衛とともに改易処分に処された来島村上長親を支えた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
大久範足【おおひさのりあし(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。宇摩郡土居館主。通称主馬。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
大平新右衛門尉【おおひらしんうえもんのじょう(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
大祝安用【おおほうりやすもち(14??~1531)】
河野通宣家臣。越智郡三島館主。大祝安守の男。大三島大山祇神社大祝職。大祝家は神職を務め、枝連衆を陣代として派遣した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大祝安舎【おおほうりやすなり(15??~15??)】
大祝安用の男。1534年、「第一次大三島の戦い」で陣代職を務め、大内義隆勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大祝安房【おおほうりやすふさ(15??~1541)】
大祝安用の次男。1531年、父の大祝安舎が病没したため、兄の大祝安舎が大祝職を務め、その陣代職を務めた。1541年、「第二次大三島の戦い」で大内義隆の家臣白井膳胤、小原隆言勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大祝安高【おおほうりやすたか(15??~15??)】
大祝安舎の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大祝安忠【おおほうりやすただ(15??~15??)】
大祝安舎の次男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大祝安任【おおほうりやすこれ(15??~15??)】
大祝安高の男。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
大森孫次郎【おおもりまごじろう(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
大家礼重【おおやのりしげ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡柳小路館主。通称又兵衛。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
岡崎太郎右衛門尉【おかざきたろうえもんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
岡崎紀伊守【おかざききいのかみ(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。喜多郡岡崎館主。参考文献:「南予の古城」bytack7。
小笠原主馬【おがさわらしゅめい(15??~15??)】
今岡伯耆守家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
緒方惟定【おがたこれさだ(15??~16??)】
宇都宮乗綱家臣。喜多郡白木館代。通称蔵人。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と戦い敗退したため、藤堂高虎の仕えた。1614年、「大坂夏の陣」で藤堂高虎に従い羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
岡田経孝【おかだつねたか(15??~15??)】
河野通宣家臣。花見館主。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
岡田通孝【おかだみちたか(15??~15??)】
石川道清家臣。河野通宣の三男(岡田経孝の養子)。新居郡新須賀館主。通称喜三。室は岡田経孝の娘。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
岡田通郷【おかだみちさと(15??~15??)】
岡田通孝の男。通称九郎兵衛。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
岡田通政【おかだみちまさ(15??~16??)】
岡田通郷の男。松平元康に仕えた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
岡孫右衛門【おかまごべい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
岡宗金【おかむねかね(15??~15??)】
富永直安家臣。喜多郡龍王館主。通称宮内。別名岡宗全。1590年、「野村口の戦い」で鍛冶谷中務と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
奥岩石見守【おくいわいわみのかみ(15??~15??)】
河原渕教忠家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
小倉為家【おぐらためいいえ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡居部野館主。官途は丹後守。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
小倉八九郎【おぐらはちくろう(15??~15??)】
小倉丹後守の男。大野直昌の御小姓を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
小倉八十郎【おぐらはちじゅうろう(15??~15??)】
小倉丹後守の次男。大野直昌の御小姓を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
尾越助右衛門尉【おごしすけえもんのじょう(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
尾越四郎右衛門尉【おごししろうえもん(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
尾崎籐兵衛尉【おざきとうべいのじょう(15??~15??)】
勧修寺基詮家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
尾崎丹後守【おざきたんごのかみ(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。宇津館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
尾崎直茂【おざきなおしげ(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡宇津館主。通称七郎。室は大野利直の娘。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
尾崎家親【おざきいえちか(15??~15??)】
尾崎直茂の男。官途は丹波守。通称七郎。別名平岡遠江守。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で父の尾崎直茂が長宗我部元親勢と戦い討死したため、尾崎家の家督を相続した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
越智通喬【おちみちあき(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡鷹森館主。通称帯刀。足軽大将を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
越智道能【おちみちよし(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡鷹森館主。官途は美濃守。通称帯刀。1585年、「鷹森館の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
越智左近大夫【おちさこんだいふ(15??~15??)】
大祝安用家臣。越智郡好味館主。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
越智安成【おちやすなり(1522~1543)】
越智左近大夫の男。大祝鶴姫の許婚。1543年、「第三次大三島の戦い」で大内義隆の家臣陶晴賢勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
越智兵庫介【おちひょうごうのすけ(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
越智信濃守【おちしなののかみ(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡黒岩館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
越智式部【おちしきぶ(15??~15??)】
越智郡松尾館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
小渕右近【おぶちうこん(15??~15??)】
久枝宣盛家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
小野頼元【おのよりもと(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡田所館主。官途は上野守。1585年、「高尾城の戦い」で寺川祐家、加藤民部正とともに石川道清に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
小原通兼【おばらみちかね(15??~15??)】
重見通種の次男。1555年、「安芸厳島の戦い」で父の重見通種が陶晴賢に従い毛利元就勢と戦い討死したため、毛利元就に仕えた。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
小山兵庫正【おやまひょうごのしょう(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「第一次小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
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【か】
戒能通運【かいのうみちゆき(1482~1546)】
河野通直家臣。浮穴郡小手ヶ瀧館主。官途は伊賀守。河野家五家老職。小手ヶ瀧館、大熊館、小手瀧館、鳥屋森館を領した。1533年、「第一次小手ヶ瀧館の戦い」で大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1543年、「第二次小手ヶ瀧館の戦い」で大野利直勢と戦い大熊館に落延びた。「大熊館の戦い」で大野利直、黒川通俊勢と戦い黒川通俊を討取る戦功を挙げた。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。
戒能通森【かいのうみちもり(1517~1587)】
戒能通運の男。官途は備前守。別名戒能通盛。1543年、「第二次小手ヶ瀧館の戦い」で父の戒能通運とともに大野利直勢と戦い敗退した。1553年、「第三次小手ヶ瀧館の戦い」で大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1585年、「湯築城の戦い」で
降伏を主張したが受け入れられず孤立した。河野通直が降伏して改易処分に処されると帰農した。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。
戒能通邑【かいのうみちむら(15??~16??)】
戒能通森の男。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。
戒能伊織【かいのういおり(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
笠間正綱【かさままさつな(15??~15??)】
喜多郡笠間館主。宇都宮清綱の次男。通称蔵人尉。別名宇都宮政綱。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
笠間充綱【かさまみつつな(15??~15??)】
笠間正綱の男。官途は長門守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
笠間義綱【かさまいわみのかみ(15??~15??)】
笠間長門守の男。官途は石見守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
梶谷景則【かじやかげのり(15??~1577)】
宇都宮房綱家臣。喜多郡高森館主。官途は伊豆守。1576年、「高森館の戦い」で大野直之勢と戦い河野通直のもとに落延びた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
梶谷景雄【かじやかげたか(15??~15??)】
梶谷景則の男。通称中務丞。1578年、「第二次高森館の戦い」で大野直之勢と戦い戦功を挙げた。1580年、「龍王館の戦い」で岡宮内勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「四国討伐(天正の乱)」で小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
梶谷景晴【かじやかげはる(15??~15??)】
梶谷景則の次男。通称左衛門尉。1578年、「第二次高森館の戦い」で兄の梶谷景雄に従い大野直之勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
梶谷良景【かじやよしかげ(15??~15??)】
梶谷景則の三男。通称修理亮。1578年、「第二次高森館の戦い」で兄の梶谷景雄に従い大野直之勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
樫尾四郎兵衛尉【かしおしろうひょうえのじょう(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
勧修寺冬顕【かじゅうじふゆあき(15??~15??)】
宇和郡常盤館主。官途は兵庫介。別名勧修寺基明。西園寺家十五将。比叡山の僧兵。荘園に下向した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
観修寺基詮【かじゅうじもとあき(15??~15??)】
町顕古の男(勧修寺冬顕の養子)。官途は兵庫介。通称「御庄殿」。別名御荘定顕。1558年、「常盤館の戦い」で大友義鎮勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1575年、「渡川の戦い」で土居清良の支援を受け長宗我部元親勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1575年、「土佐四万十川の戦い」で一条兼定に従い長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。
観修寺基賢【かじゅうじもとのり(15??~15??)】
観修寺基詮の男。別名観修寺基経。1583年、「常盤館の戦い」で長宗我部元親勢と戦
い敗退した。1587年、戸田勝隆に改易処分に処された。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。
加藤民部正【かとうみんぶのしょう(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡御代島館主。1585年、「野々市の戦い」で寺川祐家、黒瀬道之とともに石川道清に従い小早川隆景勢勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
加藤治部之介【かとうじぶのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
加藤武兵衛【かとうぶへい(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
門田仁介【かどたじんすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
門真三郎兵衛尉【かどまさぶろうびょうえ(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
兼頭修理【かねがしらしゅり(15??~15??)】
黒川通博家臣。周桑郡兼頭館主。黒川家八人衆。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で黒川通博に従い小早川景隆勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
兼頭日向守【かねがしらひゅうがのかみ(15??~15??)】
黒川通博家臣。周桑郡文台館主。参考文献:「武将.net」bytoshi。
金子元成【かねこもとなり(15??~15??)】
新居郡金子山館主。通称十郎。知将。東伊予七人衆の筆頭。1572年、「高尾城の戦い」で石川通清勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
金子元宅【かねこもといえ(1551~1585)】
金子元成の男。官途は備後守。室は石川道清の娘。1578年、大西頼包の仲介で長宗我部元親に人質を差し出し降伏した。1585年、「氷見原の戦い」で長宗我部元親に従い小早川隆景勢と戦い敗退した。「高尾城の戦い」で石川勝重とともに小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
金子元春【かねこもとはる(15??~16??)】
金子元成の次男。官途は対馬守。1585年、「高尾城の戦い」で兄の金子元宅が小早川隆景勢と戦い討死したため、金子家の家督を相続した。「金子館の戦い」で小早川隆景、黒川広隆勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
金子家綱【かねこいえつな(15??~1585)】
金子元成の三男。通称孫八郎。1585年、「金子館の戦い」で金子元春とともに小早川景隆、黒川広隆勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
金子宅明【かねこいえあき(1573~1645)】
金子元宅の男。官途は周防守。通称弥右衛門。1578年、父の金子元宅が長宗我部元親に降伏したため、人質として土佐国に赴いた。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅が小早川隆景勢と戦い討死したため、長宗我部元親に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で長宗我部盛親が松平元康勢と戦い改易処分に処されたため、加藤嘉明に仕えた。1643年、加藤明成が改易処分に処されたため、山内忠義に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
金子元雅【かねこもとあき(15??~1615)】
金子元宅の次男。1585年、「高尾城の戦い」で父の金子元宅が小早川隆景勢と戦い討死したため、長宗我部元親のもとに落延びた。1615年、「大坂夏の陣」で長宗我部盛親に従い松平元康勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
金子基宅【かねこもといえ(15??~15??)】
金子元宅の三男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
馬場勘介【ばばかんすけ(1580~1626)】
金子元宅の四男(馬場甚右衛門の養子)。別名金子新発智丸。室は馬場甚右衛門の娘。1585年、「高尾城の戦い」で父の金子元宅が小早川隆景勢と戦い討死したため、長宗我部元親のもとに落延びた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
金田杢右衛門【かねだじょうえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
兼道日向守【かねみちひゅうがのかみ(15??~15??)】
黒川通博家臣。文台館主。御旗下組十三騎衆。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
鎌田将監【かまたしょうげん(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
鎌田甚八【かまたじんぱち(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡豊ヶ森館主。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
鎌居弥籐次郎【かまいよふじじろう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
上岡和光【かみおかかずみつ(15??~15??)】
勧修寺基詮家臣。官途は玄蕃允。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
上高田通宗 【かみたかだみちむね(15??~15??)】
津島通孝家臣。通称善介。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
神谷勘右衛門【かみやかんえもん(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
神野左馬充【かみのさまのじょう(15??~15??)】
来島村上通康家臣。野間郡怪島砦主。1585年、「怪島砦の戦い」で小早川隆景勢と戦い落砦した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
神野弥次郎【かみのよじろう(15??~15??)】
来島村上通康家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
神野又四郎【かみのまたしろう(15??~15??)】
来島村上通康家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
亀井万作【かめいまんさく(15??~1574)】
樋土靭負家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
加茂武兵衛【かもぶへい(15??~1574)】
得能通賢家臣。伊予郡山神館主。1574年、「大野ヶ原の戦い」で得能通賢に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
鴨池新左衛門【かもいけしんえもん(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
河上安勝【かわかみやすかつ(15??~1585)】
河野通直家臣。宇摩郡長田館主。官途は但馬守。1574年、「川之江館の戦い」で長宗我部元親に内応した妻鳥友春を討取る戦功を挙げた。川之江館を領した。1585年、「川之江館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い家臣の秋山嘉兵衛長が内応したため、退路を絶たれ討死した。参考文献:「風雲氷川城」by氷川秀穂。
川崎左衛門【かわさきさえもん(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡河原淵館の在番を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
河内吉行【かわちよしゆき(15??~15??)】
曾根宣高家臣。官途は駿河守。1577年、「龍王館の戦い」で曾根宣高に従い城戸直宗勢と戦い戦功を挙げた。龍王館を領した。1585年、「龍王館の戦い」で小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
川胯兵之助【かわまたへいのすけ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
河原与兵衛【かわはらよへい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
河原渕政忠【かわらぶちのりさだ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。宇和郡河後森城主。官途は越後守。別名河渡辺政忠。河後森城(16,500石)を領した。西園寺十五将の筆頭職を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
河原渕教忠【かわらぶちのりさだ(15??~15??)】
東小路法行の次男(河原渕政忠の養子)。室は河原渕政忠の娘。別名渡辺教忠。一条兼定の意向を受け河原渕政忠の養子を務めた。1567年、「河後森城の戦い」で西園寺公広勢と戦い敗退した。1580年、長宗我部元親に内応した家臣芝政景に河後森城を追われた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
管善兵衛【かんぜんべえ(15??~1585)】
石川通清家臣。徳永甚九郎とともに虎竹丸に仕えた。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
菊池喜右衛門【きくちきえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
菊池平兵衛【きくちへいべい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
菊池源左衛門【きくちげんざえもん(15??~15??)】
厚朴定信家臣。1575年、「朝立館の戦い」で厚朴定信が松内景連勢と戦い討死したため、厚朴定信の内室(八千代姫)と厚朴春信とともに菅田館に落延びた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
岸宗右衛門尉【きしむねえものじょう(15??~15??)】
土居通武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
岸村覚之助【きしむらえいのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
木瀬半右衛門【きせはんざえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
北川大之進【きたがわたいのしん(15??~15??)】
久枝宣盛家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
北左衛門尉【きたさえもんのじょう(15??~15??)】
大内信泰家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
北美濃守【きたみののかみ(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
北之川通安【きたのかわみちやす(15??~1581)】
西園寺公広家臣。宇和郡三瀧館主。官途は式部卿。別名紀経安。西園寺十五将。1581年、「窪野三瀧館の戦い」で長宗我部元親の家臣久武親直、桑名太郎左衛門、依岡左京勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
北之川親安【きたのかわちかやす(15??~1583)】
北之川経安の男。官途は式部卿。通称左衛門大夫。別名紀親安。室は波川清宗の娘。1583年、義父の波川清宗が長宗我部元親に謀反を起こしたため、謀反の嫌疑を受けた。「窪野三瀧館の戦い」で長宗我部元親の家臣久武親直勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
北之川正親【きたのかわまさちか(15??~1583)】
北之川親安の男。1583年、波川清宗の謀反に連座して土佐岡豊城内で長宗我部元親に謀殺された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
北之川宗親【きたのがわむねちか(15??~15??)】
北之川親安の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
北村甚五郎【きたむらじんごろう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
北山備中守【きたやまびっちゅうのかみ(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
木塔三郎兵衛【きとうさぶろうべえ(15??~15??)】
宇摩郡里之館主。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
城戸直泰【きどなおやす(15??~1574)】
大野利直四男。通称六郎。別名喜土直泰。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で長宗我部元親勢の支援を受けた曾根宣高勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
城戸直盛【きどなおもり(15??~1574)】
城戸直泰の男。通称六郎。別名喜土直泰。領民に慕われる名君。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で父の城戸直泰とともに長宗我部元親の支援を受けた曾根宣高勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
城戸直宗【きどなおむね(15??~15??)】
城戸直盛の男。通称新左衛門。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で父の城戸直盛が討死したため、城戸家の家督を相続した。1575年、「龍王館の戦い」で河野通直の支援を受け曾根宣高勢と戦い戦功を挙げた。1577年、「龍王館の戦い」で曾根宣高勢と戦い敗退した。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川景隆勢と戦い敗退した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
城戸源右衛門【きどげんえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
城戸右衛門尉【しろとうえもんのじょう(15??~15??)】
喜多郡日野館主。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
城戸太郎左衛門【しろとたろうざえもん(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
木原通繁【きはらみちしげ(15??~15??)】
重見通種の男。1555年、「安芸厳島の戦い」で父の重見通種が陶晴賢に従い毛利元就勢と戦い討死したため、毛利元就に仕えた。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
木村杢之介【きむらじんのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
櫛部兼氏【くしべかねうじ(15??~1580)】
河野通宣家臣。桑村郡象ヶ森館主。官途は肥後守。別名櫛部兼武。河野家十八将。1570年、三嶋神社に神鏡を奉納し社殿を修復した。1579年、「象ヶ森館の戦い」で金子元宅勢と戦い近田経治のもとに落延びた。1580年、「近田ヶ原館の戦い」で近田経治とともに金子元宅勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
櫛部兼久【くしべかねひさ(15??~1580)】
櫛部兼氏の男。官途は肥後守。別名櫛部宣武。1579年、「象ヶ森館の戦い」で父の櫛部兼氏ととに金子元宅勢と戦い近田経治のもとに落延びた。1580年、「近田ヶ原館の戦い」で櫛部兼氏とともに金子元宅勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
櫛部伊賀守【くしべいがのかみ(15??~15??)】
金子元成家臣。桑村郡藤森館主。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
忽那通乗【くつなみちのり(15??~15??)】
河野通宣家臣。温泉郡忽那山館主。板島海賊衆。1544年、「忽那山館の戦い」で大内義隆の家臣白井賢胤勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1556年、「忽那山館の戦い」で忽那通著、忽那通恭とともに大友義鎮の家臣若林鎮興勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
忽那通著【くつなみちあき(15??~1579)】
忽那通乗の男。官途は式部少輔。1565年、「湯築城の戦い」で来島村上通康、能島村上武吉とともに大友義鎮勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1578年、「第二次上月城の戦い」で小早川隆景に従い織田信長の家臣尼子勝久勢と戦い戦功を挙げた。1579年、「花瀬館の戦い」で長宗我部元親の家臣大野直之勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
忽那通恭【くつなみちのり(15??~1585)】
忽那通乗の次男。1579年、「花瀬館戦い」で兄の忽那通著が討死したため、忽那家の家督を相続した。1585年、「高峠城の戦い」で金子元宅に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
忽那通実【くつなみちざね(15??~1585)】
忽那通乗の三男。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
忽那豊前守【くつなぶぜんのかみ(15??~15??)】
忽那通著家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
工藤祐重【くどうすけしげ(15??~15??)】
石川通清家臣。新居郡野津子館主。通称兵部。別名工藤光信。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
国弘源左衛門尉【くにひろげんざえもんのじょう(15??~15??)】
南通方家臣。周布郡国弘館主。黒川家八人衆。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
窪儀兵衛【くぼぎへい(15??~1574)】
大野直昌家臣。祐筆を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
窪田作兵衛【くぼたさくべい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
久保田平助【くぼたへいすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
久保田修理之助【くぼたしゅりのすけ(15??~15??)】
土居通武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
久保照永【くぼてるなが(15??~15??)】
伊予郡黒山館主。久保照仲の男。官途は因幡守。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
久保照次【くぼてるつぐ(15??~15??)】
久保照永の男。通称左近大夫。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
久保照信【くぼてるのぶ(15??~15??)】
久保照次の男。通称左兵衛。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
久保好武【くぼよしたけ(15??~15??)】
久保照信の男。通称縫殿助。智勇兼備。1580年、「黒山館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1585年、「黒山館の戦い」で小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
久保盛恒【くぼもりつね(15??~15??)】
土居通武家臣。通称源左衛門尉。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
久保左衛門【くぼさえもん(15??~15??)】
久枝宣盛家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
久保高行【くぼたかゆき(15??~15??)】
喜多郡瀧山館主。久保道春の男。通称仁左衛門。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
久保行吉【くぼゆきよし(15??~15??)】
久保高行の男。官途は式部。通称仁左衛門。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
久保正行【くぼまさゆき(15??~15??)】
久保行吉の男。官途は伊豆守。通称仁左衛門。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
久保国春【くぼくにはる(15??~15??)】
久保正行の男。官途は美作守。通称仁左衛門。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
久保行春【くぼゆきはる(15??~15??)】
久保国春の男。1580年、「滝山館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1585年、「滝山館の戦い」で小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
熊康成【くまやすなり(15??~1574)】
大野直昌家臣。通称権兵衛。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
熊尾喜左衛門【くまおきざえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
熊式部之亟【くましくぶのじょう(15??~15??)】
土居通武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
久万出雲守【くまんいずものかみ(15??~15??)】
中川親武家臣。浮穴郡久万館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
久米道清【くめみちきよ(15??~15??)】
黒川道俊家臣。1543年、「鷺森館の戦い」で黒川道俊に従い壬生川通光勢と戦い壬生川通光を討取る戦功を挙げた。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
久米妥女正【くめうねめのじょう(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡北川館主。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
久米五郎右衛門尉【くめごろうえもんのじょう(15??~15??)】
黒川通博家臣。御旗下組十三騎衆。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
公文太郎兵衛尉【くもんたろうひょうえのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
粟上通妙【くりがみみちみょう(15??~1582)】
風早郡宅並館主。通称左衛門尉。1582年、南通方と粟井川の水利権を争い謀殺した。「宅並館の戦い」で南通具勢と戦い討死した。参考文献:「西国の山城」byトミー。
栗上通宗【くりがみみちむね(15??~15??)】
河野通直家臣。伊予郡松山館主。官途は因幡守。参考文献:「西国の山城」byトミー。
栗上通閑【くりがみつうかん(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は但馬守。参考文献:「西国の山城」byトミー。
栗田右衛門尉【くりたうえもんのじょう(15??~15??)】
大内信泰家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
栗田宗徳【くりたむねとく(15??~15??)】
戎能通郷家臣。喜多郡鳥屋ヶ森館主。官途は宮内少輔。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
栗原通員【くりはらみちかず(15??~15??)】
重見通種の三男。1555年、「安芸厳島の戦い」で父の重見通種が陶晴賢に従い毛利元就勢と戦い討死したため、毛利元就に仕えた。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
来島村上通康【くるしまみちやす(1519~1567)】
河野通直家臣。野間郡来島館主。官途は出雲守。別名村上通康。室は河野通直の娘。河野通直に仕え内政、外交、軍事の各方面での中心的役割を果た。1541年、「伊予一の宮の戦い」で得居通年、平岡直房、今岡通詮、能島村上武吉らとともに大内義隆勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1566年、「河野晴通の乱」で河野通直に従い河野晴通勢と戦い戦功を挙げた。1555年、「安芸厳島の戦い」で毛利元就を支援して陶晴賢勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
来島村上通清【くるしまみちきよ(1563~1638)】
村上通康の次男。別名村上通清。1582年、弟の村上通総とともに織田信長に内応した。「来島城の戦い」で能島村上武吉、因島村上吉充勢と戦い村上通総とともに織田信長のもとに落延びた。1600年、「伊勢鳥羽で戦い」で菅達長とともに石田三成に従い松平元康勢と敗退した。福島正則に仕えた。備後三原城代職(2,500石)を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
来島村上通総【くるしまみちふさ(1561~1597)】
来島村上通康の四男。官途は出雲守。通称助兵衛。別名村上通総。室は平賀広相の娘。1561年、「豊前蓑島沖の戦い」で能島村上武吉、能島村上武満、因島村上吉充、来島吉継とともに毛利元就に従い大友義鎮勢と戦い戦功を挙げた。1567年、父の来島村上通康が病没したため、来島家の家督を相続した。1582年、「来島城の戦い」で毛利輝元から離反して織田信長に内応したため、能島村上武吉、因島村上吉充勢と戦い織田信長勢のもとに落延びた。1582年、羽柴秀吉に仕えた。風早郡鹿島城(14,000石)を領した。1592年、「文禄の役」で兄の得居通之とともに羽柴秀吉勢に従い李氏朝鮮勢と戦い戦功を挙げた。1597年、「朝鮮鳴梁の戦い」で李氏朝鮮勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
来島村上長親【くるしまながちか(1582~1612)】
来島村上通総の男。通称右衛門。別名村上長親。1597年、「鳴梁の戦い」で父の来島村上通総が討死したため、来島家の家督を相続した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に属したが、松平元康に内応した。豊後国玖珠郡内で14,000石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
来島村上吉継【くるしまよしつぐ(15??~15??)】
来島村上通康家臣。官途は河内守。通称助右衛門尉。別名村上吉継。大山祇神社地頭神主。1554年、「岩伽羅城の戦い」で河野通宣の意向を受けた平岡房実に従い和田通興勢と戦い戦功を挙げた。1561年、「豊前蓑島沖の戦い」で能島村上武吉、村上武満、因島村上吉充とともに毛利元就に従い大友義鎮勢と戦い戦功を挙げた。1576年、「第一次木津川の戦い」で乃美宗勝に従い織田信長勢と戦い戦功を挙げた。1582年、兄の来島村上通総が毛利輝元から離反して織田信長に属したが、来島村上吉郷とともに毛利輝元に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
来島村上吉郷【くるしまよしさと(15??~15??)】
来島村上通康家臣。官途は越後守。別名村上吉郷。家老職を務めた。1561年、「豊前蓑島沖の戦い」で能島村上武吉、村上武満、因島村上吉充、来島吉継とともに毛利元就に従い大友義鎮勢と戦い戦功を挙げた。1582年、兄の来島村上通総が毛利輝元から離反して織田信長に属したが、村上吉継とともに毛利輝元に属した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
来島村上景房【くるしまかげふさ(15??~16??)】
村上吉継の孫。別名曾根景房。1600年、「伊予松山城の戦い」で村上吉忠、村上元吉とともに毛利輝元の意向を受け能島村上武吉に従い加藤嘉明の家臣加藤忠明、足立重信、佃十成勢と戦い敗退した。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
黒川久太郎【くろかわきゅうたろう(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
黒川通矩【くろかわみち(15??~15??)】
周布郡剣山城主。黒川通冬の男。官途は山城守。周布郡惣領職。1543年、「鷺森館の戦い」で壬生川通光勢と戦い壬生川通光を討取る戦功を挙げた。1547年、長宗我部国親との戦いに敗れた黒川通堯を保護した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
黒川通堯【くろかわみちあき(15??~15??)】
長宗我部兼序の次男(黒川通矩の養子)。官途は民部少輔。別名長宗我部元春。室は黒川通冬の娘。兄の長宗我部国親と争い黒川通矩のもとに落延びた。1574年、「榎館の戦い」で壬生川通国勢と戦い継嗣の黒川通長が討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
黒川通長【くろかわみちなが(15??~1574)】
黒川通堯の男。通称宗太郎。別名黒川通俊。1574年、壬生川通国を猿楽の宴に招き謀殺した。「榎館の戦い」で壬生川通国勢の反撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
黒川通俊【くろかわみちひろ(15??~1543)】
黒川通堯の次男。官途は対馬守。1543年、「大熊館の戦い」で戎能通運勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
黒川通博【くろかわみちひろ(15??~15??)】
正岡通純の次男(黒川通堯の養子)。官途は美濃守。別名正岡通博。室は河野晴通の娘。1572年、「高峠城の戦い」で石川道清勢と戦い戦功を挙げた。1575年、「鷺ノ森館の戦い」で金子元宅とともに壬生川通国勢と戦い壬生川通国を討取る戦功を挙げた。「備中福山城の戦い」で櫛部兼久、宇野家綱とともに毛利元就を支援して三村元親勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
黒川通貫【くろかわみちつら(15??~15??)】
黒川通博の男。官途は山城守。別名黒川五右衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
黒川通春【くろかわみちはる(15??~15??)】
黒川通春の次男。通称勘右衛門。別名佐伯勘右衛門。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
黒瀬道之【くろせみちゆき(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡由流館主。官途は飛騨守。別名黒瀬通信。1585年、「高尾城の戦い」で寺川祐家、加藤民部正とともに石川道清に従い小早川隆景勢勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
桑島四郎佐衛門尉【くわしましろうざえもん(15??~15??)】
黒川通博家臣。御旗下組十三騎衆。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
桑原泰国【くわはらやすくに(15??~1585)】
河野通直家臣。桑村郡鷺ノ森館主。通称三郎兵衛。1580年、鷺ノ森館主を務めた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「愛媛県のお城」by中西徹。
桑村左京之允【くわむらさきょうのじょう(15??~15??)】
桑原泰国家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
小出新兵衛【こいでしんべい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
小出平右衛門【こいでげいえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
鴻上山城守【こうかみやましろのかみ(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡船木伊保館主。通称八郎。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
厚朴定信【こうぼくさだのぶ(15??~1575)】
西園寺公家家臣。宇和郡朝立館主。通称佐兵衛。別名宇都宮定信。1575年、「朝立館の戦い」で松内景連勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
厚朴春信【こうぼくはるのぶ(15??~1582)】
厚朴定信の男。官途は備前守。別名宇都宮道信。1577年、「朝立館の戦い」で松内景連勢と戦い松内景連を討取る戦功を挙げた。1582年、「朝立館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
河野通宣【こうのみちのぶ(14??~1519)】
温泉郡湯築城主。河野教通の男。室町幕府伊予守護職。官途は刑部大輔。分家である予州家との対立して河野通篤に居城を追われたがまもなく奪回した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
河野通直【こうのみちなお(1500~1572)】
河野通宣の男。官途は弾正少弼。1519年、父の河野通宣が病没したため、河野家の家督を相続した。1540年、室町幕府御相伴衆を務めた。娘婿の来島村上通康に河野家の家督を譲ろうとしたが予州河野通存、家臣団の反対を受け来島村上通康とともに来島館に落延びた。家督を河野通存の継嗣河野通政に譲り権力を失った。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
河野通政【こうのみちまさ(1522~1543)】
河野通存の男(河野通直の養子)。1542年、養父の河野通直が来島村上通康に家督を譲ろうとしたため、河野通直と対立した。河野家臣団の支持を集め、河野通直を隠居に追込み河野惣領家の家督を相続した。1543年、継嗣をもうけることなく病没したため、弟の河野通宣が河野家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
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河野通宣【こうのみちのぶ(1522~1581)】
河野通直の男。官途は左京大夫。室は大友義鑑の娘。1543年、河野通政が病没したため、河野通直の後見を受け河野家の家督を相続した。家臣の来島村上通康や、岡房実、大野直之の謀反や大友義鎮、一条兼定、宇都宮豊綱と対立したため、領内は危機的状況に置かれた。毛利元就と従属的同盟を結び小早川隆景の支援を受けた。1568年、家督を河野通直に譲り隠居した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
河野通直【こうのみちなお(1564~1587)】
池原通吉の男(河野通宣の養子)。官途は伊予守。1568年、河野通宣の養子を務め、池原通吉の後見を受け河野家の家督を相続した。1568年、「鳥坂峠の戦い」で西園寺公広とともに毛利元就の支援を受け一条兼定、宇都宮豊綱、津野定勝勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「湯築城の戦い」で小早川隆景勢と戦い敗退したため、改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
河野通軌【こうのみちのり(15??~16??)】
宍戸元秀の次男(河野通直の養子)。通称善左衛門。別名宍戸景好。1600年、「伊予松山城の戦い」で曾根景房、村上吉忠、村上元吉とともに毛利輝元に支援を受け加藤嘉明の家臣加藤忠明、足立重信、佃十成勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
因島河野通冬【こうのみちふゆ(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。和気郡伊座ノ館主。通称左門。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
合郷田高阿弥【ごごうだたかあみ(15??~15??)】
土居通武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
小島又五郎【こじままたごろう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
小関織部【こぜきおりべ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
駒井勘蔵【こまいかんぞう(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
駒山仁右衛門【こまやまじんえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
薦田義清【こもたよしきよ(15??~1577)】
石川道清家臣。宇摩郡澁柿館主。官途は冶部少輔。1577年、「野々市の戦い」で真鍋通近とともに大西元武勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
薦田吉清【こもたよしきよ(15??~15??)】
石川道清家臣。宇摩郡中尾山館主。通称四郎兵衛。1572年、「川之江城の戦い」で三好長治に従い妻鳥友春勢と戦い戦功を挙げた。1577年、「松尾館の戦い」で薦田義清とともに大西頼武、大西元武勢戦い戦功を挙げた。参考文献:「武将.net」bytoshi。
薦田義定【こもたよしさだ(15??~1585)】
薦田吉清の男。官途は備中守。別名薦田義孝。1583年、木田館主薦田成道、横尾館主横尾国信とともに長宗我部元親勢に降伏した。1585年、「高尾城の戦い」で小早川隆景勢と戦い金子元宅ととも討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
薦田義孝【こもたよしたか(15??~15??)】
石川道清家臣。宇摩郡木田館主。官途は備中守。参考文献:「武将.net」bytoshi。
薦田成道【こもたなりみち(15??~1585)】
薦田義孝の男。通称四郎兵衛。1583年、薦田義清、横尾国信とともに長宗我部元親に降伏した。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅ととも小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
五郎丸長門守【ごろうまるながとのかみ(15??~15??)】
河原渕教忠家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
近藤尚盛【こんどうひさもり(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡横山館主。官途は長門守。通称四郎五郎。室は石川道清の娘。1585年、石川道清が病没したため、石川虎竹丸の後見役を務めた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景に降伏を図るが、金子元宅の主戦派に押し切られた。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅ととも小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
近藤直信【こんどうなおのぶ(15??~15??)】
近藤尚盛の男。通称太兵衛。1585年、「高尾城の戦い」で父の近藤尚盛が小早川隆景勢と戦い討死したため、畑野の落延びた。三崎神社を創建した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
近藤永寿【こんどうえいじゅ(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
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【さ】
西園寺公家【さいおんじきみいえ(14??~15??)】
宇和郡松葉城主。西園寺公季の男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
西園寺実充【さいおんじさねみつ(1510~1565)】
西園寺公家の男。官途は左近衛少将。1556年、「飛鳥館の戦い」で宇都宮豊綱勢と戦い継嗣の西園寺公高が討死した。河野通宣の仲介で宇都宮豊綱と和議を結んだ。松葉城から黒瀬城に転封した。1560年、従五位下左近衛少将に叙任された。1565年、京都の西園寺公朝の和歌会に列席した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
西園寺公高【さいおんじきんたか(1538~1556)】
西園寺実充の男。1556年、「飛鳥館の戦い」で宇都宮豊綱勢と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
西園寺公宣【さいおんじのぶきみ(15??~15??)】
西園寺公家の次男。室は一条房家の娘。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
西園寺公広【さいおんじきんひろ(1537~1587)】
西園寺公宣の男。室は西園寺実充の娘(西姫)。1556年、「飛鳥館の戦い」で宇都宮豊綱勢と戦い西園寺実充の継嗣西園寺公高が討死したため、西園寺実充の婿養子に迎えられた。1568年、「鳥坂峠の戦い」で河野通直とともに毛利元就の支援を受け一条兼定、宇都宮豊綱、津野定勝勢と戦い戦功を挙げた。1572年、「黒瀬城の戦い」で大友義鎮勢の支援を受けた一条兼定勢と戦い戦功を挙げた。1584年、「黒瀬城の戦い」で長宗我部元親勢と戦い敗退した。1585年、「四国征伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と戦い敗退した。1587年、羽柴秀吉の家臣戸田勝隆に謀殺された。参考文献:『戦国人名人名事典』by新人物往来社。
西園寺宣久【さいおんじのぶひさ(15??~1580)】
西園寺公宣の次男。 官途は志摩守。別名「板島殿」。西園寺十五将。1575年、家藤信種が道免館に転封したため、宇和郡丸串城を領した。著書に『伊勢参宮海陸の記』。辞世の句は、「朝な夕な何に心を尽くしてやいたづら事にけふとこそなれ」。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
西園寺信久【さいおんじのぶひさ(15??~15??)】
西園寺宣久の男。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
斉藤勘右衛門【さいとうかんえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
佐伯惟之【さえきこれゆき(15??~15??)】
黒川通博家臣。官途は伊賀守。御旗下組十三騎衆。1533年、「大熊館の戦い」で黒川通博に従い大野利直とともに戒能通森勢と戦い戦功を挙げた。大熊館を領した。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
佐伯惟重【さえきこれしげ(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は河内守。足軽大将を務めた。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
佐伯惟善【さえきこれよし(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡高森館主。通称重兵衛。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
桜井武蔵【さくらいむさし(15??~15??)】
土居清良家臣。軍配者を務めた。参考文献:「清良記」by清良の菴(きよよしのいおり)」。
桜井八蔵【さくらいはちぞう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
桜山馬之介【さくらやまうまのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
真田兵八郎【さなだへいはちろう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
佐良喜作【さらきさく(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
沢田惣次郎【さわだよじろう(15??~15??)】
大内信泰家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
沢辺新七【さわべしんしち(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
塩崎道兼【しおざきみちかね(15??~1585)】
金子元宅家臣。新居郡名護館主。官途は播磨守。普請奉行職を務めた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で加藤民部尉とともに小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
塩出忠重【しおでただしげ(15??~15??)】
石川通清家臣。新居郡江渕館主。官途は紀伊守。通称左衛門。六人の郡衆。参考文献:「金子備後守元宅と天正の陣」bytoshi。
塩見三郎兵衛【しおみさぶろうびょうえ(15??~1585)】
松木安村家臣。新居郡麓館主。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で松木新之丞に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
鹿田助七【しかだすけしち(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
重頭時保【しげかしらときやす(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡久主松岡館主。通称数馬。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
重見右衛門【しげみうえもん(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
重見通種【しげみみちたね(15??~1555)】
河野通直家臣。風早郡近見山館主。重見通昭の男。官途は因幡守。1522年、「大三島の戦い」で今岡治部丞、高山将監とともに大内義隆勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1523年、「鷹取山城の戦い」で河野通直の意向を受け正岡経貞勢と戦い戦功を挙げた。1530年、「近見山館の戦い」で河野通直勢と戦い大内義隆のもとに落延びた。1555年、「安芸厳島の戦い」で陶晴賢に従い毛利元就勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
重見通遠【しげみみちちか(15??~1530)】
重見通昭の次男。官途は近江守。1530年、「近見山館の戦い」で兄の重見通種とともに河野通直勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
重見通継【しげみみちつぐ(15??~15??)】
重見通昭の三男。官途は美濃守。別名重見通次。1572年、「川之江城の戦い」で三好長治勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1573年、「鳥坂峠の戦い」で長宗我部元親に内応した大野直之勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
重見通晴【しげみみちはる(15??~1585)】
重見通継の男。通称孫七郎。1573年、「鳥坂峠の戦い」で父の重見通遠とともに大野直之勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「近見山館の戦い」で小早川隆景に内応した来島村上通総、得居通年勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
下見越後守【したみえちごのかみ(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡石田西館主。家老職。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
猪袴五郎右衛門尉【ししかまごろうえもんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
篠尾正盛【しのおまさもり(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。官途は備後守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
篠塚丹後守【しのづかたんごのかみ(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
芝政輔【しばまさすけ(15??~15??)】
河原渕教忠家臣。宇和郡森館主。官途は常陸守。通称四郎右衛門。河上村の百姓。河原渕教忠に仕えた。鳥屋ヶ森館主を務めた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
芝蔵人【しばくらうど(15??~15??)】
芝政輔の男。別名小松新次郎。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
芝源三郎【しばげんざぶろう(15??~15??)】
芝政輔の次男。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
芝十郎【しばじゅうろう(15??~15??)】
芝政輔の三男。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
芝源四郎【しばげんしろう(15??~15??)】
芝政輔の四男。1580年、河原渕教忠を追放処分に処した。1582年、「河後森館の戦い」で長宗我部元親への内応を疑われ土居清良勢と戦い敗退した。逆心無しの起請文を記し許された。1585年、羽柴秀吉の家臣戸田勝隆に改易処分に処された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
治部新左衛門尉【じぶしんざえもんのじょう(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
島吉利【しまよしとし(15??~1602)】
能島村上武吉家臣。村上吉放の男。官途は越前守。別名村上吉利。1555年、「安芸厳島の戦い」で毛利元就に属した能島村上武吉に従い陶晴賢勢と戦い戦功を挙げた。1567年、「備前本太館の戦い」で三好長慶の家臣香西元載勢と戦い香西元載を討取る戦功を挙げた。1568年、三好長治、香西佳清と和議を結んだ。1571年、「備前本太館の戦い」で能島村上武吉が浦上宗景の支援を受け毛利輝元の小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
島吉知【しまよしとも(15??~16??)】
島吉利の男。通称又兵衛。1600年、弟の島吉氏とともに来島村上長親に仕えた。挨拶をすることもなく能島村上武吉のもとを退去したため、父の島吉利は激怒し二人の息子を破門とした。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
島吉方【しまよしかた(15??~16??)】
島吉利の次男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
島吉氏【しまよしうじ(15??~16??)】
島吉利の三男。1600年、兄の島吉知とともに来島村上長親に仕えた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
島吉繁【しまよししげ(15??~15??)】
島吉利の四男。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
清水通俊【しみずみちとし(15??~15??)】
正岡経長家臣。家老職。1585年、「鷹取山館の戦い」で正岡経長に従い小早川隆景勢と戦い敗退した。正岡経長が小早川隆景に謀殺されたため、正岡経長の遺児を養育した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
下村与七郎【しもむらよしち(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
上甲光康【じょうこうみつやす(15??~15??)】
西園寺実充家臣。飛鳥館代職を務めた。1556年、「飛鳥館の戦い」で宇都宮豊綱勢と戦い西園寺公高が討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
上甲筑前守【じょうこうちくぜんのかみ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。1572年、宇和郡沖之館(500貫)の加増を受けた。『戦国大名系譜人名事典(西国編)』by新人物往来社。
上甲伝兵衛尉【じょうこうでんべいのじょう(15??~15??)】
上甲筑前守の男。1575年、市之進に任じられた。『戦国大名系譜人名事典(西国編)』by新人物往来社。
首藤金世【しゅとうかねよ(15??~15??)】
黒川道俊家臣。1543年、「鷺ノ森館の戦い」で黒川道俊に従い壬生川通光勢と戦い壬生川通光を討取る戦功を挙げた。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
首藤金重【しゅとうかねしげ(15??~15??)】
首藤金世の弟。1543年、「鷺ノ森館の戦い」で黒川道俊に従い壬生川通光勢と戦い鵜木新左衛門を討取る戦功を挙げた。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
首藤大蔵充【しゅとうおおくらのじょう(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡玉之江館主。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
白石元綱【しらいしもとつな(15??~1585)】
金子元宅家臣。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
白石隼人頭【しらいしはやとのじょう(15??~15??)】
今岡伯耆守家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
白潟弥左衛門尉【しらかたよざえもんのじょう(15??~15??)】
平岡通房家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
白岩祐宗【しろいわさこんだいふ(15??~15??)】
北之川親安家臣。宇和郡白岩館主。通称左近太夫。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
信村助蔵【しんむらすけくら(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
末房惣五郎【すえふさそうごろう(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
菅家道広【すがいえみちひろ(15??~15??)】
宇和郡都合館主。官途は河内守。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
菅道雅【すがみちまさ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡銭尾館主。通称新左衛門。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
菅義充【すがよしあき(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡若山館主。通称内蔵之丞。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
杉原衛士助【すぎはらえしすけ(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
鈴木重保【すずきしげやす(15??~1585)】
松木安俊家臣。通称四郎大夫。家老職を務めた。1585年、「高尾城の戦い」で松木安村が金子元宅の高尾城に赴いたため、寡兵で生子山館を守備した。「生子山館の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「金子備後守元宅と天正の陣」bytoshi。
苞木将監【すぎほしょうげん(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
住田主税【すみだしゅぜい(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
清家次兵衛【せいけじへい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
清家郷右衛門尉【せいけごうえもんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
関大介【せきだいせき(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
摂津実親【せっつさねちか(15??~1540)】
宇和郡天神山館主。官途は豊後守。別名南方実親。西園寺十五将。天神山館(4,800石)を領した。1540年、「萩ノ森の戦い」で宇都宮房綱と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
摂津親安【せっつちかやす(15??~15??)】
摂津実親の次男。官途は摂津守。別名南方親安。1572年、「天神山館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
摂津親宗【せっつちかむね(15??~15??)】
摂津親安の男。宇和郡周木館主。通称久五郎。別名南方親宗。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
摂津親興【せっつちかおき(15??~15??)】
摂津親安の次男。別名南方親興。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
摂津大和守【せっつやまとのかみ(15??~15??)】
摂津実親家臣。宇和郡今城館主。別名「南方殿」。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
摂津親綱【せっつちかつな(15??~15??)】
摂津大和守家臣。宇和郡周治ヶ館主。官途は伊豆守。別名南方親綱。家老職を務めた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
摂津親家【せっつちかいえ(15??~15??)】
摂津親綱の男。通称主水。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
善家六郎兵衛【ぜんけろうべい(15??~15??)】
土居清良家臣。参考文献:「清良記」by清良の菴(きよよしのいおり)」。
曾我部左近【そかべさこん(15??~15??)】
黒川通博家臣。御旗下組十三騎衆。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
曾我部修理亮【そかべしゅりのじょう(15??~15??)】
黒川通博家臣。御旗下組十三騎衆。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
十河又五郎【そごうまたごろう(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡石田東館主。家老職。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
曾根高昌【そねたかまさ(1497~1556)】
喜多郡曾根城主。官途は左衛門尉。曾根城(16,000石)を領した。常久寺を菩提寺として厚く保護した。1532年、河野通直に仕えた。1542年、「米津館の戦い」で津々喜谷武綱勢と戦い戦功を挙げた。1556年、「鳥坂峠の戦い」で宇都宮豊綱に従い西園寺公広勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
曾根宣高【そねのぶたか(15??~15??)】
曾根高昌の男。官途は丹後守。通称勘解由左衛門。別名井上正継。1577年、「龍王館の戦い」で城戸直宗、大野直昌勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「曾根城の戦い」で小早川隆景勢と戦い敗退した。羽柴秀吉の家臣戸田勝隆に改易処分に処された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
曾根通之【そねみちゆき(15??~15??)】
津島通孝家臣。官途は近江守。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
曾根宇兵衛【そねうへい(15??~1574)】
大野直昌家臣。勘定奉行職を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
曾根七郎【そねしちろう(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡内ノ子館主。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
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【た】
高須賀左京【たかすがさきょう(15??~15??)】
戒能通森家臣。通称右兵衛。浮穴郡大熊館代職。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
高瀬左衛門尉【たかせさえもんのじょう(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
滝下小作【たきしたこさく(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
滝下六左衛門【たきしたろくざえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
高田若狭守【たかだわかさのかみ(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高田三河守【たかだみかわのかみ(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高大寺左馬之介【たかおおでらさまのすけ(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高橋光圀【たかはしみつくに(15??~1585)】
新居郡土居館主。官途は丹後守。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
高橋種茂【たかはしたねしげ(15??~1585)】
高橋光圀の弟。新居郡氷見高尾館主。官途は美濃守。1585年、「高尾城の戦い」で兄の高橋光圀とともに小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
高橋種光【たかはしたねみつ(15??~1585)】
高橋光圀の弟。官途は左馬之助。別名宇高種光。1585年、「高尾城の戦い」で兄の高橋光圀とともに小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
高橋種明【たかはしたねあき(15??~15??)】
高橋光圀の弟。通称左京佐。別名宇高種明。1585年、「高尾城の戦い」で兄の高橋光圀が小早川隆景勢と戦い討死したため、讃岐国に落延びた。西正寺を創建した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
高橋左右衛門太夫【たかはしそうえもんのたゆう(15??~15??)】
高橋光圀の男。1585年、「高尾城の戦い」で父の高橋光圀が小早川隆景勢と戦い討死したため、讃岐国に落延びた。南条一統、鳥羽一統を創設した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
高橋政輝【たかはしまさてる(15??~1585)】
金子元宅家臣。浮穴郡宇高館主。官途は美濃守。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
高橋伊賀守【たかはしいがのかみ(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡大生院館主。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「伊予の西条 歴史散策」bytakahashi。
高松美濃守【たかまつもののかみ(15??~15??)】
大内信泰家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高橋美濃守【たかはしみののかみ(15??~15??)】
石川通清家臣。新居郡古土居館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高橋次郎三郎【たかはしじろうさぶろう(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高森左兵衛尉【たかもりさじょうえのじょう(15??~15??)】
喜多郡高森館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高山左近将監【たかやまさこんのしょうげん(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高山和泉守【たかやまいずものかみ(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
高山籐蔵人【たかやまとうくろう(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
瀧口惣兵衛【たきぐちそうべい(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
武井通親【たけいみちちか(15??~15??)】
河野通直家臣。参考文献:「伊予の戦国史」bytakubo。
武井信通【たけいもぶみち(15??~1587)】
武井通親の男。参考文献:「伊予の戦国史」bytakubo。
武井貞通【たけいさだみち(15??~16??)】
武井信通の男。別名武井宗意。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で河野通直が羽柴秀吉勢と戦い滅亡たため、戸田勝隆に仕えた。喜多郡内で新田開発に務めた。1600年、「関ヶ原の役」で能島村上武吉から毛利輝元勢に加勢するよう求められた。参考文献:「伊予の戦国史」bytakubo。
武方次郎左衛門【たけかたじろうざえもん(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡北条館主。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
伊予武田信保【たけだのぶやす(14??~15??)】
越智郡龍門山館主。武田信友の男。官途は兵部小輔。1465年、父の武田信友が甥の武田元綱との安芸武田家の家督争いに敗れたため、安芸国から龍門山館に転封した。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信高【たけだのぶたか(14??~1525)】
武田信保の男。官途は備前守。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信充【たけだのぶみつ(15??~15??)】
武田信高の男。官途は近江守。室は相原主馬頭の娘。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信重【たけだのぶしげ(15??~15??)】
武田信充の男。周布郡志川文台館主。官途は備前守。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信戻【たけだのぶより(15??~15??)】
武田信重の男。通称治藤太。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信明【たけだのぶあき(15??~15??)】
武田信重の次男。通称隼人介。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信勝【たけだのぶかつ(15??~1585)】
武田信充の次男。室は武田右京進の娘。1562年、兄の武田信重に替わり龍門山館を領した。1568年、「宇和島の戦い」で長宗我部元親勢と戦い戦功を挙げた。1585年、「龍門山館の戦い」で来島村上道総勢と戦い討死した。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信吉【たけだのぶよし(15??~15??)】
武田信勝の男。通称真三郎。1585年、「龍門山館の戦い」で父の武田信勝が来島道総勢と戦い受討死したため、菩提寺の無量寺に落延びた。庄屋職を務めた。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信則【たけだのぶのり(15??~1585)】
武田信勝の三男。通称彦三郎。別名武田信行。1585年、「龍門山館の戦い」で父の武田信勝とともに来島道総勢と戦い討死した。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信鳳【たけだのぶおう(15??~1600)】
武田信勝の四男。通称政五郎。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
伊予武田信猶【たけだのぶなお(15??~16??)】
武田信勝の五男。通称源三郎。1585年、「龍門山館の戦い」で父の武田信勝が来島村上道総勢と戦い討死したため、周布郡石田に落延びた。参考文献:「高縄山のブログ」by藤岡安道。
武田九兵衛【たけだくへい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
武田真新三郎【たけだましんざぶろう(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
竹田右京進【たけだうきょうのしん(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
竹田市郎兵衛【たけだいちろうびょうえ(15??~1574)】
大野直昌家臣。通称市左衛門。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
武市右近【たけちうこん(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡畑ノ川上ノ段館主。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
近沢左兵衛【ちかざわさへい(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡亀ヶ館の在番を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
武市三雄【たけちみつお(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡河原淵館主。官途は近江守。通称近左衛門。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
武任備前守【たけとうびぜんのかみ(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
武任修理之進【たけとうしゅりのしん(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
立花直周【たちばな(15??~15??)】
浮穴郡立花館主。通称九郎兵衛。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
立林定男【たてばやしさだおみ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡久谷勝山館主。通称雅楽頭。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
立山修理【たてやましゅり(15??~15??)】
北之川親安家臣。宇和郡三瀧城代職を務めた。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
谷喜兵衛【たにきへい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
武畠修理之允【たけはたしゅりのじょう(15??~15??)】
平岡通房家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
玉井肥前守【たまいひぜんのかみ(15??~15??)】
土居通武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
玉井備前守【たまいびぜんのかみ(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡大頭館主。家老職。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
玉井又十郎【たまいまたじゅうろう(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡安井館主。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
玉井備後守【たまいびんごのかみ(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
玉津半太夫【たまつへんぺい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
田村徳右衛門【たむらとくえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
田原徳右衛門尉【たわらとくえもんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
垂水彦五郎【たるみずひこごろう(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡明河館主。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
垂水彦三郎【たるみずひこさぶろう(15??~15??)】
黒川通博家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
丹下平兵衛【たんげへいぞう(15??~1585)】
櫛部兼久家臣。1580年、「近田ヶ原館の戦い」で櫛部兼久が近田経治とともに金子元宅勢と戦い討死したため、象ヶ森館を拠点に金子元宅勢と対抗した。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川景隆勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
竹林院真清【ちくりんいんまさきよ(15??~15??)】
宇和郡是延一ノ森館主。通称右衛門佐。別名深田真清。西園寺十五将。是延一ノ森館(2,106石)を領した。1546年、「金山館の戦い」で今城能信、中野通宗とともに土居清貞に従い大友義鎮勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
竹林院公義【ちくりんいんきみよし(15??~15??)】
竹林院真清の男。別名深田公義。1570年、「是延一ノ森館の戦い」で一条兼定勢と戦い敗退した。1574年、西園寺公広の支援を受け是延一ノ森館に復帰した。1579年、「是延一ノ森館の戦い」で御手洗図書介が長宗我部元親の家臣久武親信に内応したため、敗退した。「是延一ノ森館の戦い」で久武親直、御手洗図書介勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
竹林院実親【ちくりんいんさねちか(15??~15??)】
竹林院公義の男。別名深田実親。1584年、「是延一ノ森館の戦い」で長宗我部元親の家臣久武親直勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
竹林院公明【ちくりんいんこうめい(15??~15??)】
竹林院真清の次男。通称右衛門佐。1579年、「是延一ノ森館の戦い」で御手洗図書介が長宗我部元親の家臣久武親直に内応したため、兄の竹林院公義とともに落延びた。「是延一ノ森館の戦い」で竹林院公義とともに久武親直、御手洗図書介勢と戦い戦功を挙げた。参考文献:「清良記」by清良の菴(きよよしのいおり)」。
津島通孝【つしまみちたか(15??~15??)】
西園寺公宣家臣。宇和郡釈ヶ森館主。官途は越前守。別名越智通孝。西園寺十五将。釈ヶ森館(10,000石)を領した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
津島通繁【つしまみちしげ(15??~1580)】
津島通孝の男。官途は安芸守。別名越智通繁。1575年、「土佐四万十川の戦い」で一条兼定勢を支援して長宗我部元親勢と戦い敗退した。1580年、「釈ヶ森館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
津島通顕【つしまみちあき(15??~15??)】
津島通繁の男。通称弥三郎。別名越智通顕。1580年、「釈ヶ森館の戦い」で父の津島通繁が長宗我部元親勢と戦い討死したため、津島家の家督を相続した。1582年、高田八幡宮を再興した。勧修寺基詮から養子を迎えた。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
津田久兵衛【つだきゅうべい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
津々喜谷延行【つつきたにのべゆき(15??~1579)】
喜多郡米津館主。官途は伊豆守。1579年、「米津館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い落城した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
津々喜谷高実【つつきたにのたかざね(15??~1580)】
津々喜谷延行の男。通称右京。1580年、「米津館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い討死した。内室の瑠璃姫は、継嗣の尊雄丸、八重姫、九重姫とともに落延びたが長宗我部元親勢に包囲された。辱めをうけることを潔しとせず尊雄丸を抱きかかえ滝に身を投じ自害した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
津々喜谷遠江守【つつきたにとうとむみのかみ(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
続谷覚之介【つづきやかくのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
津野新助【つのしんすけ(15??~15??)】
河原渕教忠家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
露口吉昌【つゆくちよしまさ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡菅生中ノ館主。通称清左衛門。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
鶴原宇衛門【つらはらうえもん(15??~1574)】
大野直昌家臣。勘定奉行職。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
鶴原慶総【つるはらよしそう(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡笠松館主。通称三郎兵衛。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
鶴原仙重郎【つるはらせんじゅうろう(15??~1574)】
鶴原慶総の男。小姓衆を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
出渕筑後守【でぶちちくごのかみ(15??~15??)】
笹ヶ頭館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
寺井市之丞【てらいいちのじょう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
寺川祐家【てらかわすけいえ(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡大保木館主。官途は丹後守。別名寺川通保。1585年、「高尾城の戦い」で黒瀬道之、加藤民部正とともに石川道清に従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
出羽出雲守【でわいずものかみ(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
土居通利【どいみちとし(15??~15??)】
河野通直家臣。久米郡土居館主。通称左馬介。河野家十八将。1572年、「川之江城の戦い」で黒川通博、壬生川通国、平岡通寄、平岡通長、南通師、土居通建、松末通仲、井門通知、井門義安とともに河野通直の意向を受け妻鳥友春を支援するため、三好長治勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1579年、「花瀬の戦い」で忽那通著とともに大野直之勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
土居建通【どいたけみつ(15??~15??)】
土居通利の男。官途は兵庫頭。1585年、「土居館の戦い」で小早川隆景勢とたた敗退した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
土居通方【どいみちかた(15??~15??)】
宇和郡太田館主。土居通季の男。官途は近江守。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
土居通匡【どいもみちまさ(1512~1574)】
土居通方の男。浮穴郡本川館主。官途は下野守。別名方玄。室は大野利直の娘。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
土居方貞【どいかたさだ(15??~15??)】
土居通匡の男。通称孫九郎。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で父の土居通匡が長宗我部元親勢と戦い討死したため、土居家の家督を相続した。大野直昌が後見役を務めた。1585年、「太田館の戦い」で小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:「戦国大名探究」by播磨屋。
土居通周【どいみちちか(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は宮内大輔。奉行衆。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。
土居清宗【どいきよむね(1483~1560)】
西園寺公宣家臣。宇和郡大森館主。官途は伊豆守。別名「宗雲」。西園寺十五将。成妙郷五ヶ村(2,600石)を領した。1546年、西園寺実充の意向を受け大森館から石館に転封した。「金山館の戦い」で今城能親、竹林院真清、中野通宗とともに大友義鎮勢を撃退する戦功を挙げた。1560年、「石館の戦い」で大友義鎮勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
土居清貞【どいきよさだ(15??~1560)】
土居清宗の男。1560年、「石館の戦い」で父の土居清宗とともに大友義鎮勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
土居清晴【どいきよはる(15??~1560)】
土居清宗の次男。官途は志摩守。室は西園寺実充の娘。1560年、「石館の戦い」で父の土居清宗とともに大友義鎮勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
土居清良【どいきよよし(1546~1629)】
土居清晴の三男(土居清貞の養子)。知勇兼備。1560年、「石館の戦い」で祖父の土居清宗、父の土居清晴が大友義鎮勢と戦い討死したため、一条兼定の家臣土居家忠のもとに落延びた。1563年、伊予大森館(2,000石)を領した。1569年、「大森館の戦い」で大友義鎮勢と戦いたが撃退した。1579年、「岡本館の戦い」で河野通賢、中野通賢、津島通顕、法華津前延、今城能完、竹林院実親とともに長宗我部元親の家臣久武親信勢と戦い久武親信を討取る戦功を挙げた。1585年、「四国征伐(天正の乱)」で小早川隆景勢と戦い敗退した。著書に『親民鑑月集』。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
土居方英【どいかたひで(15??~15??)】
喜多郡丸山館主。官途は下野守。参考文献:「清良記」by清良の菴(きよよしのいおり)」。
土居佐兵衛【どいさへい(15??~15??)】
土居清良家臣。参考文献:「清良記」by清良の菴(きよよしのいおり)」。
土居蔵人【どいくらうど(15??~15??)】
土居清良家臣。参考文献:「清良記」by清良の菴(きよよしのいおり)」。
土居右京進【どいうきょうのしん(15??~15??)】
土居清良家臣。参考文献:「清良記」by清良の菴(きよよしのいおり)」。
土居新右衛門【どいしんえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
洞木弥兵衛【どうぎよへい(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
東条籐兵衛尉【とうじょうとうべいのじょう(15??~15??)】
今岡伯耆守家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
得居通年【とくいみちゆき(1557~1597)】
河野通直家臣。風早郡恵良館主。来島村上通康の男。通称太郎左衛門。別名来島通幸。1582年、兄の来島村上通総とともに毛利輝元から離反して織田信長に仕えた。1583年、「鹿島砦の戦い」で能島村上武吉、因島村上吉充勢と戦い撃退する戦功を挙げた。1582年、毛利輝元に仕えた。1585年、「近見山館の戦い」で来島村上通総とともに小早川隆景に従い重見通晴勢と戦い重見通晴を討取る戦功を挙げた。来島村上通総に従い早郡鹿島城(14,000石)に転封した。1597年、「朝鮮鳴梁の戦い」で来島村上通総に従い朝鮮海賊衆と戦い討死した。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。
得居通光【とくいみちみつ(15??~15??)】
得居通年家臣。通称兵庫介。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
得居右馬之介【とくいさまのすけ(15??~15??)】
松末通為家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
得重石見守【とくしげいわみのかみ(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
徳永甚九郎【とくながじんくろう(15??~1585)】
石川通清家臣。石川虎竹丸の側近くに仕えた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で金子元宅従い小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
徳永修理亮【とくながしゅりのじょう(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡狭間館主。官途は因幡守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
得能道明【とくのうみちあき(15??~15??)】
宇都宮房綱家臣。周桑郡長崎館主。通称主膳。長崎館(241石)を領した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
得能通賢【とくのうみちかた(15??~15??)】
伊予郡由並本尊館主。官途は壱岐守。1580年、「由並本尊館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い敗退した。1585年、「由並本尊館の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
得能通能【とくのうみちよし(15??~15??)】
浮穴郡白石館主。通称遠江守。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
得能彦右衛門【とくのうひこえもん(15??~15??)】
兵頭越前守家臣。飯野森館代職を務めた。1575年、「飯野森館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い敗退した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
徳ノ森次郎兵衛門【とくのもりじろうべい(15??~1585)】
因島村上吉光家臣。喜多郡徳森館主。1585年、「岩伽羅城の戦い」で小早川景隆勢と戦い討死した。参考文献:「南予の古城」bytack7。
徳増右源太【とくますうげんた(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡石田館主。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
床崎綱実【とこさきつなざね(15??~1577)】
城戸直盛家臣。1574年、「龍王館の戦い」で城戸直盛が討死したため、城戸直宗を補佐した。1577年、「龍王館の戦い」で曾根宣高勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
戸田妥女正【とだうねめのしょう(15??~15??)】
黒川通博家臣。御旗下組十三騎衆。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
戸田六助【とだろくすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
土橋弥五郎【どばしよごろう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
富岡相模房【とみおかさがみのふさ(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
富永備中守【とみながびっちゅうのかみ(15??~15??)】
富永和泉守の男。自身が病弱だったため、妹婿の大野直澄に橘館を譲った。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
富永直安【とみながなおやす(15??~15??)】
喜多郡汗生館主。官途は美作守。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
富永昌光【とみながまさみつ(15??~15??)】
喜多郡月の尾館主。通称右近正。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
豊田勘左衛門【とよたかんざえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
豊間作右衛門【とよまさくえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
鳥越豊祗【とりごえとよぎ(15??~1574)】
大野直昌家臣。通称左門。御旗奉行職を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
鳥越源八【とりごえげんぱち(15??~1574)】
大野直昌家臣。別名高越源八。鉄炮小番頭を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
鳥生石見守【とりせいいわみのかみ(15??~1579)】
正岡経綱家臣。1579年、越智通能とともに謀反を企てた。幸門館内で別宮修理太夫、別宮縫殿助に討取られた。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
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【な】
長井三四郎【ながいさんしょうろ(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
中川親武【なかがわちかたけ(1523~1582)】
越智郡霊仙山館主。官途は常陸守。河野家十八家。1582年、「霊仙山館の戦い」で来島村上通総勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
中川通任【なかがわみちたけ(15??~15??)】
中川親武の弟。官途は山城守。1582年、「霊仙山館の戦い」で兄の中川親武が来島村上通総勢と戦い討死したため、中川家の家督を相続した。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と戦い敗退したため、帰農した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
中川籐左衛門尉【なかがわとうざえもんのじょう(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
中川三郎右衛門尉【なかがわさぶろうえもんのじょう(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
中川直清【なかがわなおきよ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡西谷城ヶ森館主。通称主繕正。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
中西佐衛門佐尉【なかにしさえもんのじょう(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
中野通宗【なかのみちむね(15??~15??)】
宇和郡岡本館主。別名河野通宗。西園寺十五将。岡本館(5,300石)を領した。1546年、「岡本館の戦い」で大友義鎮勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
中野通賢【なかのみちかた(15??~15??)】
中野通宗の男。通称新蔵人。別名河野兼通。1579年、「岡本館の戦い」で長宗我部元親の家臣久武親信勢と戦い降伏した。土居清良、津島通顕、法華津前延、今城能完、竹林院実親の支援を受け岡本館を奪還した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
中野通正【なかのみちまさ(15??~15??)】
宇和郡高森館主。別名河野通正。1560年、「高森館の戦い」で大友義鎮勢を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
中村永時【なかむらながとき(15??~15??)】
西園寺公広家臣。官途は播磨守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
中村兵衛次郎【なかむらひょうえじろう(15??~15??)】
和田通興家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
中太郎次郎【なかたろうじろう(15??~15??)】
和田通興家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
中村弥太郎【なかむらよたろう(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
長野越中守【ながのえっちゅうのかみ(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
長山豊岡【ながやまとよおか(15??~15??)】
北之川実次家臣。官途は伯耆守。1585年、「甲之森館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
永山伯耆守【ながやまほうきのきみ(15??~15??)】
北之川親安家臣。宇和郡甲森館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
難波江祐勝【なんばえすけかつ(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡上助手館主。官途は内蔵助。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
錦織勘解由左衛門尉【にしきおりかげゆざえもんのじょう(15??~15??)】
平岡通房家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
西新蔵人【にししんぞう(15??~15??)】
津島通孝家臣。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
西畑大炊【にしはたおおくら(15??~15??)】
久枝宣盛家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
西原済兵衛【にしはらさいべい(15??~15??)】
得能通賢家臣。伊予郡海辺館主。1574年、「大野ヶ原の戦い」で得能通賢に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
西原斉治【にしはらせいじ(15??~1574)】
西原済兵衛の男。小姓衆を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
西原斎宮【にしはらさいぐう(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡森ノ館主。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
西久左衛門尉【にしひささえもんのじょう(15??~15??)】
忽那通著家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
二宮市右衛門【にのみやいちえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
二宮新助【にのみやしんすけ(15??~1571)】
西園寺公広家臣。宇和郡山崎館主。西園寺公広から山崎館主に任じられた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
二宮範貞【にのみやのりさだ(15??~1619)】
二宮新助の男。通称主馬介。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
野開弥七兵衛【のかいよしちべい(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
野口左衛門尉【のぐちさえもんのじょう(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
野口四郎大夫【のぐちしろうだいふ(15??~15??)】
黒川通博家臣。周布郡田野館主。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
能島村上義雅【のしまよしまさ(15??~15??)】
大内義興家臣。能島隆勝の男。別名村上義雅。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上義益【のしまよします(15??~15??)】
能島義雅の男。官途は宮内少輔。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上義忠【のしまよしただ(1505~1535)】
村上隆勝の次男。官途は掃部頭。別名村上義忠。室は平岡房実の娘。1527年、父の村上隆勝が病没したため、能島村上家の家督を相続した。兄の能島村上義雅が病没したため、能島村上家の家督を相続した。1535年、能島村上義忠が病没したため、能島村上義益と能島村上武吉が能島村上家惣領職を争い能島隆重の支援を受けた能島村上武吉が能島村上家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上武吉【のしまたけよし(1533~1604)】
村上義忠の男。官途は武蔵守。別名村上武吉。室は来島村上通康の娘。1546年、村上隆重、能島村上義忠の支援を受け村上義益を追落とし能島村上家の家督を相続した。1555年、「安芸厳島の戦い」で毛利元就に従い陶晴賢勢と戦い戦功を挙げた。塩飽諸島など瀬戸内の海賊衆と結び、備中笠岡館に村上隆重、備前児島本太館に嶋吉利、周防上関館に村上武満を配して勢力を拡大した。1571年、毛利元就が病没したため、独立を図るが来島村上通総、因島村上吉充が小早川隆景に従い失敗した。1576年、「第一次木津川の戦い」で毛利輝元に従い織田信長勢と戦い織田家海賊衆を壊滅させる戦功を挙げた。1578年、「第二次木津川の戦い」で織田信長の海賊衆(鉄船六隻)と戦い敗退した。1600年、「関ヶ原の役」で石田三成に従い松平元康勢と戦い敗退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上元吉【のしまもとよし(1553~1600)】
能島村上武吉の男。官途は掃部頭。通称少輔太郎。別名村上元吉。室は小早川隆景の養女。1576年、「第一次木津川の戦い」で父の村上武吉とともに織田信長勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「来島城の戦い」で織田信長に内応した来島村上通総、得居通年勢と戦い戦功を挙げた。1582年、村上武吉が隠居したため、能島村上家の家督を相続した。1588年、「海賊禁止令」に違反したとして村上元吉とともに筑前加布里館に転封処分に処された。1592年、「文禄の役」で将兵、兵糧の輸送に功を上げた。1598年、安芸竹原館(4,700石)に転封した。1600年、「阿波猪山城の戦い」で蜂須賀家政勢と戦い戦功を挙げた。「三津刈屋口の戦い」で加藤嘉明の家臣佃十成勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上元武【のしまもとたけ(15??~16??)】
村上元吉の男。別名村上元武。1600年、毛利輝元に従い防長二ヶ国に転封して周防三田尻を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上景親【のしまかげちか(1558~1610)】
能島村上武吉の次男。通称三郎兵衛尉。別名村上景親。室は平岡房実の娘。1578年、「播磨上月城の戦い」で織田信長勢に属して毛利輝元勢と戦い戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」で吉川広家に従い朝鮮に渡海して捕縛した朝鮮貴族の娘を側室とした。1597年、小早川隆景が病没したため、毛利輝元に仕えた。安芸竹原城を領した。1600年、「阿波猪山館の戦い」で蜂須賀家政勢と戦い戦功を挙げた。毛利輝元に従い防長二ヶ国に転封して周防三田尻を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上元信【のしまもとのぶ(15??~15??)】
能島村上景親の次男。別名村上元信。兄の能島村上八助が病没したため、能島村上家の家督を相続した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上義久【のしまよしひさ(15??~15??)】
能島村上武吉家臣。官途は内巧頭。別名村上義久。1585年、能島村上武吉に従い安芸竹原城に転封した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上内匠【のじまたくみ(15??~1600)】
能島村上武吉家臣。別名村上内匠。1600年、「阿波猪山城の戦い」で村上景親に従い蜂須賀家政勢と戦い戦功を挙げた。「三津刈屋口の戦い」で村上元吉とともに加藤嘉明の家臣佃十成勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上三郎右衛門尉【のしまさぶろうえもんのじょう(15??~15??)】
能島村上武吉家臣。1588年、「海賊禁止令」に違反した能島清右衛門を弁明するため、羽柴秀吉の詰問を受けた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能島村上四兵衛【のしましろうえもん(15??~16??)】
能島村上武吉家臣。1600年、安宅船、関船二艘、小早船三艘を率い能島村上武吉のもとを退去した。加藤嘉明に仕えた。優遇されたが、酒盛りの帰りに船が転覆したため、溺死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
能瀬越前守【のせえちぜんのかみ(15??~15??)】
周布郡中森館主。1528年、「松尾館の戦い」で黒川通堯勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
野田与七【のだよしち(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
野田透之【のだすけゆき(15??~15??)】
石川道清家臣。宇摩郡野田館主。通称右京亮。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
信尾修理太夫【のぶおしゅりだいふ(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
野村助之進【のむらすけのしん(15??~15??)
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
野元式部之允【のもとしきぶのじょう(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
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【は】
長谷林右衛門【はせばやしうえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
泰備前守【はたびぜんのかみ(15??~15??)】
石川通清家臣。早川館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
馬場市郎兵衛【ばばいちろうびょうえ(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
垣生盛周【はぶもりちか(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は加賀守。1570年、平岡房実とともに奉行職を務めた。参考文献:「無名武将列伝」by内蔵助。
垣生盛国【はぶもりくに(15??~15??)】
垣生盛周の男。1585年、「湯築城の戦い」で河野通直が小早川隆景勢と戦い降伏すると、安芸国への減封に従った。参考文献:「無名武将列伝」by内蔵助。
林田善右衛門【はやしだぜんえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
林直尹【はやしなおいん(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡崎森館主。官途は勘解由。別名日野直尹。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
林忠左衛門【はやしちゅうざえもん(15??~15??)】
大野直昌家臣。崎森城勘解由の男。浮穴郡小田岩森館主。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
林清兵衛【はやしせいべい(15??~1574)】
大野直昌家臣。祐筆を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
林清吉【はやしきよよし(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
原大蔵少輔【はらおおくらしょうゆ(15??~15??)】
土居通武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
原正之【はらまさゆき(15??~15??)】
松木安村家臣。官途は伊賀守。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
原興生【はらいきお(15??~15??)】
来島村上通康家臣。官途は豊前守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
原備後守【はらびんごのかみ(15??~15??)】
来島村上通康家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
原六郎左衛門尉【はらろくろうえもんのじょう(15??~15??)】
来島村上通康家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
原四郎兵衛【はらしろうべい(15??~15??)】
来島村上通康家臣。家老職。1582年、来島村上通総が織田信長に内応すると、これに諫言したため、謀殺された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
原下総守【はらしもふさのかみ(15??~15??)】
来島村上通康家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
原次郎八【はらじろうはち(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
東多田宣綱【ひがしただのぶつな(15??~15??)】
宇和郡下木館主。官途は石見守。別名宇都宮宣綱。西園寺十五将。1575年、「下木館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い降伏した。1585年、「下木館の戦い」で小早川隆景勢と戦い降伏したが許されずに帰農した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
樋口喜兵衛【ひぐちくちべい(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
久松宣盛【ひさまつのぶもり(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は肥前守。1585年、「湯築城の戦い」で河野通直に従い小早川隆景勢と戦い降伏した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
久枝又左衛門【ひさえまたざえもん(15??~15??)】
西園寺公家家臣。1560年、長宗我部元親から書状を送られた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
久枝宣盛【ひさまつのぶもり(15??~15??)】
河野通直家臣。和気郡花見山館主。官途は肥前守。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
久畿田四郎兵衛尉【ひさきだしろうえもんのじょう(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
樋土次郎作【ひどじろうさく(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
樋土靭負【ひどのりゆき(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡日振館主。仕置奉行職を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
樋土次郎八【ひどじろうはち(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
日野勝友【ひのかつとも(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡日野館主。通称孫六郎。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
日野根五助【ひのねごすけ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
日吉六郎右衛門尉【ひよしろくろえもん(15??~15??)】
和田通興家臣。衣掛館主。1554年、「岩伽羅館の戦い」で河野通宣の意向を受けた平岡房実勢と戦い和田通興が討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
兵頭越前守【ひょうどうえちぜんのかみ(15??~15??)】
宇和郡飯野森館主。1572年、「飯野森館の戦い」で大友義鎮の家臣鶴原掃部、佐伯紀伊介勢と戦い、磯崎館主矢野家盛の兵とともに籠城して大友義鎮勢の舟を奪い撃退する戦功を挙げた。1575年、「飯野森館の戦い」で長宗我部元親勢に水の手を絶たれ落延びた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
兵頭右京【ひょうどううきょう(15??~15??)】
兵頭越前守家臣。兵頭越前守と交代で飯野森館代を務めた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
兵頭修理之進【ひょうどうしゅりのしん(15??~15??)】
兵頭越前守家臣。兵頭右京と交代で飯野森館代を務めた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
兵頭喜右衛門【ひょうどうきえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
平岡房実【ひらおかふさざね(1515~1574)】
河野通直家臣。越智郡荏原館主。官途は大和守。勇将。大友義鎮、三好長慶、長宗我部元親の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1554年、「岩伽羅館の戦い」で河野通直の意向を受け和田通興を討伐した。恩賞として和田通興の所領の三分の一、さらに吉山城を領した。参考文献:「無名武将列伝」by内蔵助。
平岡通資【ひらおかみちすけ(15??~15??)】
平岡房実の男。官途は宮内大輔。父平岡房実とともに奉行職を務めた。他家に養子に入り、弟の平岡通房が平岡家の家督を相続した。参考文献:「無名武将列伝」by内蔵助。
平岡通倚【ひらおかみちより(1551~1605)】
平岡房実の次男。浮穴郡棚居館主。官途は遠江守。別名平岡通房。1585年、「湯築城の戦い」で河野通直に従い小早川隆景勢と戦い敗退した。河野通直が改易処分に処されたため、河野通直に忠義を尽くした。1600年、「三津刈屋口の戦い」で會根景房、因島吉忠、能島村上元吉とともに河野通軌に従い加藤嘉明勢と戦い敗退した。参考文献:「無名武将列伝」by内蔵助。
平岡通資【ひらおかみちつけ(15??~15??)】
平岡通倚の男。1572年、「川之江城の戦い」で三好長治勢と戦いたが撃退した。参考文献:「無名武将列伝」by内蔵助。
平岡房衛【ひらおかふさかど(15??~15??)】
大野利直家臣。浮穴郡西町館主。官途は左近。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
平岡上野介【ひらおかこうずのすけ(15??~15??)】
平岡通房家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
平岡久太郎【ひらおかきゅうたろう(15??~1574)】
大手城右衛門の男。鉄砲小番頭を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
福田氏即【ふくだうじのり(15??~1585)】
新居郡高尾館主。官途は安芸守。1585年、「高尾館の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
福角隼人【ふくずみはやと(15??~15??)】
大内信泰家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
福角内蔵之助【ふくずみくらのすけ(15??~15??)】
桑原泰国家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
藤原五郎【ふじわらごろう(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
藤田孫次郎【ふじたまごじろう(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡岡崎館主。官途は大隅守。岡崎館(3,000石)を領した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
藤田芳雄【ふじたよしかつ(15??~1585)】
藤田孫次郎の男。官途は山城守。1585年、「野々市の戦い」で金子元宅に従い小早川隆景勢と戦い敗れ高尾城に籠城した。「高尾城の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
藤田俊忠【ふじたとしただ(15??~15??)】
原田芳雄の男。官途は大隅守。1585年、「岡崎館の戦い」で小早川景隆勢と戦い備後三原城主大崎玄蕃のもとに落延びた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
二神重直【ふたがみぶぜん(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は豊前守。風早郡鹿島城代職を務めた。1581年、「浅海原の戦い」で来島村上通総とともに池原通成を要撃して撃退する戦功を挙げた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
二神隼人佐【ふたがみはやとのさ(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
二神孫右衛門尉【ふたがみまごえもんのじょう(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
二神新左衛門尉【ふたがみしんざえもんのじょう(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
二神修理之進允【ふたがみしりのしんのじょう(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
二神和泉守【ふたがみいずみのかみ(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
二神越後守【ふたがみえちごのかみ(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
二神権之介【ふたがみごんのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
船草仲重【ふなくさなかしげ(15??~15??)】
大野利直家臣。浮穴郡船山館主。官途は出羽守。1568年、「久万山の戦い」で大野直昌に従い一条兼定勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
船草昌綱【ふなくさまさつな(15??~15??)】
船草仲重の男。官途は出羽守。1575年、「船草館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い落城した。1582年、雲巌和尚を迎え菩提寺として正覚山光明寺を建立した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
船草民丸【ふなくさみんまる(15??~1574)】
船草昌綱の男。小姓衆を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
船草重紀【ふなくさしげのり(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡高藪館主。通称五兵衛。鑓奉行職を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
法華津範延【ほけつあきのぶ(15??~1575)】
宇和郡法華津館主。官途は播磨守。西園寺十五将。別名法華津則延。海賊衆。1560年、「法華津館の戦い」で大友義鎮勢と戦い敗退した。西園寺実充の仲介で人質を大友義鎮のもとに送り和議を結んだ。1575年、「土佐四万十川の戦い」で一条兼定勢を支援して長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
法華津前延【ほけつあきのぶ(1521~1593)】
法華津範延の男。通称弥八郎。1575年、「土佐四万十川の戦い」で父の法華津範延、西園寺公広、津島通繁とともに一条兼定を支援して長宗我部元親勢と戦い敗退した。1579年、「岡本館の戦い」で土居清良とともに長宗我部元親の家臣久武親信勢と戦い久武親信を討取る戦功を挙げた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と敗退した。1588年、戸田勝隆に改易処分に処された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
法華津四郎左衛門尉【ほけつしろうざえもんのじょう(15??~15??)】
忽那通著家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
別宮光貞【べっくみつさだ(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は修理太夫。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
堀池右馬太夫【ほりいけうえもんだいふ(15??~15??)】
和田通興家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
堀池九郎三郎【ほりいけくろうざえもん(15??~15??)】
和田通興家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
堀内民部之亟【ほりうちみんぶのじょう(15??~15??)】
土居通武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
堀江右馬之介【ほりえうまのすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
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【ま】
前川八郎右衛門【まえかわはちろうえもん(15??~15??)】
久枝宣盛家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
牧野備前守【まきのびぜんのかみ(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
松浦貞宗【まつうらさだむね(15??~15??)】
土居清良家臣。別名松浦宗案。1564年、土居清良から農業についての諮問を受けた。著書に『清良記』『親民鑑月集』。参考文献:デジタル版 日本人名大辞典+Plus。
正岡経綱【まさおかつねつな(15??~15??)】
村上通綱の男(正岡経澄の養子)。越智郡幸門館主。室は別宮光貞の娘。1566年、河野晴通と来島村上通康が河野家惣領職を争い来島村上通康が敗れたため、隠居に追込まれた。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
正岡経政【まさおかつねまさ(1545~1585)】
正岡経綱の男。官名は右近太夫。室は河野晴通の娘。1566年、父の正岡経綱が隠居したため、別宮光貞の後見を受け正岡家の家督を相続した。1579年、鷹ヶ森館主越智通能と結び謀反を企てた家臣の鳥生石見守を討取る戦功を挙げた。1585年、「幸門館の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
正岡経貞【まさおかつねさだ(14??~15??)】
河野通直家臣。越智郡鷹取山館主。1527年、「鷹取山館の戦い」で河野通直から離反したため、河野通直の家臣重見通種、来島村上通康勢と戦い敗退した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
正岡経長【まさおかつねなが(15??~1585)】
正岡経貞の男。官途は紀伊守。1585年、「鷹取山館の戦い」で小早川隆景勢と戦い敗退した。兵糧が尽き和議を結んだが小早川隆景に謀殺された。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
正岡備中守【まさおかびぜんのかみ(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
正岡左衛門尉【まさおかさえもんのじょう(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
正岡三良【まさおかみよし(15??~15??)】
正岡経長家臣。通称九郎。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
正岡弥九郎【まさおかよくろう(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
正岡通高【まさおかみちたか(15??~15??)】
大野利昌家臣。浮穴郡東町館主。官途は右京太夫。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
松浦籐右衛門尉【まつうらとうえもんのじょう(15??~15??)】
大内信泰家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
松木安俊【まつきやすとし(15??~1579)】
石川道清家臣。新居郡生子山館主。官途は修理亮。1579年、「生子山館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
松木安村【まつきやすむら(1538~1585)】
松木安俊の男。官途は三河守。室は正岡重定の姉。1585年、「高尾城の戦い」で金子元宅とともに高尾城に籠城したが小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
松木俊元【まつきとしもと(15??~1585?)】
松木安村の男。通称三郎左衛門尉。室は山上治郎左衛門の娘。1585年、「高尾城の戦い」で父松木安村、金子元宅とともに高尾城に籠城したが小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
松木豊後守【まつきぶんごのかみ(15??~15??)】
新居郡松尾館主。1528年、「松尾館の戦い」で黒川通堯勢と戦い撃退した。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
町田経堯【まちだつねあき(15??~15??)】
河野通直家臣。奉行職を務めた。南通忠、久枝通倫、枝松盛和とともに連署した。参考文献:「無名武将列伝」byくらのすけ(蔵屑斎)。
町田彦九郎【まちだひこくろう(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
松浦善助【まつうらぜんすけ(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
松浦右衛門尉【まつうらうえもんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
松末通仲【まつすけみちなか(15??~15??)】
温泉郡桑原館主。1572年、「川之江城の戦い」で黒川通博、壬生川通国、平岡通寄、平岡通長、南通師、土居通建、土居通利、井門通知、井門義安とともに河野通直の意向を受け妻鳥友春を支援するため、三好長治勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
松末通為【まつすけみちため(15??~15??)】
松末通仲の男。官途は美濃守。1585年、「湯築城の戦い」で平岡通倚、大内信泰、戒能通森らとともに河野通直に従い小早川隆景勢と戦い敗退した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
松田宇右衛門尉【まつだうえもんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
松原与右衛門【まつばらよえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
松丸重宗【まつまるしげむね(15??~15??)】
西園寺公広家臣。宇和郡薄木館主。官途は三河守。河原渕教忠の寄騎衆を務めた。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
松本市右衛門【まつもとうちえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
松本弥五郎【まつもとよごろう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
松本左京佐【まつもとさきょうのさ(15??~15??)】
宇和郡弘見館主。官途は和泉守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
真鍋孝綱【まなべたかつな(1495~1556)】
細川元常家臣。新居郡中村真鍋館主。真鍋兼綱の男。官途は近江守。室は三好之長の娘。1522年、中村、萩生の穀倉地帯を領した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋家綱【まなべいえつな(15??~1585)】
真鍋孝綱の男。官途は佐渡守。真鍋六人衆。室は三好実休の娘。1585年、「高尾城の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋兼孝【まなべかねたか(15??~1585)】
真鍋孝綱の次男。官途は右京亮。真鍋六人衆。1585年、「高尾城の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋兼昌【まなべたかねまさ(15??~15??)】
真鍋兼孝家臣。通称助右衛門。室は真鍋兼孝の娘。1585年、「高尾城の戦い」で義父の真鍋兼孝が小早川隆景勢と戦い討死したため、土佐国に落延びた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋兼之【まなべたねゆき(15??~15??)】
真鍋兼昌の男。通称宗兵衛。1585年、「高尾城の戦い」で真鍋兼孝が小早川隆景勢と戦い討死したため、父真鍋兼昌とともに土佐国に落延びた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋行綱【まなべゆきつな(15??~1585)】
真鍋孝綱の三男。官途は勘解由。真鍋六人衆。1585年、「高尾城の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋政綱【まなべまさつな(15??~1585)】
真鍋行綱の男。官途は越後守。1585年、「高尾城の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋亮綱【まなべりょうつな(15??~1585)】
真鍋政綱の男。通称孫九郎。1585年、「高尾城の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋安政【まなべやすまさ(15??~1585)】
真鍋家綱の男。官途は佐渡守。1585年、「高尾城の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋兼綱【まなべかねつな(15??~15??)】
真鍋家綱の次男。通称孫太郎。真鍋六人衆。真鍋流弓術の祖で弓の名人で五町隔ても飛ぶ鳥又は提針を射落す腕前。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋吉綱【まなべよしつな(15??~15??)】
真鍋家綱の三男。官途は長門守。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
真鍋通近【まなべみちちか(15??~1577)】
石川道清家臣。宇摩郡松尾館主。通称大炊介。1577年、「野々市の戦い」で薦田義清とともに大西元武勢と戦い討死した。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
真鍋左衛門佐【まなべさえものさ(15??~15??)】
真鍋通近の男。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
三浦五郎八【みうらごろうはち(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
水口大炊介【みずぐちおおくらすけ(15??~15??)】
平岡通房家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
水野太兵衛【みずのたへい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
水沼治部太夫【みずぬまじぶだいふ(15??~15??)】
祖母井之重家臣。喜多郡水沼館主。参考文献:「南予の古城」bytack7。
水沼左京【みずぬまさきょう(15??~15??)】
水沼治部太夫の男。1544年、「第一次祖母井館の戦い」で大野直家勢と戦い祖母井之重が落延びた。「第二次祖母井館の戦い」で祖母井之泰に従い大野直家の家臣大野直光を討取り祖母井之泰を館主に迎えた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
水沼興成【みずぬまおきなり(15??~15??)】
水沼左京の男。通称式部。参考文献:「南予の古城」bytack7。
水沼権太夫【みずぬまこんだいふ(15??~15??)】
水沼興成の男。官途は豊前守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
御手洗図書介【みたらいとしょのすけ(15??~15??)】
竹林院真清家臣。1579年、「一ノ森館の戦い」で長宗我部元親に内応して久武親直勢を一ノ森館に引き入れ竹林院真清を追落とした。「一ノ森館の戦い」で竹林院公明勢の反撃を受け土佐国に落延びた。参考文献:「清良記」by清良の菴(きよよしのいおり)」。
満蔵加賀守【みつくらかがのかみ(15??~15??)】
勧修寺基詮家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
三瀬若山【みつせわかやま(15??~15??)】
西園寺公広家臣。宇和郡若山館主。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
三瀬左衛門【みつせさえもん(15??~15??)】
三瀬若山の男。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
三瀬六兵衛【みつせろくべい(15??~1600)】
三瀬左衛門の男。1587年、西園寺公広が羽柴秀吉の家臣戸田勝隆に謀殺されたため、藤堂高虎に仕えた。1600年、「関ヶ原の役」で毛利輝元に内応したため、藤堂高虎の家臣力石是兵衛勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
光増飛弾守【みつますひだのかみ(15??~15??)】
石川道清家臣。新居郡奥の館主。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
南通方【みなみみちかた(15??~1582)】
風早郡横山館主。官途は美作守。河野家十八将。1575年、「石川通清の乱」で河野通直に従い石川通清勢と戦い戦功を挙げた。1582年、粟上通妙と粟井川の水利権を争い謀殺された。参考文献:「西国の山城」byトミー。
南通師【みなみみちもろ(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は美作守。1572年、「川之江城の戦い」で河野通直の意向を受け妻鳥友春を支援するため、三好長治勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「西国の山城」byトミー。
南通具【みなみみちつぐ(15??~1585)】
南通方の男。通称彦四郎。1582年、父の南通方が粟上通妙に謀殺されたため、南家の家督を相続した。「宅並館の戦い」で栗上通妙勢と戦い栗上通妙を討取る戦功を挙げた。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「西国の山城」byトミー。
南通忠【みなみみちただ(15??~15??)】
河野通直家臣。奉者職を務めた。町田経堯とともに連署した。参考文献:「西国の山城」byトミー。
南新蔵人【みなみしんくろうど(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
壬生川通光【みぶかわみちみつ(15??~15??)】
新居郡鷺ノ森館主。官途は摂津守。河野家の十八将。1543年、「鷺ノ森館の戦い」で黒川道俊勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。参考文献:「西国の山城」byトミー。
壬生川通国【みぶかわみちくに(15??~1575)】
壬生川通光の男。1550年、「鷺ノ森館の戦い」で金子元宅、黒川通堯勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1571年、「鷺ノ森館の戦い」で金子元宅、黒川通堯勢と戦いると、毛利元就の家臣高橋右京進の支援を受け撃退した。1572年、「石川通清の乱」で石川通清が三好長治と結び謀反を起こすと河野通直に従い石川通清と戦い討取る戦功を戦功を挙げた。1575年、「鷺ノ森城の戦い」で金子元宅、黒川通博勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
壬生川泰国【みぶかわやすくに(15??~1585)】
壬生川通国の男。別名桑原泰国。1585年、「四国討伐(天正の陣)」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
宮内休意【みやうちきゅうい(15??~16??)】
河野通直家臣。1600年、「関ヶ原の役」で能島村上武吉から毛利輝元に加勢するように求められた。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
宮川市蔵【みやかわいちぞう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
三宅善三郎【みやけぜんざぶろう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
宮脇新左衛門尉【みやわきしんざえもんのじょう(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
宮田道後【みやたみちご(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡轆轤館主。通称右京進。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
宮山三郎左衛門尉【みややまさぶろうざえもんのじょう(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
三好秀吉【みよしひでよし(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は長門守。1585年、「湯築城の戦い」で河野通直に従い小早川隆景勢と戦い降伏した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
津富里正親【みよしまさちか(15??~1573)】
宇和郡津富里館主。通称藤蔵人。1573年、「津富里館の戦い」で大友義鎮勢と戦い討死した。参考文献:「西国の山城」byトミー。
安土春純【みよしはるずみ(15??~15??)】
三瓶町安土館主。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
安土春義【みよしはるよし(15??~1579)】
三善春純の男。1579年、「岡本館の戦い」で河野兼通に従い長宗我部元親の家臣久武親信、佐竹太郎兵衛、山田外記勢と戦い討死した。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
三善治部右衛門尉【みよしじぶざえもんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「西国の山城」byトミー。
向井源蔵【むかいげんぞう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
向井筑前守【むかいちくぜんのかみ(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
向井伊兵衛【むかいいへい(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
向井行直【むかいゆきなお(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。官途は安芸守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
村尾茂兵衛【むらおもへい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
村上与三兵衛【むらかみよさんぺい(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
明神里壽【めいしんさとひろ(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡葛懸館主。通称清右衛門。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
目見田修理允【めみたしゅるのじょう(15??~15??)】
得居通年家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
目見田左馬介【めみたさまのすけ(15??~15??)】
中川親武家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
妻鳥助兵衛門【めんどりすけのひょうえもん(15??~15??)】
宇摩郡川之江館主。1578年、「川之江城の戦い」で継嗣の妻鳥友春が長宗我部元親に内応したため、人質として土佐国に赴いた。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
妻鳥友春【めんどりともはる(15??~1585)】
妻鳥助兵衛門の男。官途は釆女正。鉄砲の名手。1572年、「川之江館の戦い」で三好長治勢の攻撃を撃退する戦功を挙げた。1578年、「川之江城の戦い」で長宗我部元親に内応したため、河野通直の家臣河上安勝勢と戦い川之江城を失った。長宗我部元親勢の支援を受け河上安勝勢を川之江城から追落とした。1585年、「川之江城の戦い」で毛利輝元の家臣吉川元長勢と戦い討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
森田平助【もりたへいすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
森平内左衛門尉【もりへいんないさえもんのじょう(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
森山直安【もりやまなおやす(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。官途は美作守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
森義長【もりよしなが(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡真ヶ城館主。官途は讃岐守。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
門真六郎兵衛尉【もんまろくろうへいのじょう(15??~15??)】
正岡経長家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
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【や】
薬師寺五郎三郎【やくしじごろうさぶろう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
薬師寺伝左衛門尉【やくしじでんざえもん(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
八黒関右衛門【やぐろせきえもん(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
安持馬之助【やすもちうまのすけ(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
安持頼康【やすもちよりやす(15??~15??)】
喜多郡轆轤館主。官途は備前守。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
矢野正秀【やのまさひで(15??~1577)】
喜多郡大陰館主。官途は常陸介。1577年、「大陰館の戦い」で長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
矢野正高【やのまさたか(15??~15??)】
矢野正秀の男。官途は出雲守。1577年、「大陰館の戦い」で父の矢野正秀が長宗我部元親勢と戦い討死したため、河野通直のもとに落延びた。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
矢野家成【やのいえなり(15??~15??)】
摂津実親家臣。宇和郡天神山館主。官途は民部少輔。室は摂津実親の娘。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
矢野家業【やのいえなり(15??~15??)】
摂津親家の次男(矢野家成の養子)。官途は民部少輔。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
矢野家森【やのいえもり(15??~15??)】
摂津実親家臣。宇和郡城之森館主。通称主馬。参考文献:「島田勘兵衛風雲録」by弁丸。
矢野加左衛門【やのかえもん(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
矢野兵庫介【やのひょうごのすけ(15??~15??)】
忽那通著家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
矢野新兵衛【やのしんべい(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
矢野行定【やのゆきさだ(15??~15??)】
因島村上吉光家臣。官途は若狭守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
矢部兵介【やべひょうすけ(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
矢野源左衛門【やのげんざえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
山口義煕【やまぐちよしあつ(15??~15??)】
大野直昌家臣。浮穴郡久万野尻館主。別名「甫順」。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
山崎通国【やまざきみちくに(15??~15??)】
西園寺公広家臣。通称助太良。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
山下俊朗【やましたとしろう(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡天神森館主。通称金兵衛。鉄砲小番頭を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
山下喜作【やましたきさく(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
山下宇八郎【やましたうはちろう(15??~1574)】
大野直昌家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
山田春範【やまだはるのり(15??~15??)】
西園寺公家家臣。宇和郡山田館主。官途は三河守。通称左衛門佐。奉行衆を務めた。長宗我部元親の書状で宇都宮興綱とともに西園寺公広への執り成しを依頼された。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
山之内豊忠【やまのうちとよただ(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡越木甫館主。官途は丹波守。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
山之内左忠【やまのうちさちゅう(15??~1574)】
大野直昌家臣。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
山前勘解由【やままえかげゆ(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
山本小右衛門【やまもとこえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
行元亦四郎【ゆきもとたけしろう(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
結城与一郎【ゆうきよいちろう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
由並通賢【ゆなみみちかた(15??~15??)】
河野通直家臣。浮穴郡由並館主。官途は壱岐守。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
由並通資【ゆなみみちすけ(15??~15??)】
由並通賢の男。1585年、「由並館の戦い」で小早川隆景と戦い降伏した。参考文献:「西国の山城」byトミー。
要害伊賀守【ようがいいがのかみ(15??~1585)】
石川道清家臣。新居郡泉川館主。1585年、「泉川館の戦い」で小早川隆景勢と戦い討死した。参考文献:「伊予西条 歴史散策」byTakahashi。
横尾国信【よこおくにのぶ(15??~1585)】
宇摩郡横尾館主。官途は山城守。1583年、澁柿館主薦田義清、中尾山館薦田成道とともに長宗我部元親勢に降伏した。1585年、「横尾館の戦い」で小早川隆景勢勢と戦い討死した。参考文献:「武将.net」bytoshi。
吉井主水介【よしいもんどのすけ(15??~15??)】
戒能通森家臣。戒能家十四騎衆。1553年、「小手ヶ瀧館の戦い」で戒能通森に従い大野利直勢と戦い撃退する戦功を挙げた。吉井神社の社殿を建立した。参考文献:「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki。
吉沢八郎兵衛【よしざわはちろうびょうえ(15??~1574)】
大野直昌家臣。勘定奉行職を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
吉沢茂久【よしざわしげひさ(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴君ヶ館主。通称喜兵衛。勘定奉行職を務めた。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
吉見新三郎【よしみしんざぶろう(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
吉原新右衛門尉【よしわらしんえもんのじょう(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
吉原式部少輔【よしわらしきぶしょうゆ(15??~15??)】
南通方家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
両出右衛門【りょうでさえもん(15??~15??)】
河原渕教忠家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
若山八右衛門【わかやまはちえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
和気越前守【わきえちぜんのかみ(15??~15??)】
大野直澄家臣。喜多郡堀館主。1585年、大野直澄の意向を受け橘館から松の窪館に転封した。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
脇谷伊右衛門【わきさかいえもん(15??~15??)】
宇都宮豊綱家臣。参考文献:「伊予宇都宮氏と家臣団」by日本士族の会。
渡部満時【わたべみつとき(14??~15??)】
周布郡三谷館主。官途は若狭守。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
渡部満綱【わたべみつつな(15??~1531)】
渡部満時の男。官途は越中守。別名渡部光綱。1531年、「三谷館の戦い」で黒川通堯勢の攻撃受け討死した。参考文献:「予州一色氏祖」by一色右馬三郎。
渡部忠綱【わたべただつな(15??~15??)】
戎能通郷家臣。通称伝左衛門尉。参考文献:「城郭放浪記」byPEI.。
渡部四郎兵衛尉【わたべしろうえもんのじょう(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
渡部丹後守【わたべたんごのかみ(15??~15??)】
和田通興家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
渡部兵右衛門尉【わたべひょうえもんのじょう(15??~15??)】
西園寺公広家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
渡辺四郎兵衛【わたなべしろうびょうへ(15??~15??)】
櫛部兼氏家臣。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
渡辺一綱【わたなべかずつな(15??~15??)】
大野利直家臣。浮穴郡池峠館主。通称左馬介。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
渡辺右馬允【わたなべうまのじょう(15??~1574)】
大野直昌家臣。浮穴郡池峠館主。通称左馬之介。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
和田通興【わだみちおき(15??~1554)】
河野通宣家臣。久米郡岩伽羅館主。官途は三河守。河野家十八将。1554年、「重信川の戦い」で河野通宣の意向を受けた平岡房実勢と戦い退路を絶たれ自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
和田吉盛【わだよしもり(15??~1559)】
和田通興の男。官途は河内守。1554年、「重信川の戦い」で父の和田通興とともに平岡房実勢と戦い和田通興は自刃した。1559年、「吉山館の戦い」で平岡房実勢と戦いたが撃退した。不治の病にかかり「われを神に祀れば疫病に病み苦しむ者を救わん」と遺言を残して自刃した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
和田通勝【わだみちかつ(15??~15??)】
和田通興家臣。1554年、「重信川の戦い」で和田通興が河野通宣の家臣平岡房実に討取られたため、枝連衆の和田通勝が岩伽羅館を務めた。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
和田通繁【わだみちしげ(15??~1585)】
和田通勝の男。1585年、「岩伽羅城の戦い」で小早川景隆勢と戦い討死した。参考文献:「美須麻流之珠」by立花利康。
和田兵庫介【わだひょうごのすけ(15??~15??)】
和田通興家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
和田采女正【わだうねめのしょう(15??~15??)】
来島村上通康家臣。参考文献:「河野分限録」by水里玄義。
和田孫六【わだまごろく(15??~1574)】
大野利直家臣。馬廻衆。1574年、「笹ヶ峠の戦い」で大野直昌に従い長宗我部元親勢と戦い討死した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
和田通勝【わだみちかつ(15??~15??)】
河野通直家臣。官途は山城守。1585年、「湯築城の戦い」で河野通直に従い小早川隆景勢と戦い降伏した。参考文献:「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター。
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【資料Ⅰ】
伊予国(14郡/384,000石)
宇摩郡:川之江城(20,000石)。
新居郡:高峠城(26,000石)。
周布郡:剣山城(20,000石)。
桑村郡:鷺ノ森城(12,000石)。
越智郡:能島城、鷹取城(38,000石)。
野間郡:来島城(14,000石)。
風早郡:恵良城、近見山城(16,000石)。
和気郡:塩森城、花見山城(14,000石)。
温泉郡:湯築城、忽那城(20,000石)。
久米郡:土居城、岩伽羅城(14,000石)。
浮穴郡:大熊城、小手ヶ滝城(34,000石)。
伊予郡:松山城(24,000石)。
喜多郡:大洲城(32,000石)。
宇和郡:黒瀬城、宇和島城(100,000石)。
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【資料Ⅱ】
石川家六人衆【いしかわけろくにんしゅう】
横山館主近藤尚盛、狭間館主徳永信貞、江渕館主塩出紀伊守、金子城主金子元宅、生子山館主松木三河守、岡崎館主藤田山城守。
河野家十八将【こうのけじゅうはっしょう】
越智郡能島館主能島隆勝、備後因島館主因島吉光、野間郡来島城主来島村上通康、温泉郡忽那館主忽那通乗、風早郡恵良館主得居通年、和気郡塩森館主大内信泰、浮穴郡棚居館主平岡通倚、風早郡横山館主南通師、久米郡土居館主土居建通、温泉郡松末館主松末通為、和気郡花見山館主久枝宣盛、桑村郡鷺森館主桑原泰国、浮穴郡大熊館主戒能通森、上島甘埼館主今岡民部大輔、越智郡霊山館主中川通任、越智郡鷹取館主正岡経貞、周布郡剣山館主黒川通博、久米郡岩伽羅館主和田通勝、風早郡近見山館主重見通種、越智郡荏原館主平岡房実、浮穴郡小手ヶ瀧館主戒能通運。
西園寺家十五将【さいおんじじゅうごしょう】
黒瀬城主西園寺公広、丸串城主西園寺宣久、常盤館主観修寺基栓 、天ヶ森館主津島通顕、法華津本館主法華津前延、宇和郡金山館主今城能定、大森館主土居清良、高森館主河野通賢、一之森館主竹林院実親 、河後森館主河原渕教忠、三滝館主北之川通安、宇和郡龍ヶ森館主魚成親能、白木館主宇都宮乗綱、萩之森館主宇都宮房綱 、元城主南方親安。
西園寺家馬廻七人衆【さいおんじけうままわりななにんしゅう】
岡田越中守、赤松肥前守、大森日向守、宇都宮越後守、市川右衛門尉、板島志摩守、勧修寺左馬頭。
真鍋六人衆【まなべろくにんしゅう】
真鍋家綱(六人衆筆頭)、真鍋兼綱(弓の名手)、真鍋行綱、真鍋兼孝、真鍋政綱、真鍋亮綱、真鍋兼信。
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【資料Ⅲ】
伊予国【いよのくに】
四国の北西に位置する南海道の国。東は讃岐国、阿波国、南は土佐国と境を接し、北は瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の島々を挟んで山陽道の備後国、安芸国、周防国と望み、西は豊後水道を隔てて九州の豊後国と向かい合う。国の中央部を四国山地が東西に走っているために国土は山がちだが、北の新居平野から西の松山平野にかけて海岸線には平地部が続く。瀬戸内海から豊後水道に続く長い海岸線は、早くから海上交通の発達を促し、それに伴って海上交通から段別銭を徴収する海賊衆が発達した。特に能島、来島、因島に拠る村上海賊衆は、瀬戸内海一帯を活動の場として関所を設けた。
二間津【ふたまつ】
豊予海峡に突出した細長い佐多岬半島の北側に湾入した入江に臨む湊街。 「速吸の瀬戸」を通過する伊予側の寄港地、停泊地。
日振浦【ひぶりうら】
南伊予と豊後を隔てる豊後水道に浮かぶ日振島の湊街。南伊予と豊後海域の制海権を握るための戦略拠点。1586年、「豊後戸次川の戦い」で大敗した長宗我部元親も日振浦に撤退し土佐国に帰国した。
法華津【ほけつ】
伊予南部の法花津湾に臨む湊街。海賊衆的性格を持った伊予南部の有力領主法華津家の本拠地。法華津は北の法花津峠を抜ければ松葉西園寺家の黒瀬松葉に通じる位置にある。宇和郡の中心である宇和盆地、西園寺家の外湊として機能した。
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戦国人名辞典は、1467年の「応仁の乱」から1637年の「島原の乱」までの期間に活躍した武将をサイト管理人(takatoshi24)の独断と偏見に基づいて編集した国別の戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいますが、親子は年代順、本家と分家がある場合、分家をしたにして居住地域をを苗字の頭に入れています。資料Ⅰは国、郡別の石高、城郭、寺院、街、湊などを記載。資料Ⅱは国で有名な集団(例、三好三人衆など)についての説明をしています。資料Ⅲは国の詳細(各国の特性、景勝の地、特産品など)を説明しています。また、武将の名前が変わる場合(松平元康→徳川家康)など、松平元康で統一しています。
印は出展図書からを示しています。歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。小説からの出展は注釈を入れます。
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大友宗麟は大友義鎮、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康に統一しました。
参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(東国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」、「えひめの記憶」by愛媛県生涯学習センター、「こうたろう博物学研究所」byKotaro Iseki、「予州一色氏祖」by一色右馬三郎、「河野分限録」by水里玄義、「城郭放浪記」byPEI.。
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